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『沈黙の翼(ブルーガルーダ)』 ~その海で、僕たちは大人を信じられなくなった~  作者: 水前寺鯉太郎
海難審判編

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第13話:見えない鉄格子

第13話:見えない鉄格子

1. 旋律の中の毒

 海難審判の中日の夜。

 櫂は、運航会社『ガルーダ・ライン』の代理人を名乗る男、久瀬くぜに呼び出されていた。

 場所は、海を一望できる高級ホテルの最上階ラウンジ。窓の外では静かな夜の海が広がっているが、櫂にはそれが、死者を飲み込んだまま口を拭った巨大な墓標にしか見えない。優雅なショパンの調べが、かえって耳障りなノイズとして鼓膜を逆撫でする。

「水江君。君は聡明だ。報道の世界を志しているのなら、『大局』を見る目を持っているはずだ」

 久瀬が、仕立ての良いグレースーツの隙間から、茶封筒をテーブルに置いた。

 ――ドサッ。

 その鈍い音に、櫂の心臓が跳ねた。あの日、船底でコンテナの固定ワイヤーが弾けた時の音に酷似していたからだ。

「これは、君の将来を全面的に支援するための資金だ。条件は一つ。次の公判で、あの『過積載』の証言を、極限状態による記憶の錯誤だったと認めること。……君が真実を叫んだところで、三百人の死者は戻らない。だが、君が『賢い選択』をすれば、生き残った者たちの未来は救われるんだよ」

 久瀬の目は笑っていなかった。それは、法も正義も「コスト」として計算し、不要なものを静かに削ぎ落とす組織の目だった。

「……お金で、あいつらの無念を黙らせろと言うんですか?」

「言葉が悪いな。これは『解決』だ。君が意固地になることで会社が倒産すれば、保険金の支払いは凍結される。困るのは、住宅ローンや学費に追われている遺族の方々だ。君は、自分の自己満足のために、また仲間を――今度は経済的に殺すつもりかね?」

2. 浸食される日常

 ラウンジを飛び出した櫂を待っていたのは、潮風に吹かれ、抜け殻のようにガードレールに寄りかかる陽太だった。

「……櫂。俺のところにも、あいつらが来た」

 陽太が、重い装具に固定された足を痛ましげにさすった。その顔は、あの日濁流に呑み込まれそうになった時よりも絶望に染まっている。

「親父の会社に連絡があったらしい。ガルーダ・ラインの系列からの発注をすべて白紙にするって。……俺一人が黙れば、親父も、社員の人たちも助かるんだ。櫂……俺、もうサッカーもできない。これ以上、俺から何を奪えば気が済むんだよ……」

 陽太の震える声。大人の「圧力」は、物理的な水の壁よりも残酷に、少年の誇りを粉砕し、逃げ場のない鉄格子の内側へと追い詰めていった。

3. 月下の沈黙

 その夜、櫂は暗い自室で、あの日海から持ち帰った一眼レフを抱えていた。

 久瀬の言葉が、呪いのように頭の中を回る。自分が真実を語れば、遺族が路頭に迷う。自分が嘘をつけば、友を殺した大人たちが再び黄金の翼を広げて笑う。

 

 ふと、月光がカメラの錆びついたレンズに反射した。

 それは、あの日、沈みゆく船内で涙を流しながら「遺書」を書いていた級友たちの姿を、最後に網膜に収めた目だ。

(もし、俺がここで沈黙を買ったら。あいつらが死の寸前に残そうとした叫びは、本当にこの世から消去される)

 櫂は、激しい吐き気に襲われ、床に膝をついた。

 組織という巨大な重圧が、少年の細い肩を押し潰そうとしている。だが、海水に腐食され、二度とシャッターを切ることのないカメラだけは、石のように重く、逃れられない責任を櫂に突きつけていた。

「……陽太。俺は、嘘はつかない。たとえ世界中を敵に回しても」

 櫂は、動かないダイヤルを無理やり回そうとした。指先に皮膚が裂けるほどの痛みが走る。

「あいつらの最期を、『幻覚』になんて絶対にさせない。それが、生き残ってしまった俺の、たった一つの仕事だ」

 窓の外では、夜の海が冷たく、饒舌に波を打っていた。明日、法廷という名の戦場で、櫂は自ら退路を断つ決意を固めた。

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