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『沈黙の翼(ブルーガルーダ)』 ~その海で、僕たちは大人を信じられなくなった~  作者: 水前寺鯉太郎
ブルーガルーダ号沈没編

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第5話:不実の翼、逃亡の海

第5話:不実の翼、逃亡の海

1. 聖域の無人地帯

 世界が35度まで捩じ切られた。

 食堂の地獄を抜け、左舷の非常扉に指をかけたのは、俺と、陽太、そして数名の命運強い生存者だけだった。右舷の暗闇――今や巨大なゴミ溜めと化した場所から響く同級生たちの叫びは、冷たい潮風に洗われ、急速に遠ざかっていく。

「……なんで、誰も助けに来ねえんだよ! 誰かいないのか!」

 陽太が、蹴破った隔壁の先で、無人の回廊に向かって絶叫した。

 本来なら、今頃は「プロ」たちが救命胴衣を配り、避難を誘導しているはずだった。だが、深い霧に浸食された通路には、非常灯の赤い光が断末魔の脈動のように点滅しているだけだ。そこにあるのは、重油の臭いと、船体が捩れるたびに響く「ギギギ」という鉄の悲鳴。

 人の気配が、この船から完全に消失していた。

「操舵室だ。そこに行けば、誰か大人がいるはずだ」

 俺は一眼レフのストラップを腕に巻きつけた。この「不在」の理由を、レンズに収めなければならない。その本能的な執着だけが、恐怖で石化した両足を動かしていた。

2. 白き闇の逃亡者

 壁を床に変え、垂直に近い傾斜を這い進んだ先に、操舵室へ続く開放デッキがあった。

 そこで俺たちは、この世のあらゆる道徳が崩壊する瞬間を目撃した。

 右舷側、霧の中に溶けかかっている一艘の救命ボート。

 そこでは、数人の男たちが、客の避難など一顧だにせず、自分たちだけを「海」へ逃がそうとしていた。その中心で、肩の金筋を夕闇に光らせていたのは――この船の最高責任者、船長だった。

「おい……何してんだ、お前ら!」

 陽太の怒鳴り声に、船長が顔を上げた。

 その瞳に宿っていたのは、使命感でも、乗客への謝罪でもない。ただ、脂ぎった肌の下から覗く、剥き出しの保身の念。男は生徒たちの姿を認めると、怯えたように視線を逸らし、逃げるようにボートの底へ飛び込んだ。

「待てよ! まだ中にみんな残ってるんだぞ!」

 陽太が駆け出そうとしたが、重力という崖がそれを阻む。

 無情にもワイヤーが解かれ、ボートは白い深淵へと滑り落ちていった。波間に消える直前、俺は望遠レンズを最大まで引き、男の顔をファインダーに捉えた。

 その男――経営難の会社が、コストカットのために連れてきた「雇われ船長」にとって、この船は守るべき聖域でも、命を預かる揺籃でもなかった。ただの、使い捨ての仕事場に過ぎなかったのだ。

3. 魂の抜けた鉄塊

 デッキに残されたのは、波の音と、無主となった船体の断末魔だけだった。

 正規の船長は、皮肉にも「経費削減」の一環で有給を消化させられていた。代打ちとして雇われた不透明な経歴の男に、沈みゆく責任と心中する気概など欠片もなかったのだ。

「……あいつ、俺たちを捨てて、逃げやがった」

 陽太が、鋼鉄の壁に拳を叩きつけ、そのまま虚脱したように膝をつく。

 船長を失ったブルーガルーダ号。それは、巨大なシステムの敗北を象徴する、浮かぶ棺桶へと成り果てていた。

 操舵室に残された無線機が、陸地からの無機質な声を虚しく受信し続けている。

『ブルーガルーダ号、応答せよ。現在、巡視船三隻を急行させている。状況を報告せよ……』

 俺は、ボートが消えた乳白色の海に向けて、静かに、しかし力強くシャッターを切った。

 ファインダー越しに見たのは、黄金のガルーダが泥にまみれ、誇りが霧散していく光景だ。

(……忘れない。この男の顔も、この絶望も)

 足元の傾斜が、さらに一段、重く沈み込んだ。

 船が「死」を決意した音が、足裏を通じて伝わってきた。

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