第九話
夕闇に染まった江戸の町を若い娘が駆けていく。
奇妙な様子だった。纏っているのは晴れの日に着るような赤い振袖であったが、襦袢の上から羽織るばかりで帯も締めていない。こんな時間にどこへ行こうというのか、汗だくで息を切らしながら必死に走っている。借金取りにでも追われているような、異様な顔である。
「おおい、お嬢ちゃん。そんな恰好でどこに行くんだね」
見かねた通りすがりの町人が声をかける。ただでさえはしたない恰好で、薄暗い中を独り歩きとはあまりに不用心である。しかし娘は自分の恰好を気にする風もなく、息切れで声にならない声で答えた。
「……か、火事なんです」
「火事ぃ」
面食らう町人に、娘は同じ言葉を繰り返した。
「火事なんです。家が、わたしの家に火が」
「火事って、お前さん」
ついこの間の大火に遭って、火元に用心しない江戸っ子はいまい。便乗した火付けがないか、同心達も目を光らせているはずである。しかし冗談にしては娘の顔は真剣だ。必死な形相で何度も訴えてくる。
「本当なんです。このままじゃ危ないの。早く逃げて。早く――知らせないと」
「お、おいおい」
「早く、早くしないと。……鐘を、鐘を鳴らさないと。鐘を鳴らしてッ」
どうも尋常ではない。まるで気狂いのようだと困惑する。娘は話が通じないと見るとまた駆け出そうとする。行く先は火の見櫓であろうか。
「早く、早く。鐘を鳴らして。早く逃げてッ」
「ま、待ちなよ嬢ちゃん。とにかく、その恰好はよう……」
せめて帯でも貸してやろうと引き留める。と、娘が走ってきた方向から何やらどよめきが聴こえてくるのがわかった。
「おいっ、火事だぞッ」
「八百屋だよッ。誰か、火消しを呼んでぇッ」
日が沈んだはずの空が朱色に照らされている。家と家の間から立ち上る黒煙が、もうもうと天高く昇っていく。そして聴こえてくる怒号と悲鳴で、その町人もやっと娘の言葉がまことのものであったと気が付いた。
「ひ、ひえええっ」
仰天して腰を抜かす。呼び止めた娘はそんな町人をほとんど見向きもせずに再び走りだした。
娘――お七の内心は言いようもない程に荒れ果てていた。
こうなってみると、どうしてあんな向こう見ずなことをしてしまったのか自分で自分がわからない。行灯を倒し、部屋を抜け出すまではまるで何も感じていなかったのに、外から燃える我が家を見上げてようやく自分がしでかしたことの恐ろしさを実感したのである。後悔を先に立てることはできない。不思議なもので、何もかも手遅れになってしまってから良心や後ろめたさはやってくるものなのだった。
(ああ、ああ、どうしたらいいんだろう)
火付けがどんなに罪深いことか、さしものお七も知らぬわけではなかった。
大火ももうふた月前のことになるのか。自分の生まれた家が、見知った店が、町並みが、一緒くたにごうごうと燃えて跡形もなくなっていく様を、父と母に抱きしめられながらお七もしかと見ていたのである。逃げ遅れて火中に消えた人は沢山いた。八兵衛の店に通っていた丁稚や女中も何人か巻き込まれた。大勢の人の命が奪われ、遺骨も見分けられず供養することもままならないのはあんなに心苦しいことだったとは。ああ、どうして忘れていたのだろうか。火事ほど恐ろしいことはないというのに――。
建て替えたばかりの家であった。いくら大店といえど、建てるのに相当な金が要ったはずだ。「少し余裕はなくなったが辛抱しておくれ」と父が言っていた。失った分を取り返そうと奔走し、ようやっと商売を再開させて喜んでいた八兵衛の姿を見ていたはずなのだ。
父と母は今頃どうしているだろう。無事に逃げだせただろうか。まさか火に巻かれてはいないだろうか。不安で仕方がなかったが、引き返して確かめるのも恐ろしい。何しろ、自分が火付けの張本人なのである。最早向けられる顔はない。
(おとっつぁん。おっかさん。ゆきちゃん。ああ、ああ、どうしよう、わたし)
しっちゃかめっちゃかの頭のまま走り続ける。とにかく、早く火を消してもらわないと。このままではまた大火になってしまう。大火になってしまったら。
――佐兵衛さま。
想い人の顔が浮かび、お七は足を止めた。そうだ――自分はあの人に会いたくて、だからあんなことをしてしまったのではないか。
火事になればまた円乗寺に行ける。また、あの人に会えるから。
ああ――だけど。こんなことをして、一体どの面下げて会いに行くというのか。
(佐兵衛さま)
優しい人である。直接関わりのないことであっても、自分のために起こったことと知ればきっと胸を痛めるであろう。巡り合わせが悪ければ、何の罪もない佐兵衛が責められることになるかもしれぬ。そうなったら……お七は目の前が暗くなっていくような気持ちになった。
なんとかしなければならぬ。これ以上取り返しがつかなくなる前に。
すっかり走り疲れ、棒のようになった足で火の見櫓の方へ向かう。既に火事は騒ぎになっていて、半鐘がひっきりなしに叩かれている。屯所に詰めていた火消し達が現場に向かおうと走っていく。
「おい、嬢ちゃんよ。何ふらふらしてんだあ」
火消しの一人らしい荒々しい顔つきの男がお七を見咎める。いかにも柄の悪い歩き方で詰め寄るが、その尋常でない装いとぼろぼろと涙を流す様にぎょっとして目を見開いた。
「な、なんだッ。どうしたってんだようッ」
「わたしです」
お七は掠れた声で答えた。
「わたしが――お七が火を付けました」
半鐘が狂ったように鳴り続ける。煙はもうもうと空へと昇っていく。人々は混迷のまま右往左往している。
弥生は二日、強い風が吹く夜のことであった。
ごうごうと、空をも焦がさんばかりの炎が一軒の店を包み込んでいた。
燃えているのは他でもない。八兵衛の店、本郷の八百屋である。
「誰かっ、火を消してぇッ」
「水汲んでこいッ、燃え移っちまうぞッ」
「火消しを呼べッ」
泣き喚くもの、家財を担いで逃げ出す者、調達してきた水を懸命に炎にかけて消火を試みる者。静かだった夜の江戸は一転喧噪の渦に飲み込まれた。恐慌している町人からさらに正気の箍を奪うように半鐘の鳴る音がする。
さながら地獄の様相を呈する八百屋をなすすべなく見守る野次馬の中に、吉三郎はいた。
「な――」
一体どれほどの間燃える店を眺めていただろう。まる一日そうしていたようであり、たった今来たばかりのようにも思える。紅蓮の光に目を奪われた吉三郎には時の流れもわからなくなっていた。
楽しい夜であった。なんとなしに久々に賭けに混じってみたら、これが大当たりしたのだ。浮かれて酒盛りを始めて、日が暮れた後もまったく飽き足らず、益市や犬次を誘って飲み屋に繰り出したのだ。わあわあ騒ぎながらあちこち店をはしごして、安酒や肴に不味い不味いと文句をつけたり、犬次のどじにげらげら笑ったり、楽しかったはずなのだ。ああ、楽しかった。
すっかり千鳥足の益市が妙なことを言いだすまでは。
――兄貴、なんか向こうが騒がしいですねえ。
――なんだあ。手前、酔いが耳にまでいったかよ。
――違いますよう。ほら、聴こえてくるでしょ。八百屋がどうとか……あッ。
――兄ぃ、煙だ。
――なんだありゃ、火事だよ。燃えてるじゃねえかッ。
湧き上がる煙を見た途端、酔いはすっかり覚めた。気が付くと、矢も楯もたまらず走りだしていた。このあたりで八百屋といえばあの店のほかない。……果たして、八兵衛の店がごうごうと燃えていたのだった。
「兄貴、早くずらかりましょうよ」
立ち尽くしていると、益市が袖を引いてきた。
「ここにいると火の粉が飛んできやがる。それにもうすぐ火消しやら同心やらが来ますよう。俺等達みたいなのがいたら、きっと火事場泥棒だって決めてかかるんだ。ね、ろくなことになりゃしません」
「怖いよう。いやだよう」
犬次は子供のようにぶるぶる震えている。しかし吉三郎は引き返すどころか一歩踏み出した。
「手前らはそこにいろ」
「へぇッ」
「兄ぃ、どこ行くのっ」
困惑するふたりを置き去りに、吉三郎は一歩、また一歩と八百屋に近づいた。火がじりじりと吉三郎の肌をあぶり、汗が噴き出す。危険極まりない。どうしてこんなことをしているのか、吉三郎自身にもわからぬまま動いていた。
――否。
心当たりがあったのだ。考えるだに恐ろしい、火の出所の。
「おい」
吉三郎は八百屋の主人、八兵衛に声をかけた。丁稚達が汲んできた水を何度も炎にかけ、汗だくになっている。
「なんだッ。お前、こんなときに何しに来やがったッ」
手助けかと思いきや、やってきたのは娘を誑かしたあのにっくきごろつきである。八兵衛は汗を手で拭いながら吉三郎を睨みつけた。
「手前の娘はどうした」
吉三郎も負けじと凄んでみせる。
「娘だあ。何を――――ああッ」
訝しんでいた八兵衛はすぐに血相を変えて明後日の方を向く。視線の先では、女中達を連れたお峰が不安げに家を見つめている。
「母さん、お七はどうしたッ」
「あ、あんたも知らないのかいッ。姿が見えないんだよ、いくら呼んでも出てこないんだッ」
こめかみから浮いた汗がつうっと顎まで垂れた。
「畜生ッ」
吉三郎は悪態を吐くと、丁稚が持っていた水桶を奪って頭から水を被った。
「おい、お前何する気だ」
「うるせえ、手前の娘だろうが。死んでもいいってのかッ」
めちゃくちゃなことを言いながら八百屋の中に入っていく。熱い。外にいるときも尋常ではなかったが、火の中に囲まれているのとは比べ物にならない。うかうかしていると煙に巻かれ、鰹節のようになってしまうだろう。お七はどこだ。袖で口元を抑えながら辺りを見回す。汗と涙で目が潰れそうだ。
「お七ぃッ」
煙にむせながら叫ぶ。返事はない。あったとしても、火の音でかき消されてしまうか。吉三郎はがむしゃらに前に進んだ。
「お七、どこだ。お七ッ」
――いっそのこと手前が火付けでもすりゃあいい。
まさか、そんなことできるわけがないと思ったから言ったのだ。十六の娘が、世間知らずのお嬢ちゃんが、そんな大それたことするわけがないと。
しかし――ならば何故この家は燃えている。お七は一体どこに姿を消したというのだ。
「ありゃあ冗談だ。本気にするとは思わなかったんだよ」
吉三郎は誰にともなく呟いた。
「手前だってよう、して良いことと悪いことの区別くらいつくんじゃねえのか。ごろつきだって滅多にしやしねえんだ。がきがやることかよ」
泣き言である。今更言ったところでどうなるというのか。いや――そもそもお七が何をしようが、吉三郎には最早なんの関わりもないことである。馬鹿な冗談を本気にして、それで火に巻かれたところで痛くも痒くもないのだ。
俺ぁ一体何をしてるんだ。
喘いだ拍子に煙を深く吸い込んだ。気分が悪くなり、その場にへたり込む。火が今に吉三郎も食ってしまおうとじりじりと近づいてくる。お七どころか、自分の身も危ない。逃げ出そうにも、体が上手く動かなかった。煙を吸ったせいか、眩暈がして立ち上がれない。
「畜生」
吉三郎は再度悪態を吐いた。万事休すに他ならなかった。
呆気ないものだった。終いとは、これほどあっさりと訪れるものなのか。あの大火を生き延びて、結局火に巻かれて終わるのだからお笑い種である。
「お七」
ああ、後ろがやかましい。やっと火消しが到着したのか。遅ェよ、と小さく笑って、吉三郎は目を閉じた。