救いようがない欠けた脳
怜は何も変わらないはずの家に不思議と違和感を感じていた。
恐怖、と言った方が正しいかもしれない。
少し急ぎ足で自分の部屋に戻り、いつも通り凛の部屋に向かっ―――
「参考書って机の真ん中に置いてたっけ?」
普通の高校生ならあっても当然だろう、が当然水沢怜という人間は家に帰って勉強はしない。
いや、最近俺は変わったんだ。勉強をする人間に!
偉すぎるだろ、俺。
頭が回らない。急いで凛の部屋に入っていった。ノックはするだけして、返事が無いことを確認してから入った。
「いや、別に何も…」
怜は、足元を見つめたまましばらく動けなかった。
足元にはスマホが落ちていた。電源が入ったままの。
背筋が凍り、息を吞む音が聞こえた。
怜の目は、顔は、体は、前を向くことを拒否した。
(怖い怖い怖い怖い)
何があった?
まるで、さっきまで何かがここを活動していたような。
「…おい、お前」
ベッドの上にいる少女は何も変わっていない。
怜は凛の顔を見た。何も変わっていない。
いいや、変わるはずはなかった。
その顔には、さっきまで一緒にいた少女の顔が重なった。
そう、この目の前にいる少女にある人物が重なった。
「…あれ、私」
目の前の少女が、水沢凛が目を開けた。
怜の体は硬直した。今度こそ心臓までもが止まったのかもしれない。
目の前の少女が目を開けた。しかし、それが例の驚きの理由ではない。いや、間接的にはそれが理由だが。
「…あ」
怜の視界が歪んだ。
怜の中に取り憑いたものは、この瞬間に消えた。頭の中で全てのピースが繋がる。
目の前の少女が何者なのか。
心に突然空いた穴は、また唐突に埋まった。
「お兄ちゃん?」
何もなかった筈の器に、失ったものが戻っていく。
温度が、呼吸が、
言葉が、表情が、
そして、
生気と記憶が
「ごめん、本当に」
世界一大切なものを何故、こうも簡単に俺は失うのだろう。忘れるのだろう。
この一年間の苦は、なくなった。なんて言えば、都合の良いものだ。
原因は自分で、被害者は妹。こんなに馬鹿馬鹿しい兄はいるだろうか?
「お兄ちゃん?」
「本当に」
妹の前でこんなにも情けなく泣いたのは初めてかもしれない。
「もう、大丈夫だから」
これ以上、妹に迷惑をかける訳にはいかないから。
「いや、無理はしなくていいけど」
「いや、いい。それより、凛はどこまでわかるんだ?」
これ以上、止まる訳にはいかないから。
「何もわからない」
「そうか」
俺は、凛に何があったのかを一から説明した。
あの時、凛が消えたときから。
突然、目の前に身に覚えのない眠っている少女が現れた。
その少女は、まるで死んでいるようだった。いや、死んでいた。
でも、死とは別物な気がした。
そもそも、自分の家に部屋があり、少女の存在があること自体がおかしいことだからだ。
それから一年間と二か月、何も起きなかった。少女は起きる気配もなく、不思議なことに何も変わらない。まるで、時が止まっているかのように。
「…」
「確実に何もかもが、記憶も存在も消えていたみたいだった」
「…そう」
凛の表情は、もう何も感じていないかのように見えた。
凛にとっては、一瞬のことなのかも知れないが、流石に情報量が多すぎる。
「今日はもう休め」
「うん。それと、今日はどこに行ってたの?」
なんだ?メンヘラか?束縛強めは大歓迎です。
「今日は、学校に行って喫茶店で勉強してきた」
「一人で?」
「ああ、そうだな」
いや、何を言ってるんだ俺は
一人で喫茶店で勉強だって、誰だよそれ!
「いや、今日は黒瀬と勉強会をしたんだ」
(あれ?なんで俺そんなことを口に出してんだ?)
ああ、美少女とデートみたいなことをして舞い上がる男子高校生ってことか。
そりゃあ納得ですね。独り言が出るのもしょうがないな。
「おやすみ」
いつも通り、俺は動かない少女を前に独り言を呟いた。
詩音は、怜と帰って別れたあと、喫茶店に戻っていた。
「すみません」
「どうした?」
「忘れ物をしてしまいまして…」
現代人が喫茶店にスマホを忘れるなんて、恥ずかしいとかどうでもよくて、普通に困る。
「それにしても彼、大変だね」
「まったくでs…って何の話ですか?」
「いいや、何でも」
思わずノリで答えてしまったが、まあいいかな?
それよりも、
「後もう一つ、忘れ物があったんです」
「なんだ?」
「あなたのことです」
氷翔は突然何を言い始めるのか、ではなくまるで聞かれることを知っていたかのような。
でも、それでも驚いた顔をした。
「まあ、もう今日は帰れ」
「わかりました」
詩音は喫茶店を去った。
定期テスト一週間前なので、少しの間休みます。




