第1話:黄金の翼に誘われて
本作はチャプター式で進んでいきます。
1.〇〇というのが、チャプターです。
第1話:黄金の翼に誘われて
1. 歪んだ境界線
春の陽光は、網膜を焼き切らんとする白光の暴力だった。
横浜港、大さん橋。修学旅行という集団催眠にかかった高校生たちの熱狂が、重苦しい潮風に混じって鼓膜を叩く。
「おい、櫂! 見ろよ、城が浮いてるみてえだぜ!」
隣で声を張り上げたのは、サッカー部のエース、陽太だ。奴の分厚い手のひらが俺の肩を叩くたび、首から下げた一眼レフが胸元で重く跳ねる。
視線の先には、海を圧する巨大な鉄の塊――『ブルーガルーダ号』が、その異常な質量を横たえていた。
白磁のように磨かれた船体。煙突には、夕日に中指を立てるような黄金のガルーダ。それは「洋上の楽園」という美名でコーティングされた、あまりにも巨大な虚飾だった。
クラスメイトたちが一斉にスマートフォンを突き出し、画一的な歓声を上げる。だが、俺はレンズのリングを回し、ファインダーの中にその「違和感」を隔離した。
「……沈みすぎだ」
独り言は、波音に掻き消された。
望遠レンズが捉えたのは、カタログには載らない「裏側」の光景だ。
喫水線――船体と海面が接する境界線が、明らかに深い。通常なら白い塗装が見えているはずの場所に、錆の浮いた黒い鋼鉄が、濡れた怪物の背中のように剥き出しになっている。
岸壁では、作業員たちが焦燥を隠しきれない様子で、過積載気味のコンテナを船倉へ押し込んでいた。フォークリフトが上げる悲鳴は、潮騒を切り裂く金属質の絶叫だ。
「どうした、写真部。シャッターチャンスを逃すと、女子に置いてかれるぞ」
陽太が、からかうように覗き込んでくる。
「陽太。この船、異常に重そうだ。……まるで、自らの重さに耐えかねているみたいに」
「ははっ、お前は相変わらずだな。これは三万トンの豪華客船だぜ? 沈むわけねーだろ。ほら、行くぞ、楽園が待ってる」
陽太は屈託なく笑い、列の先頭へと駆けていった。ファインダーの中の黄金の翼は、確かに輝いていた。だが俺の目には、それが重すぎる欲望を背負わされ、折れる寸前の骨組みにしか見えなかった。
2. 飽食の揺籠
船内へ一歩足を踏み入れた瞬間、外界の重力は消滅した。
三層吹き抜けのメインロビー。天井からは、数千の星を閉じ込めたようなクリスタル・シャンデリアが、傲慢な輝きを振りまいている。足元に沈み込む深紅の絨毯は、歩くたびに現実感を奪っていった。
「やばい、これマジで非現実!」
女子たちが階段でドレスの裾を翻し、ストロボの光を散らす。彼女たちの承認欲求は、高速Wi-Fiに乗って、まだ陸地にいる「凡庸な日常」へと送り届けられていく。
陽太もまた、エントランスのガルーダ像の前で俺の肩を抱き寄せた。
「ほら櫂、もっと人生を楽しめよ! 一生に一度のイベントなんだぜ?」
インカメラに向けられた陽太の笑顔。そのシャッターが切られる直前だった。
『――グズ、ッ』
胃の腑を直接掴まれるような、鈍い振動が足裏から突き上げた。
一瞬、華やかなジャズが遠のく。船底の奥深く、鉄の背骨が断裂するような、湿った破壊音。俺は思わず手すりを掴んだ。
だが、周囲の誰もが気づかない。自撮り棒を振り回す少年も、シャンパンを傾ける教師も、その不吉な予兆を笑い声で塗り潰している。
俺の手のひらには、微かな、だが止まることのない痙攣が伝わっていた。それは心臓の鼓動などではない。巨大な獣が死の間際に放つ、末期の戦慄だ。
3. 傾斜する福音
夕刻。船は漆黒の外海へと、その身を投じた。
メインダイニングで行われたディナーバイキングは、まさしく飽食の極致だった。
滴るローストビーフの脂、完熟した果実の香り。窓の外では、水平線が血のような残照に染まり、夜の帳を引き寄せている。
「ブルーガルーダ号の門出に……乾杯!」
担任の音頭とともに、数百人の生徒がグラスを掲げた。色とりどりの液体が、シャンデリアの光を反射して、残酷なまでに美しく煌めく。
陽太も勢いよくグラスを合わせた。だが、俺は自分のグラスを置いたまま、その「真実」を凝視していた。
(……戻ってこない)
テーブルに置かれたグラスの中、オレンジ色の液面が、わずかに、だが確実に右側に寄っている。
船は直進しているはずだ。波は鏡のように穏やかだ。だというのに、液面は水平に戻ることを拒否し、執拗に片側へとへばり付いている。
周囲を見渡した。隣のテーブルのコンソメスープも、その隣のワイングラスも。すべてが、目に見えない巨大な磁力に引かれるように、一方向へ緩やかに傾斜している。
「櫂、食わねえのか? この肉、マジで飛ぶぞ」
山盛りの皿を抱えた陽太が、不思議そうに眉を寄せた。
「陽太。……この船、すでに軸が死んでいる。真っ直ぐ走っていないんだ」
「はあ? 何を……」
陽太が笑い飛ばそうと、グラスを口に運ぼうとしたその瞬間。
『――ゴドォッ!!』
先ほどとは比較にならない衝撃が、船体全体を貫いた。
天井のクリスタルが悲鳴を上げて激突し、繊細なガラスの破片が雨のように降り注ぐ。
「おい……今の……」
陽太の顔から血の気が引く。だが、スピーカーからは依然として軽快なスウィング・ジャズが流れ、周囲の生徒たちは、傾いた床の上でよろけながらも、まだそれが「演出」であるかのように笑い合っていた。
黄金のガルーダは、逃げ場のない夜の深淵へと、その重すぎる翼を突き進ませていた。
俺は、震える指でカメラを起動した。
ファインダー越しに、俺は見てしまった。
ダイニングの巨大な窓の向こう、海面から突き出した、黒い岩礁の先端が――まるで巨大な牙のように、この「楽園」を待ち構えているのを。
俺はシャッターを切った。これから始まる地獄を、誰にも信じてもらえない残酷な真実を、網膜に刻みつけるために。




