虚ろなる亡国の騎士・序章
玉座の間に駆け込んだ私は、王が実子を殺す光景を目にした。
「エピアン王。何故……」
「許せ、シェハ。これは私の本願だ」
腹を貫く大剣が引き抜かれ、王子は床に倒れる。
悲鳴の一つも無い。致命傷により息を引き取っていた肉体は、鈍い衝突音だけを立てた。
王子アルフレッドは、正しく正妃の子であったはずだ。公の場に現れてから四年も経つ。王妃が自ら教てた子であり、不審の過ちなど一切見られなかった。
次に戦争が起これば、全軍の指揮に収まることは周知の事実であり、未だ頼りない側近に代わり、私が護衛を務めるだろうと期待していた。
それが、事もあろうに王自らの手で殺されるなど、……信じられない。
惨状は一つに留まらない。
ここに至るまで、通路は死体が存在するのみであった。侍女も文官も、警備の兵士でさえ皆等しく死に絶え、床に倒れ伏した姿があった。
「お前が最後に来るとはな」
倒れた王子の周辺には、数々の死肉が散らばっている。
剣は折れ、鎧は砕け。どれもが黒い血を浴び、謁見を飾る絨毯を汚す。飛び散った肉片が床や壁に飛沫を残し、一帯は死の気配に包まれている。
広間の中央に立つ王は、周囲の光景をさも当然のように告げた。
同僚らが散らばる肉塊へと成り果て、その断面をさらしている。近衛兵は私を除いて、全滅したと見るほかないだろう。
街の巡視をしていた時に、王城上空に不穏な気配を感じた。招集を待たずにひたすら走り、王城に入った後は襲撃者の可能性を疑い、息を潜めて足を進めた。
狂気の主犯が王であるなど、思考の隅にもなかった。
剣を向ける。
広間の中央に立つ王には、老いで失われたはずの巨躯がある。
片手に大剣を携え、ただならぬ存在感を放つ。荒々しい立ち姿は、長く培った武の知識が衰えていない事実を否が応にも示してくる。
かつて先陣を務め、個の武勇にも優れていた。幾度の戦場を切り抜け、英傑との決闘も果たす。直接、場に立ち会った高官から耳にした逸話は数知れない。
とはいえ、全ては人の摂理に従うものである。王となり実子が生まれた後には、戦場を駆けることもなくなった。私が武官として採用される頃には、当然一線を退いており、政務に専念していたはずだ。
民の平和を思い、治世に努めた王が狂気を宿した。反乱か暴動を疑おうとも、今の振る舞いは常軌を逸している。
「お認めになられるのですね……」
「息子を殺した事か? 近衛を斬った事か? それとも城内を皆殺しにした事か」
罪を罰すべきなどと言える状況ではない。
王が邪法に堕ちた。
悪虐を対価として力を得る手段は、諸国が禁じている。負の感情を煽り、人命を奪う。退廃は伝染し、いとも簡単に法治を乱せる。
無秩序な武力を浴びれば、生き延びた民は意識する。国政の非力を示すのだから、対抗する力も同質だ。被害は新たな被害を生み。いずれ国の統制を超えて、崩壊を招く。
重大な犯罪者にさえ待遇を定める法は、個と集団との齟齬を避けられない。各国は常に警戒していたはずだ。
民を統べる国家が、指導者たる王が、最も忌むべき行為を実現してしまった。
王にとって、子も部下も信頼足りえる存在ではなかったのか。
「そうだ、剣を向けろ。私に刃を通してみせよ」
類まれなる体躯が構えを取る。
正面から対抗すべきでない。倍ほどある体格差は元より技量で補うには厳しく、今の王は、既に人としての枷を投げ捨てた亡者だ。並人の抵抗など、脅威にならない。
一瞬、王の肉体が皮一枚だけ縮んで見えた。
力を解いた王が歩みを進める。体躯からなる質量をものともしない足取りで、近づいてくる。
威圧に息が詰まる。見上げる体躯は、広い空間にありながら、逃れられない圧迫感を与えてくる。
「ゆくぞ」
王が腰を落として、前傾を見せる。一歩、二歩。弾んだ肉体が勢いを止める。わずか数歩先に迫った体が、その勢いを片手で操る大剣に込めた。
刃は真横を通り過ぎ、切り裂かれた風が後を追う。
直感にも劣る、怖気で生み出された半歩が、胴を貫いたはずの一撃を避けた。
自分が剣を振り下ろすより先に、横からの衝撃で体は吹き飛ぶ。地を転がり、崩れた体勢のまま、部屋の隅に全身を打ち付ける。
鎧で吸収されない衝撃が、肺を押し潰す。
肺に残った空気が吐き出されて、咳き込む。
壁や装飾の破片が鎧の上に落ちて、細かな音が鳴る。
四肢の末端まで痺れがひどい。頭を強打したためか、体の反応も悪く。力を込めようと、まともに動く感触がない。
衝撃を受けて、手は剣を失った。
近くを探ろうとした腕が、質量に当たる。
揺れる視界は、大きな影を捉えた。視界が影に落ちると同時に首が絞めつけられ、浮遊感の後に、背面を壁に叩き付けられる。
息ができない。
もがこうと王の腕は外れず、浮いた足が空振る。
支えにする壁から引き離されると、今度は磔にするかのごとく、勢いを持って壁へと叩き付けられた。
四肢が乱暴に振られる。
「……お、やめ、くだ…さい」
痛みと吐き気を耐え、ようやく吐き出した言葉に返事は来ない。
首を掴む王は、残る一方の腕も近づけてくる。
歯を食いしばる。顔面を流れる汗と血が目に入る。砂が目に入るような不快感に、まぶたを閉じる。
近くで砕かれる音が続いている。
騎士の鎧が壊されている。
胸元から引きちぎられ、掴まれる度に、わずかに体が引っ張られる。戦場の刃を弾き、飛び矢を防ぐ。硬度と靭性を備えた金属が砕かれ、内側を保護する革までもが破かれる。
近衛の証が、誇りが無慈悲に打ち捨てられた。
決して、初めから忠誠を抱いていたわけではない。自分に武の才能があり、近衛の席に届く技量があっただけ。
簡単などと断ずるはずもない。技を鍛え、並みいる強者と競い、戦績を積み上げてきた。日々傷つき、己の不全を悔いてきた。
選ばれた瞬間から、王の元で、自分が貢献できるのだと信じて疑わなかった。
本来なら、王の狂気を食い止めるべき立場なのだろう。
国が誇る武の象徴であるはずの近衛が、こうも一方的にあしらわれる。器たりえない自分を責め立ててくる。
金属の破片が床に散らばる。細かな高音が耳に鋭く刺さる。
首の圧迫と相反して、胸部に解放感がある。
鎧の前面が壊された。
王にとって、武具の有無は大した問題ではなかったのだ。
衣装は礼服であり、持つべき大剣も床に突き立ててある。最初から無手で圧倒できるほどの実力差が存在した。
「終わりか……」
王の失望を聞く。
首絞められた状態で、持ち上げられる。四肢で暴れようと拘束は解けず、壁から離れた体が反動で揺れる。
王の顔には深い皺がある。
威厳が染み着いた頬に、まだらに熟れた肌。見知った表情に釣り合わない体躯は、何者かが老人の皮を被ったように思えた。
王が片腕を貫手に構える。
放たれた突きは、こちらの急所を刺し貫いた。
胸部の壮絶な痛み。
かすかな意識が呼吸を欲したところで、激痛が微動を拒絶する。込み上げる血が喉で行き場を失う。留まり、詰まる。最後に通った空気が濁った音を出した。
「これは呪いだ。……幾度、死の淵を過ぎようと、己の消滅は免れられる。肉の破片はただちに繋がり、穴は寸分のうちに塞がる。死を逃れようとした愚者の末路。――不死者の楔だ」
視界は陰る。
肌が風を受け、近くの動きを捉える。
「全ては虚ろだ。因果を蝕むがごとく異能も、我が前では途端に効力を失う。対峙したければ、化物としての力を諦め、人の肉体で抗ってみせろ」
耳元に届く王の声だけが、鮮明に感じる。
「私を殺しに来い。己を否定するなら、……永久の苦痛を癒したければ、私という禍根を滅ぼしてみせよ」
私は、王を……――
これ三次創作です。
掘り掘り。