第一話
ごうごうと、空をも焦がさんばかりの炎が江戸の町を包み込んでいた。
櫓では狂ったように半鐘が打ち鳴らされ、火事だあ、と悲鳴とも怒号ともつかぬ絶叫が爆音の合間から聴こえてくる。燃え盛る家から焼け出された人々が上を下へと逃げ惑う。まるで此の世の終わりかの光景を茫然と眺める吉三郎もまた、着の身着のままでようやっと炎から逃れてきたところであった。
――地獄とはこんなものか、と吉三郎は思う。
幼少のみぎりに聞かされた坊主の説法に出てくる閻魔様の刑場をそっくりそのまま此岸に移してきたようだった。人は死ぬと現世での罪を閻魔様に裁かれて、真っ当であれば極楽へ、悪党であれば地獄へと引き渡されるのだという。悪党は地獄で、生前に犯した罪の分だけやれ火あぶりだ串刺しだと責め苦を受けるのだ。
だが、この有り様はどうだ。
燃える長屋の一角の前で、若い女が髪を振り乱して泣きじゃくっていた。中に赤ん坊がいるだとか喚いている。最早生きてはいまい。だが、その赤子は果たして如何な罪を犯して火刑を受けているというのか。その母親にしても、幼い我が子を奪われる罰を科されるいわれがあるのだろうか。いや、いくら江戸の町に悪人が蔓延ろうと、まさか町中焦熱地獄になるほど善人がいなかった訳はなかろう。
生きていようが、悪事と縁がなかろうが、それでも地獄というのは勝手にあちらから押しかけてくるのだろう。
そのくせ、吉三郎のような根っからの不届き者はこうしてのうのうと逃げ延びてしまっているのだ。
――やってられねえやな。
あてもなく煙の中を彷徨いながら、煙管でも吹かそうかと懐に手を入れる。しかし、愛用のそれを火中に置き去りにしてきたことに気づいて、吉三郎は舌打ちをした。
天和の大火。
駒込は大円寺から現れた火の手は瞬く間に江戸中に広がった。数多の家が焼け、生き延びた町人も路頭に迷う羽目となり檀那寺へと駆け込んだ。いくら日頃神仏に背を向けておれど、寝床も食い扶持もいっぺんに失くしたとなれば仏心に縋るしかないのである。
八百屋八兵衛一家もその例に漏れず、店が再建するまでの当面の間は円城寺に身を寄せることになった。
八兵衛には今年で十六になるお七という娘がいた。これが大層器量が良いということで町で評判になっていたが、当の本人は色事には興味がないと言い寄ってくる男などまるで相手にせず、また両親が持ってくる見合い話も突っぱね続けていた。
「じゃあ結局、あの縁談はお流れになっちゃったわけ」
円城寺の一角、女子供に当てられた部屋。お七の恋模様に幼なじみの於ゆきは真剣な顔で訊いていた。
「嫁入り道具だって焼けちゃったし、相手の店も丸焼けだし、でお父っつぁんも諦めたみたい。大きな声じゃ言えないけど、ほっとしたわ」
「なんでよ、勿体ないじゃないッ」
胸を撫で下ろしているお七に対し、ゆきは我が事のように言う。白米よりも人の恋路が好きだというこの娘はたびたび上がるお七の見合い話に首を突っ込んではああだこうだと口を出すのだ。時にはお七自身よりも父八兵衛や見合い相手に憤ってくれる友人の存在がお七にとってはどれほど救いになっていたことだろう。
「だって、京の町の大店の若旦那で、顔も男前だって言うんでしょう。そんなの滅多にいないわ、断る理由はどこにもないでしょうに」
「評判しか知らない、顔も見たことない人のところに行くのは嫌よ。お父っつぁんが勝手に決めた人に嫁ぐなんて癪じゃない」
「気持ちはわかるけど、でも勿体ないわよ。ああ勿体ないッ」
なぜか自分のことのように惜しがっているゆきの後ろの障子戸が開き、お七に似た眼差しの中年の婦人が現れた。
「お七や、こんなところに居たのかい」
「おっかさん」
八兵衛の妻、お七の母親であるお峰は着古して少しくすんだお七の小袖を見ながら言う。
「和尚様がねえ、ありゃあ徳の高い坊様だよ。焼け出されて着替えもなけりゃつらかろうって、寺で預かってる着物を貸してくださるって。お前もこのところ着た切り雀だったから、何か拝借させてもらいなさい」
「まあっ」
願ってもない知らせだった。せっかくの年始めに晴れ着を着ることも出来ず、同じ着物にそでを通し続けるのは十六の町娘にはつらい仕打ちである。隣で聞いていたゆきの顔も晴れやかになる。
「なんてありがたいのかしら。お七ちゃん、早く行きましょう」
「うんっ」
睦月の寒空もなんのその。乙女はふたり、うきうきと本堂へ向かった。
お七達と同じ思いをしていた者は大勢いたらしく、本堂は既に避難者達が詰めかけていた。
必死になって我先にと並べられた着物に手を伸ばす人々を、剃髪の僧侶と髷を結っている若者が宥めて列を整理している。寺には仏道を志す坊主だけではなく、お武家の次男だとか若衆だとか、出家していない訳ありの男が世話になっていることもあるのだ、とお七は母から聞かせられていた。
――だから、十分気を付けるんだよ。仏様の前とは言え、どんな不届き者がいるか。
お七はあっという間に人波に飲み込まれ、きゅうきゅうとおしくらまんじゅうをする羽目になった。あちらこちらから押し合いへし合いをしていると気が遠くなっていき、思い出した母の言葉も走馬灯のように過ぎていく。
「ああっ、待ってえ。その帯よく見せてッ」
気がつくとゆきは人ごみのなかをずんずん進んでいき、あっという間に見えなくなってしまった。お七は思うように動けず、なすすべなく波に揉まれるがまま進んだ。
「おいっ、おれの足を踏むんじゃねえよう」
「ああ、ごめんなさい……」
「ちょいとお嬢ちゃん、そりゃあたしの袖サぁ」
「すみませんっ」
ああ、洗われている芋はいつもこんなに窮屈な思いをしているのだろうか。
「お嬢さん。お渡しするのはあなたの分だけでよろしいですか」
やっとの思いで若い坊主の前まで辿り着く。押されて揉まれて、すっかり目を回したお七ははあ、と気の抜けた返事をした。すると坊主は神妙な顔つきから一転、悪戯小僧の顔になった。
「お嬢さんみたいな別嬪さんに着られるなら服も喜びますよ、さ、好きなの選んでください」
坊主が手をやる先に並べられた着物はどれも立派なものだった。古着ではあるのだが、仕立ての良さや生地の上等さが元の持ち主の身分を思わせた。一時借りるだけとはいえ、こんなに良いものを使わせてもらっていいのかしら、と触れるのも躊躇いながら品定めしていると、一際目立つ柄がお七の目を引いた。
「まあ……」
振袖である。それも公家や武家の子が着るような、香の炊きしめられたものだった。鮮やかな朱に染められた上に幾つもの花や蝶が美しく細やかに刺繍されている。お七は疲れも忘れしばし目を奪われた。
「ああ、そりゃあ確か花嫁衣裳ですよ。どこぞの姫様が嫁入りの時に仕立てさせたとか」
「花嫁衣裳……」
多くの娘がそうであるように、お七もまた、花嫁に憧れを抱いていた。知らない男に嫁がされるのは勿論嫌だが、艶やかで美しい着物を纏って好い人と歩くのはどんなに幸せなことだろう。
恋――そんなものは貸本や芝居の中にしかないのはお七も重々わかっていた。どんなに好き合ったところで、家柄や身分に差があれば心中する以外に添い遂げる道はない。自分もいずれ周りが決めた夫のところへ嫁ぎ、その人を主人と慕わねばならないのだ。
それでも。
(このお姫様はどんな風に嫁入りしたのかしら。恋を……したのかしら)
お七は振袖の中に恋の幻を見出し、うっとりと思いを馳せた。
「お嬢ちゃん、その振袖が気に入ったのかい」
いつの間にか馴れ馴れしい口調になった坊主に声をかけられ我に返る。
「え、ええ……」
しかし、この着物を借りるわけにはいかない。贅沢な模様で如何にも目立ち、周囲から妙な目で見られるだろう。大火に遭って晴れ着を着るとは何事か、と父からも叱られるに違いない。
悩んでいるお七に若僧はにっと唇を吊り上げた。
「じゃあ、これはおまけだ。俺が丁度良いのを見繕ってあげるから、ついでにこれも持っていくと良い」
「えっ……でも」
借りるのはひとり一着までと他の坊主が言っていたはずだ。しかし目の前の青年はとても僧侶とは思えないにやにや笑いで「いいのいいの」と嘯く。
「どうせほかの人も着られやしないんだ。ここにあったって、坊主が着るわけもなし。長持の中で腐らせるくらいなら、お嬢ちゃんみたいな別嬪さんが着たほうが供養になるってもんさ」
軽薄な口調でいいかげんなことを言うと、適当な小袖を見繕って件の振袖を包むように畳みなおし、お七の手に押し付けた。
「あ、あの」
「ほら、後ろの人が待ちくたびれてるよ。早く行きなッ」
有無を言わさず列から弾き出される。振り向くも、さっきの坊主は人波の奥に隠れて見えなくなってしまった。まだまだ押し寄せる人々に、お七は部屋の外まで押し出される。茫然としていると、目当ての着物を手に入れたらしいゆきがほくほく顔で近づいてきた。
「見て、こんな素敵なものうちじゃ絶対買えないわ。お七も良いの借りられた?」
「う、うん……」
なんとも言えない後ろめたさに、お七は曖昧に笑って小袖を後ろ手に隠した。