楠の巣箱
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
よーし、今日の気温の記録、おしまいと。
ローテーションとはいえ、この手の記録係、苦にならないかい、こーちゃん? 百葉箱の気温の確認、あと一週間くらいだよねえ。
そういえば聞いた? 百葉箱って設置にいろいろと条件があるんだって。
地上から1.2メートルから1.5メートルの高さ。直射日光や照り返しを受けず、風通しがよいところ。近くに建物がなく、周囲に芝草などが植えられて、扉を北向きに設置……なんかさ。
中の機器類に異常をきたさないためとはいえ、息苦しくなりそうな制約だよね。百葉箱と機器にとってはさ。「ここ!」と決められたポイントに、壊れるそのときまで突っ立っていることが求められる。
手入れはされるだろうけど、それはされる側からすれば「まだまだいけるいける! 頑張れ、頑張れ!」って、鬼のような残酷エールでしょ?
利益のために生き延びさせられ、使い物にならなくなるまで、酷使される……。そう考えると「もったいない」の精神は、ある意味で地獄へのかじ取りなんじゃなかろうか? そうまでして、守らなきゃいけないのはなぜなんだろうか?
理由は様々だろうけど、僕もまた大事にされているものに関して、ひとつ不思議な昔話を聞いてさ。つぶらやくんが好きそうな話だと思ったけど、どうだろう?
むかしむかし。
僕たちが住んでいた地元には、あちらこちらに、家屋どころか見張り台の高楼さえも超える、大きな楠がたくさんあったそうなんだ。
待ち合わせの目印から、子供たちの遊び場まで、様々な用途に使われていたその木々は、枝の集まり具合が非常に密だったという。
枝同士が数本、結わえたかのようにくっついて、人が足を乗せられるほどの幅を保っている。茂った葉々もまた、身を寄せ合って屋根のように重なり、天気が悪い時さえも、幹に近い場所であれば雨水をしのぐことができたという、鉄壁ぶり。
半ば家のように認識している者もいて、寝袋やゴザといったものを使い、家のようにして樹上で暮らした者の話も残っている。
だがこれは、必ずしも人に都合よいばかりの環境じゃなかったんだ。
とある男の子も、鬼ごっこやかくれんぼの際、好んでこの大楠の上へのぼった。
壁ともなる葉たちのおかげで、遠目にはほとんど視認されない。見つかっても、枝の足場たちを用いて、触られるまで樹上での鬼ごっこに持ち込むことができる。鬼にとっては面倒な立地だが、長く遊びたい子供心としては、簡単に負けづらい場所こそ、魅力を感じるところでもあったんだ。
ところが、その日もするすると葉に隠れる場所まで昇ってみると、数本連なる枝のひとつの根元、幹によりかかる形で巣箱が置かれていたんだ。
「単」の字が傘をかぶったような、木製。大人の顔二つ分ほどの大きさをした巣箱は、田の字に区切られた四つの穴から、底の見えない闇をのぞかせている。
「近寄らないで」
子供が巣箱へ手を伸ばしかけたところで、やわらかい声が彼の頭上から降ってくる。
かさりと枝が揺れ、葉がこすれ落ちる音。それから着地とともに、子供のいる枝をきしませながら、一人の少女がそこに降り立ったらしい。
見た目に、自分が遊ぶ子供たちと大差ない年に見えたが、身に着ける衣装は真っ白い小袖姿。その足元近くまで伸びる髪には、黒よりもずっと多く、白が混じっていたらしい。
「いま、まだ集めている途中だから」
ぎし、ぎし、と一歩ごとに、ゆっくりと間合いを詰めてくる少女に、子供は思わず鳥肌が立つのを感じて、ぴょんとひとつ、後ろの枝へ飛びのいてしまう。彼女から吹き付ける風が、あまりに冷たかったんだ。
――彼女の所作次第では、もっとひどいことになるかもしれない。
彼女から目を離せない彼だったが、彼女はもう彼の方を見やりはしなかった。
そのまま巣箱の近くまで歩いていくと、かがんで巣箱の仕切り部分に手を当てる。しばしそれを見やって小首をかしげた後、さっと背を向けて枝の先へと、変わらぬ歩みを見せて進んでいく。
ふと、彼女の踏み出した一歩が空を切った。踏み外したと思い、実際に彼女の身体もまた、すっと枝の下へ落ちていく。けれどもそれは、一瞬のことでしかない。
さっと伸ばした彼女の両腕が、包み込むように枝を握る。
落ちゆく彼女の重さを受けて、ぐぐっと大きくしなる、連なった枝。それがもとの位置より何尺もたわんだかというところで。
ぽーんと、彼女の身体が枝下より飛び上がった。手も離し、反動で飛び上がりながら、くるくると何度もトンボを切りつつ、彼女の身体はずっと上。多くの葉に隠される樹幹の中へと紛れていってしまったんだ。
そのときから、彼は件の大楠にのぼることはやめてしまったらしい。
本来なら周りの皆にも呼び掛けて、あそこへのぼることを控えさせるべきだろうけど、ダメと言われればやりたくなるのが、人の心理。ヘタに制止するべきではないと、彼はこのことについて話すことはなかったらしい。
彼女が何を巣箱に集めていたのか。彼は再び彼女と出会うことなく年を重ねたが、やがてこの近辺で起きた戦によって、その一端がさらけ出されたそうだ。
大人になっていた彼は、足軽の一人としてその戦に参加していた。
乱戦状態のところで不意に、対していた敵の一派が、左右に大きく開いたんだ。その先にはすでに膝をつき、火縄をつけた鉄砲たちの銃口が、彼らを狙って定められていた。
どれほどの被害を狙ったものかは、分からない。槍を手にし、ほぼ最前にいた彼だが、次々と切られた口火とは裏腹に、その体を打つ痛みも、衝撃もなかった。
代わりに、すぐ隣にいた味方の足軽が口と喉から血を流して、膝を折って倒れていく姿が、やけにゆっくり感じられたとか。
けれども、次の瞬間。
パアンと、高いところからツボを落として割ったような音が、戦場にいるみんなの鼓膜を揺らした。
敵味方を問わず、思わず動きが止まり、周囲を見渡してしまう。このとき、彼がとっさに振り向いたのは、あの日、巣箱と少女を見た、大楠の方だった。
その木の一角、幹にほど近い部分の葉が、ぱっと弾けるように大きく散ったんだ。そこから一呼吸おいて、楠のてっぺんに、にわかに黒ずんだ空間が浮かんだらしい。
その空間は、これもまた爆ぜるような勢いで、四方八方へ飛び散った。彼のいる戦場も瞬く間に空を覆われて、あたりに夜と見まごう、重苦しい闇が立ち込める。
底冷えがした。季節は夏だというのに、背筋へぞぞぞと寒気が走り、指はかじかみ、頬すらこわばる。身震いせずにはいられない寒さが、たちまちのうちに辺りを支配した。
まともに武器さえ握れぬ事態に、相手の姿が見えなくなったことも手伝って、両軍はどちらともなく、逃げてしまったらしい。彼もまた、彼女が放っていた冷気を思い出しつつ、その場を退いた。
結局、半里(約2キロ)ほど離れるや、ぱっと闇は消えて失せ、午後の光が頭上から指し始める。
振り返った空にはもう、あの黒いものは見えていない。それでも、先ほどの場所へ戻ろうと踵を返せば、再び湧いた夜の闇に邪魔をされた。松明を持って入っても、わずかな先さえ見通せない。
ただの暗さではないと、両軍に報せが行きわたったのか。数日にわたる戦のうち、そこが戦場となることは、もうなかったのだそうな。
数日後。この奇妙な空間は現れなくなったものの、彼が久方ぶりに楠へのぼってみると、そこにはあの巣箱の屋根の破片のみが、幹に寄りかかっているばかりだったとか。