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第六話

「このところ、お七ちゃんの姿が見えないねえ」

「この間、紙屋の前に居るところを見たよ」

「いやいや、まだ体の調子が良くないって聞いたぜ。店の手伝いにも滅多に顔を出してないって言うじゃねえか」

「そうだったかねえ。でも、もう風邪は治ったって話じゃあ……」

 町人達が噂している後ろを、若い娘がぱたぱたと走っていく。彼女こそ件のお七であるとは誰も気づいていなかった。

 手にはやっと墨が乾いたばかりの文。平素ならばしっかりと結い上げているみどりの黒髪は、いいかげんに縛っているせいで形が崩れている。顔も白粉も紅も塗らずすっぴんである。よもやあのお七がこの有り様か、ともしも気づいた者が居たら目を疑うような姿だった。

「吉三郎さんっ」

「うおっ」

 目当ての吉三郎を見つけたお七は目を輝かせて近づいた。銭を弄びながら賭場に向かっていた吉三郎は、思わぬ遭遇に面食らって銭を落としかけた。

「なんだよ、お七の嬢ちゃんか。一体どうした、約束は明日のはずだぜ」

「あっ、すみません。文が書けたんですけど、明日まで待ちきれなくって……」

 それで居ても立っても居られず、吉三郎を探して町を駆け回っていたのだ。そこでやっとお七は自分のあられもない姿に気づいて赤面した。

「やだ、わたしったらこんな恰好で……」

「そんなに“愛しの佐兵衛さま”に文を渡したいのか。熱心なこったなあ」

 もじもじと身だしなみを整えようとするお七に吉三郎はくつくつ笑う。まさか相手が佐兵衛ではなく吉三郎だとは夢にも思っていないだろう。

「じゃあ、そいつを預かればいいのか。だが、すぐには渡せないぜ。俺ぁこれから用があるんでな」

 博打を打ちにいくのである。

「そうですか……。では、いつお渡ししてくれますか」

「おいおい、焦りなさんなよ。文も佐兵衛も逃げ出したりはしねえぞ。佐兵衛だってよう、寺の方で習い事やら手伝いやら、毎日暇してるってわけじゃねえんだ。ちったあ落ち着けや」

「はい……」

 しゅんと落ち込むお七。まったく、恋心というものはこうも女を盲目にさせるものか。

「とにかく、これはしっかり渡しておくからよ、お嬢ちゃんは家でゆっくり待っときな。がつがつした女は男から嫌われるもんだ」

「わ、わかりました。それでは、どうぞよろしくお願いしますねっ」

 髪や顔を気にしながらぱたぱたと走っていくお七。吉三郎は受け取った文を見て苦笑いし、報酬の銭と一緒に袖の下にしまって賭場へ歩き出した。




 文でのお七はとにかく雄弁であった。

 自分はこういう生まれで、どんな食べ物をよく食べ何をするのが好きで、昨日は何があった、友人の某がこんな話をしていた、父や母が縁談の話を持ち出してきて鬱陶しい、等々、よくもまあそんなに話題を思いつけるものだ。吉三郎は呆れ半分感心半分で文に目を通す。


 ――なんだかわたしの話ばかりしているようで申し訳ありませんね。

 ――佐兵衛さまのことももっと聞かせてはくれませんか。


「知るかよ、そんなこと」

 これまで“佐兵衛”として当たり障りのない返事しか書いていなかったが、確かにまったく自分のことを語らないのは少々不自然かもしれぬ。だが吉三郎には念者に囲われた若衆の気持ちなどてんでわからない。寺での暮らしぶりもいまいちぴんとこない。

「……いや、あいつも生まれは武家だったか」

 悩んだ末、吉三郎は自分の生い立ちを仔細を少し変えて書いていくことにした。実際は佐兵衛とはまったく違うのだろうが、商人の娘には武家の暮らしなどわかるまい、と高をくくっているのである。


 ――わたしは昔から、両親との折り合いが良くありませんでした。

 ――末子なものですから、兄がいるうちは冷や飯食いにしかなれないのです。家に居場所がなく、若衆にならなかったとしても、きっと家を出されていたに違いありません。

 ――ご両親に想われているのはとても素晴らしいことなのです。わたしは、あなたが羨ましい。


「……何書いてんだ、俺ぁ」

 筆が滑った。いかにも“佐兵衛”らしく、お七が好みそうな優男として文を書いていたが、吉三郎自身の本音が入りすぎてしまった。良いおべべに良い旦那とあれこれ世話を焼いてもらっているくせに何が不満なんだ、と何かにつけては親の愚痴をこぼすお七のことが吉三郎には理解できない。


 ――煩わしく感じられるのかもしれませんが、きっとあなたのご両親はあなたのことを心から慈しんでいるのでしょう。

 ――だから、あまり邪見にしすぎぬようにしてください。


 迷ったが、このまま書き進めることにした。どうあれ自分のことであれば、嘘八百よりはすらすらと書けるものである。


 ――わたしは武士としてはあまり向いていない性質でありました。

 ――刀を提げるのも、主君に忠義を捧げるのも、どうにも性に合わなかったのです。今でも刀を見ると少し嫌な心持ちになってしまいます。

 ――恥ずかしいばかりなので、どうにも今まで書けずにいたのです。わたしのいるところでは、このような性格は男や武士としては半人前と笑われてしまうものですから。

 ――こうして書いている間にも、顔から火が出てしまいそうなのです。ああ、あなたもわたしの気質に幻滅されないといいのですが。


「…………」

 吉三郎は書き上げた文を読み返し、憮然とした顔をした。

 我ながら酷い書きぶりである。今まで調子良く書けていたのに、自分の話をするとなるとこうも女々しくなってしまうのか。情けなくなってきて、吉三郎は文を放り出して床に寝転んだ。

「俺は弱虫の佐兵衛じゃねえんだぞ。天下のごろつき、吉三郎様だ」

 だから、この文の内容も全部嘘っぱちだ――そう呟いて、吉三郎は目を閉じた。




 ――お武家のことは、わたしにはわかりません。

 ――わたしは商家の娘で、物知らずでございます。


 お七からの返事は、それまでよりも重く落ち着いたものだった。


 ――けれど、あなたさまがお武家らしくないからと言って、あなたさまが劣っているだとか、おかしいとは決して思わないのです。

 ――わたしは、ありのままのあなたさまをお慕いしています。


「そりゃあ好きなんだろうよ。佐兵衛のことが、な」

 吉三郎は複雑な心境でいた。自分のことを“佐兵衛”のこととして語り、お七にそれをどうこうと評され、どんな顔でいれば良いのかわからない。勿論、続けている限り銭を手に入れられるので、今更やめようとは思わぬのだが。

「手前はよう、なんにもわかってねえんだ。俺の金蔓なんだよ」

 ぼやきながら筆を動かす。吉三郎の心中とは裏腹に、文の中の“佐兵衛”は活き活きと語りだす。


 ――不思議な心持ちです。こんな風にあなたからの文を読み、あなたへの言葉を考えていると、今まで誰にも明かしたことのないことでも打ち明けたくなってしまうのです。

 わたしは、生まれてこの方、今日までずっと、自分の居場所というものがわからないでいました。

 生まれた家は針のむしろのようでした。父も母も兄も、使用人達すら、わたしのことを必要としてくれなかった。いても邪魔になるだけなのに、自分からは縁を断つこともどこかに逃げだすこともできない。

 今の暮らしでも、本当にここが自分の居るべき処なのか、はっきりと信じきれないのです。目が覚めたら、まったく違う場所に居るのではないか。顔馴染みに忘れられていたり、あったはずの自分の席が無くなっていたりはしまいか。ふとそんな考えが度々浮かび、恐ろしくてたまらなくなるのです。

 きっと、自分の意思で何かを決めたことがないからなのでしょう。わたしの人生は、いつも誰かの御心や何かの流れに流されるままだったのです。自分で決めてここに居るのではないから、いつかまた、流されるがままに居場所を失ってしまうのではないだろうか、と考えてしまう。

 だから――あなたからの文、あなたへの文だけは決して途絶えてほしくないと思います。

 これだけはきっと、己の意思によるものであるから。


 ――やっぱり一緒ですね、わたし達。


 お七からの書き出しはこうであった。吉三郎はなんとなく、お七の柔らかな笑顔を思い出す。


 ――わたしも、結局父や母の言いなりでしか生きていけないのです。どんなにあなたさまをお慕いしていても、両親に逆らってあなたさまのところへ行く勇気が出ないのです。

 本当はあなたさまのところへ行きたいのに。もう一度、お話がしたいのに。臆病で、今の居場所を失ってしまいそうなのが恐ろしくて、結局何もできないのです。

 それでも――あなたさまを愛しく想う心には偽りはございません。

 ああ、あなたさまの傍へ行って、寄り添うことができたら良いのに。わたしこそが、あなたさまの真実まことの居場所になれたら良いのに――


 ――いいえ、今更何を仰いましょうか。

 ――お七さん、あなたは既にわたしの居場所も同然です。


 自分が何ゆえこんなことを書いているのか、吉三郎自身わからないでいた。

 まるで、こうしてものを考えている自分と、筆を握り文をしたためる自分がまったくの別人になってしまったようだった。

 否――、それは確かに吉三郎自身の本音である。佐兵衛の名を騙り、大嘘ばかり吐いているというのに、その中に込めた心情は真のものに他ならなかった。

 しかし、読んでいるお七にとってはこれはあくまで佐兵衛のこと。狡猾で悪辣なならず者の吉三郎とはまるで関わりのないことなのである。なればこそ、誰にも言えないようなことも気兼ねなく吐き出せるのだろう。

 父であれば叱って頭ごなしに否定するようなことも。母であれば鼻で笑って耳も貸さぬようなことも。ごろつき仲間なら馬鹿にして見下されるような恥ずかしい話も。


 ――嬉しい。

 ――佐兵衛さま、わたしも同じ気持ちです。


 お七は真剣に、親身になって受け入れてくれるのだった。




「お七や、お七ったら」

 月は如月に変わり、ある日のこと。とっぷり日も暮れた八兵衛の店。夕餉の刻限になっても顔も見せない娘を心配したお峰は、近頃動きの悪くなった足腰をよいしょと動かしてお七の部屋へ向かった。

「何っ、どうしたのおっかさん」

「どうしたのってお前、夕餉だわよ。腹も空かないのかい」

 薄暗い部屋の中でびっくりして慌てている様子の娘に呆れて溜め息をつく。容態はとっくに良くなったはずなのに、どういうわけか上の空の病はまだ治らぬらしい。

「あら、そうだったわ。待ってちょうだい、今行くわ」

 文机に散らかした紙を片付けだすお七。それなら早く来るんだよ、と声を掛け、お峰は下がろうとして、ふと妙に思った。

(はて、なんだかおかしいね。お七の部屋はこんなだったかね)

 いやに部屋が片付いている、というか――物が少なくなっているように感じる。お七は元々几帳面で、部屋をみだりに散らかす娘ではなかったが、それでも年頃の娘の部屋というものはあれこれとこまごましたものが置いてあるものである。いくら大火で私物が焼けてしまったとはいえ、もっと色々とあったように思うのだが……。

(気のせいかねえ。薄暗いし、遠目の上に鳥目になってきちまったから)

 違和感に首を傾げながら、お峰はよいしょよいしょとお七の部屋を後にした。


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