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泳ぐもぐら

作者: 村崎羯諦

 玄関が開く音が聞こえ、ソファで文庫本を読んでいた僕は顔をあげた。廊下につながる扉を注視していると、ほどなくして妻がリビングに入ってきた。


 土で汚れた妻の右手には、こげ茶色の小さなもぐらが握られていた。土が付いたままのもぐらはぐったりとうなだれ、最初は死んでいるのかと思った。しかし、よく観察してみると、ひげがかすかに動いていた。時々思い出したように体中をくねらして、妻の右手から逃れようともしていた。


「ねえ、可愛いでしょう」


 妻が笑い、ピンク色の歯茎がむきだしになる。そのまま彼女は僕に近づき、テーブルの上にもぐらを放り投げた。もぐらは打ち付けられた衝撃に身を悶えさせ、しばらくするとピクリとも動かなくなった。しかし、僕が右手の人差し指でつつくと、反射的に身体を反応させ、何かから逃れようとバタバタとのたうち回った。


 僕は文庫本をテーブルに置きながら、じっともぐらを観察する。ビーズほどの大きさのつぶらな瞳、先がとんがった愛くるしい鼻。なるほど確かに愛玩動物に引けを取らないかわいらしさがあった。


 君の言う通りだ。そう言おうと思って、周りを見渡した。しかし、いつの間にか妻はリビングから姿を消していた。遠くから、洗面台で水が流れる音がする。おそらく手に着いた土を洗い流しているのだろう。しばらく待っていると、妻は水をたっぷりと入れた水槽を両手で抱えながら戻ってきた。


 その水槽は数年前、出店で手に入れた数匹の金魚を飼うために購入したもので、金魚が死んでしまって以降、ほったらかしにしていたものだった。


 妻はテーブルに水槽を置き、僕の方を見て、もう一度不敵に微笑んだ。その笑みはいたずらを考え付いた幼い子供のような笑みだった。


 そして、彼女は再び土で汚れたもぐらを乱暴につかみ、そのまま躊躇することなく水槽の中に放り込む。


 突然水の中に落とされたもぐらは、先ほどまでの大人しさをかなぐり捨て、両手両足をしゃにむに動かした。小さな手が水面を打ち付けるとともに、小さな水しぶきがあたりに飛び散り、テーブルに置いていた文庫本の表紙に水滴が付く。


 妻は必死にもがくもぐらを見ながら、大声で笑いだす。口は裂けるよう開かれ、糸のように細くなった目の端からはうっすらと涙が溢れ出していた。お腹を両手で押さえ、前かがみになりながら、それでも妻は笑い続ける。


 まさに妻は腹の皮がよじれるほどに笑っていた。そして、次第に本当に妻の腹はよじれていった。腹部が一回、二回と回転し、臀部、胸部もまたお腹に巻き込まれるようにしてよじれていく。高らかな笑い声とともに、回転速度は速くなり、妻の身体全体は水を絞った雑巾のようになり、さらに一本の縄になった。


 縄となった妻の身体はそれでもねじれることをやめず、太さは小指ほどになり、高さも天井を突き抜け、空高く伸び続けた。


 僕がソファから立ち上がり、突き破られた天井から外の様子を見ると、すでに縄となった妻は雲を突き抜け、先っぽはすっかり見えなくなってしまっていた。耳を澄ますと、かすかに雲の向こうから妻の笑い声が聞こえるような気がする。


 あれだけ笑っていたら、過呼吸になってしまうかもしれない。突然、僕は妻の様子が心配になった。そこで、僕は縄となった妻の身体をつかみ、先端を目指して登り始めた。


 家の高さを超え、高層マンションの高さを超え、雲を通り抜ける。部屋着のままだったので、身体は凍えるように震え、手は素手だったのでじんじんと痛んだ。


 引き返そうか。そう考えた時、ようやく縄の先っぽが見えた。


 妻の頭であるはずの先っぽはもはやその原型をとどめておらず、ただ見かけはささくれた縄の先端だった。もしそこから妻の聞きなれた笑い声がしていなかったら、僕がしがみついているこの縄が妻であったことをすっかり忘れてしまっていたかもしれない。


 僕はとりあえず妻に落ち着いたかと尋ねる。それから、右ポケットに入れっぱなしになっていたハンカチで、家の天井を突き破った際についたほこりやら汚れを拭ってやる。すると、妻はくすぐったそうに嬌声をあげたので、僕も思わずつられて笑ってしまった。


 二人分の笑い声は眼下に広がる雲に反響し、まるで大勢の人間が同時に笑っているかのように響き渡った。それがあまりに大きな声だったせいか、隣を通り抜けた一匹の燕は耳をやられて真っ逆さまに地上へと落ちていき、はるか遠くを飛んでいた飛行機は真っ赤な閃光を発して爆発した。


 妻はもう少しだけと愛くるしい声で甘えてきたが、さすがにこれ以上縄につかまっていることはできそうになかった。そのため、僕は妻に断りを入れ、登ってきた時よりもゆっくりとしたペースで地上へと下っていった。


 手の疲れと寒さと闘いながら、長い時間をかけてようやく僕は家のフローリングの上に降り立った。安堵と達成感で思わずため息がでる。先ほどまで寒さで震えていたくせに、暖かい家に戻るやいなや、全身からどっと汗が噴き出してくる。


 そういえば。


 僕は額に浮かんだ汗を袖口で拭いながら、テーブルの上に放置されていた水槽へと目をやった。


 その中では、先ほどまで溺れかけていたたもぐらが、狭い水槽の中を両足を器用に動かしながら華麗に泳ぎ回っていた。水槽の端までたどり着くと、くるりと回転し、天井に腹を向けた状態で水中をゆったりと進んでいく。そして、 再び水槽の端に着き、後頭部をガラスの壁にぶつけると、もぐらはこっ恥ずかしそうな表情を浮かべ、今度はシンクロ選手のように洗練されたフォームで水槽の中を旋回する。それはまるで、先ほどの失態をごまかそうとしているかのようだった。


 私はその光景をじっと観察した。


 そして、泳ぐモグラに飽きると、僕はソファに腰を下ろした。そして、テーブルに置いていた文庫本を手に取り、先ほどの続きを読み始める。


 はるか上空ではまだ、妻の甲高い笑い声が響き渡っているような気がした。


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