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COVERT―隠れ蓑を探して―  作者: 佐伯瑠璃
そこに抗う余地はなく
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「はぁ……」


 私は、溜息をつきながらロッカールームでジャケットを羽織り、バッグを肩にかけた。今夜、山崎さんがつばめ大橋で待っているって……。


ーー本当なの? 確かにあそこからならコンテナターミナルを見渡せるけれど。


 気が重いままバッグからスマートフォンを取り出した。今ならまだ断れる。そう思ったから。


「あっ……」


 メッセージが来ていた。さゆりではなく、山崎さんからだ。タイトルはなく、本文を開くと短い文章に彼の明確な意志が示されていた。


(お疲れ様です。週の半ばなのにすみません。でも、夜のコンテナターミナル、楽しみです)


「はぁ……。断れないじゃない」


 私は山崎さんのメッセージに簡潔に返信した。


(いえ、大丈夫です。では、後ほど)


 私は待ち合わせの時間まで、カフェで過ごすことにした。お食事を誘われても断れるように、軽く何かお腹に入れてから行こう。

 山崎さんはどこか取り付きにくく、いまいち性格を掴めない。甲斐田さんのように馴れ馴れしく接してこられても困るけれど、もう少しどうにかならないかなんて思ってしまう。


ーーひとのこと言えないのにね。






ーー午後7時半。


 夏恋は約束されていた場所、つばめ大橋までやって来た。ここは一般車両の通行が少なく、大型トラックや運送会社の車の通行が多い。コンテナターミナルの周辺には大手企業が倉庫を構えているからだ。


 夏恋が橋の(たもと)でまでやってくると、山崎はもうそこに立っていた。姿勢よく、気崩れていないスーツにビジネスバッグを持った彼は、この場所にそぐわない都会のビジネスマンに見えた。


「こんばんは」


 先に声を掛けたのは夏恋だ。さくっとターミナルの説明をして、さっさと家に帰ろうと決めていたからだ。


「こんばんは。今日は時間外にすみません。町田さんが、山口さんなら詳しいと仰ったので」

「詳しいというか、いつもモニターで見ている程度の知識なんですけど」

「謙遜しますね」

「別に謙遜なんて」


 相変わらず表情の薄い山崎に、夏恋は落ち込んだ。ひょっとしたら、今日のこれは自分に会いたいがための口実なんじゃないかと、心の隅っこで思っていたのかもしれない。


ーーそうだ、さゆりが無理やり約束させたんだ。山崎さんもきっと、本意ではないのよね。


 夏恋はつい、ネガティブな方向に物事を持っていってしまう癖がついていた。


「俺、外からこんなふうに見たことなかったんですよ。倉庫までは何度も足を運びますが、そこから先は踏み込んだことがなくて」

「そうなんですね」


 ほんの一瞬、静寂が二人を包み込んだ。海からの風が緩く吹いている。そして山崎が目元を緩めながら夏恋の方を振り向いた。


「きれいですね」

「えっ?」

「コンテナターミナルがこんなにきれいだなんて、思わなかった」

「ああっ、で、でしょう? 実はとってもきれいなんですよ。普通の夜景とは一味違います」


 あまりにも真っ直ぐに、山崎が夏恋の顔を見ながら「きれいですね」と言ったので、さすがの夏恋も胸が騒いだ。しかし、すぐに勘違いだと知り、夏恋の心は落胆と同時に安堵感が広がったのを感じた。気持ちを整えるように眼鏡を指の甲で上げてから、夏恋はターミナルの説明を始めた。


「使用していないガントリークレーンは、首を起こします。キリンみたいに見えるでしょう? そのキリンの頭や鼻先に赤いランプが点灯しています。一定の高さに達する建物は赤いランプを点灯しなければならないんです。ほら、空港が市内にあるから」

「ああ、なるほど」

「稼働中のキリンは首をコンテナ船に伸ばしっぱなし。この港は24時間、荷役ができるんです。それでも煌々と明かりをつけるわけにはいきませんから、あのようなオレンジ色の光なんです。夜間に作業している作業員たちへの配慮もあります」

「なるほど。あれは? クレーンの下で動いている」


 山崎が腕を伸ばし指した先を、夏恋は追いかけた。すっと伸ばされた腕、長くて男らしい骨ばった指。動いたときにかすかに匂った、ムスクとフローラルが混じったような優しい香り。その動作に目を奪われたのは夏恋自身、初めてのことだった。


「遠くて見えないか。トレーラーではないみたいなんですけどね」


 ふいに山崎が振り向いて、夏恋の顔を見下ろした。それがあまりにも近くて夏恋は思わず一歩後ずさった。その拍子に道路から一段上がった歩道から足を踏み外してしまう。背後にはガタガタと大きな音をたてて通るトラックやトレーラーが、橋をゆらしながら走ってくる。


「危ない!」


 山崎が咄嗟に伸ばした手は、夏恋の腕をしっかりと掴み力強く引き寄せた。夏恋は山崎の胸にトンと額をぶつけた。


「すみません! ごめんなさいっ」


 夏恋は眼鏡のフレームに触れて、ズレた位置をもとに戻した。それよりもなぜか頬が熱く、心臓がとてもうるさい。


「大丈夫ですか。ここ、トラックが多いですね。橋も揺れている」

「そ、そうなんですよ。この橋は年中無休で、ガタガタ鳴ってます。えっと、先ほどのアレ、ですけどストラドルキャリアという機械です。コンテナを集積場に一時保管するために使います。コンテナ三本同時に、運ぶんです」

「へぇ。優秀だな」


 仕事の話ならスラスラ言える。自信を持って、日本の港の素晴らしさを伝えることができる。なのに、今はどうしても山崎の顔を見ることができない。


「山崎さんは目が良いですね」

「あの、山口さん」

「はい」

「もしよかったら……」


 山崎が突然、夏恋の瞳を見つめながら何かを言おうとした。未熟な夏恋にだって彼が醸し出す空気は、それなりに読み取ることができる。おさまりかけていた心臓が、ドキドキと激しく鳴って息苦しい。


「山崎さんっ、あのっ」


 その時、電話が鳴った。夏恋は反射的にバッグからスマートフォンを出したが、通知はない。鳴ったのは、山崎のものだったのだ。


「はい……分かりました」


 夏恋は手に持ったままのスマートフォンをジャケットのポケットにしまって、山崎が通話中はずっとターミナルを眺めていた。頬に触れる風がやけに冷たい。火照った頬はゆっくりと冷えていった。


「山口さん、すみません。ちょっと仕事で呼び出されてしまいました」

「あっ、そうなんですね。早く行ってください」

「駅まで、送りますので」

「大丈夫です。バス停はすぐそこですから。ほら、アレ。もう見えてますし」

「そう、ですか? じゃあ、お先にすみません」

「お疲れ様でした」


 夏恋は駆けてゆく山崎の背中を見送った。軽やかな身のこなしを見て、また胸がざわつきはじめた。






 横断歩道を渡ってバス停まできた夏恋は、時刻表を見て眉間にシワを寄せた。バスは早くてもあと三十分は来ないと分かったからだ。港に近いとはいえ、観光客が来るような観光港ではない。さゆりが働くポートタワーの辺りなら、この時間ならひっきりなしに走っているのに。あいにくタクシーも走らない倉庫街に続く通り。


「仕方がないよね。歩こうかな」


 幸い外灯はたくさんあるし、十五分も歩けば大通りに出られるはずだ。トラックが通るとはいえ一人、ぽつんと待つよりは安全な気がした。


「よし、歩こう!」


 気合を入れた夏恋はバッグを肩にかけて、何かのときはすぐに連絡できるようにとジャケットのポケットに入れたスマートフォンに手をかけた。

 カツカツと靴の音が鳴り響く。自分の足音なのに追いかけられている様な気になり、駆け足ぎみに急いでしまう。


ーー私を襲う人なんて……いるはずっ!


 嫌な記憶が蘇る。それを必死にかき消して、夏恋は大通りを目掛けてひたすらに進んだ。そんなとき、視界の端に見覚えのある背中を捉えた。その人影は関係者以外立入禁止の門を飛び越えて、闇に消えてしまう。


ーーえ? うそ、山崎、さん? まさか……。


 足を止めて、山崎らしき人物が消えた建物をじっと見た。夏恋は車道の車を確認しながら、道路を渡って門の前までやってきた。


ーーここ、税関が管理している区域じゃない! しかも、門を飛び越えて行ったけど。


 嫌な予感がした。夏恋はすぐにその場から離れなければと、回れ右をした。関わってはいけない! 見なかったことにしよう!


ーーあれは山崎さんじゃないのよ。人違い。それより私は、何も見ていないからっ。


 本能が走れ! と言っている。夏恋は大通りへ視線を変えて、大きく一歩を踏み出そうとしたその瞬間。


「うっ……」


 夏恋は強い衝撃を体に受けて、視界が真っ暗になった。助けを求める声すら出す暇もなくアスファルトに沈んだ。肩にかけていたバッグはむしり取られ、どこかに放られた。


「さっさと積み込め! カメラ止めてるだろうな!」

「止めてます。それよりどうするんですか、この女っ」

「知るか! けど、見たかもしれないやつを泳がせておくわけにはいかねえだろうが」

「また……やっかいなもん拾ったな」

「声……声だけは落としましょう」


 数名の男の声が飛び交い、黒のワゴン車に夏恋は押し込まれた。


「おい、見ろよこの女の社員証。国際コンテナターミナルって書いてある。使えるかもしれないぞ」

「へぇ。ベッセルプランニングねぇ。知ってるものは全部吐かせるか。要らなくなったら捨てればいい」

「そうだな。この辺の港はニュースにもならない、身元不明の遺体が上がるらしいからな」

「見た感じ地味そうだし、自殺したっておかしくないですよね」


 物騒な会話は夏恋には届かない。ワゴン車は夏恋を乗せたまま、西に向かって走り去った。



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