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第四話

「どうした、佐兵衛。そんな薄着だと風邪引いちまうぜ」

 檀家達が次々家へと帰っていき、円乗寺も静けさを取り戻してきた。睦月の風が枝を揺らして庭へ落とした枯葉を掃く仁久は、縁側で立ち尽くしている佐兵衛の姿に気がついた。

「ああ……いえ、どうにも体が火照ってしまいまして」

 幼さを残した面立ちに憂い気な眼差し。男色趣味のない仁久ですら思わず見入ってしまう美しい顔だ。若衆として拾われていなければ歌舞伎の女形役者になっていたに違いない。

「おや、そりゃいけねえや。熱があるんじゃねえのか」

「部屋に篭っていたせいだと思います。少し、風に当たっていれば」

 佐兵衛は着流し姿である。白粉を塗っているわけでもないのに肌が白いので、傍目からは既に冷え切っているように見える。

「だったら、こっちに来てちょいと手伝ってくれよ。庭は体が冷えるぜえ」

「承知しました」

 からかっただけのつもりが大真面目な顔で庭へ降りてこようとする佐兵衛に仁久は泡を食う。

「おいおい、よしてくれよお。お前さんが膝でも擦りむいたら俺ぁ和尚様に吊るし上げられちまう」

「そうしたらきっと、もう少し背が伸びますよ。あなたの男前が上がります」

「このやろうッ」

 竹箒を振り上げると佐兵衛がくすくす笑った。仁久も可笑しくなってしまい、つられて笑う。

 このところ、佐兵衛の様子がどことなく妙だった。元々騒いだり、溌溂はつらつと動き回るような性格ではなかったが、ここのところはめっきり口数も減って憔悴しているような様子だった。目を伏せては溜息し、顔を上げたかと思うと誰かを探しているかのように目を泳がせる。尋常な様子ではなかった。

 佐兵衛の念者ねんじゃの武家に世話を任されている円乗寺の坊主達は気が気ではない。僧侶や居候の者達が代わる代わる腹でも痛むか、念者が恋しいかと落胆の由を訊ねるが、佐兵衛は頑として訳を語ろうとはしなかった。素直で聞き分けの良い彼らしからぬ強情さである。

 しかしただひとり、仁久だけは佐兵衛の憂鬱に心当たりがあったのだ。

 ――お前さんの気病みは、お七ちゃんって子のせいなのかい。

 喉元まで出かかった言葉は、佐兵衛の寂し気な横顔を前に消えてしまった。真実そうだとして、それがなんだというのか。

 衆道は武士道に通ずるのだと聞いている。武士道のなんたるかを学ぶ前に家を出された仁久には武士道も男色も理解が及ばないが、念者と若衆が主従としての忠義、親兄弟のような仁義によって結ばれているのなら、一日二日の心変わりで解消できるわけがない、とは考えがつく。事実、若衆となってから数年間、佐兵衛は念者に対して情人だけではなく忠実な従者、礼節を持った弟分として仕えてきたのである。いくら生臭の仁久でも、人道としてやってはならぬことはわかっているつもりだった。

 しかし、同時に思うのだ。理屈や規律で想いの丈を抑えきれようものか。佐兵衛が恋をしているのなら、念者への忠義も揺らぎかけるほどの情熱の火がついてしまったのなら、それもひとつの真実まことであろう、と。たとえ人道として誤っているのだとしても、佐兵衛が抱いた想いを否定し、封じ込めなければならないのはあまりに哀れである。

 そも、佐兵衛とて好きで若衆になったかは怪しい。同じ武家とはいえ位が上では逆らえぬのだ。やむにやまれず若衆になって、自分自身の心すらままならぬなんて酷ではないか。

 ――けどなあ。

 佐兵衛の横顔をもう一度見た。寂し気で切なく、見ているこちらの胸まで締め付けられる。そんな顔をしてまでもなお、佐兵衛は自分の心を諦め、念者への忠を通そうとしている。ならば、その意思こそ通してやるべきなのだろう。今はつらい葛藤も、そのうち笑い話に変わるはずだ。ならば自分は、せめてその時まで佐兵衛を支えてやらなければ。

 それにしても、こんな不良坊主がなんでこんな真面目なことをらしくもなく考え込んでいるのだ、と仁久は自分で自分を笑った。

「まったく、此の世にゃままならんことが多いよなあ」

 仁久の呟きに佐兵衛は怪訝な顔をした。訊ね返そうと口を開いた瞬間、佐兵衛の腹がぐう、と鳴る。

「あっ……」

「ははは、そういや俺も腹がぺこぺこだ」

 恥ずかしげに腹を抑える佐兵衛に仁久は竹箒を放り出して言う。

「よし、ちょっくら抜け出して団子でも食べに行こうぜ」

「ええっ。叱られてしまいますよ」

「すぐに戻りゃあばれやしないさ。ほら」

 佐兵衛を連れ出そうと手招きするが、廊下の奥から出てきた人影に手を引っ込めざるをえなくなった。

「佐兵衛、探したぞ」

「げっ……」

 姿を現したのは浅黒い肌の中年、指導役の僧であった。仁久は彼の僧侶のことを入山した当初から苦手としていた。小僧達をねめつける眼差しがまるで蟇蛙ひきがえるに取り憑かれているようだ。あれはきっととんでもない破戒坊主だ、きっと裏では遊郭や茶屋に通って淫猥三昧に違いないぞ、と修行仲間と言いあったものだ。

「……すみません。少し、風に当たろうと思いまして」

 佐兵衛は途端に身を固くして頭を下げる。何を隠そう、佐兵衛の面倒を見ているのもあの蟇蛙坊主なのである。

「ふむ。気晴らしは良いが、程々にしておくことだ。修学の刻限である。参れ」

 坊主は佐兵衛をじっとりと見下ろすと、踵を返して去っていく。姿が見えなくなったのを見計らって佐兵衛は頭を上げる。唇を噛み、どこか苦しそうな顔であった。

「……そういうことですから。今日はこれで失礼します」

「お、おい」

 引き留める間もなく、佐兵衛はすたすたと行ってしまった。仁久はなんだか面白くなくなって、自分で掃き集めた枯葉の山を蹴った。

「あーあ。まったく、空きっ腹で修業したってつらいだけだぞ」

 こうなったらあいつの分まで買ってきてやるか、と仁久は庭掃除を投げ出し町へ出かけた。




「お七ちゃん、もう体は大丈夫なの?」

 お七の容態が快復したと聞いて駆けつけてきたものの、ゆきの胸にはまだまだ不安は残っていた。お七の落ち込みの理由は風邪ではなく、きっと佐兵衛とかいう男のせいに違いないのだ。しかしお七は少しやつれながらも晴れやかな笑顔を見せた。

「ええ、平気よ。ごめんなさい、心配かけちゃって」

 そう言って眉を下げながら笑うお七はいつも通りであるように見える。

「本当なのッ。無理していないわよねっ」

「うん」

 お七は懐をおさえてはにこにこと微笑む。何か良いことがあったようだ。

「ね、ゆきちゃん。久しぶりに一緒に出かけましょ。もう町並みも元通りになってきたわ」

「そうね……」

 あの大火から気づけば二十日も過ぎた。お七やゆきの家を始めとした江戸の町の店はほとんど再建されている。災難に見舞われても立ち直りが早いのが江戸っ子の気質なのである。

 ゆきも昨日までは店の手伝いに明け暮れていたが、開店の準備が整ったのと以前からお七を心配する自分の娘に同情した両親が久々の暇を許したのである。年越しそばも餅もろくに食べさせられなかったから、といつもより多く小遣いも渡してもらえた。

「それにね、買いたいものがあるのよ。紙と墨を切らしちゃって」

「へえ、店のお使い……じゃないわよね。何か習い事でも始めたの?」

 ゆきの問いに、お七は悪戯っぽく笑って「ひみつ」と答えた。

「もう、なんなの。教えてくれたっていいじゃない」

「もう少しだけ秘密にさせて。今度教えるから」

「しょうがないわね……」

 隠し事なんてお七らしくはない。けれど、お七の性根からして悪いことではないだろうと思った。

「絶対よ。じゃあ、今日は思いっきり遊びましょうッ」

「うんっ」

 ――きっと、佐兵衛って奴のことは吹っ切れたか、そんなこと忘れるくらい良いことがあったに違いないわ。

 お七の明るい笑顔にそう信じ、ゆきはお七を町へ連れ出した。




「出かけてたのかい」

 お七が外出から帰ってくると、店の裏口に待ち構えていたように男が立っていた。薄汚れた着流しを着た、ろくに手入れもせず伸ばし放題の無精髭を生やす見るからに不逞なごろつきである。その姿を認めたお七は喜色に顔を綻ばせた。

「吉三郎さんっ。もうお返事を貰えたんですか」

「落ち着けよ。騒いだら他人ひとに見られちまうぜ」

 慌てて口をおさえる。そんなお七に吉三郎はくくっと笑った。

「ああ、間違いねえよ。ただその前に、だ」

「そうでした。ええと……」

 右手をを差し出してくる吉三郎を前に懐を探る。吉三郎が要求しているのは、勿論金子である。

 ――事の始まりは数日前、吉三郎に全ての事情を打ち明けた時のことだ。

「それで、お嬢ちゃんはどうしてえんだ。そのなにがし殿に文を渡せりゃいいのか」

「それは……」

 吉三郎の問いにお七は俯いた。渡したところでどうにかなるとは思っていない。抑えきれなくなった想いを文にしてしたためたはいいが、きっとまだまだ想いは募る一方であろう。元より叶わぬ恋ならば、これ以上の手出しは無用なのである。

「渡さない方が良いのはわかっています。きっとあの人にも迷惑が……」

「じゃあ、諦めるのか。愛しい人のことは忘れて、親父さんが見繕った旦那様についてく道を選ぶってのか、お前さん」

「…………」

 勿論、それは望むところではない。とはいえ、いつか覚悟しなければならぬことではあった。

「なあ、お嬢ちゃんよ」

 沈黙したお七に、吉三郎はいやに愛想の良い笑顔を浮かべた。

「俺ぁひょっとすると、お前さんに協力できるかもしれねえぜ」

「どういう、意味ですか」

 怪訝な顔になるお七に吉三郎は指を振りながら語る。

「その某もお前さんのことを憎からず思ってるんだろ。文を貰って喜ばねえわけがねえ。怖いのは要するに、坊主やお前の親にことがばれちまわないか、ってことなんだ。当然、お前さんが直に会いに行けばすぐにばれちまうだろうが……間に誰かが入っていればどうかな。例えば俺が某に会ったところで、お嬢ちゃんが文を書いたとはそうそう思うめえ」

「それって……」

「つまりよ、俺は仲介役だ。お前さんが書いた文を某に渡す。某がその返事を書いたら、俺が取ってきてお前さんに渡す。そうすりゃあ坊主もお前の親父さんも、まさかお前さんと若衆の某が繋がってるなんてわかるめえよ」

 吉三郎の提案は願ってもないものだった。お七は思わず期待に目を輝かせた。

「じゃあ……っ」

「待て待て、話はまだ終わっちゃいねえ」

 身を乗り出したお七に吉三郎は指で銭を表す形を作った。

「俺だって()()でこんなことする道理はねえ。俺みてえなごろつきが寺でうろついてたらそれだけで怪しまれちまう。そもそも俺も暇じゃねえんだ。明日の飯にも困ってる時に他人に親切する余裕は本当はねえ」

「文を受け渡してくれる代わりに、御銭おあしを渡せば良いのですね」

「そういうことだ。どうだ、お嬢ちゃんよ」

 吉三郎の意地悪そうな顔を見ても、お七の決断は変わらなかった。乙女の恋心の前には銭などまるで枷にもならぬのだ。

 かくして、お七は佐兵衛への文を吉三郎に渡すごとに百文、佐兵衛からの文を受け取るごとに百文を払う約定を取り決めた。

 ――そのため、お七は今日も吉三郎にこうして銭を払うのである。

「はい、これで百文です」

「確かに」

 紐で綴られた銭の枚数を数え、しかと確認した吉三郎はそれを懐にしまうと袖の下から文を取り出した。お七はほとんど飛びつくようにそれを受け取った。

「佐兵衛さまっ。嬉しい、こんなに早くお返事を頂けるなんてっ」

「良かったなあお嬢ちゃん」

 吉三郎はくつくつ笑いながらお七に背を向けた。

「明後日にまた来るぜ。出したい文があるのなら、その時渡してくれや」

「はい、はいっ。必ずっ」

 お七はほとんど上の空で相槌を打ち、受け取った文に頬をすり寄せた。

 ――佐兵衛さま。ああ、佐兵衛さま。こんなのって夢みたいだわ。吉三郎さんはきっと、仏さまの使いなのね。

 お七は急ぎ足で自分の部屋へ戻ると、佐兵衛からの手紙をさっそく読み始めるのだった。


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