漆原朱華
店内は朱く染まり、影が伸びていく。
閉店時間になり静寂に包まれた店内には、教師、店主、店員の三人が残った。
「お前、暇なのか?」
「暇じゃないが」
漆原朱華は、先程も同じことを言われたため非常に苛立っていた。勿論、わざとだろうが。
「…」
「…」
「あのー、コーヒー淹れます?」
店員は気まずそうに二人に問いかけた。
「いや、いい俺が入れる。先に帰っていい、お疲れ様」
「ああ、紅蓮の刻は無慈悲にも体を燃やす。しかし、焔の闇はまだ閉じない。漆黒はまだ―――」
「早よ帰れ」
「あ、すみません」
店員は帰って行った。何かを言いかけていたが、言葉にすることはなかった。
「いいのか?」
「何か困るのか?」
「いや、一応あいつもだろ」
はあ、とため息を吐きながら店主、剥谷氷翔はコーヒーを入れ始めた。
この男は剥谷氷翔。この店の店主だ。
ぼさぼさに伸びた黒い髪と、眠たそうな目。シャツのボタンは適当でエプロンは雑。到底、喫茶店の店主とは思えない外見をしている。というかそうであってほしくない。
そして、この世界に疲れているような、そんな人物だった。
「まあ、いいんだよ」
「そう」
朱華は、聞いておいて興味がなさそうに返事をした。
そして、一本の煙草を取り出して火を点けた。
「禁煙だ」
「今更だろう」
「で、今日はなんでいる」
「なんだ?来たら困るのか?」
「はあ」
ある意味、朱華が心を開く人間は氷翔だけなのかもしれない。ただ、氷翔を人間と言っていいのかはわからないが。
「まあ、わかっているだろ?」
「まあな」
氷翔は、煙草を取った。
「二人だ。あの白髪、それと―――」
「水沢怜」
朱華が言葉を発した次の瞬間、陽に照らされていた店内に冷たい空気が走った。
「おい」
「ああ、すまない」
太陽は雲に隠れて消えていった。
「知っているのか?」
「まあな、でももういいだろう」
「そうかい」
私、漆原朱華が剥谷氷翔に出会ったのは去年の春休み、喫茶店に入った時だった。
「いらっしゃい」
そう迎えたのは、冴えない店主だった。店内には誰もいなかった。
「コーヒーを頼む」
「はいよ」
店主は突然、話をし始めた。店が開いて初めての客だの、喫茶店を開いてみたかっただの。そんなことをなぜか私に。
そうして、読書をしにこの店に立ち寄るようになっていた。
するとあるとき、店主は言った。
「この店を少し開けるから、店番をしていてくれないか?」
「ああ」
何かがある訳でもないので、私は店で待つことにした。
そして、三時間が経過した。
私はしびれを切らしたため、外に出ることにした。客はいない。どうせ来ないので、心配はなかった。
私は喫茶店のドアに手をかけ押した。そして、途中で手の先の感覚が消え、ドアを押せなくなった。
手を見ると、そこには手の先だけが不自然に消えていた。それはまるで、日なたの部分に空間が切り取られているようだった。
「は?」
手を引っ込めると、何事もなかったかのように手は動いた。
「ここはどうなっている」
仕方ないので戻ってくるのを待ち、帰ってきたや否や問いただした。
「やはりか」
「…どういうことだ」
店主は、全てを説明した。全てなのかはわからないが、少なくとも多くのことを。
店主、剥谷氷翔はこの世界の人間ではないという事
この喫茶店は氷翔が作った、どの世界にも属していない場所という事
平行世界には対になる存在があり、同一世界に実在が許されるのは一つのみという事
そして、
「その存在が俺とお前だ」
「…」
「今、証明された」
「…」
「お前の手が消えたのは、右手と記憶が分断されたことによる脳のエラーだ」
私は、この目の前にいる男の言っていることが理解出来なかった。到底、理解できることでもなかった。そもそも、この言葉は本当のことなのか。それすら確かめる方法は無い。私には。
「帰る」
私は、恐怖を感じて喫茶店を出た。恐怖を感じることなど人生において無いと思っていたが…これは本能が危険信号を出した。
「またのお越しを」
店主の敬語はどこか不気味な音がした。私がいなかったら…この男はどうなる?そんなことは私には関係ない。そう、ないのだ。しかし、この人間という生物は非常に不便な体をしているものだと感じた。
「ああ、また来る」
私は、世界の境界線の向こうにいる男の方を見ないで言った。
口元は笑っていた。
こうして、漆原朱華はこの喫茶店に度々訪れるようになった。




