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ウズマサとはイエス・キリストの事である

  


                    プロローグ


――イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった時、見よ、東から来た博士たちがエルサレムに着いて言った。「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私達は東の方でその星を見たので、その方を拝みに来ました」

 ヘロデ王はこの事を聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。そこで王は祭司長達と律法学者たちとを全部集めて、キリストは何処に生まれるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った。

「それはユダヤのベツレヘムです。予言者はこうしるしています。

   おまえはユダの君の中で、

   決して最も小さいものではない。

   お前の中から一人の君が出て、

   わが民イスラエルの牧者となるであろう。

 そこでヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った。「行って、その幼子の事を詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みにいくから」。

 彼らは王の言う事を聞いて出かけると、見よ、彼らは東で見た星が、彼等より先に進んで、幼子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家に入って、母マリヤの側にいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデの所に帰るなとのみ告げを受けたので、他の道を通って自分の国へ帰っていった――

 ――マタイによる福音書、第2章――


 羽多の朗読が止む。春4月とは言え、深夜の空気は冷たい。波多は目の前の黒い影を凝視する。彼は気が強い。大きな不気味な影に、負けじと威勢を張る。

 所は京都、広隆寺境内。拝観は夕方5時で終わる。人気はない。南大門の奥に上宮王院、本堂がある。その手前右横に太秦殿がある。裏手に囲いがある。樹木が林立している。


 波多は黒い影を見詰めたままだ。影は身じろぎしない。

「キリストの誕生が、太秦の秘宝と関係があるのか」

図太い声が沈黙を破る。

「東方からやってきた博士たちの記述は、マタイ伝にしかありません」

 波多は一息つく。用心深く答える。

「この話は作られたものと思われます。もし事実なら、イエスの生まれた年月が正確に把握された筈です」

 ここで重要なのは、当方から来た博士が生まれたばかりのキリストを礼拝したという記述にある。

「つまり・・・」黒い影があとをつぐ。

イスラエルの失われた十支族と原始キリスト教が接触した事を暗示している訳か・・・。

「それで、太秦の秘宝は判ったのか」図太い声。

波多は頷く。

「あなたには教えられません」

「ほうどうしてかな」

「あなたはイルミナティだからです」


                   波多家の秘密


 平成16年、波多幾雄、30歳。独身。

 彼は常滑市、中部国際空港が遠望できる高台に住んでいる。5年前に父を失う。2年前に母と死別。死ぬ前に、これをと言って、母は桐の箱を波多に手渡す。

――先祖代々、波多家に伝わる家宝――母の最期の言葉である。

 桐の箱――小学生のランドセル程の大きさ。箱は真新しい。箱の中には父の書き残したメモ用紙が入っていた。

――昭和天皇、崩御の年に箱を替えた。

 箱の中には和紙に書かれた古文書が入っている。紙も比較的新しい。父のメモには、祖父から受け継いだ時に、書き換えたとある。

 一枚の大きな和紙に波多家の系図が書かれている。初代は秦河勝。波多は驚く。自分の御先祖様を一度も聞いた事がない。父は、先祖は岡山から常滑にやってきたと言うばかり。

 波多は他の和紙を拡げる。父の筆跡だ。代々書き換えられてきたと思われる。古文書を箱から取り出す。箱の底が浅い。2重底になっている。箱をさかさまにする。2重底の蓋が取れる。中から古びた古文書が出てくる。

 内容は父の書き換えた古文書と同じだ。父は現代文に書き換えている。

 ・・・俺が読める様に、現代語に訳したのか・・・

波多は父の優しさを思い出す。


 波多家は明治になって,岡山からやってきた。土地はただみたいに安かった。昭和のはじめに祖父が土管屋を始めた。昭和25年に祖父が死亡。父が後を継ぐ。昭和40年頃、土管は下火になる。ヒューム管、ビニール管等の普及で土管の需要が減る。父は工場の跡地に借家を建てる。借家の管理は不動産屋に任せる。

 波多幾雄は昭和39年に生まれている。彼が物心ついた頃には、家の周囲は十数軒の借家で占められていた。一部取り壊しを免れた工場があれた姿をさらけ出している。

 波多は利かん坊だった。自分がこうだと決めた事は、決して譲らない。学校でよくケンカをする。生傷が絶えない。腕力があるので、ケンカ相手をこっぴどくやっつける。喧嘩相手の親や学校から苦情が出る。謝るのは父の役目だった。

 父は温厚な人物だった。人当たりが良い。息子がケンカしても決して怒らない。父は波多幾雄の良き理解者だった。


 今――父を思い出す。波多は高校までしか行っていない。もともと勉強は好きではない。それに出世欲もない。定職に就かずブラブラしていても、父は小言一つ言わない。見るに見かねた母が職を見つけてくる。

宅急便の仕事だ。小包を配送するのが主な仕事。性に合っているのか、今日まで続いている。

 波多は桐箱から波多家の古文書を取り出す。御先祖が秦河勝。父からそんな事は一度も聞いた事がない。母も話した事がない。

 だが、病院で亡くなる前、母は息子に告げている。桐の箱を開けて、それをどうするかは、自分で決めなさい。それがお父さんの意志ですよ。

 波多は古文書を手にする。壁に掛けられた鏡を見る。眉が太い。顔全体に比較して眼が小さい。大きな鼻、面長で厚い唇が突き出ている。母似だ。

 ここは父の書斎。平成元年に建て替えている。南向きの玄関は畳2枚分の広さ。上がり框の左側が一間の広縁、その奥に8帖の和室が2間。上がり框の正面が16帖の応接室。応接室の北側に10帖の台所、右側に風呂、洗面室とトイレがある。

 波多幾雄の部屋は台所の西側、8帖の和室の北側にある。両親の部屋は上がり框の右側。田の字型だ。その1室が洋間で父の書斎。父は読書家ではない。3つある本棚に雑多な本が並んでいる。旅行の本。父は旅行が好きだった。一ヵ月に一回は母を連れて一泊旅行に出かけている。焼き物の本、日本文学、冠婚葬祭のハウツー物。健康食品、薬、株、税金、色々な本が並んでいる。

 波多は往時の父を思い出す。多彩な趣味の持ち主だ。

 波多はパラパラと古文書を拡げて見る。現代語とは言え、難解な文字が並ぶ。京都や奈良にある神社の名前が出てくる。伊勢神宮の名前もある。

 波多は読書が苦手だ。古文書の難解な文字を見るだけでもウンザリしてくる。これが波多家の家宝か。

波多は失望感を隠さない。古文書を箱にしまう。

・・・そういえば・・・死の間際、気が向いたら開けなさい。母が手渡した文箱があったのを思い出す。

 書斎の隣が母の部屋。まだ片付けが済んでいない。母の戸棚の中に入れたままだ。文箱を取り出す。下地が漆黒、桃色の桜の花がちりばめられている。

 中を開ける。鍵と数字の書いたメモ用紙が入っている。

・・・この鍵は・・・、波多は本棚の間にかかっている絵を見る。新聞紙2枚折りの大きさだ。金箔塗の額縁だ。絵は山の中に入ろうとする夕日、赤い太陽だ。

――天照大神の象徴だ――父の口癖だ。

 絵の裏に隠し金庫がある。父が開けるのを見た事がある。金庫の中に、波多家のお宝があるのか、波多は胸がときめく。絵を取り外す。メモ用紙の数字に従って、金庫のダイヤルを回す。金庫を開ける。中には十数冊の本、手紙が入っている。

 本は日本の古代史ばかり。

手紙は息子に宛てた父の遺書。読み終えて、波多の心に再び失望が広がる。

 内容は、古文書とここにある本を参考にして、波多家の秘宝を探せと言うものだ。

波多家の御先祖は秦河勝、秦氏の宝物――太秦の秘宝が日本の何処かに秘匿されている。自分が御先祖の夢を果たそうと思ったが、出来なかった。お前が捜すのも良し、後世に託すのも良し。


 波多幾雄は父の遺書を手にしたまま、書斎の応接用ソファに、どっかと腰を降ろす。天井の蛍光灯を見る。

・・・俺では無理だわ・・・

――太秦の秘宝――何かとてつもないお宝のようだが、本を読むのが嫌い。暗号解読やパズルは性に合わない。

・・・親父、ごめんな・・・波多は古文書も一緒に金庫の中に放り込んだ。金庫を閉める。


                     古川安男


 波多は朝7時に起床する。朝食を済ます。母が生存中は、食事は母が作ってくれたが、今、独り身になって、毎日食事を作ってくれた母の有難みを身に滲みている。

 8時に配送センターに直行。宅急便の宛先をチェック。波多の受け持ちは常滑、半田、武豊だ。1日平均約百軒回る。多い日は百軒を超える。荷物は地区ごとに整理する。片っ端から電話を入れる。電話によって、午前、午後、夜間と配達の区分別けをする。

 宅配の半数は午前中で終わる。午後はお客からの配達希望のみだ。夜は6時から8時まで。今は配達の要領を飲み込んでいる。場所もほとんど頭に入っている。少ない時間で多くの配達物を処理できる。

 空いた時間は喫茶店でお茶を飲んだり、レンタルビデオ店でDVDを借りて家で過ごす。

1週間の内、1日は仕事をしない。その日はドライブに出かける。車で片道1時間ぐらいの所に行く。


 平成16年4月中旬、知多半島の先端、師崎に行く。魚料理が食べたくなったのだ。知人が料亭を経営している。1年に2,3回は出かける。

 仕事の関係上、一泊は出来ない。朝10時に家を出る。約45分で料亭に到着。朝風呂に入る。昼には魚料理を堪能する。酒を飲むので、夜7時に夕食を摂る。9時には料亭を出る。10時頃帰宅。予定は以上だが、いつ何の連絡が入るかも判らない。急用が出来たら知人に自宅まで送ってもらう。

 まず風呂に入る。温泉だが冷泉だ。地下2百メートルから汲み上げている。温泉場は10坪程の広々とした大きさだ。誰もいない。手足を伸ばしてのんびりできる。

 風呂に入って10分すぎる。出入り口のガラス戸が開く。中年の男が入ってくる。波多に軽く一礼をする。波多の顔をじろじろ見る。

 気の強い波多は口をとがらして、相手を睨み返す。

「あなた、常滑の波多さんじゃありませんか」男は眼尻を下げる。なれなれしい声で近ずいてくる。

 波多は湯舟から上がると、黙って男を睨み返す。

「私、昔、あなたのお父さんにお世話になりました」

 男は波多の側に来ると、湯舟の段に腰を降ろす。

父は土管をやっていいた頃、陶管組合の理事長をしていた。民生委員も務めていた。男は父の事をよく知っている。ベラベラとよく喋る。波多は段の腰を降ろす。男の声に聞き入る。

 男は腰が低い。喋り方も丁寧だ。気の強い人間は、こういう人間には弱い。風呂から出る頃には意気投合する。波多の部屋で料理をつつきながら一杯やるまでになる。

 波多は今日は1日休みを取ってここに来たと話す。男は自己紹介する。海産物の買い入れのために師崎に来た。一風呂浴びて食事を摂って、夕方名古屋に帰る予定という。

 男は話題が豊富だ。巧みな話術で波多を魅了する。男の話に聞きほれる。男の口元に釘付けになる。

2時間3時間と、瞬く間に時が過ぎていく。酔いも手伝って、波多はいつの間にか前後不覚になる。気が付いた時は夜11時になっていた。男はいない。料理やビールの空瓶も片付けられている。波多は寝具の中で横になっていたのだ。

 慌てて飛び起きる。料亭の主人を呼ぶ。男から代金を貰っている。酔いつぶれているようだから、起こさないようにとい言われた。

 波多は主人に謝礼をする。自宅に帰る。


 家に帰って呆然とする。玄関引き戸を開ける。電灯をつける。家の中が乱雑に荒らされている。勝手口のガラスが割られている。警察に電話する。30分ぐらいして警察の現場検証が行われる。1時間後、波多の事情聴収が行われる。警察の現場検証後、改めて自分の眼で確かめる。母の部屋、本棚、物入、部屋という部屋がかき乱されている。父の書斎の金庫もハンマーでたたいた跡がある。警察の了解を得て、荒らされた物を整理する。

――何も盗まれてはいない――

 波多は自分の部屋の小物入れに現金を入れている。金額にして30万円。お札は床に散っていたが、一枚たりとも無くなってはいない。

――物取りの犯行ではない――

・・・誰が何の目的で・・・


それから1か月が過ぎる。

 宅急便は主に常滑市内に重点を置いている。半田や武豊は主に午後から夕方になる。

その日――、名鉄河和線富貴駅から約1キロ西に配達する。知多カントリークラブの入口手前から北に入った所だ。10軒の集落がある。道は狭い。周囲は林だ。

 配達が終わる。雑木林に入る。前方から2台の車が、ライトをつけたまま、波多の軽四のライトバンの行方を阻む。波多は車を道路脇に止める。2台の車から4人の男がバラバラと降りてくる。波多を車から引きずり出す。

 1人が声をあげる。

「古文書はどこにある!、太秦の宝だ!」

 咄嗟の出来事だ。車から引き出された波多は声が出ない。

・・・殺される!・・・恐怖心が行動へと駆り立てる。

「ワッ!」と叫ぶ。1人を突き飛ばす。

「助けて!」声を張り上げる。脱兎のように駆ける。

 波多は部落の方へ走る。あらん限りの大声を張り上げる。不意を突かれた男達は追うのをやめる。車に乗り込んで走り去っていく。

 終日間、家に閉じこもる。宅配の仕事も中止する。

――太秦の秘宝を狙っている者がいる――

師崎の料亭で一緒になった者も、一味の仲間なのだろう。

 父が書斎に頑丈な金庫を作ったのも盗まれたくなかったからだ。母も古文書を守り通したに違いない。

・・・それなのに俺は・・・両親の苦労をよそに、好き勝手な事をやってきた。

 気の強い波多は、強く攻められるとウンとは言わない。両親もそれを知っている。後は息子の運次第と、運を天に任せたのだろう。改めて古文書と十数冊の本を取り出す。古文文献や歴史の本など今まで読んだ事もない。知識もない。

 俺では無理か・・・。波多は絶望する。次の代に先送りするか・・・。波多は思いあぐむ。

俺を襲った奴らはまた何か仕掛けてくるに違いない。両親が大切に守り抜いてきたお宝だ。渡すわけにはいかない。何とか自分の力で・・・。

 ・・・パートナーがいれば・・・

自分では何も出来ないが、古文書や古代史に詳しい者なら、それも絶対に信用できる奴・・・


 平成16年6月、波多は宅配の仕事を辞める。父の書斎に事務机を2台置く。資料棚も用意する。パソコンを購入。インターネットも始める。

用意万端、後は数日後に来るパートナーを待つだけ。彼の名前は古川保男、幼馴染だ。中学校まで波多の家の近くに住んでいた。高校の時、武豊に引っ越す。1年に3,4回会食が目的で会う。武豊の大手企業に勤務するサラリーマン。趣味で日本の古代史を研究している。人間的にも信頼できる。

 波多は事情を説明する。古川は度の強い眼鏡の奥から興味津々の眼つきをする。1も2もなく承諾する。ただしと条件が付く。波多の家を研究の場とする事。土曜と日曜、祭日のみ。平日は夕方6時から。

――飯は奢れよ――という事だ。


                    秦一族


 6月下旬、古川がやってくくる。彼は小柄で痩せている。細面の顔で頬がふっくらしている。3分刈りの頭、臆病そうな顔つきで無口だ。その外見に反して、彼は自己主張がしっかりとしている。

 波多は我が強いし短慮だ。2人の共通点は何物にも縛られたくない事だ。自由気ままに生きたい。

古川は読書を無上の喜びとしている。大学卒業後、武豊の大手企業に就職したが、昇進の話はすべて断っている。定時に会社に入る。定時に会社の門を出る。波多と同じく独身。

 波多は挨拶もそこそこに、古文書や文献を見せる。

「コーヒーを入れてよ。しばらく話しかけないで」

古川は古文書や文献を事務机の上に広げる。


 古川が波多の家に来たのは夕方6時、勤務先を5時半に出ている。自宅に帰らずそのまま波多の家に来ている。車は軽四.収入の大半は本代に消えている。古川は武豊町富貴に住んでいる。古川の父が中古の建売を購入している。今は一人暮らし。25坪の住宅。2階の2部屋は本が山住になっている。


 8時、「説明するから来て」古川の声。波多はコンビニで買った弁当を電子レンジで温める。お茶を持って書斎に入る。

 古川は弁当を摂る。食べながら説明する。

「これ駄目だわ」以下古川の説明。

 問題は古文書、散逸した箇所が多い。バラバラ呼んでも意味をなさない。和紙の古さから見て江戸時代に描き直されたと思われる。長い年月、戦乱もあったろうし、火事もあったと想像される。

 ――ただ、無いよりはまし――

 次に十数冊の本だが相当古い物もある。新しい本もある。古文書を補足するために集めたのだろう。

「じゃ、宝探しは無理か」波多は失望する。

「いや、そうでもないが、時間がかかるよ」

波多の父の書いたメモ用紙が唯一の便りとなると言う。


 弁当を食べ終わる。お茶を飲む。

「この前の話だがね」古川が度の強い眼鏡をたくし上げる。

 家の中が荒らされたリ、襲われたリしている。

「敵はあんたの事、監視しているんじゃないの」

敵――という言葉を聞いて波多は苦笑する。

 波多は書斎の南側の肘掛け窓を指さす。雨戸が閉めてある。窓の外は庭だ。家の周囲は垣根で覆われている。垣根の外が駐車場。

 家の庭に数ヵ所防犯用センサーを取り付けてある。人が家に近ずくと、防犯用の照明灯が点灯。防犯ベルも大きな音を出す。古川の不安を払拭するために説明する。

 古川は身じろぎもしない。眼鏡の奥の眼が不安げに光っている。

――僕も襲われるかもしれないな――ぼそりと呟く。

 古川は提案を出す。

毎日、ここまで通うのは大変だから、ここで寝泊まりさせてほしい。2人でいたほうが心強い。波多は応諾する。

 ――その上でと――古川は今後の進め方について話す。

波多家のご先祖、秦河勝が太秦の秘宝に関係している可能性がある。歴史的に判明している事から研究していく。ここにある資料を、その度にジグソーパズルのように当てはめていく。

 波多は否応もない。古川の提案通りに前進するしかない。良きパートナーを得たと感謝しなければならない。


 早速だが――古川は秦河勝について述べる。

 推古朝の聖徳太子の近侍者。山城国葛野郡を本拠地とする秦氏の族長。日本書記、広隆寺所蔵の資料などから推古天皇11年(603)聖徳太子より仏像をうけ葛野に蜂岡寺(広隆寺)を建てたとする。

 同18年に来朝した新羅、任那使の導者となる。皇極天皇3年(644)東国不尽河(富士川)のあたりで大生部多が蚕に似た虫を常世神としてまつり、巫覡もこれにことよせて村里を迷わせたので、彼らを打ち懲らしめたと言う。

 聖徳太子伝暦には、用明朝に物部守屋の討伐に、太子の軍成人として参加し、冠位十二階の大位、のち小徳を賜わったと言う。

 古川は棒読みする。

――以上国史大辞典からの抜粋だ――


 波多は黙って聞いている。秦河勝は高校の日本史で習った。歴史に出てくる有名人だ。自分の御先祖様とは晴れがましい。

「たったそれだけ?」古川の説明は簡単すぎる。

「ああ、表向きはね」

「表向き?」波多はオーム返しに問う。

「実はね・・・」古川は語気を強める。

 秦氏は大変な氏族だと言い出す。当時の秦氏の頂点にいたのが秦河勝。朝鮮半島から秦氏が渡来してきたのは4世紀頃と言われてる。あるいは3世紀頃には渡来していたと言う説もある。

 6世紀、欽明天皇は渡来人を集めて、各地の国郡に配属して戸籍に入れた。この時の調査で秦氏の戸数は全国で7053戸と言う。昔は大家族制だ。一戸で十数人はいた。

 古代の戸籍を見ると秦氏は全国に広まっていた。秦野、太秦、畑、波多、幡多など秦氏にちなむ地名が数多く存在する。秦河勝はこれらの秦氏を束ねる実力者であった。

 秦氏と言うと有名なのは殖産、主に絹や綿、糸の生産。秦氏の支族に服部氏がいる。服部とは文字通り、機織部を言う。

 だが秦氏が持ち込んだ技術は殖産だけではない。土木、建築、芸術、宗教に至るまで幅広いハイテク技術を有していた。

 秦一族の技術がどれほどのものだったか、古事記、日本書紀に詳細に記されている。

 大阪平野は大きい川がいくつも流れている。難波のあたりは淀川や大和川などが合流している。河口まで低い土地が広がっている。その為、大雨が続くと川が氾濫する。大水害に見舞われる。

 往古、河内王朝も頭を悩ましていた。あれこれと小手先の処置を施すがすべて失敗。仁徳天皇は大治水に本腰を入れる。秦氏を起用する。

 古事記――また秦氏をてて、茨田堤または茨田三宅を作り、また丸邇わに池、依網よさみの池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通わし、また小橋江おばしえを堀り、また墨江の津を定めたまひき――

 堤と言っても、巨大な川を支える堤だ。池や堀を幾つも造ったと言うから、国家的規模の一大事業だ。それを秦氏に一任した。

 秦氏の治水工事は成功した。この時造られた茨田まんだ堤の一部は、現存している。

――葛野の大堰――

 京都、嵐山、大堰川にかかる渡月橋、橋の下がダムのようになっている。これを葛野の大堰と言う。

 古代、嵯峨野から宇多野一帯は水の便が悪かった。山背の地に移り住んだ秦氏は桂川に目を付けた。嵐山あたりを流れる桂川に堰を建設。代わりに宇多野に伸びる小路を掘る。つまり一時的に堰き止めした水を引いてこようとした。当時としては革新的な発想だ。秦氏のハイテク技術の賜物だった。

 京都盆地を縦に流れる鴨川は水量も多く、毎年のように氾濫を繰り返していた。秦氏は鴨川の流れを変えた。

 山背の土地は多くの池や沼が散在する劣悪な湿地帯だった。建物を建てても家が傾いてしまう。

秦氏はここに平安京を建設。この土地に使う土を塩基性、すなわちアルカリ性の物を使用。湿地帯に薄く何層も重ねて盛っていく。こうして御所が造られる。

 秦氏が本格的に渡来してきたのは4~5世紀。この時期を境に巨大墳墓が出現する。それまでは数十メートル程の古墳が一気に百メートルを超える超巨大古墳となる。応神天皇陵を始めとして、仁徳天皇陵、履中天皇陵、スケールの大きな古墳は秦氏の力によっている。

 秦氏は帰化民族としては不可解なほど神祇信仰と密着している――平野邦雄著、(帰化人と古代国家)

 稲荷神社――京都の伏見稲荷大社が発祥、神社の由来書によると秦伊呂具が創建

 八幡社――九州の宇佐八幡宮が総本山、

 原始八幡信仰を担っていたのは、地元豪族、秦氏の氏族辛嶋氏によって創建。

 その他松尾神社、四国金毘羅宮、一名コンピラさん。白山神社、ここは秦澄によって開山。

 京都広隆寺、ここは秦氏の氏寺で、秦公寺、太秦寺、蜂岡寺と呼ばれている。この寺に安置されている数々の仏像の中で、ひときわ目を引く仏像、弥勒菩薩半跏思惟像がある。国宝に指定されている。

 芸術の分野で活躍する秦氏も多い。法隆寺、天寿国曼荼羅繡帳を描いた秦久麻、東大寺の厨子の彩色を施した秦連稲守、絵師の秦堅魚など、万葉集には秦忌寸八千鶴、秦田麻呂、秦許編麻呂の名が出てくる。

 古川はここで息を入れる。


                      出会い


 ――今日はここまで――古川の声で、初日はお開きとなる。君のご先祖様は大変な氏族だぜ、古川の印象だ。

 翌朝、これからもっと難しくなる。ここ数日間は資料集めに時間を取られる。君も本に目を通してくれ。

秦氏がどこからやってきたかが判れば、お宝も自然と判明する筈だ。

 古川は朝食を摂ると会社へ出勤していく。

 波多は古川に言われた通りに本を読む。父が残した本は内容が難しい。字面を追っているだけだ。頭に入らない。それでも1時間ばかり本とにらめっこする。頭が痛くなる。我慢できなくなる。本を金庫にしまう。家の中を厳重に戸締りする。古文書、数十冊の本は全部コピーしている。

・・・ちょっとお茶でも飲みに行こうか・・・

 波多は家の中でじっとしているのが好きではない。外を思い切り駆けずり回りたい。宅配便を仕事に選んだのも性に合っているからだ。

 波多の車は白のカローラ。半田市街まで約10分。適当に車を走らす。気が向いた方角に行く。半田市の北に阿久比町がある。昔は紡績で栄えた町だ。今もその面影がある。阿久比町役場前の県道を北に走る。中央自動車道阿久比インター前の道に出る。西に行く。阿久比町の町はずれに新しい喫茶店がオープンしている。

・・・入ってみるか・・・物珍しさで自動ドアを開ける。入り口の正面奥に洗面室がある。右手にテーブルが6脚。左に3脚のテーブル。その奥がカウンター。

 客はまばら。「いらっしゃい」紺の半袖を着たウエイレスが声を掛ける。むき出しの白い腕がなまめかしい。クーラーが快適だ。波多はコーヒーを注文する。カウンターの中にいる女性が波多の方をじっと見ている。長い髪だ。涼しげな表情をしている。まだ若い。彼女はウエイレスから波多の注文を聞くと頷く。

 数分後、カウンターの女性がコーヒーを運んでくる。

「あの・・・、もしや常滑の波多さんでは・・・」遠慮がちな声だ。きれいな表情をしている。頬に赤みがさしている。

 波多はびっくりして女性を見上げる。彼女は波多の向かい側の席に腰を降ろす。

「私、斉田です」眼がキラキラしている。斉田春子の娘、志保と名乗る。

 斉田と言えば、昔、波多製陶所で働いていた従業員だ。波多が生まれる翌年に陶管業を廃業している。以後、斉田志保の両親は知多市の居酒屋で住み込みで働いている。

 時々波多の家に遊びに来ている。波多の父も斉田の居酒屋で飲んでいた。

「あんた、志保坊か!」波多の大きな声、

 斉田志保は白い歯を見せて笑う。

「相変わらずフーテンの寅さんですね」

 波多は家にいる日が少ない。ブラリと出て行ってはブラリと帰ってくる。波多はブラブラするのが好きなのだ。

 斉田志保は幼い頃から波多の家に来ている。

波多は志保の顔を見る度に、志保坊と呼んでいる。

――坊じゃない――志保は口をとがらしては食ってかかる。

 その志保も中学校を卒業した頃から、バッタリと姿を現わさなくなる。彼女の父親が死んだ。母と娘の苦しい生活が続いたと、波多は風の便りで聞いた。


 久し振りに見る志保の顔、苦労している筈だが翳がない。ゆったりとした表情だ。中学生の時の面影が淡い。豊かな頬が印象的だ。鼻梁が高い。

「お母さんは?」波多はコーヒーを飲む。2年前に・・・」亡くなったと言う。その時だけは眼を伏せる。大きな眼で波多を直視する。物おじしない。

「小さい頃はよく遊んだなあ」波多は感慨深げだ。

「ウソでしょう」志保は嫌味のない笑いかたをする。

 実際、志保と遊んだ覚えはない。

斉田の母が志保を連れてやってくる。

「志保ちゃんと遊んでやりなさい」波多の母。

「嫌だよ」波多は志保の頭を撫ぜる。

「志保坊、キャラメルやるから、一人で遊んでな」プイっと外へ飛び出していく。

 波多は照れ笑いをする。

「あなたのお父さん、言ってましたよ」屈託のない声。

「えっ?何て」

「道楽息子ですって」

言われて、波多はぐうの声も出ない。苦笑いするだけ。

 

 斉田志保は今年25歳。知多市で母と2人で小さな居酒屋をやっていた。母が亡くなる。居酒屋をたたむ。今年、ここが開いている事を知る。大家と交渉、建物の内装は賃借人負担と言う条件で借りる。

 波多は少し前まで宅配便の仕事をしていたと話す。御先祖様のお宝を探しているとは言いにくい。相変わらずブラブラしていると話す。

 3人の客が入ってくる。ごめんなさいねと言いながら、志保は席を立つ。カウンターの中に入って行く。


 波多はまた来ると言って店を出る。


 夜、古川に話す。

「まだ独身か?」古川は波多の顔を覗き込む。

「多分・・・」波多の曖昧な答え。

「馬鹿だなあ、お前、一番肝心な事じゃないか」

 今度一緒に行こうと言う。その上で

「お前、結婚しろよ。お前んとこの飯、まずいんだよ」

俺は口は奢っていないが人並みの物を食わせろ。毎日まずい物を食わされたんじゃ、長居は出来ないと言う。

 波多は苦笑いをする。

朝はインスタントみそ汁。卵にノリ、漬物。夜は給食センターが持ってえ来るおかず。電子レンジでチンするだけ。


                    秦氏の謎


 平成16年6月下旬の土曜日。

波多は古川を連れて、斉田志保の喫茶店に行く。

午前11時。客の入りは6分ぐらい。志保は2人を暖かく迎えてくれる。

 波多は志保に古川を紹介する。古川は志保の顔をじっと見る。度の強い眼鏡が光る。

「あら、私の顔に何かついているかしら」志保は古川を見る。

「ねえ、こいつと結婚してやってくれないか」唐突な言い方だ。志保は真っ赤になる。

「急にそんなこと言われても・・・」志保は口ごもる。カウンターの方へ去っていく。

「おい!」びっくりしたのは波多も同じだ。

「こいつ、あんたが好きなんですよ」古川はカウンターの方へ大きな声をあげる。

 数人の客が古川を見る。くすくす笑っている。波多はいたたまれない気持ちになる。黙ってコーヒーを飲む。

・・・こいつを連れてきたのは間違いだったかも・・・

 その心根と裏腹に、波多の表情は晴れやかになる。波多は斉田志保が好きだ。だから古川を連れてきた。古川を間に入れる事で、波多は志保に気安く接する事が出来ると思っていた。

 だが――現実は・・・。

 波多はカウンターの中の志保を見る。忙しなく手を動かしている。波多の方を見ようともしない。だが、怒っている表情でもない。

・・・俺の気持ちを古川が言ってくれたんだ・・・

 波多は気持ちを落ち着かせる。

「もう出よう。うまいラーメン屋があるから、そこへ行こう」古川を急き立てる。

「おい、彼女の事はいいのか・・・」

古川は心配そうに波多と志保を交互に見る。

 波多は席を立つ。代金を払う。志保と目が合う。

「志保さん、いつでもいるから、遊びにおいでよ」

 志保の眼がうるんでいる。朱に染まる唇がほほ笑んでいる。子供のように、コックリと頷く。

 波多の表情が輝く。

「志保坊って言わないのね」今度は波多がほほ笑む。


 7月上旬の水曜日、午後1時に斉田志保が波多家を訪問。あらかじめ電話で予約しての訪問だ。波多は夏ズボンに開襟シャツ姿だ。普段はステテコ姿だ。

 玄関に入った斉田志保を見て、波多は驚く。オーバーブラウスが艶めかしい。茶と青の花柄模様のプリント。胸がすけて見える。志保は艶然と微笑する。長い髪が白い肌を浮だたせている。

「車に荷物があるの。降ろすの手伝って」

 波多の食事がまずい。美味しい物を作ってほしい。古川からの伝言だ。志保は呵々大笑する。荷物を台所に運ぶ。

「まあ、一服しろよ」波多は志保を父の書斎に通す。インスタントコーヒーを入れる。君んとこのコーヒーより少しまずいがと念を押す。斉田志保はコーヒーを一口、口につける。

「懐かしいわ。もう10年にもなるのね」家の中を見回す。

 彼女が最後に波多家を訪問したのは15歳の春だ。父親がなくなる。志保の母は、父と共に働いていた居酒屋を辞める。知多市役所近くの貸店舗で一杯屋を始める。志保を高校まで通わせる。朝から晩まで働き詰めの毎日だった。

「志保さん」波多の改まった口調。

「志保坊でいいわよ」志保は波多を真直ぐ見る。

「そういじめるなって・・・」波多は頭をかく。

――この前は古川が・・・――人目も憚らず大声を出したと詫びる。

 志保の表情が硬い。しばらく沈黙。

「嬉しかったわ。でも、あれが幾雄さんだったら、もっと嬉しかった」

 波多は大きく頷く。2人の間に淡い沈黙が漂う。

 しばらくして、志保が口を切る。どうして古川がこの家で寝泊まりしているのか。

 波多は今までの経緯を話す。志保の顔が輝く。

「面白そうね。私にも手伝わせて」

 波多は手を振る。身の危険があるから駄目だ。

 志保の顔が厳しくなる。――それなら結婚しないから――

志保はきっぱりと言う。慌てたのは波多だ。応諾するしかない。

「大丈夫よ。訳もわからずに首を突っ込まないから」

 夕方まで波多は資料を読む。斉田志保はは夕食造りに余念がない。


 午後5時半に古川が帰ってくる。6時半に夕食。

「飯がうまい。やっと生きた心地がする」古川は満足そうに舌づつみを打つ。

 8時。3人は書斎に集まる。今日は秦河勝とその一族。特に秦氏について、古川の講義が始まる。テーブルを挟んで古川が喋る。波多と志保が肩を並べて聞き役になる。テーブルの上には本や資料が山積みだ。

「波多君!」古川の声。何事かと古川を見る。

――口がきけない者が自己紹介をする。紙に名前を書く――

――波多――10人中10人までが”はた”と読む。

ところが――、

”秦”と書いたら、”はた”と読む人は何人いるか。

 この文字はどう見ても、シン、あるいはチンと読む。日本では秦と書いて”はた”と読ませている。こういった事例は日本語には沢山ある。

 吉川は度の強い眼鏡をたくし上げる。資料の内の1冊を手に取る。志保が台所へ行く。


 秦氏は中国大陸からやってきた。現代の中国、韓国には秦と名乗る人が多い。彼らは”シン、チン、ジン”と呼んでいる。”はた”と名乗る人はまずいない。

 新撰姓氏録――豪族の出身や先祖、姓の由来が記されている。この中の”太秦公宿祢条”に秦氏姓の由来が載っている。

 仁徳天皇に秦氏の首長が絹などを献上する。

――秦王しんおうの献れる糸、綿、絹帛は、あれ服用いるに、柔軟にして、温暖きこと肌膚はだのごとしとのたまふ。よりて姓を波多と賜ひき――

 同様の逸話が、古語拾遺にも載っている。

 注意したいのは、2つの古文献とも、ハダと呼んでいる事だ。

 志保がコーヒーを持ってくる。

「この話は――」古川がコーヒーを飲みながら喋べる。名前の由来を天皇家に結び付けている。もっともらしい嘘。と言うのが学界の説明だそうだ。

 ハタ――機織り(はたおり)

 仁徳天皇への絹の献上にあるように、絹や綿、糸を生産していた。だが、養蚕や絹、綿の生産は秦氏の専売特許ではない。

 古代の産業構造が明らかになっている。

 秦氏はもともと、ハタではない。ハダと呼ばれていた。

それともう1つ、太秦と書いて、ウズマサと呼ぶ。太秦は秦氏の首長の称号と言う。太秦の由来は、日本書記、新撰姓氏録などに載っている。以下要約、

――日本に渡来してきた秦氏達は、時がたつにつれて、日本各地に分散してしまった。統制が難しくなった。雄略天皇の時代、秦氏の族長だった”秦酒公”は天皇に相談する。

 雄略天皇に頼み込んで、全国の秦氏を一堂に集めてもらった。集まった秦氏の上に秦酒公が君臨する。

秦酒公はお礼として、絹などを天皇に献上して、それを”うず高く”積んだ。これを見た天皇は驚き感動する。うず高く積んだことにちなんで、秦氏の首長に”禹豆麻佐=ウズマサ”という称号を与えた。

 聖武天皇の時代に、大宮垣を築造した礼として、”太秦”という称号を賜った。

「その説も、嘘って訳ね」波多の隣に腰を降ろした志保は断定する。


                    秦氏の正体


古川は我が意を得たとばかりに頷く。古代、繁栄を極めた豪族は天皇に絡めて、先祖の出自を誇る。いわば常套手段なのだ。

 だから国外の資料に頼るしかない。

古代朝鮮語で海の事をパタ、パダ、バタと呼ぶ。秦=海と言う説もある。海を渡ってやってきた一族=秦氏と言う訳だ。これには難点がある。なぜ秦氏だけが海氏なのか、その説明がつかない。

 古代の秦氏は自らを秦始皇帝の子孫と主張する。新撰姓氏録の秦忌寸の項に秦始皇帝の後世と記されている。秦氏創建の大酒神社でも秦始皇帝が祀られている。秦氏の祖先としている。

 この説は戦前までは学界の定説だった。現在では完全に否定されている。秦氏が秦始皇帝を祖先と言い出すのは、8世紀後半から9世紀になってからだ。天平時代以後だ。

 唐の時代になる。建築様式から絵画、思想に至るまで中国のコピーの時代だ。当時の日本人は国際都市、唐都に憧れていた。

 このような社会情勢の中、渡来人の中には、先祖が中国人であると主張しだす。中国人を祖先に持つことは当時の日本の社会では箔が付いたのだ。

 日本に秦氏が渡来してきたのは、第15代応神天皇の時代と言われている。実際はそれ以前から少人数が渡来していた。


 応神天皇の時代、多勢の渡来人がやってくる。この中に弓月君が百済からやってきた。奏上して――私は自分の国の百十県の人民を率いてやってきた。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています――と言った。

 そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月の民を加羅国に呼ばれた。しかし3年経っても襲津彦は帰ってこなかった。

 8月、平群木菟宿祢、的戸田宿祢を加羅に遣わした。精兵を授けて詔して――襲津彦が長らく帰ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので、滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち、その道を開け――と言われた。木菟宿祢らは兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。新羅の王は恐れてその罪に服した。そこで弓月の民を率いて、襲津彦と共に帰ってきた。――日本書記

 以下新撰姓氏録

――秦忌寸。太秦公宿祢同祖。秦始皇帝の後世。功智王、弓月王、誉田(応神)天皇14年、来朝上奏し、更に国へ帰り127県の伯姓を率いて帰化し、並びに金銀玉帛種々の宝物を献ず。天皇これを嘉し、大和朝津間脇上の地を賜りて居らしむ――

 この弓月君の民が秦氏だ。弓月君は秦氏の首長、太秦だった。

 

「いいかね。この2つの文献が、秦氏のルーツを解く鍵になる」

古川は得意満面である。波多と志保は固唾を飲んで古川を見詰める。


 4~5世紀頃、朝鮮半島には北に高句麗、東に新羅、西に百済そして南端に伽耶(加羅)があった。

日本書記では弓月君とその民は百済にいた。それが伽耶を経て、日本に渡来したとある。秦氏=百済だ。この説は戦前までは定説とされていた。

 戦後、疑問視される。その学問的批判は弓月君渡来説に向けられる。

――私は自分の国の、120県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています。――これが弓月君の言葉だ。

 秦氏の渡来を妨害しているのが新羅と言っている。伽耶が新羅に侵入されたとも読める。

 だが、この時代、新羅は伽耶に攻め入っていない事が判明している。だから、秦氏は百済からやってきたのかが疑問視されているのだ。

 秦氏の史跡を発掘調査すると、出土するのはほとんどが新羅産の遺物だ。

 瓦紋――百済系、新羅系、高句麗系と、それぞれの国の瓦紋には明確な特徴がある。

九州北部の秦氏の支配地から出土する瓦紋は新羅系だ。全国規模で見ても同じなのだ。広隆寺、弥勒菩薩半跏思惟像、奈良、斑鳩、中宮寺の弥勒菩薩像は新羅様式だ。

 秦氏=新羅系渡来人は現代では学界の定説だ。


 ここで疑問が生ずる。どうして百済から来たと嘘をついたのか。弓月君は、一時、伽羅(加羅)に留まったと言っている。秦氏=伽耶人説が注目されている。

 伽耶は小国だ。地理的に見て不安定な立場にある。百済に攻められ百済の属国になる。かと思うと新羅に攻められ新羅の支配地に属する。両国に翻弄される立場にあった。

 562年、新羅に吸収され滅亡する。秦氏は戦乱を避けて日本に渡来してきたのだ。

 当時九州に倭の王朝があった。その力は近畿王朝=後の大和、日本をも支配下に収めていた。倭王朝は親百済の立場に立っていた。だから新羅系秦氏は、百済系と称したほうが都合がよかったのだ。


「秦氏は新羅からの渡来人だった訳だね」

 波多はご先祖様の故郷が判って、メデタシと言う顔をする。古川はかぶりを振る。

「違うんだね、それが・・・」古川は波多の父の所蔵本から古文書を手にする。

――朝鮮半島に百済、新羅、加羅という国々が出来る前は馬韓、辰韓、弁韓の3国があった。紀元3世紀頃、馬韓から百済、辰韓から新羅、弁韓から伽耶が成立した。辰韓は秦韓とも称した。秦氏は秦韓人だった。だから秦氏と名乗った。ただし秦韓は”しんかん”でハタとは言わない。

 三国志、魏志、東夷伝に言う。

 新羅の老人の話、以下、

 朝鮮半島には、初め馬韓があった。ある時大陸から”秦の役”を避けて多くの人が朝鮮半島に移住してきた。彼らは秦人と呼ばれた。馬韓の人とは風俗や習慣、言語が全く異なっていた。馬韓人は、秦人の人数が増えたので、忌み嫌って西の方の土地を分け与えた。

 建国当時、秦韓=辰韓は6ヵ国から成り立っていた。後に12ヵ国に分かれる。

秦氏は古代、朝鮮半島に移住してきた人々だった。一口に秦氏と言っても多くの部族から成り立っていた。

「それじゃ、やっぱり秦の始皇帝の子孫と言う事か」

 波多は結論を急ぎすぎる。

「まだ先があるさ」古川はコーヒーをぐっと飲む。


                    ユダヤ人景教徒


 ”秦の役”とは秦帝国末期の戦乱と言われている。

 秦氏が秦帝国にいたとなると、波多の遠い先祖は中国人と言う事になる。ただしこれは時期的に無理がある。

 秦帝国が滅亡したのが紀元前207年。この時代、朝鮮半島には馬韓国さえ成立していなかった。

 秦人=中国人説を否定するもう1つの理由。

秦人=秦帝国=中国=漢民族という図式になるが、漢民族は自らを秦人とは言わない。

 秦人とは柵外の人、流浪の民という意味がある。柵外とは中国の外を意味する。漢民族以外の異民族を指して、秦人と呼ぶ。

 秦人のルーツ捜しに多くの学者が挑戦している。

チベット人説、ホータン人説が有力視されたが、現在では否定視されている。

 明治41年、地理歴史という学会誌に”太秦を論ずる”という論文が掲載される。著者は佐伯好郎(元東京文理化大学{現筑波大学}学長)

 この著者の結論は、秦氏は原始キリスト教だったというものだ。

佐伯博士の専門は歴史学、言語学だ。特に中国”景教”の研究では世界的な権威であった。

 景教とはキリスト教の一派で、ネストりウス派キリスト教と呼ばれている。5世紀に西アジアからペルシャへ、7世紀になって中国に伝来している。

 中国まで伝来した景教がどうして日本に伝来しなかったのか、佐伯博士はこの問題を追及する。

唐の時代に景教は伝来している。当時日本は盛んに遣唐使を派遣している。唐の都、長安に景教の寺院があった。遣唐使が景教の存在を知らぬ筈がない。

 1625年、明朝後期の中国で石碑が発見される。

”大秦景教流行中国碑”と記されている。この石碑によって景教伝来が確実視された。高野山にこの石碑のレプリカがある。

 この石碑によると、景教が中国へ伝来したのは633年、日本の奈良時代だ。

唐の皇帝”太宗”の公認により、景教は一時は流行した。景教の教会”波斯寺”が長安の義寧坊の地に建設される。波斯とは中国語でペルシャの事。ペルシャ語の発音”ファルシー”の音訳だ。

 7世紀、ネストリウス派の拠点は、シリアからセレウキアに移っていた。この地は当時ササン朝ペルシャ帝国内にあった。ササン朝ペルシャが滅亡する。波斯寺は太秦寺と改名される。本来の拠点地シリア協会を前面に出したのだ。シリア地方はかって大秦と呼ばれていた。太秦とは直接的には古代ローマ帝国の事である。

 キリスト教は古代ローマ帝国内のユダヤで発生している。景教は本来、大秦景教と呼ばれていた。


 続日本紀、天平8年(736)遣唐副使、中臣朝臣名代らが唐人と波斯人を率いて帰国、天皇に拝謁。以下略。

 波斯人とはペルシャ人の事。

当時ペルシャ人の信仰対象はゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教の3つ。

 ゾロアスター教はペルシャ人のみの宗教で、基本的には異民族には布教しない。マニ教は唐が邪教として布教を禁止していた。。続日本紀に登場する波斯人、季密翳は景教徒の可能性が高い。

 聖武天皇に時代にも景教徒が日本に渡来している。


                    太秦寺


京都、右京区にある広隆寺、広隆と言う名は秦河勝の本名ともいわれている。日本書記では広隆寺は蜂岡寺と記されている。もとは秦岡と呼ばれていた。

 広隆寺には別名が数多くある。秦公寺、そして太秦寺だ。

佐伯博士は太秦寺の名前に注目する。唐の都、長安に建設された景教寺は大秦寺。大と太の違いのみだ。本来、広隆寺は景教の寺院ではなかったのか。

 この説に批判が出る。

ネストリウス派キリスト教が伝来したのは635年。波斯寺が建設されたのが638年。波斯寺から太秦寺への会改名が745年。

 一方の広隆寺=太秦寺の由来によると、聖徳太子の発願で建設されたのが603年。完成したのが632年。年代的に開きがありすぎる。これが主な批判だ。

 これに対する佐伯博士は以下のように反駁する。

638年は唐において布教が正式に認められた年代。また長安へネストリウス派キリスト教が伝来したのが635年と言うのも、記録に残っている上での話だ。記録に載らない部分で、唐に伝来した可能性が充分にある。

 これに対して以下の批判が出る。広隆寺はどうみても仏教の寺ではないか。

 これに対する解答は広隆寺由来書による。弘仁9年(818)火災によって広隆寺焼失。堂塔ことごとく灰塵に帰す。


 現在の広隆寺は飛鳥時代のものではない。場所も違っていた。北野廃寺が有力視されている。北野廃寺は京都の北野白梅町、北野天神の西南にあった古寺、この土地から飛鳥時代の瓦が出土している。四天王寺式の伽藍配置の寺があった事も判明している。

――原広隆寺は唐の大秦寺のように景教寺院であった可能性が高い――


 古川は度の強い眼鏡をたくし上げる。

「今日はここまで」学校の授業のように、資料をパタンと閉じる。波多と志保はほっと溜息をつく。時計を見ると10時を回っている。

「今晩はここで泊まらせてね」喫茶店の営業は朝8時。今日は休日だ。午前中に明日の営業の準備をしてある。

 波多は生徒のように手を上げる。

「1つ聴きたいがいいか」古川の同意を求める。

古川は何だとばかりに頷く。以下波多の質問。京都の広隆寺が景教の寺院だったという根拠が薄い。説得力もない。

 これに対する古川の答え。

今、その解答の資料を整理しているが、万人の同意を得るような証拠はない。次回から大胆な推測が混じる。古文書、波多の父が集めた書籍からの推理だ。

「要は波多家のお宝が見つかればいいんだろう」


 翌朝、斉田志保は6時に起床。朝食を作る。6時半に2人をたたき起こす。

「若い者がいつまでも寝ているんじゃないの!」ほっぺたをペしぺし叩く。

「おい、彼女、かかあ天下になるな」古川は波多の耳元で囁く。

「ああ・・・」波多幾雄は恐懼の眼差しで斉田志保をみる。


                  ネストリウス派キリスト教


 古川は朝8時半に波多の家を出る。土曜日曜、祭日以外は夕方6時までには帰ってくる。

 斉田志保は休日以外は波多家には来ない。喫茶店は朝8時に開店。夕方7時に閉店。閉店後は翌朝の営業の準備に追われる。波多家に行くどころではない。代わりに波多が毎朝喫茶店に行く。土、日は古川も一緒、こんな3人の生活が当分の間続く。


 7月も終わる。8月に入る。お盆は古川の会社も休み。斉田志保の喫茶店も休日となる。

 古川が京都の広隆寺に行ってみたいと言う。が、家の中が荒らされる。暴漢に襲われる。その記憶が生々しい。波多は躊躇する。古川が説得する。実際にその場所に行って、実体験する事が大切だ。危険は承知の上だ。お宝を手に入れるためだ。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。

 古川の勇ましい言葉に、斉田志保が波多の思い腰を持ち上げる。波多は条件を付ける。朝7時に出発。高速道路を使えば京都まで約3時間、10時には到着する。昼の3時には帰路に就く事。留守中、近所の奥さんに見回ってもらう。


 平成16年8月16日、波多の白のカローラは朝7時に家を出る。助手席に古川、後部座席に志保。

 知多半島中央道を走る。名古屋高速に入る。名神高速道路一ノ宮インターに入る。養老インターで30分休憩、養老インターを出たのは8時半。

「京都南インターまで約1時間半。広隆寺に着くのは10時半ぐらい」波多は2人に説明する。

 斉田志保は大きな眼をくりくりさせてはしゃいでいる。幼い時から苦労続きだ。旅行などめったに行った事がないのだ。

古川は、今日は遊びではないからねと念を押しながら、キリスト教ネストルウス派について話をする。

 ユダヤ人イエスによってはじめられたキリスト教は、パウロやペトロらによって布教される。古代ローマ帝国で爆発的に広まる。キリスト教の弾圧などが起こるが、313年皇帝コンスタンティヌスはミラノ勅令を発布。キリスト教を公認。皇帝テオドシウス1世はキリスト教を国教とする。

 325年、ニケーア公会議が開かれる。

この会議では2つの宗派が対立する。1つはアタナシウス派=父(神)とイエス・キリスト(御子)と精霊(聖神)は本質的に一体であるとする。三位一体説だ。

 これに対抗したのがアリウス派。キリストの人間性を重視し、神でないと主張。会議の結果、三位一体説が正当とされる。アリウス派は教会を追放される。

 431年、フェソスで宗教会議が開かれる。問題となったのは、ネストリウス派だ。

この宗派はコンスタンティノープルの総司祭ネストリウスが主張した説だ。その教義は、イエス・キリストは人間と神の2つのペルソナを持つ。聖母マリアは人間であり、神性を持たない。

 宗教会議の結果、ネストリウス派は異端とされる。451年、ネストリウス派はカルケドン公会議で教会を追放される。彼らはシリア協会に逃げ込む。

 シリア教会と合流したネストリウス派は、布教を東方に求める。現在でもシリア、イラン、インドにネストリウス派の教会が存在する。

 ネストリウス派キリスト教は東へ伝播。シルクロードを経て、中国へ伝来。時の皇帝はこれを”光り輝く教え”という意味で景教と命名する。


 ――景教が、原始キリスト教って訳ね――

斉田志保はグレーのオーバーブラウスを着ている。若いのに地味な服装だ。古川と波多は半袖の開襟シャツ。

「それが違うんだね」古川の声は事務的で素っ気ない。

 原始キリスト教は当初エルサレム教団と呼ばれていた。数あるユダヤ教の中の1つの宗派だった。

イエスの死後、十二使徒のリーダー、シモン・ペトロを中心にして共同生活を送っていた。

 エルサレム教団は現在のキリスト教とは異質だ。カトリック、ギリシャ正教、プロテスタント、その他の宗派とは全く違っていた。後の宗教会議で認められる三位一体説はない。聖母マリアの崇拝もない。誰一人として母マリアを崇拝していない。彼女もまた共同体の中の一員にすぎなかった。

 エルサレム教団はユダヤ教イエス派と呼ばれるイスラエル教なのだ。キリスト教はまだ成立していなかった。当時原始キリスト教徒は全員がユダヤ人だった。ユダヤ教徒としての風習やしきたりの中で生きていた。

 原始キリスト教徒が対立していたのは、保守的なユダヤ教徒、律法学者、サドカイ派、パリサイ派の連中だ。現在のキリスト教と大きな違いは、ユダヤ人以外教団には入れなかったことだ。

 エルサレム教団の信徒の数が増えるにつれて、色々な問題が生じてくる。その1つに言葉がある。

パレスチナ地方のユダヤ人はアラム語を使っている。へブライ語とはアラム語の事だ。アラム語を話すユダヤ人キリスト教徒の事をヘブライ二ストという。

 この当時、ユダヤ人は世界各地に散らばっていた。パレスチナ地方以外へ移住したユダヤ人をディアスポラのユダヤ人と呼ぶ。彼らはコイネーギリシャ語を使っていた。

 言語が違うと文化や風俗、習慣も違ってくる。

――そのころ、弟子の数が増えてきてギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して、苦情が出た――(使徒言行録より)

 この亀裂は、やがて大きなものになっていく。

 ヘレ二ストの中にステファノがいた。彼は異邦人に対して積極的に布教を行うべきだと主張する。彼のグループはエルサレムを離れて布教を開始する。

 その布教活動は過激であった。パリサイ人と激しく対立。ステファノは石打によって処刑される。迫害は原始キリスト教にもおよぶ。多くのヘレ二ストはエルサレムを追放される。ステファノの殉教を境に、ヘブライ二ストとへレ二スト達との対立が決定的なものとなる。

 当時、シリアにはアンチィオキアという都市があった。古代ローマ帝国の年の1つである。かなり早い時期から原始キリスト教の布教が行われていた。そこへエルサレムを追放されたヘレ二スト達が集結する。ここを拠点として大々的な布教を開始する。アンティオキア教団の誕生だ。

 エルサレム教団はユダヤ教の律法を尊重して、ソロモン第2神殿への礼拝を行っていた。これに対して、アンティオキア教団はイエスの福音を教義の中心に据えている。

 アンティオキア教団の筆頭がパウロである。

パウロは名前をサウロと言った。ステファノを殉教に追い込んだユダヤ教徒だった。もともと保守的なユダヤ人教徒で、原始キリスト教に対しては批判的だった。

 イエスの霊に出会う事を契機に改宗。熱心な原始キリスト教になる。しかし改宗したパウロを殺そうとするユダヤ教徒がいた。パウロはエルサレムを離れ、独自の布教を行う。やがてアンティオキア教団に合流する。卓越した指導力でリーダーになる。


 紀元1世紀の中頃、原始キリスト教は2つの宗派に分かれる。アンティオキア教団は異邦人に布教する。その数はエルサレム教団を圧倒するようになる。

 当時ヘブライ二ストとヘレ二ストはユダヤ人という共通の地盤があった。異邦人キリスト教はユダヤ人のしきたりなど知らない。風俗、習慣も違う。異邦人キリスト教にはユダヤ人キリスト教と同じような割礼を受けさせて、モーゼの律法を守らせるべきとの論争が起こる。

 異邦人キリスト教徒の大部分はこれに反対する。パウロはエルサレム使徒会議に諮問する。結果、割礼やモーゼの律法を守る必要なしと決議される。ペトロを中心とするエルサレム教団はユダヤ人に、パウロを中心としたアンティオキア教団は異邦人に対して布教する事が決まった。

 キリスト教の歴史上大きな転換期だった。ユダヤ教の戒律を離れ、世界的宗教へと発展するための第一歩だった。


                     消えた原始キリスト教


 紀元37年、古代ローマ帝国の皇帝カリグラが即位する。カリグラは自らを神と宣言。己の彫像を帝国内に安置する。偶像崇拝を強要する。ユダヤ人は頑強に拒絶する。この為に徹底した弾圧が行われる。

 カリグラの後を継いだクラウディウスも迫害の手を緩めない。

 紀元4年、ネロ皇帝の迫害は熾烈を極めた。厖大な数の殉教者を生み出す。パウロを初め多くの原始キリスト教徒が殺される。

 当時ローマ帝国から派遣されていたユダヤの王は、ヘロデ・アグリッパだ。ユダヤ教徒は原始キリスト教に対して非常な嫌悪感を抱いていた。その原始キリスト教徒を迫害すればユダヤ人社会は1つにまとまると判断した。

 ヘロデ・アグリッパはエルサレム教団に対して露骨なまでの迫害を開始する。十二使徒の1人ヤコブを殺害。使徒のリーダー格のペトロを逮捕。牢獄から脱獄したペトロは再びローマに行き、殉教する。

 ペトロ亡きあと、エルサレム教団を率いたのはイエスの弟ヤコブだ。紀元61年、彼は大司祭兼衆議長アンナス2世によって逮捕、処刑される。


 ローマにおいて異邦人キリスト教徒が増えてくる。イエスを十字架に磔にしたのはユダヤ人教徒たちだ。実際、原始キリスト教徒の布教を妨害するのはユダヤ人教徒だ。

 後世、ユダヤ人は神の子を殺した呪われた民族という考えがまかり通るようになる。

 紀元66年、迫害や弾圧に耐えていたユダヤ人は1つの事件をきっかけに蜂起する。古代ローマ帝国に対して宣戦を布告する。反乱の火は瞬く間にパレスチナ全土に広がる。

 第1次ユダヤ戦争の勃発だ。

ユダヤ人はパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派を問わずユダヤ人として戦線に立つ。民族の命運を賭けた戦いだ。

 紀元70年、ユダヤの牙城であったエルサレムは陥落する。ソロモン第2神殿は破壊される。8年にわたる戦争は終結する。

 紀元132年、第2次ユダヤ戦争が起こる。ユダヤ人は国を失う。1948年、パレスチナの地にイスラエル国が建国されるまで、ユダヤ人は流民となった。


 第1次ユダヤ戦争の最中、エルサレム教団がエルサレムから消えた。

エルサレム教団にとって、エルサレムのソロモン第2神殿で祈りを捧げる事が、重要な掟だった。エルサレムを離れる事はエルサレム教団である事を否定する事である。

 彼らはユダヤを出国後、ガラリヤ湖南方、ヨルダン河東岸のべラというギリシャ人都市へ集団移住していたのだ。

 これ以降のエルサレム教団の記録は一切消える。

――原始キリスト教の、その後は推理によります――


 古川はメモをめくりながら、一人喋りまくる。

カローラは彦根インターに入る。

「用足しをする」波多は駐車場に車を入れる。

「ねえ、お茶でも飲んでいかない?」志保の提案だ。


 彦根パーキングエリアはお盆休みの行楽客で賑わっている。食堂は昼前で五分ぐらいの入りだ。携帯電話の時刻を見る。10時、食堂でコーヒーを注文する。

 古川はコーヒーを飲みながらメモ用紙をめくる。


 ――ベラがギリシャ人都市である事から1つの仮説が浮かぶ。

 シリアは東西交易の西側の始点にになる。商人はシリアを起点として東に向かう。ユーラシア大陸を東へ向かう道路、シルクロードがある――


 佐伯博士は最後まで秦氏=景教徒の可能性を探っていた。しかし秦氏が朝鮮半島に住んでいた時期を5~6年としたことに佐伯博士は致命的なミスを犯した。秦氏はじっくりと腰をおちつけて、古代の朝鮮文化を身に着けていたのだ。

 晩年、佐伯博士は秦氏を原始キリスト教と位置づけた。

しかし秦氏=原始キリスト教を証明できるものはほとんどない。原始キリスト教は歴史の舞台から消えた。



                   広隆寺


 彦根パーキングエリアの食堂でコーヒーを飲む。

古川の講義はここで途切れる。それを潮に食堂を出る。一路京都に向かう。

「どうだい、話の続きをするが、いいか」古川は尋ねる。2人は了解する。

 中国史研究家の高木桂蔵氏の論文、中国のユダヤ人より

――1926年、フランス人神父ゲオルグ・ペレポスが洛陽で3つのヘブライ語石碑の破片を確認している。東漢(後漢)時代のものと言われている。

 東漢の明帝、永平16(73)年にエルサレムがローマ軍によって破壊されている。この時代にユダヤ人の一部が中国へ来たことは否定できない。

 開封で発掘された遺跡の中には、紀元前後のユダヤ人を描いた人形(俑)が出ている。

つまり――ユダヤ人が中国へやってきたのは後漢の東明帝(紀元58~75)の時代と推定される。――

 シルクロードが本格的に開通したのは前漢の時代。前漢は積極的に西域経営に乗り出している。紀元一世紀には多数の西域人が中国に来ている。西アジアのユダヤ人が中国に来るのは極めて自然の事なのだ。


 「キリスト教だからと言って、現在のキリスト教を頭に入れたらおかしな事になるよ」古川は念を押す。

原始キリスト教=エルサレム教団はユダヤ人ユダヤ教の一派にすぎない。伝統的なしきたりを守るユダヤ人だ。彼らは自分達をキリスト教徒とは言わなかった。クリスチャンとは、もともとはアンティオキア教団の信者への呼び名だった。

 中国人から見れば、エルサレム教団も他のユダヤ教徒と同じに見えた筈だ。

「だから、原始キリスト教が中国へ来た確証が少ない訳ね」志保は先回りする。

 紀元一世紀後半、朝鮮半島へ秦人が流入した時期だ。古代朝鮮の馬韓(後の百済)に風俗習慣や言語が違う秦人がやってきた時期だ。

 非馬韓人、これが秦人だ。後に秦(辰)韓を打ちたてる新羅の前身だ。

――秦人の数が多くなったので、忌み嫌って西の方の土地を分け与えた。――新羅の老人の話を思い出してほしい。これは新羅人から見た見方だ。百済から見れば数に物を言わせて秦人に土地を乗っ取られたと見るべきだ。

 新羅と百済は近代になっても相入れる事はない。対立と相克の歴史だ。

 秦人とは漢民族から見て、柵外の民に対する普通名詞だ。魏志倭人伝によると朝鮮半島に流れてきた秦人は秦韓と弁韓を建国するが、それも百2ヵ国に分かれていたという。つまり秦という一民族ではない。多くの異民族の集合だった。

 秦とはシン、チンと呼ぶ。現在の韓国でも中国でも同じだ。決して”ハタ”とは呼ばない。


 広隆寺に到着する。午前11時着。1時間の遅れだ。3人とも時間にはルーズだ。

この寺は日本の国宝第1号、弥勒菩薩半跏思惟像で有名だ。仁王門の正面奥に上宮王院(本堂)が見える。その左に太秦殿や薬師堂、能楽堂が控えている。

 ここで毎年一回、10月10日に祭りを行う。正確には広隆寺の境内にあった大酒神社の祭礼。その名も”牛祭り”。

 祭りの主役はマタラ神。天台宗の守護神だがその正体は不明。祭り自体も奇妙なのだ。

――夜の帳が降りる。境内に大きな黒い牛が現れる。その背中に、白くて鼻の高いお面をかぶったマタラ神が乗る。お祓いを受けると、マタラ神は4人の鬼を引き連れる。境内を練り歩いて1周する。

 お堂の前に来る。あらかじめ用意された舞台にマタラ神と4人の鬼が登る。マタラ神はゆっくりと腰を降ろす。祝詞を読み始める。独特の抑揚のある声だが、内容は不明。

 奇妙な祭りとは、祝詞を読んでいる間中、マタラ神は観客から野次られてしまうのだ。それでもマタラ神は延々と祝詞を唱え続ける。

 祝詞が終わる。マタラ神は突然立ち上がる。眼の前のお堂の中へダッシュする。マタラ神と4人の鬼が堂に入ると同時に扉は閉められる。それで祭りはお開きとなる――

 京都の3大奇祭の1つに数えられている。


 3人は広隆寺の境内を散策する。寺の西端の細い未舗装の道を北に上がる。いさら井と呼ばれる小さな井戸がある。かっては洛西有数の名水が湧き出ていた事で有名だ。

 広隆寺は皇室との関りが深い。1730年に本堂が建立されている。本堂に聖徳太子像を安置している。この本堂に、歴代天皇が即位大礼に着用された束帯を贈進されている。今、太子像が着用の束帯は平成天皇のものだ。

 ゆっくり歩いても30分もかからない。数々の仏像を見て回る。

広隆寺の側の木嶋坐天照御魂神社に参拝する。養蚕神社を合祀しているので、通称蚕の社と呼ばれている。秦氏創建の神社だ。この境内にはきれいな清水が湧き出る泉がある。池のようになっている。ここに奇妙な鳥居が立っている。

 柱が3本ある。鳥居の柱は2本が普通だ。鳥居は神社の門のようなものだ。ここでは泉を祀っているのだ。

 その近くに秦氏創建の大酒神社がある。かっては広隆寺境内にあった。牛祭りはこの神社の祭礼だ。

今大酒神社と称しているが、かっては大辟神社と言った。辟とかいてサケと読む。

大辟とは極刑=死刑という意味だ。

「極刑というと、十字架にかけられたキリストね」

斉田志保はすぐに結論を出したがる。

古川は笑う。肯定はしないが否定もしない。

「それは後日のお楽しみとしたい」

 今日は3柱鳥居の説明だけでお開きとしたい。古川は得意げだ。波多と志保は安堵の色を浮かべる。

――日本では神様を数えるのは、1柱2柱と数える。柱は神様の象徴だ。たとえば長野県諏訪大社のお柱祭りも、柱を神様の象徴と見立てている。

 3本の柱は3人の神様を意味する。

佐伯博士は景教の神であると主張した。3人の神とは、御父、御子、聖霊である。キリスト教の教義、三位一体を象徴したのが3柱鳥居と考えたのだ。

 ネストリウス派が異端されたのは聖母マリアの神性をを認めないとした教義にある。

 太秦景教流行中国碑には至聖三者という言葉で三神が崇拝されている。

 三柱鳥居の下からは清水が湧き出ている。泉を囲む形で三柱鳥居が池の真ん中に建っている。この池を元糺の池。池を囲む森を元糺の森と呼ぶ。元とあるように、現在は下鴨神社の池と森が糺の池と森と呼ばれている。

 晩年、佐伯博士は秦氏=景教徒説を捨てた。原始キリスト教説を取った。原始キリスト教は三位一体説を教義としていない。とするなら、三柱鳥居は何を意味するのか。

「それと、ウズマサについてね」

 古川の言葉が言い終わらぬ内に、斉田志保が波多の袖を引く。何事かと波多は志保の指さす方を見る。

3人は蚕の社をでて東映太秦映画村の方に歩いている。百メートル程後ろに、1人の男が立っている。この暑い中、背広を着てネクタイを締めている。髪を七三の分けている。

 サングラスを掛けて、波多たちとつかず離れずの距離を保っている。

「あの人、広隆寺の仁王門の所から、私達をつけているのよ」志保の語気が鋭い。

「たまたま行く方向が一緒じゃないのか」波多の胸が騒ぐ。見て見ぬふりをしようとする。

「私、言ってやるわ」志保は男の方へ歩を早める。

 止める間もない。波多は古川の腕を引っ張る。志保をガードする形になる。

男は近ずいてくる志保を見ている。

「ねえ、あなた、私達をつけているの」志保の白い顔が紅潮する。虚を突かれた男は一瞬ひるむ。

「俺は・・・」男は口ごもる。波多と古川が志保の左右にいる。肩をいからして男を見ている。

「警察を呼ぶわよ」太秦警察署が仁王門の近くにある。

「チェ」男は舌を鳴らす。東映太秦映画村の方へ駆けていく。道路端に車が止まっている。男は助手席に乗り込む。車はそのまま山陰本線の踏切を超えて走り去っていく。

 3人はその後を呆然と見送る。

「怖かったあ――」波多は情けない声を出す。

「俺も・・・」古川も同調する。

「あたしだって・・・」志保は泣き出しそうな顔になる。

「志保坊、無茶だよ」波多はたしなめる。

 志保の気の強さは生まれ持った性格だろうが、その上に小さい頃から苦労している。芯の強さが養われている。

 波多は携帯電話を入れる。自宅の留守をお願いしている近所の奥さんに、何事もないかを問う。1時間ばかり帰宅が送れると告げる。

 東映太秦映画村や東映京都撮影所を見て回る。広隆寺側にある、きく亭で蕎麦を食べる。昼食後、3つ4つ、名所史跡を見て回る。帰宅したのは夕方7時ごろ。


                       異変


 京都から帰って、広隆寺で会った男の事が話題となる。波多の家が荒らされた事、武豊で襲われた事、斉田志保と古川安男はわが身に起こった事のように緊張する。

――見張られている――不安と恐怖心が心の内を支配する。

 ここまで来て、止める訳にはいかない――3人の気持ちは固い。波多も苦手な読書に精を出す様になる。

 夏が終わる。9月中旬、古川が浮かぬ顔で会社から帰ってくる。

「今日、部長に呼び出されてね」度の強い眼鏡をたくし上げる。

10月から、朝10時出勤、昼3時に退社して良い。給料はそのまま。その代わりとして、将来の昇給、人事異動は一切見送り。

「つまり、係長や課長にはなれんよという事」

「一生、平って事?」波多の言葉に古川は頷く。

 波多は尋ねる。それって、上からの圧力?、有り体に言えば嫌がらせ?

[そうじゃないと思う」

 古川の会社は日本でも有終のガラス製造会社だ。ビルや住宅の窓ガラス、車や電車等の窓ガラスを造っている。

 1年に1回、会社との間で勤務評定が開かれる。仕事や給料などの満足度、貢献度などが評定される。昇進や昇給など意欲満々な社員はそれに見合う仕事を要求する。

 古川は昇進、昇給の意欲はない。現状維持を求めている。

「しかし、仕事が増えて、現状維持なら判るが・・・」

 波多の疑問に、古川は大いに頷く。これは課長や部長の権限で出来る事ではない。工場長、あるいは神戸本社の意向?

 一介の平社員をなぜ優遇するのか、古川は首をかしげる。


 9月中旬、今度は斉田志保が飛び込んでくる。

「私のお店、2千万円で買いたいって話があったの」

 彼女の喫茶店は土地建物共に借りものだ。店舗の改装費に5百万円かけている。その為に建物の賃料は安い。固定資産の2倍程度。

 3日前、不動産屋が飛び込んでくる。この店を現状のままで譲渡してほしいという依頼が入った。

2千万円と聞いて志保はびっくりする。パートの女の子はそのまま雇うというのだ。

 志保が使った費用は建物の内部、調理器や食器などと、喫茶店を経営するための経緯が一切含まれている。それを4倍の値段で譲れなんて、絶対有り得ないのだ。余程のバカか、喫茶店の増収に自信があるかのどちらかだ。

――5百万円投資して、元を取るには、最低5年はかかると計算しているその上で喫茶店を始めている――

 志保は浮かぬ顔をしている。嬉しいには違いないが、余りにも現実離れしている。狐が狸に化かされている気持ちだ。

・・・気が付いたら夢だった、てなことになるかも・・・

「その不動産屋さんに担がれているんじゃないの」

 志保は古川の件もすでに知っている。古川の心配そうな顔に、今日朝一番に、不動産屋が1割の手付金を持ってきたと話す。

「私、受け取ったの」


 もし斉田志保が解約する場合は、倍返しと言って、4百万円支払う事になる。買い手方が解約すると、手付金を返す必要はない。そう言う条件で契約書にハンコを押した。

斉田志保は契約書を見せる。相手方は名古屋のセントラル商事。代表者近藤善吉となっている。不動産屋の話だと、契約者は知多半島のコーヒー店のチェーン店を展開する計画という。”ごく普通の会社”だそうだ。

 3人は顔を見合わせる。

――異変が起こっている――

 古川は研究する時間が増える。斉田志保は喫茶店の経営から解放される。波多との結婚は来年1月だ。


 10月から3人の生活は一変する。斉田志保は主婦然として波多家の1室を占拠する。掃除、洗濯、食事は志保の役目、古川は朝9時に出社、夕方4時には帰ってくる。

 波多は1日中家の中で過ごすことになる。斉田志保が来るまでは自由気ままに外出していた。

今――、外に出ようとすると、「どこへ出かけるの?」志保に詰問される。うかつに外に出られなくなった。その分、父の遺品、古文書や多くの本に目を通すことになった。

 喜んだのは古川だ。資料探しに波多が手伝ってくれる。志保の料理はプロだけあっておいしい。


                    不審な影


 波多家の借家は25軒ある。1ヵ月の家賃収入は百万円を下らない。波多は亡き父のやり方を見らなっている。家賃収入の4割を預金通帳に入れる。税金や修理費などの予備費となる。残り約60万円。このうちの半分で家計のやりくりをしている。”家族が増えた”分の家計費を50万円とした。志保には包み隠さずに話をしている。その上で家計の全てを志保に任せる。

 波多家の借家は納屋や工場を改装した物ばかりだ。建物が古いので家賃も安い。今年になって5組が退出する。その分は2~3か月で埋まる。大体3~4年で入れ替わる。借家の保守、管理、家賃の催促は父の代からの不動産屋さんに一任している。

 10月中旬、斉田志保の喫茶店の権利を買い上げたセントラル商事の代表者が波多家を訪問、斉田志保との契約の残金の決済のためだ。

 代表者の近藤善吉は人なつこい表情をしている。恰幅もいい。志保が店舗の権利譲渡書に実印を押す。残金の小切手を受け取る。

 契約終了後、セントラル商事の代表者は、波多に以下のような勧誘をする。

――工場跡地にアパートを建てないか。当社が一括借り入れをする。10年間は家賃保障をする。その条件として家賃は相場の8掛けとする。建設費用は全額借入。借入金の決済は10年とする――

 近藤は笑顔を絶やさない。10年間一括借り入れするが、途中で当社が倒産したり、契約を破棄したら波多さんが困る。建築の全額決済が完了するまで保険を掛ける。それは当社負担。

波多は志保と相談する。建物は3階建で5棟。1棟15室。1室あたりの家賃は6万円。波多が受け取る家賃は4万8千円。全室45室。1ヵ月の家賃は2百16万円。建物の管理費、維持費、借入費を差し引くと、1ヵ月の収入は百10万円。

――無いよりはマシ――という事でセントラル商事に依頼する。


 10月10日、波多は志保と古川を応接室に呼ぶ。

「今日は俺が講義する」波多は緊張した面持ちだ。

 秦と書いて、何故ハタなのか―― 志保と古川は至極真面目な顔だ。


 秦人とは固有名詞ではない。中国人=漢民族から見て、柵外の流浪の民に名付けた普通名詞だ。現在、韓国に住む秦氏はチン、シン氏だ。中国内の秦氏も同じ呼び名だ。どうして日本の秦氏だけがハタなのか。

 エルサレム教団、ユダヤ人キリスト教徒達にも名前はある。だが姓がない。今でこそ姓を持っているが、往時は姓がなかった。

 シモン・ペテロのように、ニックネームはあった。ヤコブ・イスラエルのように別名はあった。だが基本的には姓がない。自分の名前の後に、父親の名前を付ける事もある。ヨシュアの父がヌンならヨシュア・ベン・ヌンと称する。新約聖書の中で、ベゼタイの子のヨハネとあるが、正確にはヨハネ・ベン・ベゼタイという。

 映画ベンハーはハーという人の子供という意味になる。

 西アジアでは、人名には、ほとんど姓はない。

だが、東アジアでは姓が重要視される。特に中国人は姓にうるさい。外国人まで姓をつける。もともとない姓をつけるので創作する事になる。

 中国史研究家の李家正文著「天平の客、ペルシャ人の謎」で中国の姓名の命名法を述べている。

1、自国の名前に類似させて漢字に訳す。

2、フルネームを意訳する。

3、出身国の国名の首字1文字を採用する。

4、全く関係なく命名する。

 例――バルティア出身者はバルティアの漢字表記の安見国の安を採って安氏とする。755年、安氏の乱の首謀者、”安禄山”はバルティア人である。

 エルサレム教団の出身国は古代ローマ帝国。紀元前の書物”史記”は古代ローマ帝国を藜軒らいけんと記す。

 紀元の後漢書、三国志では太秦と表記する。エルサレム教団の人間は秦氏と命名される。


 九州、大分は昔豊国と呼ばれていた。7世紀に豊前と豊後に分かれ、現在に至る。

豊前は稲荷神社と並んで全国で最も多い神社、八幡神社の総本山、”宇佐八幡宮”がある。ここに祀られている神様は八幡神。この神様、男神か女神かよく判らない。古事記、日本書記にも登場しない。それでいて、八幡神のご神託は国家を左右するほどの力を持つ。

 769年、弓削道鏡を天皇にすべしという八幡神の神託がある。天皇の血をひかない者が天皇に即位する事など考えられない事態だった。だが八幡神の神託には逆らえない。

 当惑した奈良の朝廷は、今1度和気清麻呂を宇佐八幡宮に送る。今一度ご神託をうかがう。

今度は皇位を狙う道鏡を排除すべしと出た。道鏡は失脚する。これにより、隅に置かれていた氏子、辛島氏が復権。

 称徳天皇崩御。天皇家は天武系から天智系に移行。光仁天皇が即位。光仁天皇は桓武天皇の父だ。

 この事件の背後にいたのは秦氏だ。

正倉院の戸籍簿から、豊前の人々の多くにすぐりの文字が付く。”丁勝” ”川辺勝” ”大屋勝” ”黒田勝“姓の下に勝が付く。平安京建設の時に近江の国に膨大な人員と食料を提供したのが勝益麻呂。

 新撰姓氏録に秦酒公という太秦がいる。全国180の勝を率いている。勝とは秦氏の支族だ。

 宇佐八幡宮の氏子は3氏。宇佐氏、大神おおが氏、辛嶋氏。辛嶋氏は古くから八幡神を祀っている。全国の八幡宮の中で最も古い矢幡やはた八幡宮(今の全国の八幡宮)の宮司だ。原始八幡信仰を担っていたのが辛嶋氏だ。

 正倉院文書には辛嶋勝至とある。秦氏一族である。


 八幡とかいてもとはヤハタと読む。

 古語拾遺に、秦の字を訓みて、これを波陀ハダと謂ふ。秦氏はハタではなくハダ氏と言った。

八幡はもとは弥秦と呼ばれていた。イヤハタ=イヤハダなのだ。

 エルサレム教団はユダヤだ。ユダヤ人には姓がない。中国にやってきた時、秦という姓をつけられた。しかしこれは中国人側がつけた姓だ。ユダヤ人たちは集団名を使うときは一族名だ。ヨシュア・ベン・ヌンの例だと、エフライム族出身だから、エフライム族のヨシュアと名乗る。

 エルサレム教団は南朝ユダヤ王国の末裔だ。ユダ族、ベニヤミン族、レビ族の集団だ。彼らは多分に混血を繰り返す。長い年月、ユダ族とかベニヤミン族とかの意識は薄れていく。支族名を名乗る事が少なくなる。名乗るとすればユダヤである。

 ユダヤ――ヘブライ語、アラム語共に”イエフダー”と発音する。表記する時はYHDとなる。言語学的に母音変化を起こしやすい事を示す。

 イエフダー、イヤハダ、どちらも母音を省略するとYHDとなる。

 八幡神=ユダヤ神、秦氏は元はイヤハダ氏、ユダヤ民族だった。中国名の秦氏を受け入れる。イエフダー氏と名乗る。時代が下るにつれて母音発音に変化が起きる。イヤハダとなる。イヤハダのイヤが消える。ハダとなる。


 古川と斉田志保は瞠目したままだ。

ハタ=ユダヤ説に大きな衝撃を受ける。

「すごいわ」夢から醒めたように、志保が感嘆する。

「みごとだ」古川が叫ぶ。

 波多は嬉しさのあまり、熱い思いがこみ上げてくる。

――次回は太秦うずまさについて僕が講義する――

古川は波多の講義に触発される。


 この時だ。応接室の警報機が鳴る。庭の中のセンサーが作動したのだ。

「侵入者だ!」叫ぶと同時だ。波多は庭の中の照明を点灯する。古川と波多は金属バットを持つ。玄関を飛び出す。3つの黒い影が駐車場の方へ消える。


                   太秦


 ――泥棒が入った――警察へ届けても意味がないと、意見が一致する。夜間の戸締りが厳しくなる。


 平成17年1月からアパートの工事が始まる。5軒まとめての工事だ。

往年の常滑の土管屋は大きな土地を持っている。土管を作る。乾燥させる場所が必要になる。窯場もいる。焼き上がった土管を置く場所もいる。波多家は常滑でも大きな窯屋だった。本宅の周囲に、数棟の工場があった。その内の半数を改装して借家にする。今――残った工場を壊す。3棟のアパートを建てる。その管理はセントラル商事に一任する。

 セントラル商事の社長の近藤が度々訪問する。

波多は侵入者の件を話す。近藤の顔も厳しくなる。格安で警備保障会社を紹介してくれる。


 1月下旬、波多幾雄と斉田志保の結婚式が催される。新婚旅行は取りやめとなる。”波多家のお宝”を見極めるまで延期する。古川は今まで通り波多家に居候、とはいかず、波多家の北裏の3軒長屋の一軒で寝泊まりする。彼は1週間に2度は武豊町富貴の我が家へ帰る。


2月上旬、波多家の応接室にて、古川安男の講義が始まる。夜8時、夕食後のコーヒータイムを兼ねる。

 

 太秦=ウズマサ

 秦氏は自らをユダヤ人と称していた。

佐伯博士は論文「太秦を論ず」の中でウズマサとはヘブライ語であると発表。この仮説には致命的な問題がある。紀元1世紀、ヘブライ語は死語になっていたという事実がある。パレスチナに住んでいたユダヤ人さえ、満足にヘブライ語を話せなかった。日常語にヘブライ語は使われていなかったのだ。

 ここに1つの反論がある。現在イスラエル国ではヘブライ語を公用語として使用している。これには理由がある。

 第2次世界大戦後、イスラエル人の国を造るというシオニズム運動が盛んになる。その一環として、エルエゼル・ベン・イエフダーなる人物が失われた古代ヘブライ語を復元、苦心の末にイスラエル国の公用語として完成させた。

 旧約聖書はヘブライ語で書かれていた。ユダヤ教の儀式にはヘブライ語は不可欠であった。だが日常語としては使用されていなかった。

 現在の新約聖書の原点はコイネー・ギリシャ語で書かれていた。イエス・キリストという言葉も、コイネー・ギリシャ語だ。イエズス・クルストウスが正確な発音。英語のジーザス・クライストもここから転化している。

 これをヘブライ語で記すと、ヨシュア・メシア、もっと原音に近く発音すると、イエホシュア・メシアッハ、又はイエシュア・メシアっハとなる。

――ここにウズマサの謎を解く鍵がある――


 原始キリスト教=エルサレム教団の日常用語はアラム語だ。アラム語は古代のシリア語で、ヘブライ語の方言のようなものだ。

 言語的にはヤム系言語でヘブライ語やフェニキア語などと共に、同じような文字、文法体系に属する。だからアラム語を日用語と使用していても、ヘブライ語で書かれた旧約聖書を読むことが出来る。

 イエスが十字架上で、エリ・エリ・レマ・サバクタ二(旧約聖書の一節)と叫んだ言葉はアラム語だ。

 アラム語でイエス・キリストをイシュ・メシヤと発音する。ところがアラム語はメソポタミヤからオリコント一帯で広く使われていた。その為地方では訛りが強くなる。東の方へ行くと”イズ・マシ” ”イザ・マサ”と発音される。さらに東に移動、インド北部まで来ると”ユズ・マサ”と発音される。

 エルサレム教団は東へ東へと移動する。イエス・キリスト=イシュ・メシアはユズ・マサ、ウズ・マサと転訛していく。

 晩年佐伯博士は、ウズマサ=へブライ語の光の賜物説を破棄する。ウズマサ=イエス・キリストと喝破する。イエス・キリストという名前を、首長の称号としたのだ。


 日本に大勢の秦氏を率いてきたのは”弓月君”という人物だ。彼は太秦と考えられる。

 新撰姓氏録によると、弓月君を別名”融通王”という。大酒神社の祭神は三神。秦始皇帝、弓月王、秦酒公。案内板には弓月王として、ユンズとルビがふってある。

 アラム語でイエス・キリストを表す”イシュ・メシヤ”からイズ・マシ、ユズ・マシと転訛する。最終的にウズ・マサとなる。イシュはユンズと似ている。佐伯博士も弓月君(融通王)と太秦の発音の類似性に注目している。

 弓月君=イエス・キリスト説は秦氏=ユダヤ人景教徒説を唱える人々に支持されている。

 アラム語でイエスという名前は、日本で太郎という名前に等しい。一般的な名前なのだ。ヘブライ語でイエスを表記するとヨシュアになる。ヨシュア――旧約聖書の大預言者ヨシュア。モーゼから神権を継承したヨシュア・ベン・ヌンの事だ。

 宗教研究家、松居桃樓氏は”消えたイスラエル十部族”のなかで、弓月君が百二十県の民を率いて応神天皇の時に来朝している。これはイスラエルの十二部族を率いてヨルダン川を渡ったヨシュアを暗示している、と述べている。


 古川は言葉を切る。2人を見る。太秦=イエス・キリストと同じく、弓月君=モーゼに次ぐ大預言者ヨシュア。

 波多と新妻の志保は固唾を飲んで見守る。

――この説の中に、原始キリスト教徒が日本にやってきた真の目的が隠されている――

 古川はまず結論を述べる。

 原始キリスト教徒とは言っているが、彼らは自らをユダヤ教の一派と考えていた。それを念頭に置いて話す。

 ――モーゼに率いられてエジプトを出たイスラエルの民。モーゼ亡き後、ヨシュアに率いられて、ヨルダン河を渡る。苦節40年、神との約束の地、カナンに辿り着く。そこに定住する。

 弓月君も秦氏を率いて朝鮮海峡を渡る。日本列島に至る。長い苦難の旅の末に辿り着いた安住の地、日本。


 ヨシュアはヨルダン河を超える時、イスラエル十二部族の者に命じて、川底の石を12個取らせる。それを記念として立てさせる。一方、弓月君が祀った大酒神社の御神体は石である。

 百20県の秦氏を率いた弓月君は、日本に定住した時、イスラエルの民の第2の安住の地と考えた。

”神が与え給うた極東の地”それが日本だった。――

 エルサレムで祈っていたエルサレム教団が、突如、ペラへ移住する。神の予言があったからと言われている。かってイスラエル人がモーゼに率いられてエジプトを脱出する。その先祖の記憶はエルサレム教団にも鮮明に焼き付いている。

 神の予言があったからこそ、エルサレム教団=原始キリスト教徒はイスラエルを脱出する。長い苦難の旅に出る。

 ”神から与えられた約束の地”日本を目指す。

 弓月君ヨシュアは秦氏百二十県のリーダーとして日本にやってくる。定住後、秦氏のリーダーは太秦イエス・キリストに代わる。


 「それじゃ、秦氏のお宝って、キリストの何かって訳?」

志保は大きな眼をくりくりさせる。

「問題はそれなんだがね」古川はお手上げの仕草をする。


                    大酒神社


 平成17年4月。古川は武豊町富貴の自宅を売却する。波多の新築のアパートに引っ越す。沢山ある本の内、不要なものは始末する。それでも4トン貨物一杯分の本の山、波多家の庭にプレハブの倉庫を建てる。その中に収納する。

 セントラル商事が建設した3棟のアパートは入居者で一杯になる。社長の近藤はあれ以来一度も顔を見せていない。営業担当者が1ヵ月に一度挨拶に訪問する。

 波多家の周囲は賑やかになる。警備保障会社に警備保障を頼んでいる。枕を高くして眠れる。

 平穏な日々が過ぎていく。

波多は妻の志保と2人で資料あさりで余念がない。古川も帰宅後、ひたすら資料読みに専念する。

 3人に共通する課題が秦氏は原始キリスト教徒と判明したならば、秦氏のお宝はイエス・キリストとに関するもの、と考えるのが常識だ。

 だが――ここに1つの難問が横たわる。秦氏は古墳を造る。寺院や神社を建設する。彫刻の国宝級の物ばかり。土木事業から織物のどの殖産と幅広い。

 ここで3人は顔の見合わせる。キリスト教に関する事蹟が全く存在しないのだ。秦氏が建てた寺院や神社は山ほどあるが、キリスト教と思わせる建築物が無いのだ。

 この日はこれでお開きとする。


 数日後、古川の表情が明るい。

開口一番。原始キリスト教はキリスト教にあらず――

 ズバリ言い切る。彼らはユダヤ教の一派に過ぎない。イエスを救世主と見ていたのかもしれないが、神の御子とは見ていなかった。

だから――古川は目の前の波多と志保を見る。秦氏のお宝――キリストに関するものではありえない。

十字架、聖杯などのキリストの遺物を聖なるものとして保管した形跡もない。

 イエス・キリストとをウズマサとして、秦氏の首長の名にするのは恐れ多いと考えるかも知れないが、イエスという名前は特別ではない。イエスが十字架に掛けられる時、彼の代わりに許された囚人の名は、バラバ・イエスだ。モーゼの後継者、ヨシュア・ベン・ヌンなどイエスの名は数多く登場する。

 イエスとはヘブライ語でヨシュア、アラム語でイシュ。救世主、油を注がれた(聖別された)者という意味のキリスト、クリスティ、クリストヌスなど数多くの人名に使われている。

 エルサレム教団にとって、イエス・キリストは自分達のリーダーとしての称号なのだ。


 ユダヤ教の一派として秦氏を見ると、いろんな事が判ってくる。古川の声が弾んでいる。

「去年、広隆寺へ行ったろ」古川の声に、波多と志保は顔をしかめる。3人に付きまとう不審者を思い出す。

 蚕ノ社の近くに大酒神社がある。大酒とは本来は大辟と書く。秦と同じように当て字だ。

漢和辞典で調べると大辟とは死刑という意味だ。

 佐伯博士は景教の経典のなかに大辟と似た人物を見つける。”大闢”景教の経典ではイスラエルの大王ダビデをさす。

 大辟神社は秦氏の氏神だ。大辟神社は京都だけにあるのではない。兵庫県には10以上の大辟神社がある。中でも赤穂の坂越にある大辟神社は一番大きい。

 大辟を大裂、大荒と表記する神社もある。

 大辟=ダビデ説は学界から無視される。


 「我々はこの説を支持したい」古川は私と言わず”我々”という言葉を力説する。

ダビデは、一旦分裂しかけたイスラエル十二部族をまとめ上げた人物だ。古代イスラエル王国を統一している。ダビデとはメシアの代名詞でもある。真のメシアはダビデの直系の子孫から出るとされ、イエス・キリストもダビデの血を引く。

秦氏がダビデを祀るのは至極当然の事なのだ。

「だとすると、秦氏のお宝はユダヤのお宝だな」波多は思わず叫ぶ。

――太秦とはイエス・キリストの事――

「という事はダビデもメシアだから、ユダヤの首長は太秦って訳ね」志保もつられて声を高くする。

「太秦の秘宝だよ」古川の声は明るい。


                   応神天皇


 平成17年6月。3人の共同による古文書の解読は緩慢だ。というよりも慎重というべきか。答えは1つしかない。解読はパズルのようなものだ。1つ方向を間違えると、元のあぶくになる。緊張した日々が続く。時々気晴らしのドライブを楽しむ。気晴らしとは言うものの、”お宝探し”とは無縁ではない。


 朝6時出発。場所は応神天皇陵、(誉田御廟山古墳)大阪府羽曳野誉田。

常滑から産業道路を行く。知多市、東海市の臨海工業地帯に沿って走る道路だ。東海市名和あたりで湾岸道路に入る。桑名から名阪自動車道路に乗り換える。

 四日市を過ぎる。鈴鹿を通る。亀山パーキングエリアで休憩。後は西名阪自動車道まで走る。一路大坂へ向かう。途中、天理市、法隆寺を通過。柏原市内に入る。藤井寺インターで下りる。国道170号線を南に下る。ものの5分で応神天皇陵に到着。時間は9時を少し過ぎた頃、近くの喫茶店でコーヒータイムを取る。

 応神天皇の予備知識を復習する。

応神天皇とは品陀和気命ほむだわけのみことの事。仲哀天皇と神功皇后との間に生まれる。

 応神天皇を語る前に、神功皇后を語らねばならない。

”古事記”では仲哀紀、”日本書記”では神功皇后紀に詳しく語られている。

 神功皇后は朝鮮半島に遠征、新羅を征討する。夫の仲哀天皇が九州南部に住む朝廷に反抗的な熊曾族を征討しようとした時、神功皇后は神懸かりして占う。

”神は西方に金銀財宝の豊かな国がある。それを服属させて与えよう”と託宣した。

 ところが仲哀天皇は託宣を信じない。熊曾を攻撃する。神の怒りに触れて急死する。天皇を葬った後に、神功皇后は再び神意を問う。

――この国は皇后の御腹に宿る御子が治めるべし――と託宣があった。

 さらに託宣する神の名を問う。

――神託は天照大神の意志である。それを伝える事を命じられた住吉の3神である――との答え。

 皇后は神意に従う。住吉3神を守り神とする。軍船を整えて新羅の国に遠征。平定するという大事業を成し遂げる。こうして三韓征討に成功する。その後大和に戻った皇后は仲哀天皇の他の2人の王子の反乱を鎮め、誉田別命を皇太子に立てて自ら摂政を行う。

 応神天皇出生――神功皇后が新羅遠征中にお腹の子が産まれそうになったため、皇后は卵型の美しい石を2個、腰のところにつけて呪いとし、出産を遅らせる事を願った。こうして筑紫の国に凱旋する。無事出産。呪術的方法で出産をコントロールする。妊娠から出産まで15ヵ月を要している。


 以下の神功皇后伝には不審な点がある。

1、神功皇后による三韓征伐は架空の話というのが現在の歴史学者の大勢だ。

2、応神天皇は神功皇后と武内宿祢との間に出来た子供。

3、仲哀天皇は架空の天皇。

  仲哀天皇は暗闇の中で琴を弾いていて殺された(古事記、神功皇后条)

  仲哀天皇の不可解な死因も日本書記、仲哀紀9年2月――熊曾の矢に当たった――と表現する。その死を一  般に知らせず、もがいの火も焚かず、新羅の役を理由にして、死体を正式に葬っていない。

  ――死因不明、葬儀も出していない――この理由は1つ、仲哀天皇は存在していないのだ。

4、神功皇后は石の呪力で出産を遅らせた。

  この秘密はたった1つ、応神天皇は神功皇后の子ではないという事だ。


 古川はいつも目を輝かせて喋る。度の強い眼鏡がずり落ちそうになる。それを意に介さない。

「神功皇后の話は有名だ」

 戦前は国威発揚に利用される。三韓征伐は朝鮮半島侵略の口実の一環として、国民を洗脳し続けた。

 神功皇后の別称は息長足姫命オキナガタラシヒメミコト、足=タラシは朝鮮半島では大王を意味する。特に百済系王家の尊称だ。平安時代以降、天皇家(百済系)は出自隠しの為に”タラシ”を足で表現した。

 聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣する。隋書によるとこの時の倭国の支配者は”アメタリシヒコ”(男王)と記している。ここに出てくるアメタリシヒコは当時九州に勢力を誇示していた百済系倭国の大王だった。


 波多と志保はコーヒーを飲みながら魅入られたように、耳を傾ける。応神天皇はは神功皇后の子ではない。こんな話今まで聴いた事がない。

 古川は追い打ちをかける様に、衝撃的な説を述べる。

 

百済本紀に記す。

――金宮(倭)王と百済王の未亡人が結婚していた。2人の間に生まれたのが久爾王(応神天皇)とある。

 金宮(倭)とは当時九州に勢力を誇っていた百済系倭国の武内宿祢だ。百済王の未亡人(腆支王の妻)が神功皇后となる。

 ところが成務紀3年正月条――天皇(応神)輿武内宿祢同日生まれとある。かつ共に産屋に鳥が飛び込むという吉凶まで同じという。

 つまり――、百済久爾辛王=武内宿祢となる。

 応神天皇が百済系王子ではないもう1つの理由。それは宇佐八幡宮にある。

 宇佐八幡宮(現宇佐神宮)由緒書

――宇佐神宮は全国4万社余の八幡宮の総本宮。主祭は応神天皇(誉田別尊)、欽明天皇32年(571)に初めて宇佐の地に示顕になる。神亀2年(725)聖武天皇の勅願により、現社地に御殿を建立、八幡神を奉祀する。これが宇佐神宮の創立となる。

 神代には比売大神が御許山に天下ったと日本書記に記す。宇佐の国造はこの神を祀る。八幡神が祀られた6年後に神託により、二之御殿が奉祀される。

 一之御殿が主祭神応神天皇、二之御殿には、多岐律姫命、市枠嶋姫命、多記理姫命(宗像三姫神)、その後、三之御殿に神功皇后が祀られる。


 八幡宮は秦氏の神が祀られている――

古川は応神天皇こそが秦氏一族の長=太秦だと結論付ける。応神天皇は新羅からやってきた。

 神功皇后の三韓征伐の話がある。当時は百済が馬韓、新羅を辰韓と呼んでいた。

次に応神天皇は誉田別ほむだわけと呼ばれていた。秦はハダ、イエフダーが語源。ここから本田、半田などの人名や地名が派生してくる。ほむだ――ほんだ=ハダから派生した語だ。誉田はハダ――ユダヤ人原始キリスト教徒、応神天皇はその長であった。

 古代、百済と新羅の確執は想像以上のものがあった。朝鮮半島を二分する国家でありながら、憎しみ合う。戦争を繰り返す。白村江の戦いで、百済は唐の支援を受けた新羅に滅ぼされる。

 秦氏は新羅の出自だ。不思議な氏族だ。奈良朝、新羅系の蘇我氏の下で働く。平安時代になる。桓武天皇(百済系)の為に、自領、山背の国を献上する。秦氏はその下で自らを秦始皇帝の子孫と主張して憚らない。それだけではない。日本書記に弓月君(秦氏)は百済から渡来してきたと記されている。

 実際に平安期になると、百済からやってきたと主張する。秦氏は百済や新羅などの出自にはこだわらない。


 新撰姓氏録以下。

――秦忌寸、太秦公宿祢同祖。秦始皇帝の後也。巧智王、弓月王、誉田(応神)天皇14年来朝上奏し、さらに国に帰り百二十七県の伯姓を率いて帰化し・・・――

 秦氏が大挙して日本にやって来たのが応神天皇の時なのだ。太秦公宿祢同祖とある。武内宿祢は秦氏と同祖と言っている。ここに、神功皇后と武内宿祢の間に生まれたのが応神天皇との風評が古くからあった事を示している。


                     ユダヤ三種の神器


 波多と志保は茫然としている。学校で習った日本史がことごとく覆される。

――俺はね・・・――

以前、古川が語った言葉だ。

 古川は何物にも縛られたくない。自由気ままに生きたい。好きな読書で一生過ごせるものなら、悪魔に魂を売っても良い。会社務めは食うために、仕方なくやっている。彼は国立大学を出ている。本来なら今頃は課長に昇進していても不思議ではない。その話はあった。彼はその度に断っている。残業もしない。定時にきちっと帰る。

”俺みたいな者、本当ならクビになって当然なんだ”

 古川は仕事が出来る男だ。平社員のまま会社にいられるのは望外の喜びだ。

 古川の発想は型にとらわれない。

波多の父親の遺した古文書、数々の本、資料は波多と古川が習った日本史の”常識”にはとらわれない。


 腕時計をみると10時。数人の客が店に入ってくる。テーブルは20はあろうか。喫茶店としては広い。

「そろそろ出ようか」古川の一声で外に出る。

 目の前に巨大な森が聳えている。応神天皇陵の周辺は多くの古墳が点在する。学者によっては応神天皇陵とは言わない。誉田御廟山古墳と呼ぶ。仁徳天皇陵についで2番目に大きい古墳。

 日本書記、応神紀には武内宿祢の活躍、百済征伐譚。蘇我氏の祖、満智にまつわる話、仁徳天皇と大山守王子に世継ぎをさせるためのテストなど、多くの逸話を残している。

 応神天皇は多くの皇妃を抱えている。皇后の姉、妹も妃ととする。日本書記では皇子女は30人。古事記では76人にのぼる。

 古川は歩きながら話をする。熱の入れ方が異常なほどだ。

「多くの女性に囲まれて、羨ましい限りだ」

波多は羨ましいそうな声をあげる。

「ダメ!」志保が波多の二の腕をつねる。

「浮気したら承知しないから」鬼のような形相で睨みつける。波多は志保の剣幕に驚く。一歩あとずさりする。

「冗談だよ・・・」声が小さい。

 古川は2人の喧嘩に気づかない。さっさと前を歩いていく。波多は志保のご機嫌を取る。なだめながら古川に追いつく。


 応神天皇陵は宮内庁が管理している。古墳の周囲は整然と整備されている。公園のような趣となっている。応神天皇陵に隣接して誉田八幡宮がある。南大門を入る。すぐ横に安産木という樹と祠が祀られている。

 誉田八幡宮の主祭神は応神天皇。この付近は古来から近世にかけて幾多の古戦場となった所だ。散策するにはもってこいの場所だ。神馬の像がある。赤い鳥居の姫待稲荷社がある。

 誉田八幡宮の拝殿から本殿を見る。3人とも神妙な顔で柏手を打つ。応神天皇、遠くさかのぼれば波多のご先祖様だ。八幡社に稲荷社が勧講されている。古川は稲荷社も秦氏の創建によるという。


 3人は再び応神天皇陵に戻る。大勢の観光客がたむろしている。

応神天皇陵は前方後円墳。この形は円と方を継ぎ足したものではない。はじめからこの形で作られている。鍵穴のような独特な形だ。古墳の形が時代と共に発展して、この形になったのではない。突如として現れているのだ。この原型は朝鮮半島にある。

 前方後円墳の両脇に小さな耳のような出っ張りがついている。造り出しという。用途は不明。前方の方は四角という意味だ。だが実際は円についた方の幅が狭い。それが末広がりになっている。前方後円墳を真上から見下すと、把手のついた壺に見える。

 壺――ユダヤ人にとって、壺は三種の神器の1つだった。イスラエル国の王権のシンボルだ。

マナの壺――旧約聖書に、モーゼに率いられて、イスラエル人はエジプトを脱出する。ヤハウェ神は約束の地カナンに入るまで、食物としてマナを降らせる。白いウエハースのようで、食べると甘い蜜の味がしたと言われる。太陽が昇るとマナは溶けてしまう。

 ある時、ヤハウェ神は一オメル(約2・3リットル)のマナを代々にわたって蓄える様に、モーゼに命じる。これを受けて、マナを入れた黄金の壺が作られる。マナの壺だ。これが一つ目の神器。

 2つ目はアロンの杖。

エジプトのファラオの前で、モーゼが生きた蛇に変えた杖。ナイル川に杖を入れる。水が血のように染まる。カエルやブヨ、イナゴ、ライ病が発生する。ついに雹や燃える雨さえ降らす。杖は災いの奇跡を引き起こす。

 イスラエル人が荒れ野をを旅する。杖で岩を打つ。そこから水がほとばしる。モーゼ亡きあと、アロンが引き継ぐ。アロンの杖と言われる。

 3つ目の神器。契約の聖櫃アーク。アークの中に、マナの壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板が入っていいた。

 三種の神器、一般にはユダヤの神器と言われる。


 三人は応神天皇陵の前の公園のベンチに腰を降ろす。

「僕はね、これが秦氏のお宝だと思う」

 古川は度の強い眼鏡を吊り上げる。秦氏の首長、つまり太秦が持つべき秘宝だと考えたい。

「そのお宝が日本にあると言うの?」志保の眼が輝いている。

「つまり、ユダヤ原始キリスト教徒が日本に持ち込んだ?」波多は驚きの声を上げる。

 古川は次から次へと驚愕の事実を述べる。

古川は答えを口にしない。

「君のお父さんはすごい人だぜ」

 波多の父は古文書や文献、書籍を丹念に読み込んでいる。紙面の空白に鉛筆でメモ書けしている。古川はそれを整理している。古川の言葉が続く。

 応神天皇を中心とした大勢のユダヤ人が新羅を離れた。当時、馬韓と称した百済は直支王が支配していた。武内宿祢はその母(神功皇后)と夫婦関係にあった。同じユダヤ人として、武内宿祢は秦氏を受け入れる。

 当時倭と言われた九州は百済の占拠地だった。武内宿祢は倭の王として君臨していた。

九州に上陸したユダヤ人=秦氏一族が近畿地方を目指すにはそれだけの理由があった。

「それはね、ユダヤ三種の神器が、近畿地方にある事を知っていたからだ」

「じゃ、お宝は秦氏が持ち込んだんじゃないんだ」波多は失望する。

「でも同じユダヤ人だよ」

「え、それって誰?」志保の声。


 古川は君の父の受け売りだと断る。

「イスラエルの失われた十支族、神武天皇であり、崇神天皇だ」

 波多と志保は息を飲む。


                       謎の人物


 今日の勉強はこれでお仕舞い。古川はおどけて見せる。波多と志保の表情はこわばっている。緊張を和らげようとしたのだ。

「それじゃ、日本という国はユダヤ人が造ったの?」

志保は茫然と空を見上げる。彼女の白い顔が紅潮している。美しい大きな眼が憂いを含んでいる。信じられないと言った表情だ。

「それが真実の姿ではないだろうか」古川の声は小さい。


 時計を見る。正午近くだ。せっかく応神天皇陵まで来た。食事くらいは贅沢しようという事になった。奈良によって観光名所で昼食という事になる。

「ちょっとトイレを・・・」

 波多は公園内に設置してある公衆用トイレに駆け込む。4~5分後、すっきりした顔で公園に戻る。

「あれ!」波多は不審の声を上げる。2人がいない。多くいた観光客もいなくなっている。車に戻っているのだろうと駐車場に急ぐ。駐車しているのは波多の車のみだ。2人がいない。波多は志保の携帯に電話する。電源が切れている。古川のも同様だ。

・・・一体、どうなっているんだ・・・波多の顔色が曇る。2人を残したまま帰るわけにはいかない。途方に暮れる。

・・・警察に行ってみよう・・・カローラに乗り込もうとする。

「波多さんですな・・・」背後でしわがれた声がする。

 驚いて振り向く。黒のスーツに身を包んだ男が立っている。黒のサングラスを掛けている。髪を七・三に分けている。逞しい体をして、暑いのに汗一つかいていない。

「あなたは・・・」波多の声は小さい。男の精悍な風貌に圧倒される。

 男は波多の問いには答えない。

「あなたの奥様とお友達を預かりました」男の声は冷たい。

「預かるって、どういう事だ」波多は気が動転する。

 男は微笑する。30代ぐらいであろうか。落ち着いた雰囲気を漂よわせている。


 応神天皇陵の拝殿は前方部分にある。誉田八幡宮が隣接して、駐車場も広い。観光客の姿は影も形もない。十数台駐車してあった車も忽然と消えている。いるのは波多と黒いスーツの男のみ。異様な空気に波多は身震いする。6月、夏の日差しが照り付けている。波多の心は寒々としている。

「今のお仕事、今後はあなただけで・・・」

 仕事と言われて、波多は愕然とする。波多家のお宝探しは他人には話してはいない。波多と志保、古川だけの秘密だ。

「ユダヤの三種の神器にようやく気づかれましたな」

 男は悠然と答える。波多たちの行動を知悉している口ぶりだ。男の声が響く。

太秦の秘宝――神との契約の聖櫃アーク。日本の何処かに隠されている。アロンの杖、マナの壺も秘宝には違いない。だがアークは底知れぬ神秘の力を有している。

「これからは、あなた1人で探してください」

秘匿された場所さえわかれば、2人は返すといううのだ。

 男は微笑を絶やさない。志保と古川には危害は加えない。波多は食い下がる。ここまでこれたのは、志保と古川がいたからだ。じぶん1人では無理だと主張する。

――波多さん――男は真顔になる。

「波多家は失われたイスラエル十支族のレビ族です」

 アークを捜し出す運命を担っている。波多の父はそれを知っていた。息子の幾雄は勉強をしない。毎日外へ出歩くばかりで、本も読まない。悲観した父は自分の代で終わらせようとしたがその責務も果たせず一生を終えた。波多幾雄は父の悲願を顧みなかった。


 ――私達はあなたの事を調べました――男の声は淡々としている。

 昨年4月、波多は師崎の料亭で魚料理を摂る。夜10時に帰る予定。そこに父の知人と称する男と出会う。帰宅予定を2時間遅れて家の玄関を開ける。家は空き巣に入られる。

 5月、武豊に宅配中、強盗に襲われる。この2つの事件で波多家のお宝探しが始まる。

古川という、うってつけのパートナーに巡り会える。斉田志保は波多の私生活の良き伴侶となる。

 波多の回想がここで終わる。お宝探しに専念できるようになった。この男達が仕組んだ計画・・・。

「あっ・・・」

 波多が喉の奥で叫ぶ。阿久比町にあった志保の店の権利が望外な値段で売れた。

「セントラル商事の近藤社長も・・・」

 男は哄笑する。彼は男達の使い走りをしただけだと答える。セントラル商事の貸店舗のチェーン化の一環として資金を提供する。斉田志保の店の権利を高い値段で購入するように指示しただけだ。

「それじゃ、古川も・・・」

古川の会社の本社は神戸にある。本社の首脳に指示する。古川の仕事を減らす。

 波多は男を見詰める。いとも簡単に古川の会社の経営者を動かす。古川の会社は上場企業だ。年間売り上げ数千億円をこえる。政財界の大物でも簡単に関与できない筈だ。

「あなたは一体・・・」

 男は波多の質問には答えない。

「拉致されたと、警察に訴えたら・・・」

波多の主張に男は子供のように笑う。

「やってみたら・・・」人を食った返答だ。

 男はまた真顔になる。

「とにかく、お2人は預かりました」

これからは波多1人で”仕事”をしろと再度要求する。


 男が駐車場から消える。波多はしばらく茫然と男の後ろ姿を追う。十数分後、再び観光客の車が駐車場に入ってくる。


 2日後、波多は常滑警察に駆け込む。志保と古川が拉致された様子を要塞に話す。署長は大阪府曳野警察に連絡。拉致の捜索願いを出す。

 数日後、常滑警察の署長から連絡が入る。

”捜索願いが出されている2人は拉致されたのではない。自発的に消えた。よって捜索願いは却下する”

 子供だましのような解答に波多は愕然とする。怒りも覚える。波多は常滑市の県会議員に相談する。彼は国家公安委員会に相談してくれる。

 1週間後、驚くべき解答が寄せられる。

”拉致の事実は存在しない”公安委員長の著名入りの解答書が送達される。

 波多は諦めない。新聞社に駆け込む。担当記者に記事にしてもらうよう説得する。テレビ局にも足を運ぶ。数日が過ぎる。新聞に掲載されない。テレビでも報道されることもない。波多は失望する。事の詳細を尋ねても、警察と同じような解答しか返ってこない。

 数日間、自暴自棄になる。朝から酒に浸る。友人の1人が久し振りに訪問する。波多は今までの事を詳しく話す。心の内を吐露する事で慰められる。

「俺が口コミで世間にばらす」友人は足代をくれんかと駆け引きに出る。彼は今失業中だ。近頃、羽振りが良くなった波多を訪れたのだ。何か仕事があれば・・・、下心が見え見えだ。

 波多は黙って10万円を出す。世間の注目が集まればもっと出すと、札束を鼻ずらにぶら下げる。

よし来たとばかりに友人は駆け出していく。10日後、友人の水死体が多屋海岸から上がる。警察は自殺と断定。


 平成17年9月、波多は父の遺品、古川のメモを整理する。いつまでも飲んべえの体たらくではいられない。1日も早く志保に会いたい。古川の身も案ずる。

 ユダヤの三種の神器、崇神天皇、どこでどう結びつくのか波多には皆目不明だ。

 波多は人が変わったように、書斎に籠る。


                                    続く


 お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。

 なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景では有りません。

 参考資料につきましては太秦の秘宝の3に掲載します。


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