二段重ねのくるりんぱ
最後に、家族の髪に手ぐしを通したのは、いつだったでしょうか。
忙しい毎日の中で、髪はただ結ばれて、乾かされて、伸びては切られていきます。けれど、誰かに梳かしてもらった指先の感触だけは、不思議と長く残る──少なくとも、私はそう信じています。
この短編は、介護施設への入所を控えた一人の祖母と、その娘と孫が、「長い髪」をめぐって過ごす、ほんのわずかな日々の物語です。
切るべきか、残すべきか。
失われていくものと、受け継がれていくもの。
「髪なんて、また伸びる」と言い切れる人にも、
「髪なんて、どうでもいい」と笑ってしまう人にも、
どこか一か所だけでも、ひっかかるものがあれば嬉しく思います。
どうぞ、あなたの大切な誰かの髪を思い浮かべながら、読み始めていただけたら幸いです。
日曜の午後、冬にしてはとろけるみたいに柔らかい光が、団地の四畳半を斜めに横切っていた。
ちゃぶ台の横で、里子が座椅子に腰を落ち着けている。白髪まじりの長い髪が、背もたれから波のようにこぼれている。その後ろに、娘の凛が正座していた。
「お婆ちゃん、ちょっとじっとしてて? 動いたら失敗料金とるよ」
「まぁ、こわい美容院だこと」
笑いながら、里子は肩をすくめる。炊飯器の「ピー」という音と、台所で鍋をかき回す音が、アパートの音の全部だった。
そのすべてを、彩花は流しの前から眺めていた。水を止めた手は動かさないまま、視線だけをちらちらと二人に向ける。
長い髪は、母の頑固さそのものだ、といつも思う。
ほんとは、切ったほうが楽なんだ。洗うのも乾かすのも、ほどいて寝るのも。
それでも「女なんだから」と、里子は髪だけは若い頃からずっと伸ばし続けてきた。
「ねぇお婆ちゃん、これだけ長かったらいろんな髪型ができるのにさぁ」
凛はお婆ちゃんの髪を撫でるように手櫛を入れる。つやの残った白髪をすくい上げながら、楽しそうにぶーたれる。
「ほら、三つ編みして、お団子にして、お姫さまみたいにもできるし。なのにいつも同じひっつめ!」
「この歳でお姫さまになってどうするのさ」
「遅咲きってやつだよ。令和のシンデレラ」
四方山話をしながら、凛は手癖のように髪をいじり続ける。
ふと見ると、いつの間にか2段重ねのくるりんぱができあがっていた。少しアレンジが加えられ、ところどころを指先でつまんでほぐした毛束が、ふんわりと立ち上がっている。
「できた!」
凛は即興の自分の作品を満足気な顔でスマホで写真に収め、お婆ちゃんに披露した。
「ほら見て、映えてる。バズるよこれ」
「ばずるって、蜂に刺されるみたいでいやだねぇ」
「あらまぁ」と相好を崩しつつはにかむお婆ちゃんに凛は、またまたテーブルに置いてあった手鏡を手に取り、お婆ちゃんに手渡した。
恥ずかしそうな表情とは裏腹に、鏡に映しにくい後頭部をためつすがめつ覗き込んでは、形を確かめるように反対の手のひらを髪に添えている。
「……うん。お祭りみたいで、悪くないね」
「でしょ? お婆ちゃん、やればできる子」
「誰がやればできる子よ、もう八十よ」
台所から見ていた彩花は、笑いながらも胸のどこかがきゅっと引き締まるのを感じていた。
そう長くは、この後ろ姿を見ていられない。
明日の午後、病院に連れて行く。精密検査と、その後の入院の説明。
昨日、医者から電話があった。
「髪は……できれば短くしてきてください。検査も、処置も、長いとどうしても邪魔になりますから」
「長い髪が似合う、素敵なお母さまですね」と言ったあとで、さらりと。
「お母さん」
いつの間にか凛が立ち上がり、スマホの画面を彩花の目の前に突き出していた。
「見て、プロっぽくない? これ、明日もやってあげよっかな」
画面の中で、里子は、少し照れた顔で笑っていた。
背中に乗った複雑なくるりんぱが、山と谷みたいに光を拾っている。
「……うん。すごく、似合ってる」
彩花は、いつもより一拍遅れて答える。
「ねぇ凛」
「なに?」
「髪ってさ、切ったら終わりじゃないんだって。誰かの手が通った感触は、けっこう長生きするんだって。美容師さんが言ってた」
「なにそれ、ポエム?」
凛は笑い飛ばすが、彩花は笑えなかった。
手の感触だけ残って、そこにいた人がいなくなるなんて、なんだか残酷な話だ。
***
病院の廊下は、冬とは別の寒さがあった。消毒液と、電子音と、他人の咳。
彩花は書類を抱え、受付の説明を聞き流しながら、隣で椅子に座る母と娘を盗み見ていた。
里子の髪は、昨日と同じ長さのままだった。
切れなかった。どうしても、手が動かなかった。
「ほんとはね、ここに来る前に、髪を短くしてきてくださいって言われてたの」
帰りのエレベーターを待ちながら、彩花は二人に打ち明けた。
「でも、なんか……まだ、もったいないって思っちゃって」
「もったいないって、食べ物みたいに言わないでよ」
凛がくすっと笑う。
「ねぇお婆ちゃん、じゃあさ、切る前にさ、もっと写真撮ろ? いろんな髪型しよ。今だけのやつ」
「そんなに撮ってどうするのさ」
「なに言ってんの。将来あたしがバズらせるんだよ。『うちの祖母が美しすぎる件』って」
「蜂に刺されるのはいやだって、言ったじゃない」
軽口を叩きながらも、里子はほんの少し、目を伏せた。
「でも、そうだね。どうせ切られちゃうなら、せめて遊んでからにしようかね」
それが、三人で決めた、小さな約束になった。
***
それから一週間、夕方になると、ちゃぶ台の横に「里子美容室」が開店した。
凛は動画サイトでヘアアレンジを漁り、覚えたばかりの難易度の高いスタイルをお婆ちゃんの頭で試した。
里子は鏡の前で目を丸くしながら、「今日はどこ行くんだい」と嬉しそうに言った。
編み込みのハーフアップ。
低い位置のお団子に、リボン代わりの古いスカーフ。
若い頃のお見合い写真を真似してみた、きっちりした夜会巻き。
娘はお婆ちゃんの髪を撫でるように手櫛を入れては、「この髪、ほんと優等生なんだよね」と感心し、彩花は横でゴムを渡したり、ヘアピンの山を整理したりした。
「ねぇお母さん」
ある晩、凛がふと真顔で言った。
「お婆ちゃん、髪切ったら、もう今までの里子じゃなくなるって思う?」
「そんなことないでしょ。髪だけじゃ、ね」
口ではそう言いながら、彩花の胸はぴくりと揺れた。
「じゃあさ、髪切るのって、なんのため?」
「……うん、そうだね」
彩花は少し考え、里子の背中越しに娘を見た。
「たぶん、次の場所に行く準備、なんだと思う。重たいものをちょっと置いていくみたいな」
「次の場所?」
「病院とか、施設とか。あるいは……もう少し遠くとか」
言ってしまってから、自分でその言葉に息を詰まらせた。
里子は、鏡越しに二人を見た。目尻の皺が、笑っているのか泣いているのか分からないかたちに寄った。
「髪なんてね、切ったって伸びるし、伸びたって抜けるのよ。大事なのは、誰が触ってくれたかだよ」
「ほら、お婆ちゃんもポエム言った」
凛がすかさず突っ込むと、三人分の笑い声が、六畳間の天井にぶつかって揺れた。
***
日曜日の朝、里子は突然、胸のあたりを押さえてしゃがみ込んだ。
「お母さん!」
凛の叫び声と同時に、彩花は携帯を掴んで救急車を呼んだ。
そう遠くない病院の救急入口までの十五分が、やけに長く感じられた。
処置室の前の椅子に座らされ、彩花はかすかに震える膝を抑え、凛の肩を抱いた。
二人とも、言葉を選び損ねたみたいに黙っていた。
やがて白衣の医師が出てきて、事務的な口調で言った。
「ご家族の方ですね。心筋梗塞です。いまカテーテルの準備をしています。……かなり弱っているので、場合によっては、髪を……頭部を剃毛する可能性があります」
「髪……」
彩花の頭の中で、ヘアピンやゴムやスマホの写真が、ごちゃごちゃに混ざって崩れ落ちる音がした。
「そんなの、どうでもいいじゃん」
凛が、小さく呟いた。
目は涙で赤く腫れているのに、その声には怒りの芯があった。
「お婆ちゃん、生きててくれれば、髪なんか……」
それは、正しい。
それでも、彩花の胸には、別の痛みが走っていた。
自分の弱さを、図星で撃ち抜かれたような痛み。
(生きていてくれれば、それでいい。ほんとに?)
(髪のことを考えたのは、誰?)
(私だ。私が、髪を残したかった)
処置が終わるころには、日がすっかり傾いていた。
看護師に案内されて集中治療室に入ると、ベッドの上の里子は、酸素マスクを付けたまま、静かに眠っていた。
長かった髪は、首の下で無造作にゴムでまとめられていた。
剃られたわけではなかったけれど、乱暴にかき集められたその束は、誰の作品でもなかった。
「お婆ちゃん……」
凛が、握りしめたスマホの画面を、ベッドの横でそっと見せた。
そこには、2段重ねのくるりんぱで笑う里子が、まだ元気な光で映っていた。
「ねぇお母さん」
凛は、画面から目を離さずに言った。
「さいあくのタイミングって、ほんとにあるんだね」
言い方は軽いのに、声はかすれていた。
彩花は、答えられなかった。
***
数日後、里子は命を取り留めたが、長く歩くことはできなくなった。
病院から直接、郊外の小さな介護施設へと移ることが決まった。
「ここに来る方の多くはね、入る前に髪を切っていかれるんですよ」
施設の職員は、やわらかい笑顔でそう言った。
「洗ったり乾かしたりする手間も減りますし、ご本人も楽になりますから」
彩花はうなずきながら、喉の奥に小さな石を飲み込んだように感じていた。
(結局、切るんだ)
(でも、もう、あのリビングではやれない)
あの狭い六畳間で、娘と母と三人で笑いながら髪で遊ぶ時間は、もう戻ってこない。
「お母さん」
帰り道、駅の階段を上りながら凛が言った。
「施設に入る前の日、うち来れるよね?」
「うん。そのつもり」
「そのときさ、最後に」
凛はほんの少しだけ、言葉を飲み込んでから続けた。
「最後にもう一回、くるりんぱしようよ」
わざと軽い口調で言う娘の横顔を見て、彩花は、やっと息をついた。
(ああ、そうだ。終わりにするんじゃない)
(送り出す準備をするんだ)
「そうだね」
彩花は答えた。
「最後の、里子美容室、開店しよう」
***
施設に入る前の前夜、アパートには、もうほとんど荷物がなかった。
畳の上に直置きされた座椅子と、ちゃぶ台と、カーテンだけが、ここに誰かが暮らしていた証拠のように残っていた。
「なんかさ、引っ越しっていうより、舞台のセット片づけた後みたい」
凛が言うと、里子は「主役がまだ帰ってないよ」と笑った。
娘はお婆ちゃんの髪を撫でるように手櫛を入れる。
それは、初めてくるりんぱを作ったあの日と、まったく同じ仕草だった。
「これだけ長かったらいろんな髪型ができるのにさぁ」と、やっぱりぶーたれる。
「でも、今日はね、シンプルにいく」
凛はそう宣言して、丁寧に髪を二つに分け、下の段をくるんと丸めて留め、上の段をもう一度、くるりと通した。
2段重ねのくるりんぱ。
最初より、少しだけ控えめで、少しだけ大人しい。
でも、その分、線がはっきりしていて、どこから見てもきれいだった。
彩花は、その様子を正面から見ていた。
テーブルの上には、丸い手鏡と、小さな菓子皿。
お茶の湯気が、冬の空気に細く溶けていく。
「できた」
凛は、スマホではなく、自分の両手で、そっとお婆ちゃんの髪を撫でおろした。
「ねぇお婆ちゃん」
「なぁに」
「明日、髪切ってもさ。あたし、このくるりんぱ一生覚えてるから」
不意に真面目な声になった娘に、里子は目を瞬かせた。
「そう。じゃあ、安心だね」
「安心?」
「私が忘れても、誰かが覚えててくれりゃ、それで十分だよ」
里子は、自分で自分の頭をちょんと叩いて笑った。
「ここはもう、だいぶ隙間だらけだからね」
「お婆ちゃん」
凛の声が、泣き笑いに変わる。
彩花は、テーブルの上の手鏡を取り上げ、いつものように里子に手渡した。
恥ずかしそうな表情とは裏腹に、鏡に映しにくい後頭部をためつすがめつ覗き込んでは、形を確かめるように反対の手のひらを髪に添えている。
「うん。やっぱり、お祭りみたいで、悪くない」
その言葉を聞いてから、彩花はようやく、深く息を吐くことができた。
(ちゃんと、終われる)
(ちゃんと、次の場所に送り出せる)
***
春が来て、桜が散って、夏の蝉がうるさく鳴く頃。
郊外の施設の一室で、里子は、短く切った髪で、ゆっくりと暮らしていた。
あの日、美容院でばっさりと切られたとき、里子は鏡の前で「さっぱりした」と笑った。
見ていた彩花は、涙を堪えるのに必死だったが、凛は「似合うじゃん」と本気で言っていた。
「でもさ、ショートも悪くない。お婆ちゃん、令和っぽい」
「蜂に刺されるよりはましだね」
そんなやり取りも、今では少し懐かしい。
ある夏の午後、面会室で三人が顔を合わせたとき、凛はふと、母の方を振り返った。
「ねぇお母さん。ちょっと座って」
「え、ここで?」
「いいから。ほら、お婆ちゃん、見てて」
施設のテーブルに置かれた小さな鏡を、彩花の前に立てる。
凛は、自分のヘアゴムとピンを全部外し、母の背後に回った。
「なにする気?」
「決まってるでしょ。リバイバルだよ」
そう言って、凛は彩花の肩までの髪を、丁寧にすくい上げた。
お婆ちゃんのときよりずっと短くて軽い髪だが、凛の指は迷わない。
下の段をひとつに結び、くるりと内側に通す。
上の段を重ね、もう一度、くるり。
2段重ねのくるりんぱが、今度は彩花の後頭部に咲いた。
「……え、ちょっと、ちゃんとできてる?」
彩花が恐る恐る鏡を覗き込むと、里子が先に笑った。
「そっくりだよ。昔の私に」
「やだ、やめてよ。プレッシャー」
そう言いつつも、彩花は鏡に映る自分の姿から、目を離せなかった。
そこには、自分の顔をした誰かがいた。
若い頃の母に似ている気もするし、自分の娘にも似ている気がする。
三つの顔が、くるりんぱの山と谷のあいだで、ゆっくりと重なり合っていた。
「はい、じゃあ今度はあたしが撮る」
凛がスマホを構え、シャッターを切る。
カメラの中には、短い髪の里子と、くるりんぱの彩花と、その後ろでピースをする凛の三人が、ぎゅっと収まっていた。
「ねぇお母さん」
帰り道、駅のホームで、凛が画面を見せながら言った。
「あたしさ、将来自分の子どもできたらさ。その子にもくるりんぱしてあげるね」
「そのときは、あんたもう母親なのよ」
「そうだよ。ヤバくない?」
「全然ヤバくないわよ」
彩花は笑いながら、電車の風に揺れる娘の髪を、そっと撫でた。
その手のひらに残る感触が、いつか誰かの記憶になるなら。
髪は伸びても抜けても、何度でも形を変えるだろう。
それでも、誰かが誰かの髪に手を通した、その一瞬だけは。
たぶん、思っているよりずっと長く、世界のどこかに残り続ける。
次に誰かが、2段重ねのくるりんぱをする日まで。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語を書こうと思ったきっかけは、「髪を切る」という、ごく当たり前の行為でした。
伸びたから切る。手入れが大変だから短くする。
それだけのことのはずなのに、ときどき、どうしようもなく胸がつかえる瞬間があります。
誰かの髪に触れるというのは、その人の暮らしや時間の積み重ねに、少しだけ手を触れさせてもらうことでもあります。長さや色やスタイルは変わっていっても、「その髪に手を通した」という記憶だけは、する側にも、される側にも、意外なほど長く残るのではないか──そんな仮説から、この短編は始まりました。
作中で、祖母はやがて髪を短く切られ、かつての姿は戻ってきません。それでも、二段重ねのくるりんぱに触れた時間は、娘と孫の手のひらの中に、ひっそりと残り続けます。
私たちは、ときどき残酷なほどに「変わってしまうもの」に囲まれて生きていますが、その一方で、「もう二度と同じ形では訪れない瞬間」を、体のどこかがちゃんと覚えていてくれるのかもしれません。
この物語が読み終わったあと、ふと、誰かの顔を思い出したり、しばらく連絡を取っていない人に「元気?」と一言だけでも送りたくなったりしたなら、それは作者にとっていちばんのご褒美です。
よかったら、あなたの身近な人の髪型のことを、少しだけ思い出してみてください。
あのとき結んであげた三つ編みや、おさげや、お団子や、うまくいかなかった不器用なヘアアレンジたちが、どこかでそっと、あなたと誰かをつなぎ直してくれますように。




