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第十四話

薄々わかってはいたが、改めて聞かされると空恐ろしい話であった。病み上がりでなくとも眩暈がするであろう。

「処刑は二十八日だ」

「二十八日って言やあ、もうあと七日じゃねえかっ」

 蚊帳の外の仁久ですら浮足立ってしまう。七日後にはもうお七はこの世からいなくなってしまうのか。

「不思議なもんだ」

 そんな中、八兵衛だけはただひとり落ち着き払っている。

「お前さんに会ったら、まずぶん殴ってやろうとまで思ってたのになあ。お前さんの顔を見たら、そんな気持ちは失せちまった。俺は商人だ、人の顔は嫌になるほど見てきた。お前さんはまごうことなく清らかな人なんだろう。お七もお前さんのつらじゃなく、心に惚れたんだと思えば少しは腹も収まる」

「そんな、滅相もございません。わたしはどうしようもない若輩者です」

 佐兵衛は慌ててかぶりを振る。しかし八兵衛は憑物が落ちたように穏やかに佐兵衛を見つめていた。

「お前さんが若衆でなかったら。娘が武家の生まれであったなら。きっと良いようになったに違えねえ」

「こんな徳の高いお方に、浮世の業を背負わせるなんてとんでもないことだけれど。でも、もしお慈悲をくださると言うんなら、一つ頼まれておくんなまし」

 そう言って、お峰は姿勢を正して指を揃え、佐兵衛に頭を下げる。それを見て、ゆきも同様に先程と同じように頭を下げた。

「あ、あたしからもお願いです。最後にたった一度だけでもあの子に逢ってあげてください。代わりになることならあたし、なんでもします。どうか、どうか……」

「そ、そんな。頭を上げてくださいっ」

「佐兵衛さん」

 妻と、娘の幼馴染の姿を横目に、八兵衛も真剣な眼差しである。

「無理にとは言わん。お前さんも、色々としがらみがあるんだろう。だが、もしも……ほんのひとときでも、あの子に貸してやれると言ってくれるなら……」

 三方から一斉に頭を下げられ、佐兵衛はただただ困惑した。

 自分がお七の心を惑わせたのなら、自分こそが全ての元凶である。しかし、どうしてそんな己がここまで乞われているのか。今更逢ったところで、また彼女の心を傷つけるだけではないのか――


 ――佐兵衛さま。


 あの夜、月明かりに照らされた美しい少女の顔が胸に浮かんだ。

「行ってやろうぜ、佐兵衛」

 仁久が肩を叩いてくる。

「今生の別れすら出来なかったら、きっとずっと悔やむことになる。あの子だって浮かばれないさ。顔を見るだけ、話すだけなら浮気のうちにも入らねえ」

「………………」

 手を握ると、柔らかく少しひんやりとした感触が思い出された。

「何、もしも道中で倒れそうになったら俺がおぶってでも連れてってやるさ。袖振り合うもなんとやらだ、こうなったら地獄まではつき合ってやるぜっ」

 仁久は冗談めかして、しかし目つきは真剣である。佐兵衛はごくり、と唾を飲み込んだ。

「……勿体ないお話です。この山田佐兵衛、この身の限り尽くさせて頂きます」

 そうして佐兵衛も深く深く頭を下げた。


 病み上がりの身で住職を説得するのは並大抵のことではなかった。

 若衆でありながら若い娘、それも咎人に会いに行くとは、と真っ向から反対され、他の僧侶達も良い顔をしない。しかし、真面目で従順な佐兵衛が珍しくなりふり構わず自分の意を通そうとする。何度も何度も繰り返し訴える佐兵衛に、次第に僧侶達もほだされていった。

「お願いします。聞いてくださるなら、この身などどうなっても構いません」

「其方がそこまで言うのなら、良いだろう」

 住職に頷かせるまで、実に五日掛かった。

「咎人と会わせるのは気が進まぬが、其方がそこまで気にかけるならば、何か強い縁があるのだろう。御仏の思し召しがあるのなら、きっとまみえることもできようぞ」

「まったくあの頑固じじいめ、もう一日しか猶予がねえじゃねえかっ」

 仁久はぶうぶう文句を垂れながら急いで身支度を整える。うかうかしているうちに期日が来て、気づけば火あぶりが終わっていたとなったら笑い話にもならぬ。幽霊のようになっていた佐兵衛の身目を整えて、途中で倒れぬように滋養のあるものを食べさせ、仁久は坊主の勤めよりも熱心にまめまめしく働いた。

「……お七さん」

 逢えたらば、一体なんと声をかけよう。一方的に縁を断った身、かける言葉があるのかもわからない。もしかすると、恨まれているかもしれない。日が近づくにつれ、佐兵衛の心には迷いが生じていった。

 しかし――そんな心とは裏腹に、気づけば体はお七の元へと走っていた。

「ああ、くそ。もう市中引き回しが始まったって」

 火付改方の役所を訪ねた仁久は悔しそうに首を振って戻ってきた。

「じゃあ、今頃は……」

「日本橋から両国橋、最後に鈴ヶ森で一日がかりだからな。今頃は赤坂御門かな。次は四谷のはずだから……急ぐぞ、佐兵衛っ」

 市中引き回しが行われれば江戸中の庶民がその道程を見物に行くものである。今日の罪人は若い美人として、誰もがその顔を一目見ようと行列を成した。

「ええい、どいてくれ。俺達は特別に用があるんだっ」

「なんだい、咎人見物なんて坊主のくせに罰当たりさね。ここはあたしらが先に来たんだよっ」

「おい、来たぞおっ」

「そこをのけ、よく見えないッ」

 町人達と押し合いへし合いしているうちに、ざわめきの声と馬の足音が響いてきた。行進が近づいてきたようだ。

らちが明かねえや。佐兵衛、お前だけでも行けっ」

「仁久さんっ」

 人ごみに押されて辟易していると、仁久が後ろに回って佐兵衛をぐいぐい押し出してくる。佐兵衛は潰されそうになりながらもなんとか前へ躍り出た。

 同心達を先導に、馬がゆっくりと通りを歩いてきた。

「あ―――」

 縛り上げられた女が馬に乗せられている。質素な半纏を着せられ、白粉どころか紅も指していない。しかし――しかと前を見据えたその顔は何にも比べがたいほど美しく見えた。

「お七、さん……」

 自分の声すら聞こえなくなるほどの喧噪の中、しかしその呟きが風に乗って届いたのだろうか。娘がこちらに顔を向け、佐兵衛の眼差しを捉えて大きく目を見開いた。


 ――嬉しい。


 花のような唇がそんなふうに動いて、お七の眼からつうっと一筋雫が垂れ落ちた。

 ああ、そうか。佐兵衛はその時ようやく、自らの心情を受け入れることができた。

 わたしは、あの人のことを好いていたのだ。

「……お七さん。わたしは、……わたしも、あなたのことが――」

 伝えなければ。息を吸い、あらん限りの声で叫ぼうとする。だが、それを遮るようにお七は微笑み、首を振った。

 行進は緩やかな足取りで進んでいく。馬に乗せられたお七がどんどん遠ざかる。人ごみに押される佐兵衛は身動きが取れず、その後ろ姿を見つめ続けることしかできない。

「――さようなら。可憐な人」

 その日の夕刻、鈴ヶ森からは黒い一筋の煙がもうもうと立ち上がった。

 夕焼けに一条の線を引きながら、煙は天へ天へと立ち上り続けた。




 鈴ヶ森刑場で火あぶりが行われた、その翌日。

 とある棟割長屋の裏庭でもうもうと煙が上がっていた。春にも関わらず焚き火をしでかしている不届き者はごろつき吉三郎である。

 さながら親の仇であるかのように睨みつけては火中に放り込んでいるのは、何やら文字が書きつけられた紙きれであった。その数、尋常ではない。一体狭い部屋のどこにこれだけ溜めていたのか、事情を知らない者にはわけのわからない光景であった。

「ちょいとあんた、こりゃどういう了見だい」

 煙にいぶされ、辟易した様子で出てきたのは吉三郎の二軒隣に住む老婆である。吉三郎は勝手に“松の婆”などと呼んでいるが本当の名前はわからぬ。何やらよくわからぬがらくたをかき集めては二束三文で売って生計とする、吉三郎に負けず劣らずのはぐれ者である。

「いやだ、こんな時分に焚き火なんかして。酒で頭が狂って暑さ寒さもわからなくなっちまったのかい。年明けからこっち、火なんて見てるだけで気が滅入るってのにさ」

 ぶつぶつ言いながら出てきた松は、薪代わりに燃やされている紙の山を見て目を剥いた。使われたものとはいえ、紙は紙。紙屑買いにでも売ればそれなりの金にはなろう。特に吉三郎のようなろくろく働かず、有り金を全て賽子に突っ込む博打狂いがそんな真似、銭を溝に捨てているようなものである。

「なんて勿体ないッ。あんた、本当に狂っちまってるんじゃないのかい。要らないならあたしにくンなよ。ねえったら」

「うるせえ」

 吉三郎はじろりと老婆を睨んだ。その目つきがまるで悪鬼のようで、海千山千の婆も思わずたじろぐ。

「な、何さッ。あんたこそ煙たいんだよ。早く消しとくれ、煙が入ってきて熱いわ目に染みるわ、いい迷惑さッ」

 及び腰になりながらも言い返す松。だが、吉三郎が放つ剣呑な気配にじりじりと後ずさりをする。

「大体、あんたみたいなむさい男がこんなに紙溜めてどうしたって言うんだい。物書きにでもなるつもりかい。それともいい歳して恋文でも送ろうってのかい」

 松からすればそれは他愛のないからかいの言葉であった。情け無用の悪党が、まさかそんなことをするまいと思い込んでいたのである。しかしそれこそが吉三郎の逆鱗に他ならなかった。

「黙れッ、糞婆。ぎゃあぎゃあ喚くな、手前も一緒に燃やしてやろうか」

 火掻き棒を振りかざし、ずかずかと大股で松に迫る。すっかり肝を潰した老婆は慌てて自分の部屋へと取って返した。

「なんだい、あいつ。ああ恐ろしいッ」

 その日を境に、吉三郎の奇行は日増しに激しくなっていった。

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