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第二話

 とりあえず借りた小袖を着てみたものの、お七はどうにも落ち着かないでいた。

 本音を言えばあの振袖を着てみたかったが、両親に見られたらなんと言われるか。着もしない服をいつまでも借りているわけにもいかないし、早く返そうとさっきの部屋まで戻ってみる。しかしまだまだ人でごった返していてしばらく近寄れそうにない。一旦諦めて行李にしまったものの、どうにも浮き足立ってしまう。

(何か手伝いに行こうかしら。掃除とか、繕い物ならできるわ)

 居ても立っても居られず部屋を出る。あの大火から二日経ったが、円乗寺はまだまだ避難民で騒がしい。暇を持て余した子供が走り回ったり、はぐれた親類を探し歩く人とすれ違ったりする。普段は修行に勤しむ僧侶達も、ここのところは避難民の世話にかかりきりのようだった。

「誰か、目の良いものは居らんかね」

 あてもなく廊下を歩いていると、そんな声が聞こえてくる。見ると、庭で何やら人が集まっている。僧侶達の中に自分の母親の姿を認めたお七は、草履を借りて庭へ出た。

「おっかさん、何かあったの」

「ああ、お七や。丁度良いところに来てくれたね」

 母お峰は手に毛抜きを持っていて、人だかりの真ん中にいる男の手を掴んでいた。

「この方の指にとげが刺さっちまったって、取ってやろうとしてるんだがね。これがいやに小さくて、男の指じゃあ上手く捕まえられないってのさ。あたしもやってみたんだが、このところ遠目になっちまったから」

「わたしの為に、面目ありません」

 指先の痛みに顔をしかめながら、若い男は申し訳なさそうに頭を下げた。お七ははっとして男の顔を見た。

 僧侶ではない。髷の形を見るに若衆であるようだ。その顔のなんと美しいことか。眉は細く形が整っていて、切れ長の瞳にはつややかな長いまつ毛。すうっと通った鼻筋の先には紅で染めたように赤い唇があった。

 ――こんなに綺麗な人、生まれて初めて見たわ。

 男もお七に見惚れていた。自分を見つめるぱっちりと大きな瞳は螺鈿のように輝いているし、赤みがさした頬は桃の実のようだ。結い上げた黒髪は瑞々しく、きらきらと陽の光を跳ね返している。

 二人は互いに相手の目を見つめ、どきどき胸を高鳴らせた。周りに人がいなければ、きっといつまでも見つめ合っていたことだろう。

「どうだい、お七。お前なら抜けるんじゃないかい」

 お峰が毛抜きを手渡してくる。青年の周りの坊主たちも口々にお願いしますと頭を下げてくる。

「たかが棘とはいえ、それで佐兵衛さへえの指が腐ったら一大事。どうか抜いてやってください」

 佐兵衛。このお方は佐兵衛ってお名前なんだ。お七はどぎまぎしながら佐兵衛の手を取った。父の無骨なそれとは違い、白くてしなやかな美しい指先だ。

「……よろしくお願いします」

 佐兵衛の囁きに思わず手に力が入る。棘はすぐに見つかった。こんな綺麗な指に刺さるとはなんて憎らしい棘だ。しかし……これを抜かなければ、ずっと彼の手を握っていられはしまいか。棘に目を凝らせば凝らすほど、そんな気の迷いが脳裏をかすめる。

(駄目よ、痛がってるのにそんなこと考えちゃいけないわ。早く抜いて差し上げないと)

 緊張で手を震えさせながらもなんとか毛抜きで棘を掴み、慎重に引き抜く。佐兵衛は無事に棘が抜けた指先を見つめ、ほうっと息を吐いた。

「ありがとうございます。一体、なんとお礼を申し上げれば良いのか」

「あたしらが坊様達にしていただいていることに比べたら、このくらいお返しにもなりませんよう」

 お七を制するようにお峰が言った。しかしお七はすっかりあがってしまっていたので、どの道佐兵衛に口を利くことはできなかっただろう。

「それより、お役目の最中だったんでしょう。あたしらに構わず、どうぞ行ってくださいな。あたしらもほら、洗濯だなんだと仕事が溜まっていますから。ほら、お七や」

 お峰はお七の袖を引き、何やら目配せをしたが、お七は佐兵衛にすっかり目を奪われてまるで気づいていなかった。

「そうですか。それでは……」

 坊主に促されながらも、佐兵衛もお七を名残惜しげに見つめていた。しかし坊主やお峰の表情を見て心を決めたか、切なげな顔になってもう一度お七に頭を下げ、地べたに置いていた荷物を担いで去っていった。

「大した色男だけど、若衆じゃあねえ」

 佐兵衛達が去っていったのを認めると、お峰は嘆息しながら言った。

「下手に手出しをしようものなら、あれとねんごろのお武家に切り殺されちまうだろうよ。良いかい、お七。いくら見目が良くったって、若衆にだけは近づいちゃあならないんだよ」

 そうこぼしながら、お七の手を握って歩きだす。しかしお七はそんな母親の苦言などまったく耳に入らず、佐兵衛が去っていった方向をいつまでも見つめ続けていた。




 日が暮れた後も、お七は未だ夢見心地のままだった。

(ああ、佐兵衛さま、あの美しい人……もう一度お会いして、お話することはできないかしら)

 そんなことを考えながら手を動かすものだから、繕い物でとんちんかんなところを縫ったり夕餉の準備で茶碗を割りかける。しまいにはお峰に熱でもないかと額に手を触られた。

「まったくどうしちまったんだい。流行り風邪でも拾ってきたかね」

 実際、お七は熱を入れていたし、熱が上がっていた。もっとも、それが初恋の熱であることは、お七が恋愛嫌いだと思い込んでいた八兵衛やお峰にはわからぬことだった。

「おや、お前、その手に握っているものはなんだね」

 八兵衛が見咎めたのは、あのとき佐兵衛に刺さっていた棘を抜いた毛抜きである。

「あら。これ、おっかさんのものかしら」

「いやだ。そりゃ坊様に借りたものだよ。お前ったら返さずに持っていたのかい」

 たかが毛抜きとはいえ、返さなければ泥棒も同じである。早く返しに行かなければ、と思った途端、お七の胸に不純な想いがむくむくと湧いてきた。

「……わたし、返しに行ってくるわ」

「これお七、もう夜更けだぞッ」

 毛抜きをしっかり握りしめて部屋から飛び出す。面食らう両親には見向きもせず、裾がはだけるのも気にせず廊下を駆けた。

 月明かりでようやく自分の足元が見えるほどの夜更けに、何人もの檀家を受け入れてもまだ有り余る広さの円乗寺。常であれば夜明けまで探し回っても意中の人と出会うことはできなかっただろう。

 しかし運命の悪戯か、はたまた御仏の思し召しか。そのとき丁度佐兵衛も夜風にあたろうと庭を歩いているところだった。

「佐兵衛さま……」

「……お七、さん」

 朧月に照らされる佐兵衛の肌はますます白く映り、まるで今しがた空から下って来たばかりの天人のように見えた。お七は思わず溜息をつき、しばし言葉を失った。憂い気な眼差しも、月に光るつややかな頬も、すべてがこの世のものとは思えぬ美しさだった。

「佐兵衛さま」

 お七は彼の美しさに結局どんな言葉もかけることができず、ただそっと近づくことしかできなかった。佐兵衛も口をつぐみ、しかしじっとお七を見つめ、おずおずと手を伸ばした。お七はたまらず、昼間棘を抜いた時のように佐兵衛の手を掴んだ。

 どれほどそうしていただろうか。言葉を一切交わすことなく、ふたりはあくまでお互いを見つめていた。口にするまでもなく互いの想いは明白であった。このまま夜が明けることなく、永久にいられれば。

「わたしは今年で十六になります」

 ふいに佐兵衛が呟くように言う。お七はわあっと嬉しくなり、顔を綻ばせて答えた。

「わたしも、十六になります」

 同い年である。たったそれだけの些細なことが今のお七には飛び上がらんばかりの吉報だった。

「いっしょですね、わたし達」

「ええ」

 佐兵衛も目を細めた。しかしふと我に返ったように顔をしかめ、再び憂い気な顔になった。

「……いけません。わたし達が、こうして連れ立って居るのを見られたら」

「え……」

 目を伏し、そろそろとお七からて手を離す。なぜ、と声にならない声で訊ねるお七に、佐兵衛は静かに首を振った。

「わたしは若衆でございますから。既に契りを交わした兄分の帰りを待つ身です。ほかの方と、それもうら若い女性と居たと和尚様や兄分に知られれば」

 お七もはっとする。自分も、今日会ったばかりの男と共に居るところを見られたら、両親達が黙っていないだろう。操が危ういとさっさと縁談を決められてしまうかもしれないし、素行の悪い娘と思われて酷い折檻を受ける羽目になるかもしれぬ。八兵衛もお峰も堅実で、「お七に悪い虫がつく前に、身持ちと素性がしっかりした人のところに行かせよう」と毎朝毎夜口癖のように言っていた。昼間のお峰が佐兵衛に渋い顔をしていたのを思い出す。

 お七はそこで初めて自分が佐兵衛に恋をしているとはっきり自覚した。そして、その恋が成就することは、鯉が滝登りをするよりもずっとありえぬことであると悟った。

「佐兵衛さま……」

 縋るように見つめても、吉三郎は切なげに形の整った眉をひそめて首を振るばかりである。お七は居ても立っても居られずもう一度佐兵衛の手に触れようとしたが、肌と肌が触れる直前で遠くから声が聴こえてきた。

「お七や、お七や……」

 母の声である。飛び出していったきり一向に帰ってこない娘を心配したのだろう、探し求めてこちらへ歩いているようだった。このままでは、彼と一緒に居るところを見られてしまう。佐兵衛は悲しげにお七を一瞥して、逆の方向へと歩きだした。

「さようなら、可憐な人。またいつか、まみえることがあれば――」

「佐兵衛さまっ」

 去っていく佐兵衛を、やはりお七は追うことができなかった。近づいてくる母の声を聴きながら、遠ざかっていく想い人の背中に見入る。

「――美しい人」

 手の中に残った、結局返すことができなかった毛抜きをぎゅうっと懐に抱きしめ、母親が来るまでその場でじっと立ち尽くしていた。

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