第2話:白い闇のプロローグ
第2話:白い闇のプロローグ
1. 鉄の臓物と腐った吐息
狂乱のダンスホールを背に、俺――水江櫂は、逃げるように船体下部へと潜り込んだ。
華やかなジャズの旋律は、厚い鋼鉄の床に遮断され、代わりに内臓を直接掻き回すようなエンジンの超低周波が全身を支配する。
車両甲板。そこは「洋上の楽園」の皮を剥いだ、無機質な鉄と油の処刑場だった。
天井まで積み上げられたコンテナ群が、不自然な角度でひしめき合っている。本来、それらを拘束しているはずの鋼鉄のワイヤーは、過積載という暴力的な質量に引き絞られ、今にも弾け飛ばんと、高周波の呻きを上げていた。
「……なんだ、この臭い」
鼻腔の奥に突き刺さったのは、甘ったるい死の匂いだ。
劣化した機械油と、何かが化学反応を起こして燻っているような、鼻を突く芳香。一眼レフを構え、暗部にレンズを向ける。ストロボが爆ぜる一瞬、ファインダーに映し出されたのは、コンテナの継ぎ目から溢れ出し、床にどす黒い粘着液を撒き散らしている「正体不明の何か」だった。
その液体は、船体の傾きに従って、まるで意思を持つ黒い蛇のように床を這い、俺の靴先へと迫ってきていた。
2. 視界の死
ふと、防潮扉の小さな丸窓に目をやった俺の指先が、凍りついた。
消失していた。
銀色の月光も、夜の海が放つはずの紺青の光沢も、すべてが「無」に塗り潰されている。
窓の外に広がっているのは、単なる霧ではなかった。それは光という概念を食い尽くす乳白色の怪物だ。船から放たれるサーチライトの光さえ、数メートル先で霧の粒子に分解され、闇に溶けていく。
ブルーガルーダ号は今、世界から切り離され、視界ゼロの「白い宇宙」を漂う巨大な棺桶と化していた。
視覚を奪われた世界で、聴覚だけが異常なほど鋭敏に研ぎ澄まされていく。
――そして、聞こえてきたのは、この巨大な鉄塊が崩壊していく「音」だった。
3. 羅針盤の悲鳴
『――ヴォォォォォ……ン』
霧笛が鳴った。だが、その音響は狂っていた。
霧の壁に反射し、四方八方から押し寄せる重低音。自分たちの船が鳴らしているのか、それとも霧の奥で獲物を待つ「別の死神」が吠えているのか、判断がつかない。
その直後、頭上の区画――操舵室方向から、理性をかなぐり捨てた怒号が漏れ聞こえてきた。
「面舵だ! 戻せ! なぜ反応せん!」
「ジャイロが狂っています! レーダーも、この霧で……何も映りません!」
プロであるはずの航海士たちの絶望が、冷たい鋼鉄の隔壁を抜けて伝わってくる。
そして、俺のすぐ真横で。
『――パキンッ』
乾いた、しかし決定的な音がした。
限界まで引き絞られていたワイヤーの一本が、ついに耐えかねて千切れ飛んだのだ。
重力という唯一の絶対的な法が、ついにこの船を裁き始めた。
数トンもの質量を持つ貨物の山が、ゆっくりと、しかし確実に横へと滑り出す。
「……っ!」
俺は咄嗟にカメラを抱え、床に這いつくばった。
傾斜は、もはや「違和感」の段階を過ぎていた。
足元の黒い液体が、猛烈な勢いで右舷側へと流れ落ちていく。
白い闇の中、ブルーガルーダ号は自らの傲慢な重みに引きずられ、深淵の底へとその身を捩らせようとしていた。
俺は震える手で、暗視モードに切り替えたレンズを霧の向こうへ向けた。
液晶画面に映し出されたのは、霧を切り裂いてこちらへ向かってくる「巨大な影」――。
それは、岩礁などではなかった。
ブルーガルーダ号を「殺す」ために用意された、鉄の爪痕だった。




