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空腹

作者: 雉白書屋

「はあぁぁぁぁぁぁい、いらっしゃ……い。お好きな席にどうぞー……」


 夜、とあるラーメン屋。店の中に入ってきた客を見た瞬間、店主は思わず口ごもった。


「店長、今入ってきた人、なんか変な感じですね……」


「いいんだよ、気にしなくて。ほら、早く水を出してこい」


 店長とバイト店員が奇妙に思ったその理由。どこか着慣れてなさそうなスーツを着た坊主頭のその男は、店に入るなり鼻の穴を大きく広げ、深呼吸したのだ。

 そして、男は厨房を覗き込むように首を伸ばし、カウンター席に座った。店員が男の前に水の入ったグラスを置くと、男は目を丸くし、がっつくように飲み、まるで酒を飲んだかのようにぷはーっと大きく息を吐いた。


「ご注文お決まりになりましたら、いつでもどうぞー」


 店員が男にそう言った。


「あ、えっと、とんこつラーメンを一つ、あ、麺大盛で、チャーシューも大盛で、えっと次はなんだっけ……なんか……何言ってたっけ……ああ、麺は一番硬いやつで、ああ! トッピングは全部乗せで!」


「はぁぁい、かしこまりましたぁー! ……店長」


「はぁぁぁい、ありがとうございまぁす! ああ、聞こえてたよ。ほら、器を出して」


「はい、あの、僕わかりましたよ」


「あん?」


「あの人、出所したばかりなんですよ。げっそりと痩せてますし、ほら、もうずっと店内の匂いを嗅いでますよ。それにあの鋭い目つき……たぶん、ヤのつく人ですよ」


 店員は声を潜めてそう言った。すると店長はフッと笑った。


「馬鹿野郎。だったら嬉しいじゃねえか。あんなに目を輝かせてよぉ、刑務所を出て最初の飯にうちの店を選んでくれたってことだろ? 光栄じゃねえか」


「まあ、そうですね……」


「なんだよ。お前、偏見でもあんのかよ」


「いや! そんなのはないですけど、やっぱり、怖いなぁって……」


「馬鹿野郎、そんなふうに見ているのが相手に伝わったら、きっちりと反省して、これからは清く正しく生きようって気を削いじまうだろうがよ」


「そうかもしれませんけど……。でも、この近くに刑務所はないですよね」


「うん? それがなんだよ?」


「お腹が空いていたら、普通近くの町でご飯を食べますよね? 何か目的があってうちに来たとか……」


「そうとも限らねえだろ。この近くに知り合いがいるとか、住む場所があるとか」


「そうですよね……恨みがあって来たわけではないですもんね」


「馬鹿野郎、当然だろ……うーん」


「え、何か心当たりがあるんですか?」


「いやぁ、ちょっと考えてみたが、ないない。そりゃ、たまに変な客とは言い争いになるがよぉ、ほら、見てみろ。あの幸せそうな顔を。単純にこの店をいいなと思って入ってきたんだろう。あ、もしかしたら誰かから評判を聞いて来たのかもな」


「まあ、そう考えるのが自然ですよね……」


「とか言ってるうちに、ほい、完成、はあぁぁぁぁぁぁい、お待ちどうさまぁ! とんこつチャーシュー麺大盛ね!」


 まるでクラシックの演奏に聞き惚れたような顔をしていた男は、はっと目を開き、目の前に置かれたラーメンを見つめた。しかし、彼はすぐに目をつぶった。

 ……眩しい。丹念に煮込み、豚の旨味を凝縮した白いスープが、店内の照明に反射して眩いばかりの輝きを放ち、二つに割れた卵の黄身がとろりとろりとスープに流れ出し、『早く舌を絡ませてよ』というように誘惑してくる。さらに目を引くのはそのチャーシューだ。器の縁にまるで花を咲かせるかのようにぐるりと一周隙間なく並べられたチャーシューは、その見た目のインパクトもさることながら、芸術性を感じずにはいられない。先ほど、ラーメンが来るまでの間、男が目を閉じ夢想していたのは、大きなビニールいっぱいに店内の匂いを詰め込み、一気に嗅ぐこと。しかし、その必要はない。あるのだ、目の前に。その立ち昇る湯気、濃厚な香りが鼻から脳へ届いた瞬間、彼の唾液は蜂蜜を絞るようにあふれ出し、彼の瞳は半熟卵、チャーシュー、麺、ネギ、メンマ、もやしに――


「あ、お、あ、おぉぉおぉぉぉぉ!」


「……あの人、すごい勢いですね。声を上げて、なんか麻薬中毒者みたいな感じで……って、店長、泣いてます?」


「ふふっ、嬉しいじゃねえか……あんなに喜んでくれてよぉ……」


「ああぁ、もう最高だぁ……」


「まあ……そうですね! おお、もう食べ終わったみたいですよ。すごい、うちの大盛りは半端じゃないのに」


「へへっ、いい食いっぷりだ。替え玉をサービスしてやるか」


「ははは、普通にもう一杯頼みそうな勢いですけど……えっ」


「うん? あれっ」


「お客さん……消えました……ね。食い逃げ、いや、でも速すぎる……」


「ああ、違うな。ドアは閉まってる」


「え? え? じゃあ、もしかして……」


「幽霊……だな」


「え、え、あ、で、でも、成仏したってことですよね? あの幸せそうな顔。うちのラーメンがおいしくて、はは、ははは……」


「あの野郎……ごちそうさまを言ってねえじゃねえか」


「いや、それはいいでしょ」


 空っぽの器から立ち昇る湯気は喜び、踊っているかのようだった。








 一方、とある施設の暗い部屋にて……


「ふぅぅ、食ったぁ……ぁぁあ、さいっこう……」


「戻ったね。それで、その様子は成功したのか、ああっ、匂いが、こりゃたまらん……」


「ええ……へへへ、ああ、もう腹がパンパンですよぉ……へへへ……まあ、がっついたんで、口の中が火傷しちゃいましたけどね。へへへへへへ……」


「ネギ! 歯にネギがついている! ああ、成功したんだな! よしよしよし! さあ、早くこの男を連れて行ってくれ。急いで!」


「ははは、自分で立ちますよっと、ははは、ああ、ふらついちゃうねこれ」


「ああ、先に服を脱がせろ。おほぉ、匂いが、ああ、いい」


「ははは、博士ぇ。匂いだけでションベン漏らしそうになってるじゃないっすかぁ。いやぁ、やっぱりお土産でも持ち帰ってきたらよかったんじゃないですかぁ?」


「はふぅ、じ、実験の前に説明しただろう。過去の世界からこの現代へ、手に何かを持ち帰ることはできないのだ。行き来できるのは、その身と、現地に溶け込めるよう特別に誂えたスーツだけだ」


「ああ、そうでしたっけねぇ……。しかし、タイムトラベル、うまくいきましたねぇ。疑ってましたけど、向こうに着いた瞬間はもうびっくりして腰が抜けそうになりましたよぉ! で、時間がないって言ってたじゃないですかぁ。だから慌てて、ラーメン屋を探したんですよ。いやぁ、店があってよかったすねぇ」


「この辺りは昔、繁華街だったからな。ラーメン屋の一軒や二軒あることは調べがついている。と、よし、脱がしたな」


「いやぁ、いい思いができて、役得って言うんですかねぇ……へへへ、またいつでも協力しますよ。なんせ、刑務所の中は暇なんでね」


 博士にそう笑いかけた男は、屈強な二人の男に挟まれ、鼻歌交じりで部屋を出て行った。

 博士は男が脱いだスーツのジャケットに染みついた匂いを嗅ぎ、とろけた目でその背中を見送った。


「ああぁ、羨ましい……これを直接味わえるなんて……。私はタイムマシンの開発者なのに……資本家というのはまったく……」


 未来。そこは食糧難の世界。かつて飽和状態とも言われた食糧事情は一変し、明日食べるものもないような日々が続いていた。

 この状況下では人間同士で食い合うことも、なんらおかしくはなかった。ましてや、その胃にご馳走が詰まっているとなれば。

 この時代、囚人の最後の晩餐の献立を決めるのは処刑される当人ではない。それすら知らずに、囚人は夢心地のまま食卓に上がるのだった。

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