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『沈黙の翼(ブルーガルーダ)』 ~その海で、僕たちは大人を信じられなくなった~  作者: 水前寺鯉太郎
ブルーガルーダ号沈没編

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第4話:救いの無いSOS

第4話:救いの無いSOS

1. 滑落する楽園

 世界から「水平」という概念が消失した。

 ダイニングを埋め尽くしていた数百人の喧騒は、一瞬にして断末魔の叫びへと塗り替えられた。先ほどまで生徒たちがパンを分け合っていた床は、今や右舷に向かって切り立つ「鋼鉄の崖」と化している。

「うわっ、あああああ!」

 逃げ場はない。床に座っていた者、ビュッフェ台に並んでいた者が、重力という不可避の暴力に引きずられ、次々と奈落へと滑り落ちていく。

 数トンの質量を持つ大型の円卓が、固定ボルトを銃声のような音とともに弾き飛ばし、人間を押し潰しながら「かつて窓だった場所」へと突っ込んでいく。強化ガラスが粉砕される乾いた音が、逃げ遅れた者たちの悲鳴を切り裂いた。

「陽太、支柱だ! 骨が折れても離すな!」

 俺はステンレス製の支柱に腕を捻じ込み、肩が抜けるような衝撃を耐えていた。隣で陽太が、隆起した前腕の筋肉を震わせながら支柱にしがみついている。奴の足元では、数人の生徒が折り重なり、血の混じったスープの海を滑り落ちていった。

「……櫂、これ、戻らねえぞ。戻るわけがねえ!」

 陽太の顔から生気が消えている。一度45度を超えた『ブルーガルーダ号』は、過積載という自らの重荷に押さえつけられ、起き上がるための「復原力」を完全に喪失していた。

2. 歪んだセレナーデ

「左の扉へ這い上がれ! そこが『上』だ!」

 俺の声は、阿鼻叫喚の嵐の中に霧散した。

 非常口を目指し、垂直に近い壁と化した床を這い上がる者たちがいる。だが、床にぶちまけられたドレッシングや油が、唯一の脱出路を「処刑台の傾斜」に変えていた。指をかけ、爪を剥がしながら滑り落ちていく同級生の姿が、ファインダー越しに焼き付く。

 ふと、頭上のスピーカーを見上げた。

 そこからは依然として、優雅で、それでいてひどく音程の狂ったバッハの『G線上のアリア』が流れ続けていた。

「……なんで、誰も何も言わねえんだよ!」

 誰かが絶叫する。非常警報も、避難指示もない。操舵室の沈黙。それは、この巨大な密室を支配する大人が、責任という重荷から真っ先に逃げ出した証拠だった。音楽だけが、死にゆく若者たちを嘲笑う鎮魂歌レクイエムとして鳴り響いている。

3. 少女の告発

 その地獄の只中で、俺のすぐ数メートル先、必死にテーブルの脚を掴む一人の女子生徒がいた。

 彼女は泣き叫ぶ代わりに、震える手でスマートフォンを天に掲げていた。

「……もしもし、海上保安庁ですか!? 船が、船が沈みます! 助けて!」

 その叫びに、周囲の数人が動きを止めた。

「ブルーガルーダ号です! 修学旅行の……はい、そうです! 大きな音がして、今はもう、真っ直ぐ立てません! みんな、滑り落ちて……窓から海が、海が見えてるんです!」

 彼女の目から溢れた涙が画面を叩き、誤作動を起こす。

 国家への直接通報。船長が行うべき『メーデー(救難信号)』を、名もなき高校生が代行している。この異様な光景こそが、この船の終焉を何よりも残酷に証明していた。

「早く……早く来て! お願い……!」

 通信が途切れる。その瞬間、船底から空気が押し出される「ヒューッ」という、肺を絞り出すような不気味な口笛が聞こえた。

 浸水だ。

 衝突箇所から奔流となって流れ込む海水が、過積載の貨物室を瞬時に埋め、船体をさらなる深淵へと引きずり込んでいく。

 俺は、無意識に一眼レフのシャッターを切った。

 ファインダーの向こう側、浸水で電気がショートし、火花を散らす暗闇の中から、こちらへ向かって這い上がってくる「何か」が見えた。

 それは、救助などではなかった。

 このパニックに乗じて、船底の「闇」から這い出してきた、人間という名の獣だった。

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