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第三話

「ちょっと、そこのあんたッ」

「へぇっ」

 ここのところの円乗寺の僧侶の職務といえば避難してきた檀家達の世話であったが、もちろん僧侶達自身の家事炊事も疎かにはできない。

 若い僧侶が大あくびをしながら庭を掃いていると、突然そこに食ってかかる声がした。目を白黒させながら見ると、若い娘が腰に手を当て不機嫌そうに僧侶に指を突きつけていた。

「な、なんです。どうしたんですか、お嬢さん」

「あんた、佐兵衛って人知ってる」

 町娘――ゆきは神妙な顔つきになって喋りだした。

「あたしの友達がね、お七って言うんだけど、あッ、あたしの名前はゆき。それでね、お七ちゃんの様子が最近おかしいのよ、何してても上の空で、ときどき溜息するし、たまぁに切ない顔して泣いたりするし、それで呟くのよ。『佐兵衛さま、ああ佐兵衛さま』って。絶対変よ。きっとその佐兵衛って人に何かされたのよ。だからあたしその佐兵衛って人を――」

「ちょ、ちょっと、落ち着きなってッ」

 早口言葉のように喋りだすゆきに僧侶は慌てて押し留める。若い娘の喋り好きと言ったら、まるで華厳の滝の勢いのようである。

「ええと、その、なんだ。於ゆきちゃん」

「ゆきでいいわッ」

「ゆきちゃんは、その友達のお七ちゃんって子のために佐兵衛を探してるのかい」

 すっかりですますをつけ忘れている僧侶に「知ってるのッ」とゆき。

「ああ。あ、俺は仁久じんきゅうっていうんだ。本当は仁右衛門って名前だったんだが、坊主になるときに名前を変えさせられたのさ」

「そんなことはどうだっていいわ。佐兵衛よ佐兵衛ッ」

「まあまあ、最後まで聞いてくれよ」

 仁久は握っていた竹箒をさながら講談師の扇子のように振りながら言った。どうやらこの坊主も相当に喋り好きであるらしい。

「俺は元々貧乏旗本の子でな。後が継げれば良かったんだが、生憎次男坊で生まれつきの穀潰しってわけだ。で、『家でぐうたらするくらいなら坊主にでもなれ』って、十つの時分に寺に入れられたのよ」

「へえ、お武家も色々大変なのね」

「おう。で、俺みたいな次男三男ってのは結構いるんだよ。俺みたいに坊主にさせられたり、もっと偉いお侍に若衆として貰われたりな」

「若衆……」

 ゆきが怪訝な顔になる。

「なんだいお嬢ちゃん、若衆を知らないのか」

「し、知らないんじゃないわよ。ただ、ちょっと、聞いたことない言葉だから」

 それを知らないというのである。

「ああ、若衆ってのは、なんだ。衆道ってわかるか。侍とか坊主が、男同士でその、恋仲になって夫婦めおとがやるようなことしたりするわけだ」

 仁久の言葉にその有様を想像したのか、ゆきの顔に赤みが指す。その様子に仁久は慌てて弁明した。どうも娘と話すときの作法はよくわからない。何しろ寺に預けられてから数年、まともにおなごと話す機会など滅多になかったのである。

「お、俺はそんなことしてねえぞ。ただ、やる奴はどうしてもいるんだよ。お江戸には女が少ないし、花街に通うのは大変だ。そうすると、この際女じゃなくても良いや、若いおのこなら具合も変わらん、なんて考えだす奴がな。勿論、衆道がそればっかりってわけじゃないんだろうが。若衆ってのは、だからそういうお偉いさんの相手役をしてる奴のことだ」

「佐兵衛が、その若衆だってわけ」

 若い娘にはあまりに刺激が強い話に、ゆきは頭をくらくらさせながら訊ねる。

「ああ。佐兵衛の家も貧乏だったんだ。それでこの先どうするってなったとき、偉いお侍に見初められたんだ。何しろ佐兵衛と言ったら男もほっとかない美少年だったからな」

「じゃあ、なんで寺なんかに居るのよ。そのお武家さまはどうしたの」

「おう、そこがこの話の肝ってわけよ」

 仁久はすっかり講談師になりきり膝を叩く。

「お侍に貰われてからしばらく、そのお方に面倒を見てもらっていた訳だが、あるときそのお方が松前に出張らなきゃならん用ができちまった。松前ってのは北も北、それも海を渡ったところにある。こりゃ遠いし危ない、可愛いお稚児を連れて行くわけにはいかん。しかし置いていったら、そこらの不届き者に何をされるかわからない。そこで、寺の坊さんならおかしなことはせんだろうって考えた」

 それ以来、佐兵衛はこの寺で雑事を手伝ったりしながらお侍の帰りを待っているんだな――と結んだ。仁久は口こそ軽いが人情はあり、佐兵衛の境遇をどうしても他人事とは思えずよく世話をしてやっているのだ。

「ふうん。なんだかややこしい身の上なのね」

「よく気が利く、優しい奴なんだけどな。きっとそのお七ちゃんって子も佐兵衛に懸想をしちまったのかもしれないな。佐兵衛ったら天女や女神もぎょっとするくらい綺麗な顔をしているから」

「お七ちゃんだって美人なのよッ。江戸中の男が釘付けで、あの在原業平様がおわしたら絶対求婚されるに違いないんだからッ」

「へえ、そりゃあ見てみたいなあ。あ、もしかしてあの振袖の子かな。あの子も腰が抜けるほど別嬪さんだったなあ」

 うっとりとした顔で先日のことを思い出す仁久。頭を丸めてはいるが、さっぱり煩悩の抜けない生臭坊主のようである。

 しかし、とても困ったことになった――ゆきは思い悩む。

 あの様子を見るに、お七は本当にその佐兵衛という男に惚れてしまったのだ。だが、佐兵衛にはどうも恋人がいるらしい。それにお七の両親は若衆との恋路なんて許してはくれないだろう。せっかくの親友の初恋、助けてやりたいのはやまやまだが、一介の町娘には武家や商人を説き伏せることや、はたまたふたりを駆け落ちさせる準備ができるほどの力はない。

(可哀想なお七ちゃん。ああ、なんとかしてあげられないのかしら)

 切なげに溜息をつくお七の顔を思い出し、ゆきもまた、深い深い溜息をついた。




 江戸の町は火事が多いが、その分大工の仕事も早い。

 大火から七日程経ち、焼けた八兵衛の店もすっかり再建され、八兵衛一家は円乗寺を引き払うことになった。他の檀家達も少しずつ新しく建った我が家へと戻っていく。

 しかし一人娘のお七は相変わらず上の空、恋の熱は一向に下がらぬ様子だった。八兵衛夫妻はきっと寺で悪い風邪でも貰って来たのだろうと考えて、しばらく店には出さず家の中で休んでいるように言いつけた。

 無論、恋患いが早々治るはずもない。円乗寺から離れ、愛しの佐兵衛を垣間見る機会すら失ってしまったお七はますます塞ぎ込むようになり、寝ても覚めても佐兵衛のことしか考えられないような有り様になっていたのだった。

 ところで、八兵衛の店には以前から厄介なごろつきが出入りしていた。金が欲しいから仕事をくれ、と口では殊勝なことを言うのだが、金子きんすや商品をちょろまかしたり、丁稚や女中にちょっかいをかけて泣かせたりする。追い払っても脅しても、ほとぼりが冷めた頃にまたやってきては同じことを繰り返す。そしてあの大火をどこでどうやり過ごしたのか、再建した店にまた姿を現すようになっていた。

 ごろつきの名は吉三郎。賭博や強請り集り、時にはスリなど、一通りの悪事に手を染めている根っからのならず者である。

 このところの吉三郎の目下の悩みは金策であった。

 十六、七の頃に勘当され早十余年。頼れる親類もいない彼は災禍に見舞われなかった宿を転々としながら食いつないでいた。元々職も貯蓄もなく、博打で得たあぶく銭もすっかり使い果たして、気づけば今日の夕餉にも困るようなざまである。顔なじみに拝み倒してなんとか銭を借りても、博打狂いは後先考えず賽子を振ってすっからかんにしてしまう。こりゃいけねえ、なんとか金のアテを探さねばならん、と吉三郎は八兵衛の店の近辺をうろついていたのだった。

(おい、ありゃあ八兵衛のところのお七じゃあねえのか)

 そんなある日、いつものように吉三郎がふらふらしていると、店の裏口から若い娘がこれまたふらふらとおぼつかぬ足取りで出て行くのを見かけた。ほっそりとして今にも折れてしまいそうな華奢なうなじに、眉間から鼻先まで流れるように整った鼻筋。黒々とした瞳を覆う長いまつ毛。あれは間違いなく八兵衛の一人娘である。

 吉三郎はお七のことが好きではなかった。以前からかったときに手ひどくやり返され、恥をかかされたことを根に持っていた。いつか懲らしめてやりたいと思っていたが、下手な手出しをすれば八兵衛が黙っていないだろう。だからお七とはあまり顔を合わせないようにしていた。

 しかし、お七の様子はどうも妙であった。人目を忍ぶようにこそこそと物陰を歩き、時折立ち止まっては胸にしっかと抱いた紙包を見つめる。逡巡しては後戻りしようとし、また心を変えたか前に進みだす。お七は流行り風邪を引いたのだと聞いていたが、どうもそれとはまた違った様子に見えた。

(逢引にでも行くのかね。お高く留まった七姫さまにも好い人ができたってわけか)

 こりゃ面白い、あとで強請りのネタにできるやもしれぬ。そう考えた吉三郎はお七の後をこっそりついて回った。お七は自分の用事にすっかり夢中で、後をつける不届き者が居るとはまったく思いもしていない。

 若い男女の逢引場所といえば雪隠やだな、はたまた麦畑と相場が決まっている。しかし、お七の行き先は明後日の方向である。恐れ、躊躇っているのか、お七の足取りは次第に重くなっていき、吉三郎はやきもきしながら尾行した。

(けっ、一体どこの何様にたらし込まれたのかね)

 やがてお七が足を止めた。物陰に身を潜めながらお七が見つめているのは寺の門――つい数日前まで一家で世話になっていた円乗寺である。そんなことなどつゆ知らぬ吉三郎は、逢引と寺の取り合わせの珍妙さに大いにいぶかしんだ。

 お七は長い逡巡の末、ようやく一歩足を踏み出した。しかし門から誰か出てくるのを見るや、大慌てで引き返して物陰に隠れ直す。ああ、焦れったくてとても見ていられない。堪え切れなくなった吉三郎はお七に近寄った。

「嬢ちゃんよう、こんなところで何してるんだ」

「きゃあっ」

 お七は飛び上がり、その拍子に握りしめていた紙包を落としてしまった。吉三郎が拾い上げてすがめると、どうやら文のようで表には『佐兵衛さまへ』と柔らかな筆使いで記されている。

「なんだ、恋文かよ」

「返してくださいッ」

 文を開こうとする吉三郎にお七は顔を真っ赤にして手を伸ばす。もう白状したも同然だ。お七はこの寺に居る佐兵衛という男に懸想をしているに違いない。

「この佐兵衛って男を訪ねてきたのか」

「あなたには関係ありませんッ」

 つんとした顔で吉三郎を拒むが、図星であることをまったく隠せていない。ちらちらと吉三郎が持つ文と寺の方を気にしている。

 おいおい、こりゃあ使えるぞ――吉三郎は内心でにんまり笑った。

「まあまあ、そんな怖い顔しなさんな。話してみろよ、何か力になれるかもわからんぜ」

 文をしっかり掴み、話さなければ返してはやらんと言外に伝えながら吉三郎は言った。お七はきゅうと唇を噛み、しばらく考えたのちにぽつりぽつりと事情を話し始めた。

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