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 紀昌が山を下りてきたのは九年後さ。その間の修行は、誰にもわからないらしい。

 誰もが期待したんだぜ、紀昌が伝説の甘蠅老師の技を披露してくれるのを。なんせ、紀昌は自分の技を見せびらかすのが大好きだったからさ。

 ところが山を下りてきた紀昌は全然違うんだよ。なんていうか、覇気がなかった。負けず嫌いの代名詞、向上心の塊、っていう感じのあの精悍な紀昌の目つきはどこにもなかったんだ。なんというか、ぬぼ~っとした木偶のような顔つきだった。

 けれど、わかる人にはわかるんだろうな。紀昌の顔を一目見た瞬間、飛衛師匠がひれ伏したんだ。これぞ、天下の名人だ。紀昌の前では我らなど足元にも及ばない、って。

 それを聞いて趙の都の人は期待したね。なるほど、これでこそ名人か。むやみに腕前を誇示しないのも頷ける、ってね。ただ、それにしても、弓も持ってないのは何でだ? 気になるわな。なんて言ったって、不射の射を紀昌が見せないんだからさ。それで、つい誰かが聞いちゃったんだよね、弓はどうしたの? って。そしたら、紀昌は、また物憂げに答えたんだよ。


 至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし。


 それを聞いて、都の人はますます感動したね。さすが天下の名人、器が違う、って。弓を持つ弓の名人なんて掃いて捨てるほどいる。でも、うちの名人は弓を持たない弓の名人なんだ!

 こうして、無弓、不射の名人の評判はますます高くなった。そりゃ、もう様々な噂が流れたよ。夜、紀昌の家の屋根から音がする、あれは、紀昌の魂魄が抜け出てこの町を守るために弓をはじいている音だ。雲にのり古代の名人の神霊と紀昌が弓の腕を比べているのを見た。とか、そんな感じの怪しい奴から、匪賊、ああ泥棒だな、がある家に入ろうとしたら、殺気に射抜かれて動けなくなって捕まってしまった。それが紀昌の家だった、とかさ。都の空から鳥が消えたり、邪心をもつ悪人は紀昌の家の十里四方には近づかなくなったなんて話もあるのさ。

 そうして、名声が高まれば高まるほどに、紀昌はどんどん気配を消していくんだよ。老いていく、というのもあるんだけどな、ますます表情は消え、木偶そのもののようになっていくんだ。呼吸の気配すら感じられない。いや、そもそも呼吸してないんじゃないの? と思ってしまうほどだ。語ることなんか滅多にない。

 

 既に、我と彼の別、是と非の分を知らぬ。目は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。


 ってのが、紀昌の残した数少ない言葉の一つらしい。

 できれば、最後に老人となった大名人紀昌の武勇伝でこの話を締めたいんだけどさ、残念なことにそのエピソードが残ってないんだよ。その代わりに、奇妙なエピソードだけ残っててるんだよな。

 ある日、紀昌が知人の家に行ったんだ。そこで、木製の細長い器具を見かけた。どこかで見た気はするんだけどさ、どこで見たか思い出せない。何より、使い方がわからない。そういう引っかかるのって、なんかさ、脳の奥がむずがゆくなるようで嫌だよな。そこでさ、紀昌は聞いたんだよ。これ、何? って。

 はじめはさ、からかわれたと思ったみたいでさ、家の人はまともに相手にしなかったんだよ。でもさ、紀昌が本当に真剣に何度も聞くんだよ。家の人の目をじっと見て、言葉の少ない紀昌が、何度も聞くんだぜ。そのうち、家の人が悟ったんだ。紀昌はふざけてないし、おかしくなっているわけでもない。もちろん、耄碌しているわけでもなくて、自分が質問を聞き違えているのでもない。ただ、本当に忘れてしまったんだ、って。

「あぁ、あぁ、なんと言うことだ、紀昌様、貴方はこれがわからないのですか? 弓の名人の貴方が、弓を忘れてしまったと!」

 これには、都中の人がおどろいた。それからしばらくの間、都の画家は筆を、楽師は楽器を、職人は工具を隠して、自分の道具に触れるのを恥じたんだってさ。

 これが、『名人』紀昌の最後の伝承さ。





「おかしい! それ、絶対におかしい!」

「言うと思ったよ」

 肩をすくめながら、誠は噛みついてくる涼をやんわりと受け流した。

「だから、最初に謝ったろ『一生懸命がんばってるお前に失礼』な話だって」

 だが、誠は収まる気配がない。

「じゃあ、何、その話は功名心を捨てろ、とかそういう教訓なの? 僕はグローブやバットに触っちゃいけないの? ボール投げちゃダメなの!?」

「待てよ、だから、そう何でもかんでも直球勝負で考えるなよ」

「うるさいな、どうせ僕は変化球に弱いさ。なんだよ、涼が面白そうな話をするから聞いてたのに、この終わり方は何だよ? これ、まじめな話なの? 笑い話なの?」

「まあ、すぐに答えを求めたがるのは、最近の若者の悪い癖だな」

「また、えらそうに! 知ってるんだろ? 教えてよ」

 まじめに食い下がる誠の方を叩いて、涼は笑った。

「至言は言を去る、だな」

「だから、はぐらかすなって」

「はぐらかしてないって。ここから何かを感じ取るのもお前の自由だし、アホなおっさんの話だと笑ってもいいし、所詮作り話だと切り捨ててもいいさ。ただな……」

 そう言って、少し涼はためらったあと、ちょっとまじめな顔に戻って言葉を続けた。


「点滴石を穿つ、って言葉を知ってるか? 雨だれが石に穴を掘っていく、って言葉だが、全力を傾けて一つのことに取り組めば必ず達成できる、そういうメッセージがこの話にこめられるのは間違いない。だろ?」

 うん、と頷く誠を見て、涼は続けた。

「けれど、それは、やっぱり落とし穴も大きいんだよ。周りが見えない危うさ、って奴かなぁ。つまりは、そういうひたむきさのすばらしさともろさを、ちょっととぼけた切り口で鮮やかにオレ達若造に見せてくれた。それがこの『名人伝』だ、とオレは思うんだよ」

 う~ん、とわかったようなわからないような返事をする誠の額を、涼はもう一度だけ指ではじいた。

   

「だからさ、お前みたいに背負い込まなくていいんだよ。チームが弱いのはチーム全体の責任。お前が長打打てないからじゃないの。さ、ほら、行くぜ」

 涼が当然のように告げた言葉だが、誠にはわからなかった。

「行くって、どこに?」

「バッティングセンターだよ。どうせボール見るなら、動くボールの方がいいだろ」

 ぶっきらぼうに、面倒くさそうに答える涼をみて、誠は嬉しそうに笑った。

 



(了)


無教養の主人公に読書好きが内容を紹介する物語、としてはビブリオ古書店などがありますね。

原作の内容と、紹介する人物世界の物語に関連をつけるなど、もう少し展開を考えないと、単に本の内容を紹介するだけでは作品にならないと反省します。

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