【短編小説】紫色のクロッカス
嫌い嫌い。ぜーんぶ嫌い。
すぐ側面が剥がれるスニーカーも。片耳無くなって、買ったらひょっこり出てくるイヤホンも。旅行先で会社の人にお土産買う文化も。お休みありがとうございましたって言わないといけない文化も。
空いてるのに何故か隣に座ってくる人も。やたら語尾の強いおばさんも。私とのことはSNSにあげないで、翌日別の友達とのことを楽しそうに書くあの女も。
「ありがとう」って言えばいいと思ってる元夫も。みーんな嫌い。
エンターキーを押す。完成した書類を、もう一度頭から目を凝らして確認し、保存する。あ、すごい勢いでキーボードをたたく人も嫌い。何のアピールなのだろうと思う。
ふと、私は視線を窓にうつした。軽風に梢がふりふりと揺れ、窓からは白い光線が差し込んでいる。桜は今週いっぱいが見所らしい。週末はおにぎりでも持って花見するか。ひとりで。
妄想もそこそこに視線をパソコンへ戻し、次の作業に取り掛かる。書類を手に取った瞬間、机に貼っていた1枚の付箋がひらひらと舞い、私は体を歪ませ腕を伸ばした。
鋭い声がぼんやりする私の頭を貫いたのはその時だった。見ると、部長が受話器片手に毛を逆立てかっかしていた。あんな風に声を荒げて怒る人も苦手である。
しかし、ありがたいことに、私にはミュート機能が搭載されている。見たくないものを物理的に見えなくする機能である。
遺伝ではないので、家族に話したことはない。一度だけ、仲のよかった女の子に話したことがある。「それ小説の話?面白いね」と言ってくれた。この能力に気づいたのは小学生の時だったけれど、多分、生まれた時から搭載されていた。
幼い頃から数字を好きな子がいるように、言葉が得意な子がいるように、人から好かれる子がいるように、何かしらの特別な能力を持って人は生まれてくる。私の場合それがミュート機能だったわけだが、この能力を手に入れた反動か、それ以外はひどく欠落している。まぁ、そんなことは今更考えてもどうにもならないので、棚の上にしまっておく。
息巻く部長を見つめる。3秒も経つと、その体は透けていき、7秒経たずして私の視界から消えてなくなる。残るのは声だけで、私の意思で解除も可能だ。
『はぁー快適快適』
「なんかいいことありました?」
『まぁーねー』
「楽しそうですね」と、後輩の岡村ちゃんは怪訝そうな顔をした。彼女は言葉と反対の表情をするから面白い。言葉を話す猫の動画を見せた時にも「いいですね」と苦しげな顔をしていた。
後に聞いた話によると、彼女は動物全般が苦手だという。しかし彼女は冷たい人間ではない。
「いいですね」は彼女なりの最大限の努力であり配慮である。本心はまる見えだけれど。全てを隠せないその不器用さが、彼女のいいところだと私は思っている。
空っぽの笑顔でありがとうと言われるよりは、よっぽどましだと思う。感謝を述べられているのに、あれほど悲しくなるものはない。
昼になると、お弁当を持って近くの公園へ行く。周辺を囲うように木々が植えられていて、
公園の中央には大きな噴水がある。定席に腰掛ける。横の花壇には、紫色の花が植えられていた。
ハンバーグをひとくちで食べ、続けてご飯を頬張る。噴水の周りを、ベビーカーをひいて散歩する家族を眺める。平日の真っ昼間から家族で公園なんて、何の仕事をしてるのかと考えるが、リモートワークが増えた今、昼休みを家族時間にあてるのだって難しいことではない。私にも、あんな未来が用意されていたのだろうか。ぬるくなったプチトマトを放り込み、奥歯に力を入れる。3月になったばかりだというのに、暑すぎる。
お昼休みから戻ると、デスクの周りが何やら騒がしかった。隣の部署の田中さんだ。彼女は岡村ちゃんの同期であり友人である。彼女が騒がしいのはいつものことだが、今日は一段と興奮しているようだった。
「今日も来るかな、おはなさん!」
「さぁーどうだろーねー」
「でもさ、花束持ってるってことは、彼女がいるのかな。でも誰かと一緒にいるところ見たことないんだよなー」
「へぇー」
岡村ちゃんの周りには、このテキトーで心地の良い相槌を求めて、騒がしい女子たちが集まってくる。今日の話題は、最近彼女が気になっている、"おはなさん"についてである。
話を聞くに、彼は数ヶ月前から会社の前に現れるようになったという。2週間に1度のペースで、小さな花束を持って現れるのだとか。しかし、誰と会うわけでもなく、だだビルを見上げ、ものの数分で帰ってしまうらしい。彼はだいたい、18時半ごろ現れるという。私は19時に退社するので、その姿を見たことはない。
「素敵な人なんだろーなー。彼氏が花束持って待ってるなんて最高じゃん!」
「そー?私、花好きじゃないや」
「あ、山本さんの旦那さんって超優しいんですよね!前に見かけたって子が言ってましたよー!」
『え、私?離婚するよ。3ヶ月前から別居中』
と、同時に13時のチャイムが鳴った。鐘の余韻が完全に消えても、田中さんは岡村ちゃんの横で硬直したままだった。
『なによその顔。今どき珍しいことじゃないでしょ』
そう。別居だの、離婚だの、別に珍しいことではない。
ただ、それがあまりにも突然やってきたので、すっかり忘れていた宅配物が急に届いてはっとするように、驚いた。あ、そういえば、こんなのくるんだっけか、と。
5年も経てば、夫婦の形は少なからず変化する。倦怠期というやつだろうか。最初は気づかない靴下の穴くらい、きっかけは些細なことだった。
今日のことを話す私。「そうなんだ」と微笑む彼。話し終わると、彼は小さくため息をついた。「洗濯物、いつもありがとう」と微笑む彼。その笑顔が一瞬にして真顔に戻ったのを、私は見逃さなかった。
最近彼は、私といる時よくため息をつく。それを聞くたび、私の心の火はどんどん小さくなっていく。
「仕事大変?会社で何かあった?」と聞いてみる。「何もないよ。大丈夫」と、彼の視線は手元のゲームに向けられたまま、また、ため息をひとつ落とした。最近、目を合わせて会話したのはいつだろう。
ゆっくりと魔法が解けていくのが分かった。愛の形をしていたものが、本物の輪郭を現していった。
一緒に選んだソファも、ベッドも、写真立ても、スリッパも。この空間にあるもの全て、嫌いになっていった。たくさん家具があるのに、部屋の中はまるで、空っぽみたいだった。
だんだんと、しょんぼりしていた風船に、空気が溜まっていった。風船はついにこれでもかと空気を溜め込み、ちょっとしたことで破裂してしまいそうだった。昨日まで平気だった日常に、私の心はざわつくようになった。
私が選んだ手段は、夫をミュートすることだった。こうして過ごしていれば、時間が解決してくれるだろうと思った。またいつか元に戻れると思っていた。
視界に入らなくなると、顔色を伺うこともなくなった。彼が話しかけてくれば、声のする方を向いて返事する。そうすれば彼は、私がミュートしていることには気づかない。
「これ買ってきたんだ」
『あ、いいね』
「これ、どこに置こうかな」
『どこでもいいよ、あなたの好きなところで』
「来週の連休、ここ行ってみない?」
『いいね、楽しそう!行きたい!』
彼をミュートすると、彼が手に持っているものも見えなくなったが、それらしく言葉を返した。一緒にいて傷つくことはなかった。それと同時に、何かを感じることもなかった。
変わってしまった自分に気づいたのは、数ヶ月が経った頃だ。彼の見えない生活はとても心地よく、ミュートを外すのが怖くなっていた。この数ヶ月で私の心はずっと軽くなった。このままでいようかと、私は私に問いかける。じゃあ何のために一緒にいるの?また問いかける。
いつまで経っても、答えは出なかった。いや、本当は、答えに気づくのが怖かったのかもしれない。
1年後、別居の話を切り出したのは、私の方からだった。
時計の針は、もうすぐ7をさそうとしている。私は最後の確認をし、今日を終える準備を始める。部長はハンカチを目にあて、腕を組み、現実逃避中である。歳をとってかっかするのは体に悪い。
『お先に失礼しまーす』
季節外れのコートを腕にかけ、オフィスを後にする。私が考えていることは、明日から天気予報を確認することと、今日の晩御飯のメニュー。エレベーター前に着くと、総務課のお局ふたりが窓を覗いていた。近くの交差点で交通事故があったようだ。
「いやぁ、あんなトラックとぶつかったら、もう、ねぇ」
あらまぁと思ったところで、チーンとエレベーターが到着した。ビルの自動ドアが開くと、私の頬を打つように、風が強く吹いてきた。
どこからかサイレンの音が近づいてくる。私は軽く前髪を直し、5番出口の階段を降りた。
夕飯後、茶碗を洗っていると、明日の天気のことが頭に浮かんだ。最後のグラスを洗うと、腰に手をこすりつけ、携帯で天気予報を確認した。明日からは20℃以上が続くようだ。私はコートを持ってクローゼットへ向かった。簡単に模様替えをしようと考えた。半分空いたクローゼットは模様替えがしやすかった。
以前夫が使っていたスペースに足を踏み入れた時、つま先に何かが当たったのを感じた。しかし、何も見えない。少し強く蹴ってみると、ガコンという音とともに、つま先に鋭痛が走った。
『っったぁぁぁーーーーー』
私はそこにうずくまった。痛くて息ができなかった。足の指を握りしめると、少し痛みが和らいだ。壁にもたれ深呼吸を繰り返す。見えない何かを睨みつけ、私はゆっくりと手を伸ばした。確かに、何かある。角のある、箱のようなものだった。
触りながら、私はその正体を思い出した。ミュートを解除すると、段ボールが姿を現した。
夫がこの部屋を去るときに置いていった段ボールだ。見たくないからとミュートをかけていたのだ。私は本来の目的である衣替えを忘れ、箱を開けた。埃が舞い、鼻の奥が痒くなった。
ふたりで使ったブランケット、婚約指輪、写真の抜かれた写真立てがたくさん入っていた。捨てられなかったものを残していったのだ。
底の方にはまだ何か入っている。私はブランケットと写真立てを抱え床に広げた。
その時、リビングの電話が鳴った。しかし、私の心は段ボールに引っ張られていた。無視して中身を確認した。頭の奥で電話は鳴り続けている。
底にあったのは、猫の貯金箱と猫柄の靴下だった。いつ貰ったものか、思い出せなかった。思い出せないということは、彼にミュートをかけて以降、彼が私に送ったものだと思う。壁にもたれ、目の前に差し出して、靴下を眺めた。
『あー、私猫好きだもんなー。でも、センスないなー』
これを受け取った時、私はどんな顔をしていたのだろう。ちゃんと、彼の期待する反応ができていただろうか。
私は、彼のことを、ちゃんと見ていただろうか。
あれ、あの人って、どんな顔してたっけ。
腕を伸ばし、段ボールを自分に近づけた。中から貯金箱を取り出し、抱きしめる。針が時を刻む音が響いている。また、リビングの電話が鳴り出した。携帯のバイブ音も聞こえる。
『あーやだやだ。ひとりは、快適快適』
ひとつぶの雫が貯金箱に落ちて、伝っていく。
電話はしばらく鳴り続けていた。




