物理とわたしどっちが大事なの!?
「来週から木曜の夕飯はローテから外してもらってもいい?」
美里は、味の薄い味噌汁を片手に唐突にそう言いだした。
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わたしと美里は3年前に出会った。いや、どちらも転校生ではなかったから、高校1年のころに見かけたことはあったかもしれない。けれども、そのころはクラスも違っていたし、互いを認知していたかも怪しい、というか憶えていない。だからやっぱり3年前でいいだろう。2年生になり、わたしたちが同じクラスになってからとその前では、記憶の濃度が違いすぎた。
彼女は、自称進学校のなかでも、一応は才媛と評される存在だった。生徒会に入ったりするような優等生では決してなかったが、試験では、東大合格がこの時点で確実視されているようなガリ勉くんを超える成績をとっていた。そう、わたしが最も忌み嫌う物理においては。
別にわたしも頭が悪いわけではなかったし、むしろ期末試験の総合順位を比べればわたしのほうが上だっただろう。美里は、わたし的には視野が狭い、彼女に言わせれば「好きこそものの上手なれ」で、自分が得意なこと好きなことしか目に入らないバカだった。日本史だったり家庭科だったりの順位は下から数えた方が早かったくらいだ。そういった興味のない授業中は解析力学--大学で習う物理らしい--の本を満足げに紐解いている気持ち悪い様子を、わたしはよく知っている。対してわたしは、文系科目を中心に好成績を修めていて理系は足を引っ張らない程度にはできる、普通の頭のいい子であった。
高校生活の半分が終わり、受験勉強がクラスメイトの脳裡にちらつき、朝自習の出席率が高くなってきたころ、美里の悪癖も少しは改善を見せてきた。もっとも、受験に必要ない科目については卒業まで変わらずだったが。そのころから、わたしたちは一緒に勉強をしはじめた。
誘ったのはわたし。美里が「京大に入って物理の研究をしたい」と目を輝かせながら話すのをよく聞いていたし--同時に面白くもない方程式を早口で解説されるのが常だったが--それに、三者面談で担任に言われたことを真に受けた母が志望校を引き上げ、彼女と同じ大学を受験することになったからだ。そのころの本命は別の大学だったわたしとしては、単に疲れたときの目の保養として、好みの顔をそばに置いておきたかっただけかもしれない。
烏の濡れ羽色の艶やかで豊かに伸びた長い髪、知性を宿し始めた子供のように爛々と輝く瞳、朝露を置く桜の花びらのように柔らかい唇、片手で覆えてしまいそうな控えめな胸、傷一つなく日焼けを知らない白く滑らかな肌。その全てが完璧な黄金比率でもって調和している美里は、端的に言ってわたしの理想だった。
幸運なことに、ボケが始まってきていた祖母を含めた二世代で住んでいたわたしが、美里の話を逃げないで聞き流すことのできる唯一の人材だったのだろうか、1学期のときから、わたしは美里に気に入られていた。だから、わたしが受験勉強に誘ったとき、彼女が人懐っこい笑顔で大きく頷くことは、想定の範囲内だった。「お互い苦手な部分を教えあえる」なんてとってつけた言い訳をいう必要すらなかった。
わたしが美里に完膚なきまでに恋に堕とされることが想定の範囲外だった。
彼女は、最大の欠点である「物理バカ」ということを除けば、努力家で、裏表ない性格で、とてもかわいらしく、クラスのみんなから愛されるようなキャラだった。だから、わたしたちが放課後教室に残って勉強をしていると、誰かしらが美里の周りによって来る。美里もそれを嬉しそうに受け入れる。そんな日々が続いてしばらくしてから、わたしは適当な理由をでっち上げ、別の教室で勉強することをした。人を疑うことを知らない美里を連れ、廊下の窓から秋雨をながめながら歩き、なぜかいつも鍵の空いている書道室で向かい合って座り、美里の背中の誰もいない寂しい廊下をみたとき、わたしは認めてしまった。わたしは美里に恋をしていると。そして、美里を独り占めしていたいんだと。
ああ、わたしはいつから恋に堕ちていたのだろう。2年生の最初のホームルームの自己紹介で彼女と目が合ったときだろうか?勉強が終わった帰りに一緒に名古屋駅で期間限定のドーナツを食べたときだろうか?美里が相対性理論の応用性について楽しそうにわたしに語っているのを適当に聞き流しているときだろうか?わたして勉強しているのに他のヤツと話す美里を見たときだろうか?わからない。わからない、けど、どうでもいい。わたしは独占欲を知ったときに恋を自覚してしまったこと、それだけが事実なのだから。
独占欲は嫉妬だけでなく不安の表れでもある。周りのヤツらとわたしの違いなんて意味の分からない話を最後まで聞いてあげることくらいしかなく、美里はバカだから、わたしの気持ちにはどうせ気づかないし、わたしのことなんて「話を飽きずに聞いてくれる友達、あとよく一緒に受験勉強をする」くらいにし思っていないのだろう。聞き上手なんて珍しい才能でなく、彼女をわたしのそばから離さないためには、わたしが彼女を囲い込むほかなかった。
そうとわかってからは、わたしは昼放課から修学旅行の部屋割りに至るまで、美里のそばに無理矢理でも居続けた。年を明けるころには、気味悪がったのか、わたしたちに話しかけるヤツらが激減した。有り体に言えば、クラスからハブられた。
バカであまり周りに興味がない美里はきっとそれに気づいていない。クラスで美里とわたしだけのコミュニティが確立されたのだ。わたしの完全無欠の大勝利だった。
三年生になり、国公立進学クラスで当然美里と同じクラスになったわたしは、学校では常にペアで行動し、同じ予備校に通い始め、変わらずなのかより深くなのか、二人だけの世界に美里を閉じ込め続けていた。週末や予備校のない放課後は、互いの家でお泊り会、もとい勉強会も開いていた。たまにの息抜きに、名駅の地下街で恥ずかしそうな美里を着せ替え人形にしたり、予備校帰りの書店で日本史の一問一答と一緒に解析入門を買っている姿は最早愛おしかった。
今振り返れば、このころが一番幸せだったのかもしれない。邪魔ものを徹底的に排除し、美里を自然に束縛する。わたしと彼女の境界が曖昧になっていく、その様がとても興奮した。わたしだけが、美里に勉強を教えてもらうと時折レベルが天元突破するを知っている。わたしだけが、彼女の手料理が美里の母と違って薄味であることを知っている。わたしだけが、美里の背中に小さいほくろが二つあることをしっている。わたしは彼女の一番になれていただろう。
成人の日にセンター試験、バレンタインの一週間前に二次試験を終えたわたしたちは、長崎に卒業旅行を兼ねた合宿免許に行っているさなか、美里は理学部に、わたしは文学部に受かっていることを知った。そのとき、わたしがとても緊張していたのを彼女は気づいていないだろう。「大学はルームシェアしない?」と聞かれて、きょとんとしたあとに花が咲いたような笑顔で「いいよ」なんて言えてしまう美里は一生気づかないに違いない。
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そうして、北白川の2LDKに同棲を始めて1年と3週間と1日が経った木曜の夜、美里は夕飯を作らないと言い出した。
「えっ?どうして?今月からバイトの曜日でも変わったの?」
「ちがうよ、おばさんの店なんだからそこは大丈夫」
知ってる。美里の親戚がやっている菓子司のただ一人のアルバイトなのだから変わるわけがない。じゃあなんで?知らない。
「××君と〇〇君って憶えてる?ほら、前に奏に図書館で紹介したでしょ」
図書館。3ヶ月ほど前、日本史学の試験を終えてスマホをみると、線形代数の試験が早く終わったから図書館で待ってるとの連絡が美里からあって、向かうと三人のサルとホワイトボードに何か書き込んでいる姿を見つけた、ということがあった。いやなことを思い出した。
「えーっと、あの、サ、さんにんのうちの二人?」
「そうだよ」
彼女が頷く。
「××君たちに、一緒に自主ゼミをしようって誘われたんだっ」
なんで美里は嬉しそうな顔をしているのだろうか?わからない。
「自主ゼミ終わったらそのまま、ご飯行こうって。ほんとは今日からどうって言われてたけど、奏もいるからね」
は?わたしがいなかったら何?顔にはださないように毒づく。
「じゃあ、ご飯作らないんじゃなくて、要らないってこと?」
「そう。あっ、あと、△△ちゃんも一緒に誘われてた!」
女性率数パーセントの理学部で、物理志望はさらに減る。だから、その子は多分よくわたしたちの昼ご飯についてくるヤツだろう。顔は靄がかかったように思い出せないが、芋っぽい子だった気がする。というか、何?合コンかよ?ふざけんな。わたしが何のために美里を時計台前に群がるサークル勧誘から遠ざけたと。
「自主ゼミなんて必要?物理は一人で紙とペンがあればできるでしょ?」
「それは、学問を馬鹿にしているよ。奏。若い研究者はアイデア勝負なんだよ!違う視点からの……、……でしょ?」
美里が研究者気取りのドヤ顔で何か言っている。こんなときでなかったら和んでしまうものも、今は苛立ちが増すばかり。
「じゃあ、あの人たちとご飯食べに行く必要ないよね?話はゼミでできるよね?」
「まあ、確かにそうなのかもしれないけど……あっ、そうだ、奏も一緒に食べに行く?ゼミ中は退屈だろうから終わってから合流しようと思って」
「……行く」
心の中で嘆息した。行きたくないけど、美里を一人で待っているほうが怖い。
「おーけー、××君に伝えておくね」
ご飯を食べ終わったらしい美里は、流しに食器を置いて自室に入っていった。どうしてこうなってしまったのだろう。美里に化粧を教えたのはこんなことのためではなかった。
やはり、わたしも美里と同じ学部にすべきだった。高3になって理転して国立は難しいなんて脅す担任なんて無視すればよかったんだ。美里は大学に入って自分と同じレベルで話をできるようになってしまった。思えば、もう何ヶ月も美里のつまらない話をきいていない。わたしだけ、というアドバンテージは大学に入って一つ失っていた。そして、いま、また一つなくなった。
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3回生の6月の下旬、梅雨が始まって頭痛が日増しにひどくなってくるころ、大学の帰りにわたしたちは哲学の道を歩いていた。銀閣寺から南禅寺まで南北にのびる哲学の道は、側に流れる琵琶湖疎水に蛍がみれることでも知られている。
蛍をつかまえて母親の顔を引きつらせている小学生くらいの男の子を横目にしながら、美里が口を開いた。
「文学部って院進するひとっているの?」
「いなくはないかな?でも2割もいないくらいだと思う」
細くきいろい光の筋はわたしを祝福するものではない。頭痛がひどくなっていくのを堪えながら続ける。
「わたしも夏休みになったらインターンに参加してみるつもりだし。別に万葉集を崇拝してるわけじゃないしね、といっても何かやりたいことがあるわけでもないけど」
訊きたくない。ここで訊いてしまったら、未来が確定してしまう。曖昧なままにしておいたほうがいい。そう思つつも微かな期待をもって美里に向き直った。
「……美里はどうするの?」
「わたしはやっぱり昔からの夢だし、院に行くことに決めたよ。最近はホーキング放射の勉強をしているんだ」
吐き気がする。ばれないように仮面を取り繕った。うまく笑えているだろうか。
「……そっか」
「うん。そもそも、理学部って就職する人殆どいないしね。2割もいないってきいてびっくりしたよ。文化の違いだね」
少年の手から蛍が逃げていく。美里はわたしのもとにとどまってはくれない。それも、あんな出会いに飢えた男性社会に美里がいくなんて。ご飯のときのサルどもの目に気づいてないのだろうか?
手が濡れる。
「雨が降ってきたね。帰ろうか」
美里はすっきりしたような顔でそういうと、鞄に入れていた折りたたみ傘を開いた。
「入る?傘、ベランダに干しっぱでしょ?」
「……うん」
顔を上げることできず、美里の腕に縋りつく。美里はバカだ。
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銀閣を通り過ぎることには雨足は強くなっていて、傘に入らないびしょ濡れの左肩からどんどんと体が冷えていった。震えを隠した硬い声できく。
「なんで、院に行くの?」
「そーだねぇ。さっき言った通り、研究がしたいからだよ?好きこそものの上手なれっていい言葉でしょ?それに、わたしは企業就職には向いてないしね」
重い空を眺めながら美里が続ける。
「ほら、高校の頃、わたしが好き勝手しゃべるから、付き合ってくれる奏しか友達いなかったでしょ?だから、わたしは人間関係が得意じゃないんだなって」
え?足がとまる。雨の音が遠くなる。
「その分、研究職は物理をずっとできるし、周りも同じような人たちだからね」
それって。わたしのせいってこと?高校のころに周囲から孤立した経験がトラウマになっているって、美里はそう思っていたの?どこまで気づいていて、どこまで知っているの?美里は今なにを思っているの?わたしがやってきたことってなんだったの?美里はわたしをどうおもっているの?わたしはどうやったら美里のそばにいれるの?
「奏?」
突然立ち止まったわたしを振り返って、不思議そうな顔で美里が問う。その顔に感情がはじけた。美里から傘を奪い投げ捨てる。
「物理とわたしどっちが大事なの!?」
「……えっ?」
一度決壊した口はわたしの意思を離れて言葉を押し流す。美里の控えめな胸に顔を埋めて続ける。
「美里、好き。わたしから離れないで」
降りこめる雨に隠れて、後ろで傘が道に転がる音がする。
「そっか、なるほどね」
美里が小さく呟いて、濡れそぼつ背中に手を回す。
「不思議だったんだ。なんで奏が孤立していたわたしに構うのか、とか。奏ってわたし以外には優しいひとではなかったしね」
「……うん」
「それと、ありがとう。急に言われて今は奏を好きかどうかはわからないけど、奏から離れるつもりはないよ」
「風邪ひいちゃうし帰ろう」
わたしの呼吸が少し落ち着いてから、美里は傘を拾いに腕を解いた。
「それにしてもなんで、院に行ったらわたしが離れると思ったの?」
美里が少し揶揄うようにきく。
「……だって、周り男しかいないじゃん。不安だよそんなの」
「なるほどね。それは杞憂というか、むしろないよそれは。だって陰キャばっかだもん。そんな勇気ないよ、みんな」
……やっぱり人を疑わないバカだ。微笑む美里を見ながらそう嘆息した。
「明日は四条に行くって指輪買うからついてきてね」
「まだ付き合ってないのにせっかちだね、奏は」
「害虫除け、絶対外さないでね」
そういって私は美里と指を絡めて歩き出した。西の空には月が見える。もうすぐ雨もやみそうだ。就寝前の頭痛薬もういらない。
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わたしたちは大学を卒業し、美里は院に進み、わたしは大阪の商社に就職した。美里はアルバイトの給料しかないが、わたしのほうは一応正社員としての月収をもらえるようになったので、家は下鴨のより広い物件に移った。朝からの半日の美里ロスや、未だ慣れない電話対応のストレスで疲れ切ったわたしは、1時間半ほど電車を乗り継ぎ、やっと京阪を終点で降りる。
「お疲れ」
よかった。ちゃんと美里が待っててくれてる。
「ご飯は?」
「もう作ってあるよ、早く帰ろう」
今日は美里が早く帰れた日のようだ。「ゼミや授業が終わったら、研究室ではなく自宅で勉強すること」や「研究室で男性と二人きりにならないこと」といった約束事をきちんと守ってくれているようだ。
二人並んで、暗い糺の森をくぐる。わたしは唐突に尋ねた。
「今日は?」
「餃子だよ。冷食が安かったからね」
やっぱり。美里はわたしにもう物理の話はしないのだろう。ただ、それも前ほど不安にはならない。卒業する少し前、引っ越し先を選んでいたころに、彼女はわたしを受け入れてくれた。お互い付けている指輪の意味も変わっている。美里も恋人がいることを隠してはいないようだし、研究者は良くも悪くも頭だけはいい陰キャなので、そういった人に粉をかけるクズの割合は他より少ないだろう。
「味噌汁は?」
「いつも通り。しょっぱくないよ」
得意げに美里は言う。なるほど、今日も薄味か。
タイトルを検索すると某大学院の入試説明会のポスター案がでてきます。この作品はそのポスターからインスピレーションを得たものですので、よかったら鑑賞してみてください。