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展示室の中に入ると、私は息ができなくなった。そこに広がる、一面の青。
まるで恐ろしい生き物のようにそれは私を飲み込んだ。文字通り、息が止まった。もしかしたら心臓も止まっていたかもしれない。ぷくぷくと身体の奥から得体の知れない感覚が湧き上がってきて、死んでしまうかも知れない、と馬鹿なことを思った。
その青い生き物の中を、悠々と泳いでくる男がいた。
「ねえ、君、大丈夫?」
バスで一緒になった彼は心配げに私の顔を覗き込む。
彼の声が鼓膜に触れた瞬間、唐突に海は私に優しくなった。柔らかく包み込む腕の様な波に身を預けて、このまま眠ってしまいたいほどだった。
「熱中症かな?気分悪い?」
そっと私の肩を掴みしゃがませようとする彼に大丈夫だからと言って断る。
「少し、びっくりしただけです。あんまり青いから」
彼は展示室を見渡し、なるほど、といった。
「確かにすごいよね」
彼が同意してくれたことにほっとする。近くにあるパネルを見るが、作者の名は書かれていなかった。
「これ、誰の写真ですか?」
私と違って展示を見に来たのだろう彼に訊ねる。
これは斉地一臣の写真だ。私はそう確信していた。
「…ああ、これを見に来たわけじゃないんだ?」
記念館に来るなんて酔狂だと思ったのだろうか。寂れた様子からしても、あまり常設展示が面白いとは思えない。
「はい、これどうぞ」
彼が渡してくれたリーフレットには平坂記念館特別展示・海の部屋という文字と、斉地一臣の名があった。
「…私、これを見に来たんです」
あおいろ。
「そう。ゆっくり見ていきなよ」
展示の中にはあの絵葉書の写真もあった。一面の青の中の水のうねり。優しく、力強く私を引き込もうとする海を恐ろしいとはもう思わなかった。