表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

二段重ねのくるりんぱ

作者: 名がまだの子
掲載日:2025/12/05

最後に、家族の髪に手ぐしを通したのは、いつだったでしょうか。


忙しい毎日の中で、髪はただ結ばれて、乾かされて、伸びては切られていきます。けれど、誰かに梳かしてもらった指先の感触だけは、不思議と長く残る──少なくとも、私はそう信じています。


この短編は、介護施設への入所を控えた一人の祖母と、その娘と孫が、「長い髪」をめぐって過ごす、ほんのわずかな日々の物語です。

切るべきか、残すべきか。

失われていくものと、受け継がれていくもの。


「髪なんて、また伸びる」と言い切れる人にも、

「髪なんて、どうでもいい」と笑ってしまう人にも、

どこか一か所だけでも、ひっかかるものがあれば嬉しく思います。


どうぞ、あなたの大切な誰かの髪を思い浮かべながら、読み始めていただけたら幸いです。

日曜の午後、冬にしてはとろけるみたいに柔らかい光が、団地の四畳半を斜めに横切っていた。


ちゃぶ台の横で、里子が座椅子に腰を落ち着けている。白髪まじりの長い髪が、背もたれから波のようにこぼれている。その後ろに、娘の凛が正座していた。


「お婆ちゃん、ちょっとじっとしてて? 動いたら失敗料金とるよ」


「まぁ、こわい美容院だこと」


笑いながら、里子は肩をすくめる。炊飯器の「ピー」という音と、台所で鍋をかき回す音が、アパートの音の全部だった。


そのすべてを、彩花は流しの前から眺めていた。水を止めた手は動かさないまま、視線だけをちらちらと二人に向ける。

長い髪は、母の頑固さそのものだ、といつも思う。


ほんとは、切ったほうが楽なんだ。洗うのも乾かすのも、ほどいて寝るのも。

それでも「女なんだから」と、里子は髪だけは若い頃からずっと伸ばし続けてきた。


「ねぇお婆ちゃん、これだけ長かったらいろんな髪型ができるのにさぁ」


凛はお婆ちゃんの髪を撫でるように手櫛を入れる。つやの残った白髪をすくい上げながら、楽しそうにぶーたれる。


「ほら、三つ編みして、お団子にして、お姫さまみたいにもできるし。なのにいつも同じひっつめ!」


「この歳でお姫さまになってどうするのさ」


「遅咲きってやつだよ。令和のシンデレラ」


四方山話をしながら、凛は手癖のように髪をいじり続ける。

ふと見ると、いつの間にか2段重ねのくるりんぱができあがっていた。少しアレンジが加えられ、ところどころを指先でつまんでほぐした毛束が、ふんわりと立ち上がっている。


「できた!」


凛は即興の自分の作品を満足気な顔でスマホで写真に収め、お婆ちゃんに披露した。


「ほら見て、映えてる。バズるよこれ」


「ばずるって、蜂に刺されるみたいでいやだねぇ」


「あらまぁ」と相好を崩しつつはにかむお婆ちゃんに凛は、またまたテーブルに置いてあった手鏡を手に取り、お婆ちゃんに手渡した。


恥ずかしそうな表情とは裏腹に、鏡に映しにくい後頭部をためつすがめつ覗き込んでは、形を確かめるように反対の手のひらを髪に添えている。


「……うん。お祭りみたいで、悪くないね」


「でしょ? お婆ちゃん、やればできる子」


「誰がやればできる子よ、もう八十よ」


台所から見ていた彩花は、笑いながらも胸のどこかがきゅっと引き締まるのを感じていた。


そう長くは、この後ろ姿を見ていられない。

明日の午後、病院に連れて行く。精密検査と、その後の入院の説明。

昨日、医者から電話があった。


「髪は……できれば短くしてきてください。検査も、処置も、長いとどうしても邪魔になりますから」


「長い髪が似合う、素敵なお母さまですね」と言ったあとで、さらりと。


「お母さん」


いつの間にか凛が立ち上がり、スマホの画面を彩花の目の前に突き出していた。


「見て、プロっぽくない? これ、明日もやってあげよっかな」


画面の中で、里子は、少し照れた顔で笑っていた。

背中に乗った複雑なくるりんぱが、山と谷みたいに光を拾っている。


「……うん。すごく、似合ってる」


彩花は、いつもより一拍遅れて答える。


「ねぇ凛」


「なに?」


「髪ってさ、切ったら終わりじゃないんだって。誰かの手が通った感触は、けっこう長生きするんだって。美容師さんが言ってた」


「なにそれ、ポエム?」


凛は笑い飛ばすが、彩花は笑えなかった。

手の感触だけ残って、そこにいた人がいなくなるなんて、なんだか残酷な話だ。


***


病院の廊下は、冬とは別の寒さがあった。消毒液と、電子音と、他人の咳。

彩花は書類を抱え、受付の説明を聞き流しながら、隣で椅子に座る母と娘を盗み見ていた。


里子の髪は、昨日と同じ長さのままだった。

切れなかった。どうしても、手が動かなかった。


「ほんとはね、ここに来る前に、髪を短くしてきてくださいって言われてたの」


帰りのエレベーターを待ちながら、彩花は二人に打ち明けた。


「でも、なんか……まだ、もったいないって思っちゃって」


「もったいないって、食べ物みたいに言わないでよ」


凛がくすっと笑う。


「ねぇお婆ちゃん、じゃあさ、切る前にさ、もっと写真撮ろ? いろんな髪型しよ。今だけのやつ」


「そんなに撮ってどうするのさ」


「なに言ってんの。将来あたしがバズらせるんだよ。『うちの祖母が美しすぎる件』って」


「蜂に刺されるのはいやだって、言ったじゃない」


軽口を叩きながらも、里子はほんの少し、目を伏せた。


「でも、そうだね。どうせ切られちゃうなら、せめて遊んでからにしようかね」


それが、三人で決めた、小さな約束になった。


***


それから一週間、夕方になると、ちゃぶ台の横に「里子美容室」が開店した。


凛は動画サイトでヘアアレンジを漁り、覚えたばかりの難易度の高いスタイルをお婆ちゃんの頭で試した。

里子は鏡の前で目を丸くしながら、「今日はどこ行くんだい」と嬉しそうに言った。


編み込みのハーフアップ。

低い位置のお団子に、リボン代わりの古いスカーフ。

若い頃のお見合い写真を真似してみた、きっちりした夜会巻き。


娘はお婆ちゃんの髪を撫でるように手櫛を入れては、「この髪、ほんと優等生なんだよね」と感心し、彩花は横でゴムを渡したり、ヘアピンの山を整理したりした。


「ねぇお母さん」


ある晩、凛がふと真顔で言った。


「お婆ちゃん、髪切ったら、もう今までの里子じゃなくなるって思う?」


「そんなことないでしょ。髪だけじゃ、ね」


口ではそう言いながら、彩花の胸はぴくりと揺れた。


「じゃあさ、髪切るのって、なんのため?」


「……うん、そうだね」


彩花は少し考え、里子の背中越しに娘を見た。


「たぶん、次の場所に行く準備、なんだと思う。重たいものをちょっと置いていくみたいな」


「次の場所?」


「病院とか、施設とか。あるいは……もう少し遠くとか」


言ってしまってから、自分でその言葉に息を詰まらせた。


里子は、鏡越しに二人を見た。目尻の皺が、笑っているのか泣いているのか分からないかたちに寄った。


「髪なんてね、切ったって伸びるし、伸びたって抜けるのよ。大事なのは、誰が触ってくれたかだよ」


「ほら、お婆ちゃんもポエム言った」


凛がすかさず突っ込むと、三人分の笑い声が、六畳間の天井にぶつかって揺れた。


***


日曜日の朝、里子は突然、胸のあたりを押さえてしゃがみ込んだ。


「お母さん!」


凛の叫び声と同時に、彩花は携帯を掴んで救急車を呼んだ。

そう遠くない病院の救急入口までの十五分が、やけに長く感じられた。


処置室の前の椅子に座らされ、彩花はかすかに震える膝を抑え、凛の肩を抱いた。

二人とも、言葉を選び損ねたみたいに黙っていた。


やがて白衣の医師が出てきて、事務的な口調で言った。


「ご家族の方ですね。心筋梗塞です。いまカテーテルの準備をしています。……かなり弱っているので、場合によっては、髪を……頭部を剃毛する可能性があります」


「髪……」


彩花の頭の中で、ヘアピンやゴムやスマホの写真が、ごちゃごちゃに混ざって崩れ落ちる音がした。


「そんなの、どうでもいいじゃん」


凛が、小さく呟いた。

目は涙で赤く腫れているのに、その声には怒りの芯があった。


「お婆ちゃん、生きててくれれば、髪なんか……」


それは、正しい。


それでも、彩花の胸には、別の痛みが走っていた。

自分の弱さを、図星で撃ち抜かれたような痛み。


(生きていてくれれば、それでいい。ほんとに?)


(髪のことを考えたのは、誰?)


(私だ。私が、髪を残したかった)


処置が終わるころには、日がすっかり傾いていた。

看護師に案内されて集中治療室に入ると、ベッドの上の里子は、酸素マスクを付けたまま、静かに眠っていた。


長かった髪は、首の下で無造作にゴムでまとめられていた。

剃られたわけではなかったけれど、乱暴にかき集められたその束は、誰の作品でもなかった。


「お婆ちゃん……」


凛が、握りしめたスマホの画面を、ベッドの横でそっと見せた。

そこには、2段重ねのくるりんぱで笑う里子が、まだ元気な光で映っていた。


「ねぇお母さん」


凛は、画面から目を離さずに言った。


「さいあくのタイミングって、ほんとにあるんだね」


言い方は軽いのに、声はかすれていた。


彩花は、答えられなかった。


***


数日後、里子は命を取り留めたが、長く歩くことはできなくなった。

病院から直接、郊外の小さな介護施設へと移ることが決まった。


「ここに来る方の多くはね、入る前に髪を切っていかれるんですよ」


施設の職員は、やわらかい笑顔でそう言った。


「洗ったり乾かしたりする手間も減りますし、ご本人も楽になりますから」


彩花はうなずきながら、喉の奥に小さな石を飲み込んだように感じていた。


(結局、切るんだ)


(でも、もう、あのリビングではやれない)


あの狭い六畳間で、娘と母と三人で笑いながら髪で遊ぶ時間は、もう戻ってこない。


「お母さん」


帰り道、駅の階段を上りながら凛が言った。


「施設に入る前の日、うち来れるよね?」


「うん。そのつもり」


「そのときさ、最後に」

凛はほんの少しだけ、言葉を飲み込んでから続けた。


「最後にもう一回、くるりんぱしようよ」


わざと軽い口調で言う娘の横顔を見て、彩花は、やっと息をついた。


(ああ、そうだ。終わりにするんじゃない)


(送り出す準備をするんだ)


「そうだね」


彩花は答えた。


「最後の、里子美容室、開店しよう」


***


施設に入る前の前夜、アパートには、もうほとんど荷物がなかった。

畳の上に直置きされた座椅子と、ちゃぶ台と、カーテンだけが、ここに誰かが暮らしていた証拠のように残っていた。


「なんかさ、引っ越しっていうより、舞台のセット片づけた後みたい」


凛が言うと、里子は「主役がまだ帰ってないよ」と笑った。


娘はお婆ちゃんの髪を撫でるように手櫛を入れる。

それは、初めてくるりんぱを作ったあの日と、まったく同じ仕草だった。


「これだけ長かったらいろんな髪型ができるのにさぁ」と、やっぱりぶーたれる。


「でも、今日はね、シンプルにいく」


凛はそう宣言して、丁寧に髪を二つに分け、下の段をくるんと丸めて留め、上の段をもう一度、くるりと通した。


2段重ねのくるりんぱ。

最初より、少しだけ控えめで、少しだけ大人しい。

でも、その分、線がはっきりしていて、どこから見てもきれいだった。


彩花は、その様子を正面から見ていた。

テーブルの上には、丸い手鏡と、小さな菓子皿。

お茶の湯気が、冬の空気に細く溶けていく。


「できた」


凛は、スマホではなく、自分の両手で、そっとお婆ちゃんの髪を撫でおろした。


「ねぇお婆ちゃん」


「なぁに」


「明日、髪切ってもさ。あたし、このくるりんぱ一生覚えてるから」


不意に真面目な声になった娘に、里子は目を瞬かせた。


「そう。じゃあ、安心だね」


「安心?」


「私が忘れても、誰かが覚えててくれりゃ、それで十分だよ」


里子は、自分で自分の頭をちょんと叩いて笑った。


「ここはもう、だいぶ隙間だらけだからね」


「お婆ちゃん」


凛の声が、泣き笑いに変わる。


彩花は、テーブルの上の手鏡を取り上げ、いつものように里子に手渡した。


恥ずかしそうな表情とは裏腹に、鏡に映しにくい後頭部をためつすがめつ覗き込んでは、形を確かめるように反対の手のひらを髪に添えている。


「うん。やっぱり、お祭りみたいで、悪くない」


その言葉を聞いてから、彩花はようやく、深く息を吐くことができた。


(ちゃんと、終われる)


(ちゃんと、次の場所に送り出せる)


***


春が来て、桜が散って、夏の蝉がうるさく鳴く頃。

郊外の施設の一室で、里子は、短く切った髪で、ゆっくりと暮らしていた。


あの日、美容院でばっさりと切られたとき、里子は鏡の前で「さっぱりした」と笑った。

見ていた彩花は、涙を堪えるのに必死だったが、凛は「似合うじゃん」と本気で言っていた。


「でもさ、ショートも悪くない。お婆ちゃん、令和っぽい」


「蜂に刺されるよりはましだね」


そんなやり取りも、今では少し懐かしい。


ある夏の午後、面会室で三人が顔を合わせたとき、凛はふと、母の方を振り返った。


「ねぇお母さん。ちょっと座って」


「え、ここで?」


「いいから。ほら、お婆ちゃん、見てて」


施設のテーブルに置かれた小さな鏡を、彩花の前に立てる。

凛は、自分のヘアゴムとピンを全部外し、母の背後に回った。


「なにする気?」


「決まってるでしょ。リバイバルだよ」


そう言って、凛は彩花の肩までの髪を、丁寧にすくい上げた。

お婆ちゃんのときよりずっと短くて軽い髪だが、凛の指は迷わない。


下の段をひとつに結び、くるりと内側に通す。

上の段を重ね、もう一度、くるり。


2段重ねのくるりんぱが、今度は彩花の後頭部に咲いた。


「……え、ちょっと、ちゃんとできてる?」


彩花が恐る恐る鏡を覗き込むと、里子が先に笑った。


「そっくりだよ。昔の私に」


「やだ、やめてよ。プレッシャー」


そう言いつつも、彩花は鏡に映る自分の姿から、目を離せなかった。


そこには、自分の顔をした誰かがいた。

若い頃の母に似ている気もするし、自分の娘にも似ている気がする。

三つの顔が、くるりんぱの山と谷のあいだで、ゆっくりと重なり合っていた。


「はい、じゃあ今度はあたしが撮る」


凛がスマホを構え、シャッターを切る。


カメラの中には、短い髪の里子と、くるりんぱの彩花と、その後ろでピースをする凛の三人が、ぎゅっと収まっていた。


「ねぇお母さん」


帰り道、駅のホームで、凛が画面を見せながら言った。


「あたしさ、将来自分の子どもできたらさ。その子にもくるりんぱしてあげるね」


「そのときは、あんたもう母親なのよ」


「そうだよ。ヤバくない?」


「全然ヤバくないわよ」


彩花は笑いながら、電車の風に揺れる娘の髪を、そっと撫でた。


その手のひらに残る感触が、いつか誰かの記憶になるなら。

髪は伸びても抜けても、何度でも形を変えるだろう。


それでも、誰かが誰かの髪に手を通した、その一瞬だけは。

たぶん、思っているよりずっと長く、世界のどこかに残り続ける。


次に誰かが、2段重ねのくるりんぱをする日まで。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この物語を書こうと思ったきっかけは、「髪を切る」という、ごく当たり前の行為でした。

伸びたから切る。手入れが大変だから短くする。

それだけのことのはずなのに、ときどき、どうしようもなく胸がつかえる瞬間があります。


誰かの髪に触れるというのは、その人の暮らしや時間の積み重ねに、少しだけ手を触れさせてもらうことでもあります。長さや色やスタイルは変わっていっても、「その髪に手を通した」という記憶だけは、する側にも、される側にも、意外なほど長く残るのではないか──そんな仮説から、この短編は始まりました。


作中で、祖母はやがて髪を短く切られ、かつての姿は戻ってきません。それでも、二段重ねのくるりんぱに触れた時間は、娘と孫の手のひらの中に、ひっそりと残り続けます。

私たちは、ときどき残酷なほどに「変わってしまうもの」に囲まれて生きていますが、その一方で、「もう二度と同じ形では訪れない瞬間」を、体のどこかがちゃんと覚えていてくれるのかもしれません。


この物語が読み終わったあと、ふと、誰かの顔を思い出したり、しばらく連絡を取っていない人に「元気?」と一言だけでも送りたくなったりしたなら、それは作者にとっていちばんのご褒美です。


よかったら、あなたの身近な人の髪型のことを、少しだけ思い出してみてください。

あのとき結んであげた三つ編みや、おさげや、お団子や、うまくいかなかった不器用なヘアアレンジたちが、どこかでそっと、あなたと誰かをつなぎ直してくれますように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ