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第五話

 お七さん――

 よもやあなた様と文を交わせる日が来ようとは思いませんでした。

 顔を合わせずとも、一字一句を読むだけであなたのお姿が蘇ってくるようです。

 あなたのいない円乗寺はひどく寂しいものとなってしまいました 。もう一度お会いすることを夢に見ていますが、今は坊様方の目があり、とても自由に動けそうにありません。

 どうか今しばらくは、こうして文を交わし続けることができたらと願うばかりでございます。

 佐兵衛――


 まさしくお七が想い描いていた通りの優しい細やかな文であった。お七は八度も九度も読み返し、しまいには堪らなくなって文を胸に抱きしめることしかできなくなってしまった。

「佐兵衛さま、ああ、佐兵衛さまっ。わたしは、わたしは……っ」

 逢いたい。一目顔を合わせて、もう一度あの夜のように話すことができたら。文を読むだけで切なさが蘇り、居ても立っても居られなくなってしまう。

「佐兵衛さま……わたしもずっと、あなたさまと文を交わしとうございます……」

 たとえ叶わぬ恋であるのだとしても、せめて夢を見ていられる日々が続いてほしい。一日でも長く、彼と心を通わせていられる日が。

 ささやかな望みに密かに胸を焦がしながら、お七は筆とすずりを取り出した。




 ――佐兵衛さま、ああ、佐兵衛さま。

 この文をあなたさまが読んでくださっているということがどれほど嬉しいことなのか、一体どれほどの言葉を綴れば伝わるのでしょう。

 わたしはあなたさまのことを想うだけで夜も眠れません。空に浮かぶお月さまにあなたさまのお姿を思い出して、胸が苦しくなってしまうのです。あの日からずっと、あなたさまを想わなかった夜はございません。あなたさまがいなくなってしまったら、きっとわたしは死んでしまうでしょう。

 どうか、どうかいつまでも文を交わし続けましょう――


「くくっ、初心うぶなこった。死んじまうと来たかよ」

 お七から受け取った文を鼻で笑いながら吉三郎は徳利を傾けた。小娘が書いた恋文は酒の肴にするには少し甘ったるい。

 大火の後のごたごたに乗じて住み着いた棟割長屋の一角。すっかり日も沈んだ夕闇の中、行灯と月明かりを頼りに安酒を煽る。あとは煙管があれば上々なのだが、あの時に失くして以来気にいる物がなかなか見つからない。多分、煙草の葉ではなく、あの吸い口の形を吉三郎は好んでいたのだろう。

(あれは確か、いつかの賭けの分け前の代わりに分捕ってきたんだったな)

 摩訶不思議な文様が彫り込まれた舶来品だった。いつもならばきっちり銭で出せと暴れるところだったが、その煙管が自分でも不思議になるほど気に入ったのだ。吉三郎が煙草を吸うようになったのもそれからだった。

(まあ、そのうちもっと良いのが手に入るだろ。賭場もまた開きだしたしよ。それに何より、今は()()がある)

 畳に無造作に転がした銭に目をやって、吉三郎は含み笑いをした。散らばっている銭は全てお七から巻き上げたものである。実際、笑いが止まらない気分であった。

 いくら裕福な商人の娘とは言え、百文は気軽に出せるほどの小金ではないだろう。最初はわざとふっかけて、向こうが怖気づいたら情を見せたようなふりをして適当な値に下げるつもりだったのだ。それがまさか、あっさりと頷いてしまうとは。しかも毎回毎回渋ったり値切ろうとするそぶりも見せず、きっちり百文払い続けている。お陰で吉三郎は朝夕の飯に困らぬどころか酒を煽りだす始末だ。あまりに上手く運びすぎて恐ろしいくらいだった。

(俺は飯にありつける。お七の嬢ちゃんは恋文ごっこを楽しめる。持ちつ持たれつ、どっちも得のまったく良い取引だぜ)

 濡れ手に粟とはこのことだ。酒に酔ったのもあり、吉三郎は気分良く大笑いをした。

「おっと――とはいえ俺も、何もしねえって訳にはいかねえ」

 ほろ酔い吉三郎はもう一度お七の手紙を読み返すと、やっぱり鼻で笑ってから紙と筆を卓袱台に広げた。そうして、ごろつきには似合わぬほどの達筆さでさらさらと字をしたため始めた。

「拝啓、お七さん――っと」

 もしもこの場にお七その人が居合わせていたなら、驚きと落胆でその場にくずおれてしまっていただろう。

 吉三郎は、お七が佐兵衛からの文と思い込んでいた筆致でお七に宛てた文を書いていた。

「しかし、あのお嬢ちゃんはどんなことを書いたら喜んでくれるのかね。こちとらもお嬢ちゃんには夢を見続けてもらわにゃならん」

 ()()が続けば続くほど、俺ぁお嬢ちゃんからたんまり搾り取れるんだからよ――と呟きながら筆を動かす。

 お七は若く、純粋でもの知らずであった。まさか自分の恋心に付け込んでこのような詐欺を目論まれるなどまるで思いもしていなかった。まして、粗暴なごろつきが読み書きができて、美麗な若衆と見まごうような筆遣いで文を書けるだなんてまったく想像もつくわけがない。

「こんなに女をぞっこんにしちまって、佐兵衛さんよ。手前も罪作りな野郎だぜ、ええ」

 くつくつ笑いを抑えながら、吉三郎は行灯の明かりを頼りに次にお七に渡す『佐兵衛の文』を書きあげた。




 今でこそ住処も職も定まらぬごろつきの吉三郎であるが、無論生まれた時からそうだったわけではない。

 吉三郎の父は吉祥寺の門番であった。つまり、位は低いながらも武士の端くれなのである。

 しかし侍の子といえど、長子と末子でその扱いは雲泥の差である。吉三郎は三男坊、長兄次兄が無病息災である限り無用の長物として扱われる定めだった。実の母からも意に反して出来てしまった恥かきっ子と邪険にされ、吉三郎は大いに荒れた。

 街に繰り出しては喧嘩や博打、そのうちやくざ者とも付き合いだすようになり、平然と盗みや喝上げにも手を出す有り様。これには父親の堪忍袋の緒も切れて、ついに勘当されてしまったのが十六、七の時分である。それから十余年、吉三郎は一度たりとも生家の敷居を跨いだことがない。

 だが、幸か不幸か吉三郎はしっかりと武家としての教育を施されていた。読み書きに算学、剣術も一通りはできる。ごろつきとしては頭が回る吉三郎は仲間から重宝され、喧嘩もめっぽう強かったので一目置かれる存在であった。

 そんな具合に三十路近くまで生き延びてきた吉三郎だったが、その出自ゆえ侍に対しては複雑な感情を抱いていた。刀を提げて歩いている輩を見ると、厳しいことを言うばかりでちっとも吉三郎の言い分に耳を貸さなかった父親を思い出してむかむかする。武家崩れのくせに坊主だ医者だ商人だと上手くやっている連中を見れば呑気にしやがってといらいらする。逆恨みである。だからお七の想い人、なにがし佐兵衛に対しても最初から良い感情は抱いていなかった。

(若衆のくせに他所よその娘を惚れさせてよ。随分良いご身分じゃねえのか)

 あの日、お七に取り引きを持ちかけて文を受け取った後、吉三郎は苦々しい気分で円乗寺に忍び込んだ。町一番の高嶺の花の心を奪った男とはどんなつらをしているのか。気にくわない面構えならお七よりもっとふっかけて銭を搾り上げてやろう。

 勿論、堂々とうろついていたらすぐに見咎められ追い出されてしまう。すぐには中に入らず、庭からこそこそと姿を隠しながら様子を伺う。寺だけあって剃髪の坊主がうろうろ歩き回っている。

(大事にされてる居候様なら奥にいるのかね)

 そろそろ中に忍び込んでみるかと考えながら耳をそばだてていると、だみ声で聞き捨てならない言葉が聞こえた。

「佐兵衛よ、来るが良い」

 袈裟を着た人相の悪い中年の僧侶が歩いていく。その後ろをしずしずと、若い男が項垂れながらついていく。ちらりと垣間見える横顔は思わずはっとするほど整っている。あれがくだんの某に違いない。吉三郎は人目がなくなったのを見計らい、そっと二人の後をついていった。


「佐兵衛よ、お主は精進しておるのか」


 二人は部屋の中に閉じ篭ってしまったようだった。吉三郎は油断なく周りの気配に注意しながら、戸に耳を当て盗み聞きをする。


「勿論でございます」


「まことか。この体たらくで、嘘偽りなくそう申すのか」


 びしり、と警策で叩くような音がした。禅問答でもやっているのか、と思ったが、円乗寺は天台宗である。


「では、このだらしない有り様はなんだ。先の大火で気が緩んだのではあるまいな」


「滅相もございません。私は、念者様に恥じぬよう……」


「女人と顔を合わせたそうだな」


 途端、佐兵衛の言葉が途切れた。びしり、びしりと音が響き続ける。


「お主にその気がなくとも、お主のからだは魔性そのもの。徳の低い女人が見れば心身魔羅の境地に堕ちようものぞ。なればこそ、お主は一層精進をして肉欲と縁を断たねばならぬのだ。念者殿との契りを守るためならばなおのこと」


「……わかって、おります……」


「嘘をつけいッ」


 一際鋭い音と共に佐兵衛の悲鳴が上がった。明らかに尋常でない様子にさしもの吉三郎もたじろいだ。


「であれば、どうしてお主はこうも浅ましい姿態を晒しているッ。しかと見てみよ、自らの醜態を。身をよじらせて、腰を突き出して、さながら娼妓のようではないかッッ」


「ひッ……」


「まさかお主、儂にまで情欲に誘わせようというのか。なんと卑しいことよ。まるで獣ではないか。念者殿が泣いておるぞッ」


 吉三郎は盗み聞きをやめ、部屋から少し離れてふたりが出てくるのを待った。

 しばらくして、坊主が先に出てきた。人相の悪い顔を一層歪め、満足げに笑っている。佐兵衛はさらに時間をかけて、よろよろと重い足取りで部屋を後にした。茫然自失とした様子で歩いているところを吉三郎は近づく。

「よう、色男さんよ。手前が佐兵衛か」

「っ……」

 佐兵衛はびくっと顔を上げた。酷く()()()()()のか、顔は青ざめ、怯えの色に染まっている。

「ど、どちら様ですか」

「名乗るほどのもんじゃねえ。そうだな、お七の名前を出せば通じるんじゃねえか」

 その名を聞いた途端、佐兵衛は面白い程動揺した。やましいことがあると言わんばかりである。

「お、お七さんの……」

「しかし手前、随分と派手に遊んでるみてえだな。大店の娘さんの次は年寄り坊主と来たかよ。なにがし源氏も腰抜かすぜ」

 わざと嫌らしい言い方をすると、佐兵衛はますます顔を青白くさせて首を振った。

「ち、違いますっ。誤解です、わたしは……」

「俺の勘違いかよ。だったら、あの坊さんは手前に何をしていたんだろうなあ。信心深くて徳も高い坊さんが若衆捕まえて、なあ」

「それはっ……」

「なあ、佐兵衛さんよ」

 吉三郎はずい、と佐兵衛に顔を近づけた。吉三郎の目つきの悪い人相はそれだけで人を慄かせる力がある。

「あの坊さんの言う通りだぜ。手前にその気がなかろうが、手前は人を誘っちまうんだよ。それで貞操を守って禁欲しようだなんてちゃんちゃらおかしいぜ。手前がよ、

人をおかしくさせてるんだろうが」

「…………ッ」

「偉いお武家を虜にしてよ、好い人が居ない時には若い娘を誑かして、しまいにゃ坊さんにまで尻振って媚びやがって。手前はよ、生まれついての色狂いだよ。ええ、この淫乱野郎が」

 何ゆえここまで佐兵衛を責め立てているのか、吉三郎は自分でもわからなかった。ただ、目の前の男が腹立たしくてならない。佐兵衛が怯え、縮こまるほど吉三郎の言葉は激しくなっていった。

「お七はよ、今度嫁に行くんだ」

「えっ――」

「当然だ。大店の娘と来たら、由緒の正しい旦那に嫁ぐのが筋ってもんだろ。それが、手前みたいな得体の知れねえ野郎と繋がってると知れたらどうなる。縁談はご破算、お七は誰にも貰われず晴れていかず後家だ。わかるか。手前のせいでお七が不幸になるんだよ」

 佐兵衛は目を見開き、しばし息を忘れていた。やがてがたがたと震え出し、ひゅうひゅうと喉笛を鳴らし始めた。

「そ、んな。わ、わたし、は……」

「わかってるよ。手前にその気はねえんだろ。だがな、どうあれそうなっちまってるんだよ。だったらどうすりゃいいのかわかるだろ。手前がお七を不幸にしたくないってんならよう」

 最早お七の文を渡すつもりなど微塵もなかった。どうせこの男には隠れて文を交わすような度胸もあるまい。だったらいっそのことお七のことはすっぱり諦めさせて、二度と彼女に近づかぬようにすれば良い。懐に文を隠したまま佐兵衛を睨みつける吉三郎は残酷な企みを練り始めていた。

「あ、あ……」

「お、おい佐兵衛ッ。何してるんだ、そこのそいつはッ」

 庭の方から声がした。何か包みを抱えている若い坊主が佐兵衛と吉三郎のただならぬ様子に驚いている。見つかってしまったか。吉三郎は素早く庭に降り、門に向かって駆け出した。

「どこに行くんだッ。佐兵衛、大丈夫かっ」

「仁久さん……」

 どさっと倒れ込む音。吉三郎は振り向きもせず走り、誰にも捕らえられることなく円乗寺から逃げおおせた。

 佐兵衛をやりこめたというのに、吉三郎の胸は苦々しいもので詰まっていた。とにかく、すべてが気に食わないのだ。佐兵衛のことも、あんな男に惚れているお七のことも。元より抱いていた反感がさらに強まり、膨らんだ悪意は吉三郎を更なる悪事へと駆り立てたのだった。

 ――けっ。何が恋文だよ、馬鹿馬鹿しい。そんなに現実が見たくねえなら、思う存分夢を見せてやろうじゃねえかよ。

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