第6話:届かぬ呼び声、白き障壁
第6話:届かぬ呼び声、白き障壁
1. 蹂躙されるレーダー
同時刻。事故現場からわずか四海里。
海上保安庁所属、巡視船『あきづき』の艦橋は、凍りついたような静寂と、爆発寸前の焦燥が同居していた。
「距離、三・五。依然、視界は十メートルを切り、回復の兆しなし!」
見張員の悲鳴に近い報告が、電子音の海に響く。窓の外は、夜明けの太陽さえも窒息させる乳白色の監獄だった。最大出力のサーチライトが照射されるが、その光は霧の粒子に乱反射し、巨大な白い壁となって自分たちの目を灼く。
艦長は、奥歯を噛み締めすぎて顎の筋肉を痙攣させていた。
無線機からは、一人の少女が命を削りながら発したSOSが、デジタルノイズ混じりにリピートされている。
『……助けて、船が、海が……』
その声が、救助のプロとしての自尊心をズタズタに切り裂いていた。指呼の間に、数百の若き生命が沈もうとしている。だが、レーダー画面は霧の偽像で真っ白に埋まり、衝突の危険を知らせるアラームが鳴り止まない。二次遭難の影が、巨大な重圧となって艦長の肩にのしかかっていた。
2. 鉄則という名の死刑宣告
「――面舵、十。微速へ落とせ」
艦長の沈痛な命令に、若手の保安官が弾かれたように振り返った。
「艦長! 行かなければ……! あの中には高校生たちが!」
「わかっている! だが、この闇で全速を出せば、我々が『ブルーガルーダ』の船腹を突き破る。救いに行く船が、引導を渡すことになるんだ!」
艦長の咆哮が、艦橋を震わせた。拳を握りしめた保安官の手からは、血が滲んでいる。
彼らは「海の番人」だ。しかし、自然が作り出した「白い障壁」の前では、一万トンの鋼鉄も、最新鋭のセンサーも、盲目の巨人に等しかった。
人命救助の鉄則は「救助側の安全確保」。だが、その理性的で非情なルールが、漂流する生徒たちにとっては「見捨てられた」という死刑宣告に他ならないことを、彼らは誰よりも重く理解していた。
3. 剥ぎ取られた文明
その頃、『ブルーガルーダ号』。
デッキに横たわる俺と陽太の耳に、霧の奥から地を這うような重低音が届いた。
「……霧笛。海保、あそこにいるんだろ?」
陽太が、血走った目で俺に問う。
聞こえる。だが、その音は霧の中で乱反射を繰り返し、ある時は前方から、ある時は真上から聞こえる。まるで亡霊が追いかけっこをしているようだ。
俺たちのすぐ隣では、先ほど通報した女子生徒が、消えゆくスマホの画面を狂ったようにタップしていた。
「……そんな、待てないよ……。今、傾いてるの! 怖い、誰か……」
彼女の言葉が途切れ、液晶が暗転した。バッテリーの死か、あるいは海水によるショートか。
「……繋がらない。海上保安庁の人、『近づけない』って……。安全になるまで、持ちこたえてくださいって……」
彼女の手から、高価なスマートフォンが滑り落ち、傾斜したデッキを滑って暗い海へと消えていった。文明の最後の糸が、プツリと切れた音がした。
「陽太。……海保は来ない」
俺は、震える指で一眼レフのフォーカスを合わせた。レンズが捉えたのは、絶望に打たれ、魂の抜け殻となった仲間の顔だ。
「あいつらは『安全』を確認するまで動かない。俺たちが死んでから、安全に遺体を回収しに来るつもりだ」
「櫂……」
「自分たちでやるしかない。あの逃げやがった船長の代わりを」
俺はシャッターを切った。霧の向こうで鳴り響く霧笛は、もはや救済のファンファーレではない。それは、俺たちに「自力での生存」を強いる、非情で孤独な弔鐘だった。




