あまいろ
雨粒には誰かの記憶が映る。
全国的に梅雨の時期となった。
昨日から雨は降ったり止んだりを繰り返し、非常に不安定だった。ずっしりと雨を含んだ雲が空を覆い尽くして、湿った風を吹かせている。
「優子、雨降りそうだから傘持っていきなさいね」
窓の外を見ていたお母さんが私に言った。
「うん、わかってるー」
私は焼き立てのトーストにはちみつを塗って口に運んだ。舌にとろりとした優しく甘いはちみつが絡まり、そのはつみつを後からパンが拭い取る。最後にホットミルクを胃へと流し込み、鞄を手にとった。
「行ってきます」
玄関を出て数歩。傘を持っていないことに気づいて、一度家に戻った。傘を掴み、もう一度行ってきますと告げて外へ出た。
雨が降らないうちに学校についていたい。
そんな気持ちは惜しくも叶わず、学校まで後少しというところで空が泣き始めた。
傘に雨粒が落ちて、乾いたような音がする。
私は育児に疲れた母のように、重い溜息を漏らして傘を開いた。雨粒が傘に着地すると、滑り落ちる。細かな雨粒が集まって、大きくなった粒が目の前に現れた時、私は見てしまうのだ。
女子生徒が男子生徒に告白をしているシーンだ。女子生徒はスカートを指先でつまみ、その指はかすかに震えている。意を決したのか女子生徒の口が動いた。女子生徒から発せられた気持ちを聞いて、男子生徒は途端に顔を赤らめる。
いいね、青春してるね。
そして、雨粒は映すのをやめ、地面に当たって弾けた。
細かな雨にも記憶は映るが、あまり見えない。水溜りに記憶は映らない。記憶が映るのは、降っている雨だけ。粒が大きければ大きいほど記憶ははっきりと見える。
そして、記憶を持つ雨と持たない雨があるのだ。
十六年生きてきて、この能力で得したことはなにもない。この能力のおかげで異世界に行けるとか、モテモテになるとか、前世の記憶が蘇ったとか、猫耳が生えるとかそんなこともなく、この能力以外は普通の女子高生だ。
正直、あっても困ることもないが得することもない能力である。
カバンが雨に濡れることを気にしながら、小走りで学校まで登校した。
度々視界の端に記憶が一瞬移り消えた。鮮やかな記憶が見えては消えていく。それはまるで夜の高速道路を走り、明るい電灯が横を通り過ぎていくようだった。
教室に着くと、窓際の席に座っている安原くんがいた。
「おはよう、安原くん」
「ああ……」
そっけない返事。
安原くんはいつもと変わらない。黒縁のメガネをして、教科書や問題集と戦っている。安原くんが人と話をして笑っているところを私は見たことがない。
私は笑わない安原くんの笑うところを見てみたいと思い、毎日色んな方法を試すのだが全て失敗に終わっていた。
今日はどんなことをしてやろうか。
そんな事を考えながら、安原くんの後ろの席――自分の席についた。教科書を取り出してからカバンを机の横にかける。
「ねえねえ、今日提出の宿題してきた?」
「した」
「じゃあじゃあ、ちょこっとだけ見せてもらえないかな?」
「自分で解きなよ、そのくらい。わからないところは教えてあげるから」
「安原くん、やっさしー!」
嘘だ。
私はもう宿題を済ませている。ただ、安原くんと何か言葉をかわしたかった。
「安原くん、昨日のテレビ見た? 芸人の本性を調べる番組なんだけどさー」
「それ見てない」
「あら、そうなんだ。おもしろかったよ! どんなのか教えてあげようか!」
「口動かす前に手動かしたら? あの先生、提出期限とか厳しいんだから」
安原くん、冷たい。
私は、人差し指で安原くんの広い背中をつついた。
「なに」
安原くんは、シャーペンを持ち、ノートに文字を刻みながら淡々と返事をした。鬱陶しそうな言い方でもなく、興味があるような言い方でもない。ただ、呼ばれたから返事をしただけという感じだ。
たまには愛想よくしてくれてもいいじゃないの……ばーか。ばーか、ばーか。
頬を膨らませ、口をとがらせる。
安原くんに話題を振ろうとしたら視界の端に記憶が映った。意識はそっちに奪われ、雨粒に視線を移す。
小さな男の子が、ゴールデンレトリバーと戯れているシーンだ。無邪気な笑顔を振りまき、男の子とゴールデンレトリバーは公園を駆け回っている。
芝生の上に転がり、ゴールデンレトリバーのお腹を撫でまくっている。
仲良さそうだな……。なんて思っていたら、映像はぐるりと変わり、男の子は成長していた。黒縁メガネをかけ、制服に身を包んでいる。
この制服うちの高校の指定のものと似ている。
男の子は毎朝女の子に話しかけられているようだ。男の子の頬はうっすらと赤くなっている。
あれ、この横顔……安原くん? ということは、話しかけている女の子は私?
続きが気になったが雫は窓に当たり弾けてしまった。
「なに?」
安原くんは前を向いたまま、もう一度私に聞いてきた。シャーペンを持つ手は止まることなく動く。
さっきの記憶のせいで、何を言おうとしたのか忘れてしまった。
話題を探し直すが何も見つからない。
「ご、ごめん。何言おうとしたか忘れちゃった、あはは」
口角を押し上げて無理矢理笑顔を作ったが、声は笑っていなかった。
教室の蒸し暑さに窓を開けたいのだが、雨が入ってくるからあまり開けることが出来ない。額に汗が滲み、制服が肌に張り付いて気持ちが悪い。わずかに開いていた窓の隙間を風が滑り込む。生ぬるく不快な風が教室から廊下へと流れていった。
そんな風なら吹かなくていい。
私はつい口をへの字に歪めて窓の外を睨んだ。
すると、
「なあ、天宮」
安原くんが私の名前を呼んだ!
細くなった目元がまんまるになって、一瞬、大きく目を見開いた。
「は、はい」
私はびっくりして一瞬返事が遅れてしまう。約二ヶ月間来る日も来る日も声をかけたかいがあったか?
まさか、告白されちゃう?
冷静を装い、心はうさぎのようにぴょんぴょん跳ねていた。
安原くんは、問題を解く手を止めて後ろを振り向く。私の瞳をじっと見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「天宮さ、俺の記憶覗いただろ」




