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1 高校球児と皮肉屋が語り合う中島敦

解説役は、女性ヒロインにする方が定番なのでしょうね。

 誠は手の中の物体を見続けていた。

 時速100マイルに対して7mm、か。人間の出来ることではないように思える。それでも、あの人が出来るというのだから出来るのだろう。僕に同じことが出来るとは思えない。けれど……。

 直系72mmの白球を見つめ続け、彼は考える。

 けれど、近づくことは出来るはずだ。僕にだって、その努力は出来る。

 二ヶ月前に左腕を骨折して以来、調子が上向かない。凡打を重ねているわけではないが、チャンスを完璧に物に出来ているわけではない。可能性があれば、少しでも近づきたい。

 遙かな高みを目指して、若者は地道な努力を重ねていた。

 

が、その努力は頭蓋骨に響くペチコン、という音と、額に走る鋭い痛みによって打ち砕かれた。


「痛っ、ちょっ、何? 誰?」

 額を抑えながら振り向いた誠の涙ににじむ目がとらえたのは、デコピン発射台の再チャージを終えた悪友の右手だった。

「何じゃねえよ。誠、お前、さっきから何やってんだよ?」

 再び、ペチコン、と間抜けな音が鳴り響いた。


「涼、痛いな、いきなり叩くなよ」

「いきなりじゃないだろ、何度も呼んでるのに返事もしやがらないで。そのボールがどうかしたのかよ?」


 涼は眉間にしわを寄せて不機嫌そうに尋ねた。もっとも、涼は不機嫌なわけではない。眉毛を寄せることがデフォルトで身に付いてしまっている涼の顔はいつも怒っているように見えるだけだ。その上、脱色をしているわけでもパーマをかけているわけでもないのに、やや明るめの茶色くウェーブした髪質が周囲の誤解に拍車をかけている。加えて思ったことを率直に口にすることが、柄の悪そうな見た目に磨きをかけていた。

 根はまじめだし、意外に読書家で情に厚いところもあって悪い奴ではないのだが、ただちょっと無愛想というか、不器用というか、無神経というか、損をしているところがある。傍目には、そう、田舎の無人駅にしゃがみ込んでタバコを吸っていそうなヤンキーにしか見えない。

 それでも、つきあいの長い誠には涼が不機嫌なのではないとわかる。ぶっきらぼうに声をかけながらも、目は誠の持っているボールをじっと見ていた。


「いや、ほら、Numberでイチローさんのこと特集してたんだよ。それでさ、ボールの中心から7mm下をバットで叩くと理想的な飛び方をするって書いてあってさ」

「7mm下ぁ?」

「そうそう。ボールの中心の7mm下を叩くとさ、ボールの中心に対して約10度の角度で与えられる衝突エネルギーは、理想的な角度でボールを跳ね返すだけでなく、バックスピンを生むんだって。そうすると、縫い目が揚力を発生ささせてさ、飛距離が伸びるんだよ」

 左手にボールを持ち、右手をブン回して野球理論を熱弁する誠の話を聞きながら、涼は小さくため息をついた。またはじまった。こいつ、いつもはおとなしいんだが、熱が入ると止まらねえんだよな。


 それでね、そのためには、ボールの中心を見極める目をもたないといけないじゃないか、でもさ、動いているボールを見極めるのってむずかしいだろ。だから、止まっているボールをじっくり見ておけばさ、とっさの状況に対応が出来るんじゃないかって。ほら、パターンが脳に認識されるっていうかさ、聞いたことない? アフリカの狩人、バサルワ族だっけ、えっと、あの人達がキリンとかシマウマとかを見つけられるのは、単に目がいいからじゃなくてさ、キリンとかシマウマのパターンを脳の中に持っているからなんだって、だから、


 ペチコ~ン。

 乾いた音が三度鳴り響く。痛っ、と誠は額を押さえた。

「わかった、わかった。わかったから、話が長いっつ~の」

 右手を振りながら涼はあきれたように言った。

「あ~あ、バカだとは思っていたが、まさか本当に『名人伝』の真似をする奴がいるとはなぁ」


「『名人伝』?」

「ああ、中島敦の名作だよ、って言っても知らねえか。全く、部活ばかりしてねえでちょっとは本も読めっての。これだから最近の学生は本を読まねえって言われるんだよ」

 言ってることは正しいのに、涼の言葉が人に聞き入れられないのは妙におっさん臭いからだからじゃないだろうか。

「それで、その『名人伝』って、どんな話なの?」

「ん、ああ、名人伝ってのはだなぁ……」


 *


 昔、春秋戦国時代って大昔だ。中国の趙って国の都に男がいたんだよ。まあ、いつだってどこにだって男はいるけどな。そいつは紀昌ていうんだけどさ、何をトチ狂ったか突然弓の名人になりたい、なんて思いついちまったんだな。

 まぁ、日本でも突然の思いつきでボートこぎ始めてオリンピック選手になってしまった津田さんなんて人もいるから、思いつきが悪いとは言わねえけどな。スポーツ短編小説の名手・山際淳司が紹介してたぜ。「ひとりぼっちのオリンピック」だったっけ。


 ああ、悪い、脱線したな。とにかくだ、紀昌は弓の名人になりたくなったんだ。でな、紀昌は飛衛って名人のところに弟子入りするんだよ。ところがその師匠の飛衛ってのが偏屈な奴でさ、「お前にはまだ弓を教えれん」て断りやがるんだよ。いや、弟子入りを断ったわけじゃないんだ。弟子にはしてやるけれど、弓を撃つ、じゃなかった射るのにはその前の準備がいる、っていうんだよな。ああ、それが筋トレとかのフィジカル面のことじゃないんだ。といって、メンタルの話でもない。どっちかっといえば、その中間か、お前といっしょさ。目なんだよ、目。「弓を射るには、まず目を鍛えろ」だとよ。


 その目の鍛え方か。まあ、急かすなって。

 まずは、見るために不退転の決意がいるんだよ。何があっても目を閉じない、って覚悟さ。そこで紀昌は考えた。人はいつ瞬きをしてしまうんだろう? そうだ、目に何かが触るときだ。ならば、目に物が触れる訓練を重ねたらいいんだ。それがまた傑作でな、この男は、とんでもないことをするんだよ。

 家に帰ってさ、嫁さんの機織機の下に寝っ転がるんだよ。ほら、あれだ。ツルの恩返しでおつうがキートントン、って布を織ってたあの機織りだよ。嫁さんがさ、キートントン、って布を織るたびにさ、目の前をっていう横糸通す道具が紀昌の目の前を通り過ぎていくんだよ。そいつをさ、瞬きせずに眺めることにしたんだよ。あ、そんな奴に嫁さんがよくいただって? しらねえよ。そりゃさ、嫁さんも嫌だと思うぜ、働いてるそばに旦那が寝転がって、しかも股下からのぞいてやがるんだぞ? それも、3年だよ、3年。そうだよ、その男ってのはさ、瞬きしなくなるまで2年間機織機の下にいたんだよ。重度の引きこもりだよな。でもさ、そのおかげでそいつは瞬きを克服したんだよ。錐でつついても瞬きしないんだぜ? あんまり瞬きを我慢してたもんだからさ、筋肉が動くのやめたらしいんだ。何しろ睫毛と睫毛の間に蜘蛛が巣をかけたんだから大したものさ。それでな、紀昌は喜んで師匠に会いに行くんだよ。飛衛老師、僕やりましたよ、瞬きを克服しました! って。


 そしたらよ、師匠が冷たいんだ、これまた。

「まだ足りん。次は『視る』ことを学べ」だとさ。

 そこで、紀昌はまた修行を始めるのさ。『視る』修行だよ。そう、誠がやってた奴さ。紀昌は、さ、ボールじゃなくてシラミを使うことにしたんだよ。不潔とか言うなよ、昔の衛生状態を考えろ、って。でさ、シャツの中からシラミを見つけてさ、そのシラミを髪の毛で結んで窓辺に吊してさ、じっと見ることにしたんだよ。朝も、昼も、夜も。ずっと、じ~っと髪の毛で結んだシラミだけを見続けたんだ。

 そりゃ、最初はシラミだからさ、小さいもんだぜ。足の先から先まで3mmもないんだから。それがな、十日ぐらいするとな、だんだん膨らんで見えてくるんだよ。三ヶ月もしたらさ、明らかに大きく見えてるんだよ。シラミが芋虫ぐらいに膨らんでるんだ。いける、この修行は正しい、って叫んだかどうだかしらないけどさ、紀昌はこの修行を続けたんだよ。三年だぜ、三年。窓辺に吊してるからよ、景色の移り変わりがはっきりとわかるんだよ。花が咲いたと思ったら、太陽がギラついてきてさ、だんだん葉っぱが色づいて、散っていってさ、そして雪が積もり、雪が解け、また花が咲いて。ほんと、よくやるよ、何がすごいって、嫁さんのフォローだよ。働かずに節足動物を見つめ続ける夫を三年も喰わせてやるんだぜ? 

 その甲斐あってさ、ある日気がつくとシラミがでかく見えてるんだよ。どのぐらいって、そりゃでかいさ。馬ぐらいに見えたんだ。おお、いけるぞ、と紀昌は喜んだ。外に出て見りゃびっくりさ。ばかでかい人間が歩いてる。五重塔みたいに高いんだ。豚は象だな、馬は山だ。喜んだ紀昌はスキップして家に帰った。そんでもって、修行したくてたまらなかった弓に矢をつがえてエイって放てば、そりゃ見事なものさ。見事にシラミの心臓を射抜いたんだ。なんてったって、的がデカくみえてるんだからなぁ。

 さすがの飛衛師匠もこれをきいてべた褒めさ。でかした! ってなもんだ。当代きっての弓の名人はな、ここで初めて紀昌に弓の射方を教えるのさ。



 *


「そうか、それで僕のことを名人伝みたいだ、って言ったのか」

 誠が感心していると、涼は眉間のしわをさらに深くして答えた。

「まぁな。でも、ま、一生懸命がんばってるお前に失礼だよな、このたとえは」

「なんでさ? だって紀昌は名人になれたんだろ?」

「ああ、なるにはなったんだよ。腕前は確かにすごかったんだがなぁ……」

 涼の言葉になにか引っかかりがあったが、誠はその続きに耳を傾けた。


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