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第八話

 お七に限界が訪れるまで、そう長い時間はかからなかった。

「………………」

 お七は財布を握りしめ、黙り込んでいた。ほとんど襤褸のような古着を纏い、やつれた顔をしている。

「なんだよ」

 吉三郎はひどくぶっきらぼうな口調で言う。

「言いたいことがあるなら言いやがれ。黙ってるんじゃあわからねえだろうが」

「出せないんです」

 ぽつり、と小さな声でお七。

「もう、出せる御銭はありません」

「はっ、」

 すっからかんの財布を見て、吉三郎は鼻で笑った。

「そうかい、そりゃあ大変だ。で、なんだ。それがどうしたってんだよ、ええ」

「もう、あなたに御銭は渡せません」

「そうだろうなあ」

「文を」

 お七は真っ青な顔で、声を震わせながら懇願した。

「あの方に、文を」

「おいおい、嬢ちゃんよう」

 ずい、と吉三郎がお七に一歩近づいた。その顔は酷く険しく、お七はびくりと震えた。

「忘れたのかい。俺ぁ、手前から銭を貰う代わりに手前らの文の仲立ちをやってたんだ。銭はないから払えない、だからただ働きをしてくれってか。冗談もほどほどにしやがれよ」

「で、でも」

 がくがく震えながら首を振り、お七はなおも続ける。

「わ、わたし、あの方がいないと駄目なんです。あの方がいなくなったら生きていけない。耐えられませんッ」

「それがどうしたッ」

 吉三郎の恫喝。

「手前の事情なんか知ったことかよ。良いから銭を出せッ。俺ぁよう、手前が銭を出すから今までこんな七面倒なことをしてやってたんだぞ。銭だ、銭なんだよ。はなから手前がどうなろうとどうだっていいんだ。手前なんざただの金蔓だッ」

 金蔓――吉三郎にとってのお七とは、最初からその程度の存在でしかないのだ。

 大店の娘だか町一番の美少女だか知らないが、お高く留まって人を見下したわがまま娘。利口ぶってはいるが世間知らずで、甘い言葉と都合の良い話を疑いもせず信じ込む。生まれてこの方食うに困ったことも人に騙されてどん底に堕ちたこともない幸せ者なのだ。葱を背負った鴨とはこのことである。吉三郎のような悪人にとっては格好の獲物であった。

 だから、搾れるだけ搾り取って、最早何も出せなくなった獲物かもになど興味はない。搾りかすなど不要だ。さっさと切り捨て、別の収入源を探すのみである。

 同情して仏心を出したりすることなどありえず、よもや愚かで盲目で干支も一回り違うような小娘に慕情を抱くなど――万が一にもあるわけがないのだ。

「も、もう無理なんです。一文もありません。無い袖は振れないんですッ」

「言ってることがしっちゃかめっちゃかだよ。金がねえなら諦めろ。諦めたくねえなら金を出せ。どっちかしかねえんだよ。どうするんだ。どうしたいんだよッ」

 がん、と吉三郎が壁を蹴飛ばした。ひと気のない裏路地、いくら騒いでも寄ってくるのは腹を空かした犬猫くらいのものである。

「そうだ、手前の店があるじゃねえか。大店なら金なら腐る程あるんだろうよ。親父に頼むなり、なんだったら少しくらい持ち出してもバレやしねえだろ」

「そんなッ、そんなこと――」

「なんだったらよう、手前みてえな小娘が《《稼ぐ》》方法なんていくらでもあるだろうが。ええ、まだまだ《《売り物》》ならたんと持ってるじゃねえかよ」

「――――――」

 絶句。それは、お七にとってはそれこそ世間話や作り物の世界にしか出てこないような《《こと》》であった。

「……い、いや。わたし、そんな……そんなの……っ」

「できねえのかよ」

 震えることしかできないお七に、吉三郎は静かに言った。

「手前にとっての“佐兵衛さま”は、その程度の男だったんだな」

 これ見よがしに大きな溜め息をつく吉三郎に、お七は螺鈿の瞳から大粒の雫を零した。

「金がねえ、稼ぐこともできねえと来たら、もうなすすべなしだな。俺ぁ暇じゃねえ。愛しの佐兵衛さまに会いたきゃあ手前でなんとかするんだな。寺に行けば顔だけは見れるんだからよう」

「………………」

「大火の縁で会えたんだったか。だったらもう一度火事が起きりゃあ、きっとまた会えるんだろうぜ。もう春前じゃあ火事もそうそう起こるめえがな」

 と、そこで吉三郎はいかにも名案を思い付いたという風に言った。

「そうだ、いっそのこと手前が火付けでもすりゃあいい。好いた男に会いたいんだ、そのくらいはできるんじゃあねえか」

「えっ……」

 吉三郎の下卑た笑顔を、お七は食い入るように見つめた。

「何、誰が付けたかなんか早々ばれやしねえよ。それこそ仏様でもなけりゃあなあ。物盗りでも人殺しでもねえ、惚れた男に会いたいだけの悪事なら、仏様も一度くらいは見逃してくれるだろうよ」

 木造の家屋が密集している江戸の町は火事とは切っても切れない縁にある。

 天和の大火以前、そして以降も江戸では頻繁に大火災が起きている。江戸の町には職を失った貧乏人、困窮した無宿人も数多くいた。やけっぱちで恨みのある奉公先に火を付けたり、火事に乗じて盗みを働くような者もいて、火種には事欠かなかったのである。特に冬は北からの強いからっ風により、密集した家々は恐ろしい程の勢いで火が燃え移っていき、死傷者の数も甚大となった。

 だからこそ、火付けは大罪として、咎人は市中引き回しの末火あぶりにされるのが常であった。咎人に家族があるならばそれらも奴婢に落とされたり、島流しにされるのである。お七のような若い娘であっても、それらを免れることはできないだろう。

 できるわけがない――と思ったのだ。どんなに切羽詰まったとて、世間知らずの小娘がそんなことするわけがない。震えあがって怖気付いて、恋心もろとも諦めるの関の山であろうと。

 だから、これで終わりだ。お七と“佐兵衛”の仲も、吉三郎の仲立ちも。

「さあどうする。どうするんだ、嬢ちゃんよう」

 じり、とお七にさらに近づく。お七は呆然と立ち尽くし、微動だにしない。――と、そこに路地を抜けた先からぱたぱたと騒がしい足音が聞こえてきた。

「お七ちゃん、こんなところにいたのねッ」

「お七やっ」

 ゆきとお峰は姿を消したお七を探しに町中を駆けずり回っていたのだ。立ち尽くすお七に駆け寄り、仁王立ちの吉三郎をきっと睨みつける。

「あんただったのね、お七ちゃんを誑かしてたのはッ。お七ちゃん、あんた騙されてるのよ。あいつはとんでもない奴よッ」

「あんたッ、あたしの娘に何してくれたんだい。このろくでなし、人間の屑だよッ」

 口々に吉三郎を罵るお峰達に、何やら揉め事だと聞きつけてきたらしい野次馬が集まってくる。これ以上騒ぎになると同心が来るかもしれない。吉三郎は舌打ちをして踵を返した。

「けッ。知るかよ、手前ら全員大間抜けだぜ」

「待ちなさいッ」

 捨て台詞を吐いて逃げ出す吉三郎をゆきは歯がゆい思いで見ながら、すっかり放心しているお七の手を取った。お七は虚ろな目で空を眺めながら、小さな声で呟くだけだった。

「……佐兵衛さま」




 八兵衛一家はてんやわんやの状態であった。

 八兵衛もお峰もまさか自分の娘がどこの馬の骨とも知れぬごろつきに騙され、銭を奪われているとは思いもよらなかったのである。もっと注意しておけば、よく見てやっていればと後悔しても時すでに遅し。お七は身の回りのものをほとんど質に入れ、明日の着替えにすら困る程になっていた。

「お七、お前は騙されていたんだよ」

「あいつはろくでなしなんだ。何を言われたか知らないが、全部嘘っぱちなんだよ」

 ふたりは口々にお七に説いたが、当の娘はすっかり魂を奪われたように茫然としている。懸命に話しかけても、耳に入っているかも怪しい。娘の哀れな姿に両親はますます吉三郎への怒りを滾らせた。

「あいつめ、あの疫病神。情けをかけてもろくなことをしない。今度店に来たらただじゃおかねえぞッ」

「まさかあの若衆を騙ってお七を誑かすなんて。ああ、まったく、あたしは一体どうしたらいいんだい」

 お峰はにっくき吉三郎からの文を燃やしてやろうとお七が隠し持っていた文を取り上げた。すると、人形のように虚ろになっていたお七は突然わあっと泣き出した。

「だめ、だめ。取らないで。それは佐兵衛さまのなの。持っていかないでッ」

「お七や……」

 文の山に縋り付き、わあわあ泣き崩れるお七にお峰はなんとも言えぬ心持ちであった。まさかあのお七が男にこんなに入れあげるとは。あれは吉三郎の嘘だと何度言っても聞き入れないのである。しかし、これ以上お七から“佐兵衛”を奪えばそれこそどうなることかわかったものではない。切なさに心を病み、余計におかしなことをするやもしれぬ。お峰は文を取り上げない代わりに、お七をしばらく部屋の中から出さないようにした。

「少し、ゆっくり休むが良いよ。お前はおかしくなっちまってるんだ。落ち着けば、ちゃんと本当のことがわかるようになるだろうさ」

 ゆきも大変お七を心配した。もっと早くに自分が気づいていれば、と友人として責任を感じずにはいられなかったのである。自分の店の手伝いもそこそこに、しょっちゅう八兵衛の店を訪れてはお七を見舞った。

「犬に噛まれたようなものだわ。お七ちゃんにはもっと良い男が似合うのよ。素敵なご縁があるはずなんだからッ」

「でも、わたしはあの方が……」

 励ましても同情しても、一向にお七が元気になる様子はない。そのうち、お峰や八兵衛から「あんまり話しかけても藪蛇だから」と止められ、お七を訊ねるのも憚られるようになってしまった。

「お七ちゃん……」

 変な気を起こさないと良いのだけれど、とゆきは店の外からお七を心配することしかできなかった。


 まるで暗闇の中に放り出されたような心地だった。

 お七にとって佐兵衛からの文は最早何よりも代えがたいものとなっていた。毎朝毎夜、佐兵衛の文を読むことだけが楽しみで、佐兵衛に出会う以前は果たしてどんな風に暮らしていたのかまるで思い出せない。自分のものを売り払うのもまるで苦ではなかった。佐兵衛のためならばなんだってできたはずなのだ。

(佐兵衛さま)

 お天道様が消えたような世界でお七はひたすら愛しい人を想った。今頃あの方はどうしているのだろう。ずっと、ずっと続けようと誓ったのに、わたしのせいで。怒っているだろうか。悲しんで、傷ついているのだとしたら、そう考えるだけで胸が張り裂けそうだ。

 佐兵衛は繊細で純粋な人だった。文から知れる人柄は、見た目以上に涼やかで優しく、それゆえ人一倍苦悩を抱えてもいた。武家や衆道のことはわからない。ただの小娘には話を聞く以上のことはできない。ただ、「あなたに読んでもらえて嬉しい」と佐兵衛がしたためるたび、お七は切ない気もちになった。

(佐兵衛さま)

 吉三郎から言われた数々の暴言を思い出す。いや――結局自分はそこまではできなかったのだ。どんなに佐兵衛を好いていると言っても、そのために自分の体を売るようなことや、親に逆らって非行に走るような真似はできなかった。恐ろしかったのだ。佐兵衛を想う気持ちより、我が身の可愛さが上回っていたと気づいたお七は、だからそんな自分の卑怯さに呆れ、絶望していた。

(佐兵衛さま、佐兵衛さま)

 ああ――口惜しい。もどかしい。愚かしい。どうして、どうして、どうして自分は。佐兵衛を好きだなんて嘘だったのか。いや、いや。そんなことはない。そんなことはないのだ。ただ、でも、結局。――自分にできることはもう何もないのだ。


 ――好いた男に会いたいんだ、そのくらいはできるんじゃあねえか。


 吉三郎の言葉がこだまする。何ができるというのだろう。わたしは、わたしには何も――


 ――もう一度火事が起きりゃあ、きっとまた会えるんだろうぜ。


 顔を上げると、行灯の明かりが目に入った。いつのまにか母が点けてくれたらしい。木枠の中に入れられた油皿で灯明が煌々と光を放っている。真っ暗闇だったお七の世界はそこだけほのかに明るかった。

(まぶしい)

 お七は行灯に手を伸ばしかけ、ふと手を止めた。ああ、間違いなく火が燃えている。吉三郎の声が延々と頭から離れない。

(佐兵衛さま)


 ――いっそのこと、手前が。


(佐兵衛さま。佐兵衛さま)


 ――惚れた男に会いたいだけの悪事なら。


(佐兵衛さま佐兵衛さま佐兵衛さま)


 もう一度、火事が起きれば。


(佐兵衛さま佐兵衛さま佐兵衛さま佐兵衛さま)


 指先で行灯を押すと、かたん――といともたやすく横倒しになった。

 たったそれだけで充分であった。

 皿から漏れた油は床に広がっていき、それを追うかのように火が瞬く間に走っていく。暗がりに染まっていたお七の部屋はまばゆいほのおで包まれた。ごうごう、ごうごうと、行灯の木枠を、畳を、布団を掻巻を、障子を壁を天井を、無尽蔵に広がっていく――。


 ――佐兵衛さま。


 ああ、いけない。こんな恰好じゃ。お七はふと自分が襦袢しか着ていないことに気が付いた。替えの着物はどこにあったか、と探す。ほとんど全部売り払ったはずであったが、一着だけ残していたのを思い出したのだ。

 行李の中に押し込んでいた赤い振袖を身に纏い、お七は部屋から飛び出した。火はあっという間に部屋を飲み込み、店を、ひいては江戸の町をも腹に収めんと暴れ出した。


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