第7話:遺される言葉、迫る濁流
第7話:遺される言葉、迫る濁流
1. 絶望の記帳
船体はついに40度という死の角度を超えた。
かつての通路は滑り台となり、左舷側の隔壁が新たな「床」となっていた。そこにしがみつく生存者たちの間に、奇妙な、そして吐き気を催すほどの静寂が横たわっている。
パニックの咆哮は枯れ、代わりに聞こえてくるのは、嗚咽、そして紙を引き裂く乾いた音。
「……何をしているんだ、お前ら」
陽太の声が、掠れた風のように漏れた。
目の前で、一人の男子生徒が血の気の失せた指で、修学旅行のしおりの余白に必死にペンを走らせていた。何度も書き損じ、インクをなすりつけ、その瞳からは絶え間なく涙が零れ落ちる。雫が落ちるたびに、紙面が醜くふやけていく。
「見ればわかるだろ……遺書だよ。海保も来ない、船長もいない。俺たちは、捨てられたんだ」
彼は顔を上げない。周囲では、スマホのメモに震える指で「ごめん」と打ち続ける者、家族の写真を抱きしめる者が、音も立てずに「死」の準備を整えていた。
それは、救助を待つことを諦めた者たちが、自ら執り行う早すぎる葬列だった。
「言わなきゃ……昨日、喧嘩したまま出てきちゃったから……お母さんに……」
女子生徒の震える声が、傾いた闇に響く。
俺は、その光景にレンズを向けることができなかった。他人の絶望を「画」に収めるという行為が、剥き出しの罪悪感となって俺の指先を縛り付けていた。
2. 鉄の肺、断末魔の咆哮
だが、海は彼らが筆を置くのを待ってはくれない。
船体の深層部から、これまでとは質の違う、胃の腑を震わせる「音」が響き始めた。
『ゴボッ……ボコォォォッ!!』
それは、巨大な鋼鉄の肺が海水を吸い込み、悶絶しているような濁った音だ。
船首側の通路、その暗がりの奥から、泥を噛んだような白濁した激流が、凄まじい圧力で噴出した。衝突箇所からなだれ込んだ海水は、過積載で歪んだバルクヘッド(隔壁)を紙細工のように引き裂き、氷の牙を剥いて迫ってくる。
「浸水だ! 水が来たぞ!」
俺の叫びで、遺書を綴っていた生徒たちが弾かれたように顔を上げた。
通路の端から、黒い油を混ぜた海水が、猛烈な重圧を伴って「死のプール」を作り上げていく。水は瞬く間に彼らの足首を、膝を、そして命の源である体温を奪い取っていく。
「嫌だ! まだ、まだ書いてるんだ! 行かないでくれ!」
男子生徒が、濡れて文字の滲んだ紙を高く掲げ、迫る濁流から逃れようと垂直に近い斜面を這い上がる。だが、重力と水流は無慈悲だ。一度滑り落ちれば、そこには冷たい死の抱擁しか残されていない。
3. 呪いのシャッター
「櫂! 呆っとしてるな、上だ! 上へ行け!」
陽太が、俺の腕を脱臼せんばかりの力で引き上げた。
水はすでに俺の腰を叩いている。凍りつくような冷気が、生存本能を麻痺させようとしていた。
俺は、浸かりながら一眼レフを掲げ、ついにシャッターを切った。
濡れた遺書を口に咥え、必死に斜面を這い上がる少女。水に飲み込まれながらも、カメラに向かって救いを求める手を伸ばす親友。その全てを、俺はレンズの奥に叩き込んだ。
(これは記録じゃない。これは――俺の呪いだ)
俺は心の中で毒を吐く。
(この絶望を撮り、生き延びて、あの大人の、あの社会のツラにこの写真を叩きつけてやる。それが俺の生きる理由だ!)
背後で、再び巨大な破壊音が轟いた。船内の空気が一気に水に押し出され、爆風のような突風が通路を吹き抜ける。非常灯が激しく火花を散らし、ついに完全な闇が訪れた。
黄金のガルーダは今、その翼を完全に海水に浸し、夜よりも暗い海の底へと引きずり込まれようとしていた。
「遺書なんて捨てろ! 生きてるなら、一歩でも『上』へ登れ! 死にたい奴だけそこに残れ!」
俺の咆哮が、死を待つだけの空間を初めて、暴力的に切り裂いた。




