第十六話
「佐兵衛、本気なのか。出家するって」
「ええ」
すっかり若衆髷を剃り落とし、文字通りの丸坊主となった佐兵衛に仁久はぎょっとする。女と見まごう美貌はそのままに、まるで尼のように見える。
「庄之助様にも許しを頂きました。いっそのことご自分も仏門に入ると言い出したのは驚きましたが」
「思いきりが良いなあ……」
若衆思いの念者をなんとか思いとどまらせ、佐兵衛はひとり円乗寺に入山することに決めた。元々馴染みなだけあり、住職も歓迎してくれている。
「まあ、止めはしないけどさ。坊主も大変だぜ。朝早くに起きて夜遅くに寝て、生臭は一切食べられないし、町で遊んだりすることもできないんだ」
「あなたは全然戒を守っていないじゃないですか」
「俺は破戒僧になるんだからいいんだよう。お前なんか根っから真面目だから、なんでもかんでも守ろうとするだろ。つらいぞお」
ふざけて脅かしながらも、仁久は懸念を抱いていた。佐兵衛のことだ、伊達酔狂で出家しようなどとは思うまい。
「……弔いを頼まれまして」
「お七のことか。八百屋の人達に」
「元々、わたしもその気でありましたから、渡りに船です。多分この先、庄之助様に仕えていても、きっと忘れられませんから。それならお前が供養をするのが良かろうと、庄之助様にも言って頂きまして」
きっと――ふたりは赤い糸で縁を結ばれた仲だったのだろう、と仁久は思った。世の中の決まりがもう少し違えば、全く違った形で出会えていれば、きっと想いを遂げられたに違いないのだ。もしかすると、また来世で出会うことができるかもしれぬ。
お七は咎人として処刑された。咎人ならば閻魔様に裁かれるのが常であろうが、その罪は供養された分だけ軽くなり、地獄道から逃れることもできるという。であれば、一心に弔い続ければ、いつかまたどこかで佐兵衛とお七は巡り合うことができるのではないか。
「……よし。だったら俺もつき合うよ」
わざとおどけたように仁久は言った。
「破戒僧になるのではなかったのですか」
「破戒したって供養はできらあ。賽の河原の石積みだって供養になるんだからな。肉を食おうが女と遊ぼうが弔いの心は変わらないさ」
「あなたこそ地獄に落ちますよ」
「こいつっ」
ふざけ合っていると、最早常連となってきたゆきが何やら包みを抱えて走ってきた。
「ああ、いたわ。佐兵衛さん、あんたお七ちゃんの供養するって」
「そうですが……」
「これ、供えてあげてくれる。お七ちゃんの形見なのよ」
ゆきが持っていたのは豪奢な仕立ての振袖であった。
「これって……あの時俺があげたやつ」
「あたしが預かってたんだけど、やっぱりこれはお七ちゃんのものだから。お七ちゃんに返してあげられるように、これも供養してほしいの」
佐兵衛は振袖をじっと見つめた。綺麗な晴れ着である。これに袖を通したお七の姿は、さぞ美しかったことだろう。
「……わかりました。確かに、受け取らせていただきます」
「お願いねっ。ちゃんとやってるかどうか、何度も見に来るからねっ」
しつこいくらいに念を押すゆきに、佐兵衛は少し笑ってしまう。そしてふと、中庭の方へ目をやった。あの夜、共に月明かりを浴びた場所である。
――佐兵衛さま。
――お七さん。
思い出の中のお七が、美しい振袖を纏って柔らかく微笑み、陽だまりの中にゆっくりと消えていった。
犬次を葬ってから三、四日経った頃、吉三郎の住む長屋に益市が訪ねてきた。
「俺等ぁ、故郷に帰ろうと思います」
小さな風呂敷包みを携えた益市はそう言って洟をすすった。
「手前の故郷といっちゃ、奥州じゃなかったか。遠いだろ」
陸奥であったか出羽であったか、いずれにしろ長旅となろう。心付けでも出してやろうと思ったが、意外にも益市は固辞した。
「俺等はもう、誰の助けを借りることも出来ません。これまで悪事の限りを尽くしてきましたから」
「雲助益市が悪事に懲りたってのか」
「おかしいでしょう。笑ってくださいよ、へへ」
益市は犬次のことを可愛がっていた。
故郷に残してきた弟のことを思い出すと言って、小遣いやお八つをやったり、頼まれもしないのに遊びに連れ出していた。犬次も多分、そんな益市のことを実の家族のように慕っていたはずだ。
犬次の死が腹にくすぶり続けていることは、察するまでもなかった。
「じゃあ、手前とはこれが今生の別れか」
「へえ。吉三の兄貴も、どうぞお達者で」
益市はもう一度洟をすすり、去っていった。
きっと死にに行ったのだろうな、と吉三郎は益市の背中を見て思った。
当の吉三郎も、あれ以来ずっと犬次に悩まされていた。
夜な夜な、夢枕に犬次が現れるのである。最後に見た、焦げた着物に火ぶくれだらけの肌で、じいっと吉三郎を見つめているのだ。
――なんだよ、手前は。おっ死んだんだから素直に地獄に行きやがれ。
そう呼びかけてみても、犬次は黙りこくって答えやしない。きっと火に巻かれたせいで喉も焼けてしまったのだろう。
――いつまでもいるんじゃねえや。益市に逃げられたから、俺に小遣いねだりにきたか。六文銭はどこに落としてきやがった。ぐずぐずしてるから他の亡者にでも獲られたんだろ。愚図だな、手前らしい。
――ああ、さては煙管だな。貰ったんだから渡してくれろってか。生焼けになっても懲りてねえのか。地獄の関所で小火でも起こしてみろ、閻魔様も呆れて焦熱地獄に落とされちまうぞ。
いくら説いても罵っても、犬次は夜になると必ず吉三郎の元に現れるのだ。吉三郎もさすがに辟易し、夜は寝ずに一晩中酒を飲み明かすことにした。
千鳥足で夜の町を歩いていると、真っ暗闇の景色が妙に明るく見える。たまに出ている軒先の提灯が膨れ上がって、まるで鬼火のように見えた。恐ろしくなって家まで取って返すと、今度は犬次が恨めしげに万年床に突っ立っている。
眠れば犬次に見つめられ、起きれば鬼火に囲まれる。吉三郎の生活は日に日に荒れていった。
「ありゃあきっと、取り憑かれちまってるんだろうさ」
目を血走らせ、無精髭もろくろく当たらずにぶつぶつ何やら呟きながらうろうろする吉三郎を見て、近隣の者は口々にそう言いあった。
「あいつはね、殺した女が夜な夜な化けて出てきてすっかり参っちまってるのさ」
「惚れた女が振り向いてくれないのに腹を立てて殺しちまったんだよ」
「ああ恐ろしい。悪党吉三、とんでもない野郎だよ」
恋文を焼いているのを見た、と語る松の婆に、長屋の住人達はすっかり納得した。まさかあの吉三が女に惚れるとは。いやいや、あいつは小姓趣味だよきっと、ずっと男の名前を呟いてるじゃないかね。
身寄りのない吉三郎を気にかける者は誰も居らず、そのうち吉三郎が部屋に閉じ籠って出てこなくなっても気にも留めなかった。
吉三郎は暗闇の中、ぼうっと犬次を見つめていた。
犬次は明るい間は出てこない。行灯に火を灯せばすぐにでも消えてしまうだろう。だが、火は駄目だ。火を付けると鬼火が現れる。犬次と鬼火、どちらが恐ろしいか。吉三郎は決めかね、万年床に転がりながら亡霊の姿を見つめる。
――そんなに煙管が欲しいかよ。
吉三郎は手探りで煙管と火打石を探り出す。煙管の火皿に適当に葉を詰め込んで火を付けた。蛍のような頼りない光に、犬次の姿は薄まっていく。
――ほら、吸いたきゃ吸いやがれ。今の手前じゃ、煙と体が混じってわやくちゃになっちまうだろうがよ。
吸い口の曲がった煙管を犬次が居た方へと投げつけ、けらけら笑う。その後、急に全てに腹が立って、そこら中のものを蹴る。
無造作に置かれていた行李が横倒しになり、振袖が顔を覗かせた。吉三郎のような粗暴な男にはとても似合わない晴れ着である。吉三郎は更に苛立ち、振袖を何度も踏みつけた。
「くそ、くそ、くそッ」
徳利を拾い上げ直に口を付ける。犬次は居ない。鬼火も現れない。だのに、まるで落ち着かない。空になった徳利を床に叩きつけて割った。
「畜生め」
ずるずると座り込む己を、吉三郎はどこか離れた場所から冷めた目で見つめている。無様な姿である。一体己は何がしたいというのか。吉三郎はもう一度けらけら笑って、疲れに任せて瞼を下ろした。
――ごうごうと、火が唸りを上げる音がする。
目を開けると、そこは八兵衛の店であった。ごうごうと炎に包まれ、中に佇む吉三郎を焼かんと焦熱が責めたてる。吉三郎は吹きだした汗をぬぐった。
どこだ、どこだ。
ああ、急がねえと。
探さなければ、あいつを。
ふらふらと歩いていると、やがて目前に女が見えた。美しい紅色の振袖を纏った女が優しげに微笑んでいる。
――ああ、そんなところに居たのかよ。
お七のことは、ずっと手が届かない人だと思っていた。
吉三郎のようなごろつきが惚れたとて、どうしようもない。まともに金を稼げない男と添いたいと思う女はいなかろうし、万の一つに添うてくれたとしても、良い暮らしなどさせられないのだ。
綺麗な着物を着せてやりたいと思っていた。うんと美しい恰好をさせれば、きっと喜んでくれると。
もう泣かせたりはしない。嘘をついて騙したぶん、いやその倍は笑わせてやろう。こんなごろつきが女と所帯を持ちたいといったら、それこそ笑われてしまうかもしれないが。
なあ、お七。俺が悪かったよ。
俺はほんとは、お前のことが―――
女の姿が炎に揺らめき、遠ざかる。
吉三郎は一歩前に出した。
そこは危ねえ、こっちに来いよ。なんだ、来ないのか。
ああ、そうか。
俺の方から――行くしかねえのか。
吉三郎はよろけながら女に近づいて、そっと抱いた。
ごうっと一際大きな炎が上がり、吉三郎の身を包み込んだ。
とある棟割長屋で起こった小火は、幸いにもすぐに消し止められた。
負傷者はおらず、死者も出火場所と見られる一室で見つかった屍一つである。すっかり黒く焦げ付いたこの屍は、焼け残った遺留品や近隣住人の証言から吉三郎という男であると断定された。
煙管を吸っていたところを、酒で酔っていたのか手を滑らせて落としてしまい、それが小火に繋がったのだろうと火消し達は考えた。人の出入りした形跡はなく、火付けの類ではなくおそらく吉三郎の起こした事故であろう。
「いいや違うね。ありゃあきっと自害さ」
ただひとり、松の婆だけはそう言い張った。部屋の中はそこまで焼けていないのに、吉三郎の骸だけはまるで火あぶりにされたように酷く焦げていたからだ。
「見なよ、あの煙管は女物だよ。それに振袖を、まるで形見みたいに後生大事に抱えて持っていたんだ。殺した女の元に行こうとしたんだろ。さもなきゃ――女に祟り殺されたに違いないさ」
骸となった吉三郎は、同じく焦げた振袖をそれはそれは大事そうに握りしめていた。
振袖をかき抱いて倒れ伏した骸の焦げる前の面の皮が、心から安らいだ形になっていたことを知る者は誰ひとりとしていなかった。