第十五話
「兄貴ぃ、本当にどうしちまったんですかい」
吉三郎は賭場でも奇妙な様子だった。
賭場の中でひとり、まるで葬式の真っ只中のように暗い顔で、ひたすら静かに酒を飲んでいる。気が滅入る、ちょっとは騒げと顔馴染みが絡んでくると、今度は火が付いたように怒りだし終いには掴み合いの喧嘩になる。もう関わるのも面倒だ、と吉三郎に関わる者は少しずつ減っていった。
「花街でも行きやすか。見世物でも見に行きやせんか。ねえ、兄貴ったら」
「兄ぃ、兄ぃよう」
そんな中、益市と犬次だけはしつこく吉三郎にまとわりついた。
「そんな面下げてたらツキに見放されちまいます。なんなら、俺が奢りますよう。ねっ、元気出して」
「うるせえ」
益市の言葉を聞き流して猪口を傾ける。不味い酒で、吉三郎の顔はますます渋くなった。
「そんなこと言わずにぃ。なあ、犬次」
「兄ぃ、これ」
と、何やら犬次は大事そうに抱えていたものを吉三郎に差し出した。美しい装飾が施された女物の煙管である。お七が起こした火事の折、吉三郎が失くしていたものだった。
「手前、どこでそれを」
「兄貴が引っ張られた後、質屋に流されてたんです。やっぱり兄貴のだったんですねえ。俺も大枚はたいた甲斐がありやした」
同心が取調べの時に取り上げたか、火事場に落としたのを手癖の悪い火消しが拾ったのだろうか。吉三郎は煙管をまじまじと見つめ、やがて舌打ちをして目を逸らした。
「要らねえよ」
「えっ」
「そんながらくた、そこらへんに捨てちまえ」
吉三郎は再び猪口を傾ける。予想だにしない反応に益市は狼狽えることしかできない。
「そ、そんなあ。俺は兄貴の為を思って、これで財布を空にしたってのに」
「じゃあ兄ぃ、これおれがもらっていい?」
「好きにしろ」
「わあい」
「あっ、こら、犬次お前っ」
犬次は嬉しそうに煙管を抱えて走っていく。吉三郎が煙管を吹かす姿に密かに憧れていたのである。
「吉三の兄貴、一体どうしちまったんです。変ですよう、本当に」
元々益市と同じ筋金入りの屑である。些細なことで手を上げ、酒に博打にろくなことをしないのが吉三郎だ。しかし、屑同士助け合ったよしみ、放ってはおけない。
「兄貴、吉三の兄貴ってば」
「うるせえぞ。あっちに行け」
益市の甲高い声が耳障りで仕方ない。構われれば構われる程腹が立ち、吉三郎はますます酒を煽った。
「ぎゃあっ」
「なんだ、おい、火だぞ」
「燃えてる、早く消せッ」
と――にわかに賭場が騒がしくなる。誰かが小火を起こしたのか、何か燃えているようである。さすがの吉三郎も酒盛りを止め、益市を伴って様子を見に行った。
不幸な事故であった。
出火の原因は犬次が見様見真似で煙管を吸おうと火をつけていたことである。そこに酔っ払って千鳥足のごろつきがつまずいて、運悪く飲んでいた酒をかけてしまったのである。小さな火花は途端に大きく膨れ上がった。
火だるまとなった犬次が転げ回っている。
「あつい、あついようっ」
連日の騒ぎで江戸っ子は火には敏感になっていた。ましてここはならず者が集まる賭場、騒ぎが起きれば同心達に一網打尽にされてしまう。喧嘩や博打に明け暮れていたごろつき達も一心に消火に励み、幸い火はすぐに収まった。
しかし――その頃には犬次はすっかり物言わぬ姿に変わってしまっていた。
「犬次、おい、犬次っ」
益市は犬次の肩をゆすった。着物は黒く焼け焦げ、体中に火ぶくれが出来ている。とっくに息などしていない。手足を縮こませ、ごろりと横たわる姿は虫のそれによく似ていた。
「おい……」
吉三郎は少し焦げた煙管を拾い上げ、無惨な犬次の姿と見比べた。鼻をつまみたくなるおぞましい臭いは、煙草の煙とは似ても似つかない。犬次にすがりついて泣く益市の横で、吉三郎は放心して立ち尽くしていた。
犬次を弔おうとする者は誰もいなかった。
ごろつき達は火を消した後はまるで無関心で、悪臭を放つ犬次の骸をゴミを見るように眺めるだけである。さっさと片付けてほしいが、自分が関わるのは御免なのだ。死体などそう珍しいものでもない。犬次の周りを避け、またいつも通りに各々が遊びに戻っていった。
犬次を雇っていたはずの賭場の胴元もまるで知らぬふりである。こんな焦げた奴なんざ見たことねえ、俺が雇ったのは犬なんだから――馬鹿の犬次を雇っていたのも賃金をろくに払わずともよく働いてくれたからで、棺桶を買ったり葬式を上げたり、とにかく金がかかるようなことに手を付ける気などないらしい。
犬次の骸は吉三郎と益市が力を合わせて運びだし、筵に包んで町外れの林に埋めることにした。
「犬次ぃ、ごめんなあ。棺桶も坊主も高いんだ。俺等達には、これが精一杯なんだよお」
益市は犬次の懐に六文銭を入れる。銭の価値もわからぬ奴だったが、光り物は好きだった。きっと三途の川まではなくさずに持っていけるだろう。
「なんでかなあ。なんでお前みたいな奴が死ななきゃならねえんだろうなあ。お前は馬鹿だけど、良い奴だったのになあ」
埋葬が終わってもなお、益市はぐすぐすと泣き続けた。吉三郎は仏頂面のままだったが、益市と全く同じ心持ちである。
「なんでだよ」
――いや、俺のせいか。
懐に入れた煙管を取り出す。火にあぶられてすっかり吸い口が捻じ曲がり、もう使い物にならないだろう。犬次は結局、一服もしないままくたばってしまったのか。犬次に火を扱わせるのがどれだけ危ういか考えずともわかろうというのに。
その夜以来、吉三郎は賭場への出入りをやめた。
佐兵衛の念者、生田庄之助が旅先から戻ってきたのは卯月の半ば頃のことだった。
「此度のこと、誠に申し訳ありませんでした」
佐兵衛は円乗寺の門前で、着物や肌が汚れるのも厭わず平身低頭して念者を迎えた。若衆の突飛な行動に、生田も動揺するほかない。
「これはどうしたことか。佐兵衛、何ゆえそのような真似をする。頭を上げよ」
「いえ。一時とはいえ、わたしはあなた様を裏切ることをしました。この山田佐兵衛、この場で切り伏せられても当然の身なのでございます」
頑なに平伏し続ける佐兵衛を生田はどうにか立ち上がらせ、円乗寺の屋内へと連れていく。とにかく、話を聞かぬことには始まらない。
円乗寺の様子は出立前とはほとんど変わっていないようだった。昨年は師走の二十八日に起きた大火や、僧侶による暴行事件、その他色々些事は起これど、僧侶達は今日も真面目に勤めを果たし修行に励んでいるらしい。一見してわからぬがゆえに、佐兵衛の身に一体何が起こったかと生田は不安になる。
「……お主が商人の娘に懸想していたというのは、ならばまことなのか」
「申し開きの余地もございません。全て事実にございます」
「待ってくださいっ」
馬鹿な、と生田が呟く前に、若い坊主が部屋に飛び込んでくる。盗み聞きしていたのだろう、片耳だけ赤くなっている。
「仁久さんっ」
「こいつ……いえ、佐兵衛殿は、決して念者様を裏切ったことはありません。確かに一時の気の迷い、心が動きかけたことはあるかもしれません。ですが、彼の身は清らかなまま。念者様への忠義を貫き通し、一切色事には染まっておりません」
仁久は得意の饒舌であることないことをまくし立て、なんとか佐兵衛を庇おうとする。どこぞの不届き者が何かしたらしいが、そこはそれ。佐兵衛が責められるいわれはないはずだ。
「佐兵衛が誰より真面目で誠実なのは念者様こそがご存知のはず。彼は刹那の迷いにすら良心を痛め、貴方への忠の為に腹まで斬らんと覚悟をしていたのです。どうか何卒、お慈悲をお願い申し上げます」
「仁久さんっ……いえ、庄之助様」
畳に頭を擦り付ける仁久に動転しながらも、佐兵衛も再度生田にひれ伏した。
「弥生の末に火あぶりとなった八百屋お七という娘。その方が火付けを起こしたのも、元はといえばわたしのせい。気立ての良い、とても罪など犯さぬような無垢な娘が、わたしが心を惑わせてしまった為にあのようなことをしてしまったのです。本当ならば、わたしこそ罪に問われるべき咎人。腹とは言わず、この場で首を刎ねていただきたく」
「佐兵衛っ」
「もうよい、よくわかった」
生田はかぶりを振ってふたりを止める。このままでは埒が明かぬ。
「お七という娘の話は聞いておる。その者に、お前は懸想をしたのだな」
佐兵衛は口を閉ざして頷く。否定できぬ。どれだけ忠を通そうとしても、最後に見たお七の姿を忘れることはできなかった。
「お前の性格はよく知っておる。お前が義を捨てるような真似をするまい。まことに二心を持ってしまったなら、遠く離れた私のことを忘れ幾らでも道を外れることはできただろう。お前はそれを耐え抜き、わたしを待ち続けてくれたのだな」
「庄之助様……」
「元はといえば、お前を待たせてしまった私も責があろう」
いくらやむを得ぬ長旅とはいえ、何月も遠く離れていれば自然と心も離れてこよう。坊主であれば煩悩もあるまいと任せたはずが、破戒坊主に酷く傷つけられる始末。佐兵衛こそ念者を罵り縁を切ろうとしてもおかしくはないのだ。
「私の為に、辛い苦労を背負わせてしまった。本当にすまなかった」
居住まいを正し、頭を下げる念者に佐兵衛は思わず目に涙を浮かべた。仁久の目がなければその場で飛びついていたかもしれぬ。
「兄様、庄之助様……」
「お七なる娘、美しかったのだろうな。お前ほどの者が心奪われる女、生きているうちにまみえたかったものだ」
まだ佐兵衛の心のうちにいるであろう娘の姿を思い浮かべ、生田は穏やかに目を細めた。