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バラバラバラ

作者: 明本 宏喜

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 夏の残暑と秋の風が心地よい季節。

 会社の飲み会後、田中華たなか はなは2つ下の後輩の佐藤と家路についた。

「いや~すびません先輩。まーさか終電逃ずまで付き合うどは思わなかったんでぇ~でへへ」

 お酒が回り呂律ろれつが回らない佐藤はフラフラに歩き笑いながら田中華に頭を下げた。

「いいのよ佐藤くん。うち近くだから始発まで寝ていくといいわ」

 さほどお酒に酔っていない風の華はシラフかのような歩きで佐藤に付き添う。

 会社の飲み会は2ヶ月に1回くらいのペースで開かれ終電前には解散するはずだったが、今回は会社の新規事業拡大で気が大きくなった社員も多く、意気揚々と新入社員も含め無礼講で飲み比べをするほど場の空気が出来上がっていった。最近転職してきた佐藤も場の空気に当てられ普段より多くお酒を飲んでこの有様である。

 一方、大学卒業後に入社して6年にもなる華は会社の飲み会の接し方を心得ているため、こうした酔った人への介抱をよく頼まれることが多い。

 異なる部署にいる佐藤とは初対面ではあるが酔った勢いのまま積極的に華に話し掛けたことがきっかけで介抱する流れとなった。

「にしても先輩はぁ~、おきれいですよねぇ」

「あら、ありがとう佐藤くん。お世辞でも嬉しいわ」

「お世辞じゃないですよ、スタイルもいいし、めがねも似合っでるし、カレシさんが羨ましぃのぉ裏山!」

「かなり酔ってるわね佐藤くん」

「でへへ~そりゃぁ今日ほど酒を飲まずにばいられませんよぉ~。新規事業の幹部にスカウトされたんですから出世コースもまっしぐら! あとはぁ~お嫁さん探しぐらいですかねぇ~」

「順風満帆ね。いいお嫁さんが見つかるといいわね」

「先輩はどうですか? タイプなんですけどぉでへへ~」

「ふふ、酔ってる男の言葉ほど信用ないって部長言ってたわよ」

「あの釣り目部長ですかぁ~? あの人も女の人に怖がられて彼女いなさそうぉ」

「佐藤くんは思ったこと口にするタイプね、このことは黙っておいてあげるわ。着いたわよ」

 マンションの玄関のキーロックを解除して、5階までエレベーターで上がり、505に到着した。華は部屋の鍵を開けて玄関先で靴を脱ぎ明かりをつけた。

「さ、入って」

「お邪魔しまーず」

 佐藤は左手を下駄箱の上に置こうとしたが、バラで着飾った籠が手に当たりそうだったため反対側の壁に右手をついて靴を脱いで部屋に上がった。

 トボトボと歩く佐藤は部屋の中を見回す。

 廊下を通ると広いリビング兼キッチンがあった。

 華の部屋は1LDK。衣食住の中で住に重きを置く華のささやかな自慢である。

 テレビにベージュのソファ、その下には温かそうなカーペット、質素な青いカーテン、棚の上には小さな熊のマスコットや花の小物や同僚の写真などが飾られていた。

 それ以外に目立った物はなく、女性にしてはやや殺風景な部屋ではある。

 ふと佐藤は空白の写真立てや空きのあるコルクボードも見つけた。

「あまりジロジロ見ないで、片付けてないから恥ずかしい」

「いやいや先輩、十分きれいですよ。ぼくの部屋の千倍くらい」

「ふふ、佐藤くんの部屋はどれだけゴミ屋敷なのよ、テーブルについて」

 華はキッチンに常備してある薬箱を取り出して、市販された胃腸薬と水を用意して佐藤が座るテーブルへ運んだ。

「はい。お薬、飲み会後はこれが一番効くから」

「先輩気が利きますねぇ。ますますお嫁に欲しいくらいです。この佐藤、立候補します!」

 敬礼した佐藤は、渡された薬を口に入れ水を飲み干した。

「ふふ、佐藤くんって面白いわね。あなたならいいムードメーカーになれるわよ」

 華は佐藤の前の席に座り、頬杖をついた。

「でもよくやりすぎて怒られるワンパターンまであるんですけどね」

 あははと小笑いする佐藤。何か閃いた華は思ったことを口にする。

「あら、私は好きよそのワンパターン。お調子者にはピッタリなおクスリだもの」

「先輩もぼくのいじり方覚えましたね」

「あなたがいじりやすいからよ。普通、こんな短期間で仲良くならないもの」

「それって先輩、脈ありってことでいいですか? ここは温泉掘れますか?」

「んー掘れないかなぁ。お調子者くんにはもっと元気な子と付き合って欲しいかなぁ」

「意外と疲れるんですよ元気な女の子って。お互い元気すぎるから」

「あら、すでに経験済み? 残念ね、ウブな子だと思ってたのに」

「べ、別に先輩の前だからって見栄を張るわけじゃないんですからねっ!」

「あはは、ツンデレってやつね。ちょーウケる。あははは」

 お酒が残っているせいもあり華の笑いの沸点も低かった。普段なら笑わないことの方が多いけれど佐藤といるときは自然と笑うことの方が多い気もすると、華は笑った後で気が付いた。

 二人とも飲み会後で疲れているはずなのにわりと長く話し込み、深夜2時を回る頃にようやく華から「寝ましょ」と切り出して会話を終わらせた。

 佐藤はソファで寝ると宣言して上着を脱いで横になった。

「おやすみ佐藤くん」

「おやすみなさい先ぱぃ……zzz」

 まるで漫画のようなスピードで寝始めた佐藤に微笑んだ華はシャワーを浴びた後寝室のベッドに潜り込んだ。欠伸を一つ掻くと一気に眠気が訪れ、そのまま意識も沈んでいった。

 一つ考えることがあるとすれば、翌日は休みなのでゆっくりと寝られること。佐藤もいるので明日の朝は少しだけ早く起きて佐藤を起こして朝食ぐらいは作って見送りすればまた寝ようと考えた。それでいいかなと思う程度で華はあまり深く考えずに目を閉じた。

 1時間後、ふと華は目を覚ました。なんだが眠りが浅く眠りにくいが眠気の強い中途半端な状態だった。別に男の後輩を泊めたことで緊張や興奮したりはしない。

 介抱を頼まれることは多くても、それは女性ばかりが多い。もちろん、男性もごくたまに泊める事もあるけれど男女混合の複数人ぐらいなもの。

 今日初対面の男性一人を泊めた事は一度もなく、だからつい、思い出してしまう。

(……あれからもう1年、か)

 去年の今頃に別れた彼氏の顔を思い浮かべてしまった。その彼とは長年付き合っていた。最初は馬が合ったのだがより仲が深まるとお互いの些細なことが気になりだし、その歪みをまるで大事おおごとのように言ってしまったために、意見の不一致で別れた。

 ふと、華は涙をポタポタと数滴流した。

 楽しかったことが忘れられず度々夜な夜な泣くこともあった。

(……佐藤くんもいるのよ。私がしっかりしなきゃ)

 一度深呼吸しながら気持ちを落ち着かせる。

 こんな姿は後輩の佐藤には見せられないと言い聞かせて。

「……先輩、起きてますか?」

「!」

 ドア越しに佐藤の声がした。華は咄嗟に声を出そうとしたが、止めた。

 眠気も涙もあって声が震えてしまいそうだったから。弱い自分を見せたくなかった。

「……失礼、します」

「!」

 しまったと、華は身を固まらせた。自分の部屋と言うこともあり普段から寝室の鍵をかける習慣がないため、佐藤がいるというのに鍵をかけてなかった。佐藤はそのことも露知らず寝室に踏み入れた。

 ここまでくると寝たフリをするしかない。華は何事もないことを祈った。

 しかし佐藤が何もせずにいるはずがない、何のために寝室に進入したのか明白だった。

 佐藤は忍び足で華の顔近くまでやってくると耳を澄ました。

 酔ったとはいえ佐藤は華にあれだけアプローチをして、家にまで上がれた。

 佐藤は生唾を飲み込みながら酔ったせいだと頭の中で屁理屈を正統化させた。

 部屋の鍵がかかっていなかったことも、今の佐藤は誘っていると勘違いをするほどに。

 佐藤は華の寝顔を見るため、そっと覗き込んだ。

 華は寝返りで佐藤に背を向ける。この行為も佐藤には恥じらいであり拒否ではないと思っている。

「先輩……」

 目を閉じる華にとっては危機を感じるのに十分な一言だった。そっと肩に佐藤の手が。

「待って」

 か細い華の声に佐藤は興奮した。待ってという意味も聞く耳を持たない。

「先輩……!」

 佐藤は布団越しに覆い被さった。さすがに華も目を開けずにいられなかった。

 しかし今は眼鏡を外している。

 薄暗い部屋の中、目を凝らしても佐藤の顔の輪郭ぐらいしか見えない。

 佐藤の声がする何者かが私に馬乗りしているぐらいしか、華には認識できなかった。

「待って佐藤くん」

 涙を拭いながら眠気のある状態で声をかけることがどのくらいの効果があったかわからないが、佐藤はようやく顔を上げた。佐藤は華の顔横に両手を張り足は華を逃がすまいと布団ごと跨いでいた。

「ねぇ聞いて佐藤くん」

「先輩、先輩と一緒に」

「よくないの。こういうの」

「でも先輩はぼくといるとき楽しそうに」

「ええ楽しいわ。でもダメ……佐藤くんとはそういう関係になりたくないの」

「それでもこの状況、先輩が誘ったとしか」

「……落ち着いて佐藤くん」

「ダメです先輩、この気持ちは抑えそうには」

 佐藤は強引に華に口づけをしようとする。

 華は咄嗟に両手で佐藤の顔を挟みほっぺに軌道を反らした。

 華の腕力ではそれが限界だった。

「先輩、ほっぺじゃなくて口に」

 再び口づけをしようと佐藤が力を入れるよりも前に、華は右人差し指を佐藤の口に当てた。

「そんなに私と、したいの?」

 華の口調がもとに戻った。

 ようやく危機感が募りに募り頭が覚醒させるほどに達した。

 会社の飲み会程度で仲良くなった相手と身体を許すほど、華の境界線は甘くはない。

「じゃあ、ゲームをしない?」

「……ゲーム?」

 佐藤は華の提案に耳を貸すほど冷静になった。心臓の鼓動は未だに囃し立てるが、先輩である華の話を聞かないわけにはいかない。

 華は聞く耳を持ったことに内心で安堵して、餌をちらつかせる。

「もしこのゲームに正解したら、私を好きにしていいわ」

「マジっすか!?」

 佐藤はより興奮した。夜這いではなく本人も認める行為に及べるのだから。

 華は右人差し指で自分の口をつけた後、すぐにまた佐藤の口に当てる。

「だから今はこれで我慢して、ね?」

 首を傾げた華の行動に佐藤はドギマギしたが、二つ返事で「はい!」と答えた。


 二人は玄関まで歩いた。

「コレよ」

 華は下駄箱上にあるバラの籠を指差した。

「あー台に手を着こうとして危なくて邪魔……じゃなくて壊れそうだったから避けたんですよ」

 佐藤は若干の眠気で油断したのか言い切った後で言い直した。

 華は聞かなかったことにして話を続ける。

「これは私が3日かけて作ったの」

「すごい力作ですね、力強さを感じますよ! いやー見れば見るほどオーラをひしひしと感じますね! さすが先輩が作ったことだけはありますね! すごく綺麗でまるで先輩のようですよ!」

 無理に褒めちぎった佐藤。少し笑う華。

「ふふ、ありがとう。でも、そうなの。これは私の一部と言っても過言じゃないわ」

 愁いを帯びた瞳でバラの籠を見る。

「これを作る時、一年前に別れたあとを想って作ったの。彼、バラが好きでね。よくプレゼントしてくれたの。今では悲しむべき花なのに、不思議とバラは飾ると落ち着くの。良くも悪くもバラは私の心の支えや戒めになったの」

「へー、先輩の支えと戒めに」

 慈しみを覚えるような華の顔ばかり見る佐藤は、バラはそんなに詳しくはなかった。

「情熱の花、でしたっけバラは」

 佐藤は頭を振り絞っても一言で終わるほどの知識しか持ち合わせていない。

 華は微笑みながら眼鏡を持ち上げる。

「主に赤いバラはそういったイメージよね。バラには『愛』や『美』の意味合いがあって昔から愛情表現にも多く使われた花なの。ほら、結婚式やプロポーズなどにも使われるでしょ? 私もバラの魅力に取り憑かれてこうして趣味で作るほどに情熱を注いでしまったってわけね。それでここで本題、ゲームの説明をするわね」

「はい!」

 佐藤は待っていましたとばかりに手を拳にして期待の眼差しを華に送る。

 華の内心では佐藤には申し訳なさとこうしなくてはならなかったと潔さがあった。

 そして、華は目を軽く閉じて問題を出題する。

「このバラ籠の意味を答えなさい」

「……は?」

 佐藤は聞き間違いかと思い、少し間を開けて訳が分からないと答えた。

「先輩、バラはおろか花の種類もぼくにはわからないんですよ? その問題じゃ問題以前に問題しかありませんよ?」

 佐藤から少し敵意を感じた華は内心冷や汗を一つ掻いたものの冷静に笑って見せた。

「ふふ、面白い返し方をするのね佐藤くん。でも安心して、佐藤くんにはサービスとしてこのバラ籠の花言葉を教えてあげるから。だから後は繋ぎ合せるだけでいいの」

「あ、なんだ先輩。ちゃんと救済処置はあるんですね、よかったぁ。無茶振りかと思いましたよ」

 安堵する佐藤。もしここで救済処置がなかったらと思うと、華はぞっとした。

 咳払いをして、華は佐藤にヒントを与える。

「このバラ籠に用いられた花は、上の取っ手の部分にクライミングローズのつると青黄紫のミニチュアローズが巻かれ、籠の外側も同様にしてあるわ。中には左から順に4本の満開の真っ赤なバラ、4本の満開のダークピンクなバラ、5本の蕾の黒赤色のバラ、5本の蕾の小さな白いバラの4種類のバラを入れてあるの。アクセントをつけるため真っ赤なバラは上の取っ手から垂らして、蕾の白いバラは籠のフチに下向きに飾っているの。それで花言葉は、真っ赤なバラは『愛しています』、ダークピンクなバラは『ありがとう』、黒赤色のバラは『憎しみ、恨み』、小さな白いバラは『恋をするには若すぎる、少女時代』よ。佐藤くんに考えて欲しいのはこの4種類のバラだけ。周りのミニチュアローズは無視していいの。さぁ、わかるかしら?」

 佐藤は指を折ったり、実際の現物を見て復唱しながら暗記した。それでも深夜の頭にはきつい作業でやや頭を抱えた。

「真っ赤なバラは『愛しています』、ダークピンクなバラは『ありがとう』、黒赤色のバラは『憎しみ、恨み』、小さな白いバラは『恋をするには若すぎる少女時代』……なんのことだかサッパリですね。左から順番に教えてもらったということは、左から読むというのが正しいんですよね?」

「そうよ佐藤くん。このバラ籠は玄関から見て左手に位置するから左から読むようにしているの」

「まるで探偵になった気分だな。これを読めたら探偵事務所でも立てようかな」

「新事業のホープが辞められたら困るわね」

「そしたら先輩を秘書にしますよ。一緒にいてくれると頼もしいですし」

「私は遠慮しておくわ。その事務所に訪ねてくる人が少なそうで私が佐藤くんの面倒を見ないといけなくなりそうだし」

「たはは、そしたら無職ニート確定するので大人しく今の会社で満足します。……バラの本数って何か関係があるんですか? そういや4本と5本で区切られているように見えるんですが」

「さすが佐藤探偵ね」

「いやいや褒められると襲いたくなりますね」

「………………」

「すみません、そんな黙って見られると凹みます。調子乗りました」

「でも、いい着眼点よ。言われなければ言わなかったのだけれど、佐藤くんは気付いてくれたみたいだし、特別に教えてあげるわ」

「あざーす! ってさっそく落とし穴に引っかかる所だったんじゃないですか!? 言われなかったら言わないってフェアじゃないですよ」

「冗談よ。冗談にも耐える精神力は今後必要になるから気をつけてね」

「遠回しに宥められた……それで意味はなんですか?」

「バラの本数で意味もあるの。4本は『死ぬまで愛の気持ちは変わらない』、5本は『あなたに出会えて本当によかった』よ。他にも組み合わせや花弁の数、バラの種類によって意味合いが異なるのだけれど、これは考えなくていいわ。これで全て、フェアよ。さぁ考えてみて」

「……ん-難題、ですねぇ」

 佐藤はぶつぶつと華と話したキーワードを反芻しながら現物を見て、ときにはそっと横や縦に動かして推理していく。

「このバラ籠は下駄箱に対して垂直じゃなく、玄関先から見ると正面になるように置いてますね」

「ええ、誰かへのメッセージだもの。わざとそう斜めにしてるの」

「ははーん。さては元彼に、ですね? バラに詳しい彼が見たときに気付いて欲しい的な」

「そうね。それもあるけれど残念ながら元彼にじゃないわね。ロビーでキーロック解除したでしょ? つまりこのマンションに訪れる人は私の解除がないと入れない仕組みなの。元彼とはもう1年前でスッパリ別れたから彼へのメッセージじゃないわ」

「となると、別のバラに詳しい友人か自分にってことになりますね。もし自分にってなると毎日この籠を見るので辛いでしょうに……ああ、あくまでも個人的な一意見としてなのでバラが好きな先輩にとっては癒しの籠なんでしょうね! きっと!」

「ふふ、そう焦らなくてもいいのよ。彼との思い出は思い出としてもう整理つけたから」

「そ、そうですか。ふー危ない危ない。嫌われる所でした」

「ありがとう佐藤くん。気にかけてくれて。褒めて上げようかしら」

「先輩の寝間着って可愛いんですね」

「でもそんな風に唐突に褒められても嬉しい歳ではないわね」

「っいた!」

 佐藤は反射的に籠から手を放した。親指を押さえると小さな血溜まりができた。

「大丈夫? 佐藤くん」

「迂闊でした。先輩と話してて楽しいなぁって思ったらつい力入れちゃって。トゲのあるつるを持ってしまいました。てか、このトゲ鋭すぎません? よく見たら乾いた血と匂いがありますし」

「先に注意すべきだったわ、ごめんね佐藤くん。今絆創膏持って来るわね」

 華が後ずさりしながら廊下からリビングに通じるドアのドアノブを回して引いた。

 華はトゲが鋭いこともわざと言わなかった。

 あえてリビングに戻ることで、このドアの内側から鍵を掛けることが可能なため、佐藤を廊下玄関先まで閉じ込められるから。しかしそれを見透かしたかのように、佐藤は華の手を取った。そして怪我をした手をしゃぶった。

「ああ、お構いなく。これくらい舐めてたら、ほら、もう塞ぎましたから」

 しゃぶった手を見せてニカっと無邪気に笑ったが、華の内心では覗く犬歯が怖かった。

 本当に佐藤は無邪気に笑って安心させようとしたのだが、華にとっては逆効果だった。

 悟られると何されるかわからないと華はあえて笑顔で後ずさりをやめて、元の位置まで戻った。

「そ、そう? 薬箱に絆創膏あるから取ってくるだけなのに」

「灯りがあるとはいえ、さすがに廊下に一人は怖いのでいてくださいよ先輩」

「佐藤くんって実は寂しがり屋さんだったりする?」

「はは、そうなんですよ。廊下で一人佇むと寂しくて寂しくて仕方ないんですよ。それに酸いも甘いもそれなりに知った歳になっちゃったんでねぇ。それに今の先輩を逃したら、一生後悔しそうなんで」

 佐藤はキメ顔でドヤったが、華にはそれほど響かなかった。

 むしろ若干引いたくらいだった。

 冗談だとわかっても華には見透かされたかのように思えたので、少し動揺した。

「へ、へぇ。そう。まぁどこにも行かないわよ。わたしの家はここだし」

「あはは、ちょっと引きました? まぁこの問題を解いて明日デートしに行きますか」

 佐藤の中ではすでにある程度の答えがあるみたいで、自信有り気に笑みを浮かべる。

 しかし華は佐藤には答えられないと確信があった。

「ずばり、『愛していました。今の恋を知ってしまった私には幼かった少女時代を恨む』です! この情熱の愛という意味を持つ真っ赤なバラと熟した赤黒いバラで今とは違うんだという意味を醸し出しているんですよね? さらに純白な小さなバラは純粋無垢な私よさよーならって感じじゃないですかね!」

 期待の眼差しを送るホープ佐藤。しかし華の答えは、首を横に振った。

「んー20点ね」

「赤点レベル!?」

「少なくとも及第点には程遠いわね」

「学生時代の英語の和訳や国語の読解能力がなかった自分が情けないっす。特化型理系だったので」

「でもゲームのルールの趣旨は合っているから20点なの」

「ということはそもそも最初の訳から間違ってたってこと!?」

「そうね。このバラ籠は私の一部だから、この意味を知った人なら私は身も心も許せそうな気がするの。だから佐藤くんにはこの意味を知ってもらいたいから解いて貰っているの」

 本当は違うのに、華は佐藤には悪いが遠まわしに付き合えないと言ったつもりだった。

「先輩……ぼく頑張って解読します!」

 だが流石に遠まわしすぎたため、佐藤には伝わらなかった。

 しばらく佐藤は孤軍奮闘していた、ぶつぶつと呟きながら籠をあらゆる角度から覗き込む。

 華は佐藤の姿を見ながら壁に背もたれして腕を組んだ。見られるバラの籠を見て思う。

(コレを作って3ヶ月にもなるのね……忘れ形見なんて私らしくもない)

 部屋の写真の中に空白がある。それはかつて彼氏と撮った写真の場所だった。

 極力、彼のことを思い出さないように忘れるために捨て去った。

 想いを断ち切る意味でも。しかし、このバラの籠を作った。

 一番彼氏のことを連想させる品のはずなのに、華はこうして玄関先に飾っている。

 華の心の矛盾。買った物は断舎離をしたはずなのに作った物は残している。

 華はこれを戒めとして残している。二度と同じ後悔はしたくないと。

「『愛して憎しみをありがとう少女時代?』『少女時代を愛した憎しみよありがとう?』」

 佐藤は左から読むことを辞めて並び替えを行い始めた。だが、その時点でこの謎の坩堝るつぼにハマっている。常識に捕らわれないことは必要だが、前提を変える事はナンセンスである。

 もし仮に佐藤が全く異なる見方を行い偶然にも欲する回答を得られたとしたら、華はそれはそれで運命だと信じこの身を差し出すことも厭わない。

 それも万に一つの確率ではあっても。

「やっぱ深夜に考え事はきついですよ先輩。一旦寝て朝考えてもいいですか?」

 頭を左右に揺らす佐藤は苦難の表情を浮かべ、やや考えることを放棄し始めた。

 目蓋がうっすらと閉じかけ、眠気覚ましに目を擦るも眠気は増すばかり。

 それも計算の内であった華は笑顔で頷いた。

「いいわよ佐藤くん。でも最初に約束した始発の時間までには帰ってもらえるかしら?」

「えーそんなぁー。それだと寝なくても2時間ちょいぐらいしかないじゃないですかー」

「そのつもりで解いて貰いたいわね。私はそんなに軽い女じゃないってこと」

 華は少し強めの口調で佐藤を挑発した。華には勝機が見えたからだ。

「別にお高くとまるつもりはないけど、一晩だけ部屋に泊めただけで身体を許すつもりはないの」

 もたれ掛かることをやめた華は佐藤に対して強めに言い放つ。

「道端で寝るよりはマシだと思ってソファを貸しただけ、新事業の幹事だろうが新人ちゃんだろうが私は会社の人が弱っているのを見過ごせないだけ、自己犠牲や自己満足をするつもりはなくただの善意として受け取って欲しかったの。私の評判を広めて欲しいとか未来の旦那さん候補だとか、そういう基準で佐藤くんを家に泊めたわけじゃないの。でも期待させたのならごめんなさい。社会勉強だと思って大人しく寝て頂戴」

 今の佐藤くんには丁度いいおクスリだと思って頂戴。

 最後に華はそう言うと後ずさりをしてドアノブに手をかけた。

「最後まで聞いていれば……男、舐めすぎじゃないですか先輩!」

 佐藤は憤怒した。人生の中でそこまで言われたことのなかった佐藤は華に襲い掛かるには十分な動機だった。会社の先輩である華ではなく、一人の女性として、いや一匹の雌として捉えていた。

 推理なんてどうでも良くなった佐藤は華に襲い掛かる。

「やっぱり佐藤くんも、そっちに走る人だったのね」

 華はため息を漏らすと同時に、ドアノブを回した。

 次の瞬間、佐藤は膝を着いて、身体が重く大きくふらついた。

 次第に重力に逆らえず、腹ばいになった。

 一体何が起きたのか理解できない佐藤は目を回して視界が揺らぎ続ける。

「やっと薬が効いたのかしら、そのまま朝まで寝てるといいわ」

 佐藤は立てなかった。立とうとするが意識が遠のきつつあった。

「……くっ」

 佐藤は腹筋に力を入れて起き上がろうとするが、なかなか起き上がれなかった。

「先輩、まさかあの胃腸薬に何か……」

「いいえ、ただの胃腸薬よ。でも副作用に眠気が強いものを選んであるの」

 何気なく薬を手渡して飲ませたのが今になって効き始めたとは夢にも思わなかった。

 副作用の強い胃腸薬の効果が身体全体に巡る。

「普通ならもっと早い段階から効いた筈だけど、佐藤くんは薬が効きにくい体質なのね」

「……先輩、俺……」

 どう足掻いても立ち上がれないと悟った佐藤は、諦めるような声で華に申し訳なさが滲み出ていた。

 今酔いが冷めましたと言わんばかりの子犬のような表情である。

 それでも鬼ではない華は、佐藤に優しく諭した。

「安心して佐藤くん。私は佐藤くんを貶めることはしないから。ただうちに泊まっただけ。何も無かった。いいわね?」

「は、はい。すみませんでした……」

 ようやく観念した佐藤だが油断をしない華。佐藤を見たままリビングに入る。

「反省の意味も込めて、そこで寝て頂戴ね。少し肌寒いかもしれないけど身体の熱い佐藤くんには丁度良い頭を冷やす場所だから」

 そういうと華はドアノブの内側の鍵をかけて「おやすみ佐藤くん」と声をかけて寝室に戻った。

 翌朝、佐藤が起き上がる頃には電車は動いていた。

 あれが夢であって欲しいと願った佐藤だったが、振り返るとドア近くの壁に立てかけてある鞄と上着を見て自分のしでかしたことを思い知らされた。後悔と罪悪感が脳裏をよぎり、寝る前の華の言葉を思い返し信じて、声をかけずに黙って部屋を出て行った。

 ただ憎らしく、あのバラの籠を見るだけだった。

 玄関の扉が閉じる音を聞いた華は、安心して二度寝する。


01


 金曜日。華の仕事場、60階建総合商社ビル40階。

 会社の飲み会から2週間後、一度も佐藤と会うこともなかった。佐藤は新規事業のため名古屋へ出向が決まり、同じ部署の人に見送られた。別の部署である華とは遠目で見るくらいで声をかけなかった。

 お互いにそれがいいと察していた。

「田中さん、資料出来た?」

「はい部長」

 華は背の高い部長のデスクに次の会議で使用する資料を手渡しに行く。

「こちらがクライアント用のオブジェクト資料と、部長がおっしゃていた当社と他社比較参考資料、最後に宣伝効果のお客様層と時期の分布表になります」

「ん。ありがとう」

 険しい目を向ける部長が華の作成した資料に目を通す。数度頷き、笑顔で応えた。

「ありがとう田中さん。これなら社長に見せても文句言われなさそうだ」

「どうも」

 華は小さく頷き自分のデスクに戻った。そのやりとりを二人の女性社員たちが見つめる。

 二人は社内のローカルネットでチャットする。

「あの釣り目部長の審査、よく通ったなぁ」

「あの鬼釣り目、こっちの資料全然受け取ってくれないのにぃ」

「田中さんの机いつも綺麗で仕事も出来るだなんて女子力高すぎぃ」

「ホントよねぇ、人当たりもいいし、ザ仕事の出来る女って感じでさ」

「この前の飲み会で異動した佐藤くんを泊めたらしいけど何もなかったって言うし」

「え? そうなの? 信じられない。あたしなら即付き合うのにぃ」

「そこそこよねぇ彼。チャラくなければ」

「まぁね。そこも可愛いじゃない。田中さんってカレシいないよね?」

「本人に聞いたけどいないって。いるでしょ普通、あの美貌で」

「まさかあの噂ホント?」

「なになに?」

「あの釣り目部長と付き合ったって」

「ウッソ、ホント? イケメンだけど残念イケメンよ?」

「お互いサバサバしてるし、付き合ってても不思議じゃないよね?」

「あーかもぉ。でもさ、身持ち固そうな二人だよ?」

「おい、名取と取名。仕事しろ」

 反対側のデスクでモニターが見えないはずの部長から二人に声が掛けられた。

 二人は信じられないと顔に出すと、仕事に戻った。

 お昼休みになると、華は時計と今日の曜日を確認した。

(今日は、彼が来る日ね)

 席を立ち、給水所でコーヒーを注ぎ、部署前の活花ゾーンに向かった。

 まだ中小企業だが社長の趣味で設立当初から続いている独自の趣向があった。

 仕事場の出入り口前にある活花ゾーンに花を活ける場所があった。

 毎週火曜日と金曜日に専門業者が手入れに来て、社員達の要望に合わせて花を飾ったり、運気の上がる花や勝負時に替えたりなど願掛けをしたりする。

 バラに詳しい華は活けに来る業者と話すことが楽しみで昼休みを調整している。

 エレベーターから手押し車に花をたくさん持ってくる業者が現れた。

 コーヒーを片手に笑みを絶やさずに話し掛ける華。

「こんにちは鈴木さん」

「あ、どうもご贔屓に田中さん」

 花を活けに来る業者、鈴木は華に笑顔で応えた。

「お仕事ご苦労様」

「田中さんこそ、お疲れ様です」

「今日はどんな花を持ってきたの?」

 昔から華はバラだけでなく他の花にも興味があった。実際に育てたこともあったが、一人暮らしのマンションでは本格的なものはできないと諦めていた。この会社にしたのも社長の趣味に共感したからだ。

 少女時代を思い返すようでわくわくする気持ちで鈴木が持ってきた花を一瞥する。

「今日はたくさんリクエストもありまして、様々な花を持ってきました」

 鈴木は活けてある花を抜きながら棄て籠に入れていく。この光景を少しもったいない気分で見ている華はコーヒーを啜りながら気を紛らわせていた。

 鈴木は名門に所属する活花専門の華道家である。設けられたスペースに多種多様な花をいかに鮮やかに演出させるかを生業にする。とはいえまだ23歳のため修行中の身である。

「もちろん、田中さんがリクエストされたポトスもありますよ」

 花のような笑顔をする鈴木はポトスを持って華に見せた。

「うわーいい葉の模様ね!」

 仕事場ではなかなか見せない嬉しそうな表情を見せる華。

「ここ最近針葉樹林の葉ばかりだったからこういう癒しの葉が欲しかったの」

「はは、田中さんみたいに葉にまで詳しい女性社員さんは珍しいですね。他の家々とかはメジャーな花ばかりだったので。おっと今のは社長さんには内緒ですよ? あの人、華道家でも有名な顔役なので」

「一端の女性社員なんて知らないわよきっと。それよりも何で私がポトスを選んだか当ててみて」

 鈴木と田中は約3年前からよく話す間柄である。しかしプライベートでは会わない、所謂仕事場付き合いに近い。気は合うのだが、お互いに今の関係がベストだと判断した。

 そして同時に続けていることがもう一つ、探偵ゴッコがある。

 実は鈴木は華道家だけでなく探偵事務所でも働いている。

 ふとしたきっかけで鈴木は華に打ち明け、それ以来花にまつわる探偵染みた遊びを行ってきた。火曜日か金曜日に出題し次に会う時までに答えを聞くという遊びである。

 鈴木はポトスを眺めながら、華に微笑んだ。

「ポトスの花言葉は『長い幸』『永遠の富』『華やかな明るさ』。企業向けには金運を上げる花言葉としてロビーや営業部などに好まれますが、華さんがいる部署は営業じゃないですよね?」

「そうよ。どちらかというとデザイナーに近い部分が多いわ」

「なるほど、だとすると自分の推理が活きるかもしれません」

 鈴木はポトスを籠の中にしまい、他のポトスの葉を触っていく。

「ポトスには他にも風水にも好まれるんです。ポトスを見る人は葉を触ったり丸い葉っぱの見た目の愛らしさから気持ちを和らげたりと、癒しを求める人に打って付けで自分を鼓舞したい時にも使われます。ということは、答えはひとつです。気遣いの上手い田中さんならではの発想とも言えます」

「なかなかもったいぶるわね」

「へへ、推理を披露する時って情緒が必要かと思いまして」

 鈴木ははにかみながら、右人差し指を立てた。

「答えは『話題作り』ですね。主に女性のための」

「あら。どうしてそう思うのかしら?」

 華はこの瞬間が一番幸福だった。

「観葉植物でもよく見る植物で一人暮らしの人や最近では男性にもペット感覚で購入される方も増えてきました。この場合、男性は関係ありませんが一人暮らしの女性には関係あります。先ほど言ったポトスの三番目の花言葉『華やかな明るさ』には疲れている人には効果があります」

 華のリクエストの花の意味を鈴木が答えることがすでに癒しとなっていた。

「この場合、仕事のイロハをよく知る勤続7年目の田中さんよりも緊張度の高くかつ一人暮らしをする女性にこのポトスを見て欲しいと、田中さんがリクエストされたのではないでしょうか」

 無茶振り以外は、鈴木の解答は華にとって最も正解に近いからだ。

「会社の内情は知りませんが、スーツを着慣れない社員さんをお見かけます。おそらく新人さんでしょうか。てんてこ舞いなのが一目で分かります。ということは田中さんの部署でも同じように新人さんがいらっしゃるかと思われます」

 華は鈴木の推理に聴き入っていた。まるで聞き惚れたアーティストの歌を聴くように。

「一人暮らしの女性でしかも新人さんに向けて、いや新人さんに限らず田中さんの周囲の女性社員に向けて『このポトスで癒され頑張って欲しい』というエールの気持ちが窺えます。きっと田中さんはその気を張った周囲の女性社員に向けてポトスの花言葉や知識を披露して和ませるでしょうから」

 当てられる気持ち良さ、外れたときの照れ臭さが二人の仲を繋いでいる。

 だからつい、鈴木に年上の華は意地悪したくなる。

「男性の新人くんもいるわ。なのに女性限定にした訳は?」

 少しだけ見開いた瞳を覗かせる鈴木だが、でもすぐに笑顔で応える。

「だって風水にも使われるポトスには、恋愛運アップの効果もありますから」

 これ以上にない見事な解答っぷりに、思わず顔が綻んでしまう。

「ふふ、正解」

「やった」

 鈴木は小さくガッツポーズをした。

「正解じゃなかったらどうしようかと思いました」

「ここ最近10問中9問正解よ? 十分誇っていいわ」

「あ、いやそうじゃなく、持ってきたポトスが無駄にならなくてよかったって意味で」

 鈴木はポトスを持って華に見せた。

「……確か、ゴールデンポトスだったかしら?」

「そうです。よくご存知ですね。メジャー種ですがそこまで言える人もなかなかいません」

「ふふ、ありがと。そのゴールデンポトスがどうして無駄になるかもって?」

「オフィスに飾られる最も多いゴールデンポトスには理由がありまして、ほら葉の形。ハート型に見えませんか?」

 曲線美のある葉にはトランプのハート型のような葉の形をしている。

「だから女性人気で恋愛運アップってのも頷けるんですがこれから田中さんがその女性社員の方々に話しやすいかなーって。だから全部のポトスにハート型がある鉢を選んできましたから恋愛の話をする時にはより信憑性が増すので無駄にならなかったなぁーって。恋愛絡みじゃなく逆に無粋だったらハートの多いポトスはむしろ疎ましく思われますので」

 鈴木は葉をちょこんと触れると、リズミカルに葉が揺れ動いた。

 華は鈴木に敬意を抱いた。自分のリクエストからそこまで推理して用意してくれた。

「そこまで考えてくれていたのね、ありがとう」

「いえいえ、自分に出来ることってこれくらいですから」

「昔に比べて見事な推理ね」

「田中さんに鍛えられましたからね。こちらこそ毎度ありがとうございます」

「華道家よりも探偵向きじゃないかしら?」

「また田中さんおちょくってぇ。自分は華道家一本なんです、華道で飯が食べられるまでの探偵ですから。探偵だって副業しなきゃご飯が食べられないほど不安定な収入ですし」

「そうね。鈴木くんには夢があるものね」

「そうですよ、宇宙に一輪活けることが目標なんですから」

「ふふふふふ」

「あーまた笑いましたね? 自分は本気なんですから」

 鈴木は素直にむくれた。そんな表情を見て本当に華は癒された。

 鈴木と良い距離感で楽しんだ華は、邪魔にならないように壁に寄りかかりながら作業を見守ることにした。

 下準備を終えた鈴木は何も無くなった活花ゾーンをリクエストの花たちで活けていく。

 造花とは違い、活け花はスピードが要求される。

 より新鮮に保たせるためには水の入ったバケツの中で剪定バサミで根本を切り水揚げをして、活ける場所の水場へさっと移動する必要がある。基本動作一つとっても鈴木の花に対する配慮と情熱を、華は感じ取っていた。本当に好きじゃなければ続けていけない仕事であることを実感させられる。

 ものの30分で活花ゾーンに新たな作品が完成した。

 季節の花から年中の花まで色とりどり飾られ、華のリクエストであるポトスも足元に添えられメインの花にチャーミングさが加わり、完成度の高い作品となっていた。

 作業を終えた頃合に華は近づき、鈴木を褒める。

「すごいわね。あの組み合わせから想像を超えた活け花になるなんて」

「へへ、ありがとうございます。やっぱ花のことで喜んでもらえることが何より嬉しいです」

「うん、探偵よりもこっちが向いてるかも」

「さっきとは違うこと言っていますよ? あはは」

 一仕事を終えた鈴木も自然な笑みが零れた。あの30分間は彼にとって全身全霊を注ぎ込む瞬間の連続ゆえに緊張と疲労が一気に凝縮されて襲い掛かる。想像もできないほど集中力のいる仕事である。

 華は鈴木の完成した時の笑顔がたまらなく好きだった。

 いつの間にか飲み干したカップを給水所で捨て、帰り支度をする鈴木に提案する。

「ねぇ、ご飯まだでしょ? 奢るわよ、またアレ見せて欲しいもの」

 ちょっと困惑した表情を浮かべる鈴木。

「まだ拙いアレ見せるんですか? ご飯は魅力的ですが」

「じゃ決まりね。お財布取ってくるから下で待っててね」

 鈴木の返事を待たずに踵を返して更衣室へ行った。

 会社の出入り口で落ち合い、また鈴木と昼ごはんを一緒に過ごす。

 お昼休みの都合上そう遠くまではいけないが、良い店は知っている。

 華は先導してうどん屋に入った。替え玉ありの食券を購入してカウンター席に座った。

 他の会社もお昼休みのため店内はにぎやかだったが、数箇所空きがあるためそんなに急がなくても良い気持ちで話をすることができる。

「ねぇ、アレ見せてよアレ」

 華は目を輝かせて鈴木を見る。しかし鈴木はやや浮かない表情だった。

「田中さんも好きですね。アレ見ても面白くないですよ?」

「私は楽しいわ。人に見せないのももったいないわよ」

「……じゃぁ、少しだけなら」

 鈴木は照れ臭そうにB5ノートを取り出して、華に差し出した。

 華は前にもノートを見たことがあるため、前回見た最後のページから見始めた。

 鈴木のアレとは、活け花のアイディアノートのことである。

 活け花はイメージが大切なため、完成図をこうしてノートに書き込んでいる。

 本来なら誰にも見せず自分の下積み時代のノートとして、書き終えては破棄していた。その話を華に話した時が運の尽きかのように、そのノートは華がもらうようになった。

 一冊のノートが完成するまでの間、たまにこうして見せることもあった。

 うどんが届く前の時間、二人はそのノートで盛り上がった。

「活け花の仕事、増えた?」

 ノートを読み進めながら華は鈴木に質問する。

「ええ、ぼちぼち。といってもまだ数ヶ月に1個か2個程度ですが」

「すごいじゃない。応援してるわ」

「ありがとうございます。田中さんの結婚式には活けさせてくださいね」

「絶対呼ぶわ。華道家のことは分からないけど、鈴木くんが活ける花は好きなの」

「へへへ、褒めてもお金ないですよ?」

「うん、知ってる」

「酷くないですか? そこはこれからでしょみたいなことを期待したのに」

「まぁ好きな仕事がお金になる仕事じゃないものね」

「いきなり現実味帯びる話はしないでくださいよ」

「世の中厳しいのよ。私も花は好きだけど、食べて行こうって思わないもの」

「それ自分、全否定されてます?」

「そんなことないわよ。私の場合はって意味で……ねぇこの数字はなに?」

 華は鈴木に身体を寄せてノートを見せた。鈴木は少しドキッとしたが、それ以上の意味はないと言い聞かせながらノートを覗いた。

「……あー、それは夢の数字ですよ」

「なんだ宝クジの数字ね」

「バレるの早くないですか!?」

「探偵の師匠ですから」

「初めて聞きましたよ」

「ふふふ」

 鈴木との会話もほどほどにうどんが届いた。

 替え玉も含めて食べ終えた二人だったが、席は立たず再びノートを見始めた。

「やっぱ鈴木くん、将来上手く行くって思うわ」

「どうせ宝クジに頼らないと生活に困るほどの貧乏華道家ですよ」

「なんで皮肉るのよ。そうじゃなくて、こうしてコツコツ積み上げていくのがわかるからわかるの」

「何をです?」

「上手くい人のプロセス」

「……お世辞でも嬉しいですね」

「ううん。私は本気よ。何事も積み重ねでノートを取るって必要なの。それがマメな人ほど上手く行くの。鈴木くんはそれだなーって私の経験で思うの。しかも23歳でしょ? 有望よ」

「……しょ、精進します。あ、あとご馳走様です」

「お粗末様。私が作ったわけじゃないけどね」

「それで今日はお題とか花のリクエストとかありますか?」

「……うん、あるよ」

 華の雰囲気が少しだけ変わったのを、鈴木は感じ取った。

 華はスマホの写真フォルダから一枚の画像を表示させ、鈴木に見せた。

 それは、華の玄関先に飾ってあるバラの籠であった。

「鈴木くんには見せてもいいかなって思えたから」

 愁いを帯びた華の言葉にやや真剣に拝見する鈴木。

「全体的に暗い印象ですね」

「撮影したのが昨日帰ったときにふとね、撮ったの」

「……これは靴箱の上、ですか? 左手も添えられていますし」

「ズームアップ写真だけどよくわかったわね」

「いえこれは何となく。それにしても細かな所までよく出来てますね」

「ホント? 鈴木くんに褒められると照れるね」

「こういうのよく作るんですか?」

「たまに気が向いたときに作るかなー。でもすぐ枯れちゃうからほとんど捨てちゃうんだけどね」

「へー。アートフラワーの一種でしょうか。一般の方はバラは高いですし特別な日ぐらいしか買わないのに、4,5種類も良く買えましたね」

「あーボーナスの半分くらい奮発したかなー」

「相当な額でしかも手間暇かけた作品ですね」

「ふふ、ありがとう。3日もかかっちゃった」

「普段から小物作りとかしないとこんな風にはできないですよ。もしかして才能あります?」

「ないない。子供の頃から植物で遊んでて思いつきで始めたのがきっかけくらいね」

「それで、このバラの籠にはどんなメッセージが込められているんですか?」

 さすが探偵だと、華は思った。作品にテーマはあれど、普通メッセージは込めないからだ。見破った彼の洞察力に少し惹かれた。

「それが問題よ。このバラ籠の意味を答えなさい」

「うわ、いつにも増して難題だなぁー」

 さすがの鈴木も頭を抱えた。人の作品を読み解くものほど難しいものはない。

「アド交換しようか。画像送らないと鈴木くん困るだろうし」

 二人は初めてアドレスを交換してお互いのフルネームを登録した。

 お互い同じケータイ機種のため差ほど画像の乱れはなかった。

「うん、これで次会うのが楽しみね。期待してるわ鈴木くん」

「プレッシャー掛けないでくださいよ」

「ちなみに今の段階での推理を聞かせてもらっても良い?」

 華は鈴木に意地悪く無茶振りをした。片眉を上げた鈴木は頭を掻きながら答える。

「えー、そうですね。……この籠は木製の編み込み式の一般的な籠でクライミングローズのつるで取っ手部分を木の部分を見せないように回していますね。ミニチュアローズも3色で一般的ですけど、これには意味はなさそうですね。何故ならメインの花のメッセージ性を損ねてしまうからです」

「今の所正解ね」

「よっし。じゃあメインのバラですけど、バラの配色、本数、バラと籠の向き、開花までの状態、そして不自然に添えられた左手から察するにこのバラは左から読めってことですね。写真の明るさ具合から、廊下の明かりと外の明かりが混ざっていますね。となると、これは玄関扉すぐの靴箱で、撮影も扉を開けないと撮れない位置にあることから、主に自分へのメッセージが込められていますね。どうです?」

「すごいわね鈴木くん。ホント探偵ぴったりね」

「やめてください。華道家として泣けてきます」

「それじゃ、このバラの籠の意味はもうわかったの?」

「いやまだです。一般的な飾り付けにしては不自然な作りが多くて、これを読み解くには時間がかかりそうです。たとえば、左の真っ赤なバラの垂らし方。普通、取っ手から下へ伸ばしたりはしません。次に前半二種類のバラが4本で、後半二種類のバラが5本というのも不可解です。本数の意味は本来統一が基本です。それをあえてしていないということは別々にする理由があるからだと思われます。他にもバラの光沢や籠に零れる最後の蕾の白いバラの位置と向き、見れば見るほど謎が深まるような気がしてまるで迷宮ですね」

「ふふふ、さすが華道家ね。着眼点がしっかりしているわ」

 華は何かを諦めたかのような声を上げた。

 鈴木は眉間にシワを寄せて、指折りして見せた。

「一つ……いいえ、三つ聞いてもいいですか?」

「ん? なに?」

「一つ目は、どうしてバラを使ったんですか? 田中さんなら他の植物を詳しく知ってらっしゃるのにその中で『愛』や『美』に使われるバラをなぜ選んだのか気になって」

 鈴木の花を活ける時のような真剣な表情を見た華は、口角を上げた。

「……元彼が好きだったの、バラをね」

「! これは不躾な質問をしてしまってごめんなさい」

 鈴木は律儀に頭を下げた。華は顔を横に振って否定する。

「ううん、いいの。だってこの問題をしたのはわたしなんだもの。遠慮しなくていいの。それで後二つは?」

「……じゃあ、お言葉に甘えて。二つ目は、田中さんにとってこのバラの籠はどういうものですか?」

「やっぱり気になるわよね。いつもみたいに会社に持ってくる花やその組み合わせとかの問題じゃないものね。そうね、このバラ籠は私の一部なの」

「田中さんの、一部……」

「やっぱりおかしいわよね。元彼が好きだった花を籠にして玄関に飾ってるだなんて」

 華はもしここで鈴木に「おかしいですね」と言ってもらうことを期待した。

 しかし鈴木は、「そんなことはないですよ」とフォローした。

「3日もかけて作ったんですよね。田中さんにとって製作過程の想い出の一時ひとときや完成させた作品への情というがあるのではないでしょうか。ちょっとしたショルダーバッグほどの大きさのバラの籠に、今でも田中さんの想いが詰まっているんだと、勝手ながら思います」

 鈴木は畏まりながら頭を垂れた。そんな謙虚で可愛らしい姿に華はより惹かれた。

 この子になら心を覗かれてもいいと、華は本気に思った。

「それで、三つ目の質問は?」

「……三つ目は、いや、三つ目は無しにします」

「なによそれ、気になるわね。男なら最後まで言いなさい」

「じゃあこのバラの籠の意味を答えるときに聞きます。今言うのはあまりにも憶測が過ぎるので」

 鈴木は空笑いをしてぬるいうどんのつゆを飲み干した。

「田中さんお昼休みそろそろ終わりですよね?」

「ええそうね。でも気になるわね、いつから女の人を焦らすようになったのかしら」

「そ、そんなつもりは……ないんですけど」

 鈴木はこういった意地悪な返答にもウブにも真面目に答えようとする。

 華はその鈴木がおかしかったのか、小さく笑った。

「冗談よ。ごめんなさい鈴木くん。可愛かったからつい、ね」

「か、かわっ……っ///」

 鈴木は頬を染め嬉しそうなニヤケ顔を必死に堪えた。男として可愛いと言われて嬉しいのは変だと思ったから。それに鈴木も華に意地悪されても悪い気はしなかった。でも最近では少し物足りなさも感じていた。もっと自分に踏み込む勇気があればと、鈴木は内心密かな想いを華に募らせていた。そこにふっと湧いた今日の写真は、何かやら深い意味を持つものだと考えた。

 二人は席を立ち、それぞれの仕事に戻った。戻る際、華は鈴木に手を振って見送った。

 答え合わせは4日後の火曜日。

 もし正解だった場合、華は全てを鈴木に打ち明けるつもりである。

(重い女って、思われるかしら)

 鈴木が恋愛に関して奥手であることを華は見抜いていた。

 だからこちらから動くと決めた。

 もし全てを打ち明けてダメだった場合、この先一生恋愛はしないとも決めた。

「鈴木とうどん食いに行ってたのか」

 華の首元をかすめ通る様に背の高い男性が顔を近づけた。

「かっ! ……加藤部長」

 かっとなった華は声を上げそうになったが、押し殺した。

「昼、うどんだっただろ?」

 背筋を伸ばした男性、加藤は華と同じ歩幅で歩き始める。

 部長である加藤の突発的な行動に華はいつも驚かされる。

 加藤とは幼馴染で、文字通り幼稚園の頃から今の会社に至るまで一緒に過ごしている。

 華の一つ下にあたる加藤だが、要領と器用さは仕事にも表れ、今では華の上司である。

 あの釣り目部長が、この加藤である。

 加藤の問いを無視して華は会社の入り口を通る。

「おい華、無視すんのかよ」

「もう会社の中に入りましたよ加藤部長、仕事以外で話しかけないでください」

 そして、一年前別れた彼氏というのも、加藤のことである。

 だから華は眼鏡を押し上げ流し目で加藤を軽蔑した。

「仕事でもコミュニケーションは必要だろ? あの店のうどんの匂いするから聞いてんだよ」

「ええそうです加藤部長。ご満足でしょうか?」

 華は加藤との会話を棒読みで終わらせたかった。

 関係が冷めたからではなく、加藤のずけずけと土足で踏み込んでくる感じが昔から気に入らなかった。

「いやそんなロボットと会話しているような返答はないだろ、華」

「会社の中で下の名前で呼ばないでくれますか加藤部長。セクハラです」

 二人はエレベーター前に並んだ。

 二人の距離ぐらいにしか聞こえない囁き声で会話を続ける。

「名前呼ぶだけでセクハラか? 軽く見られたものだな。なんなら本物のセクハラすっぞ」

「パワハラもやめてください加藤部長。訴えますよ?」

「そういうは……田中さんのはモラハラつーんだぞ?」

「は、その程度でモラハラとか片腹痛いわね」

「腹痛いなら病院行け。つかなんで俺の顔見ないんだよ」

「急いでいますので加藤部長。昼休み終わりですから」

「うちの会社打刻制じゃないんだから急がなくてもいいだろ」

「いいえ、一秒でも早く仕事を終わらせて帰りたいだけです」

「……そんなに俺の顔見るのが嫌かよ」

「嫌ですね」

「なら存分に見ることになるだろうな」

 その意図もすぐにわかった。

 華と加藤がいる部署までエレベーターを使わないと辿り着けない階からだ。

 その階とは、実に40階である。

「なら私は階段使いますから加藤部長どうぞエレベーターをお使いください」

 怒りのボルテージが上がった華は列から出ようとしたが、加藤が二の腕を掴み強引に引き戻す。

「待て待て、根性入れすぎだろ。40階を登る? ちょっとした登山だぞ?」

「登山でもダイエットでも構いません。加藤部長の顔を見るくらいなら」

 しかしエレベーターが一斉に開き、昼休み終わりの会社員達の雪崩に巻き込まれ、二人は奥の展望側へと移動させられた。加藤の思惑通り、華と面と向かって話せる状況になった。

 華は目線を反らし、しかし加藤の行動を知るために仕方なく俯くしかなかった。

 加藤は華の頭上で腕を展望の窓ガラスに置き、華に身体を当てないようにした。

 身体は触れていないが、佐藤の熱気とたばこの匂いが伝わってくる。

「俺は見ただけで石にするゴーゴンかなにかか?」

「そうですね的を射てますよ加藤部長。女性社員からはイケメン認定されていますから」

「なんだイケメンは認めているのか。昔はそうでもないって言ってたくせに」

「ああ、私女性社員に含まれていたんですね。ビックリです。てっきり会社のマスコットかアイドルかと思っていましたから」

「どんだけ自分好きなんだよ。ったく付き合ってた頃と変わんねぇな」

「は? マジで切れさせないでくれます? そんな妄想記憶40階から飛び降りて消してください」

「は、そういうとこが好きだって言ってんだよ」

「はいはい、誰にでも言う台詞でトキメクとか少女かっつぅの」

「あの頃のお前は少女心だったもんな。この台詞で落とせたから」

「あっそ。息臭いので半径10メートル以内に近づかないでください加藤部長」

 華の口調が加藤と付き合っていた頃の口調になりつつあったが、華は無自覚だった。

 長く一緒にいるため相手の嫌なことや直さない面を知っているだけに、華の怒りの沸点が低い。幼馴染と昔は呼んでいたが、今では腐れ縁に格下げされるくらいだ。

 華は加藤の仕事振りには感心しているし、一部尊敬もしている。だが、こと恋愛となると話は別である。加藤の強引な部分がより強くなり華は耐え切れなくなり別れた。幼馴染や友達といった部類にはいいが恋人となるとダメになると華は判断した。

 しかし加藤は修正すればまだいけると考えているのか、強引さは時に場所を選ばない。

「マジで俺、お前とやり直したい」

 それが今、この密室したエレベーター内でもお構いなし。

 華にとってはこの上ないほど鬱陶しい。

「あーイライラする。なんで仕事できるくせに恋愛は下手なのかしらね加藤部長」

「ああ? 俺ほど恋愛に真っ直ぐな奴いねぇーだろ? 取り消せやこの陰険眼鏡」

 プチっと。華の理性の何本かが切れる音がした。

 喉元がやけに熱く、そして声を押し殺すために余計に力が入る。

「はぁ? この眼鏡も含めてそっちこそ取り消せよ。幼稚な恋愛達人くん」

「歳1つぐらいしか変わんねぇーだろがこんの純情乙女してますアラサー」

「今、アラサーって言った。言ったよね? 女性に向かって年齢関係ご法度って知らない時点で小学生からやり直したら? 出世しか能が無く目がない加藤で・ぶ・ちょ・う!」

「今デブっつったか? てんめぇいつのこと言ってやがる! 健康診断で尿酸値高かっただけで貶すとか最低って知ってるのか? つかもうデブじゃねぇーし! どうせ今でもおまえだって菓子ばっか食ってんだろ? また健康診断のために半年前ダイエットでもしてるんだろ大人ぶった猫かぶり雌狐!」

「ちょおまっ、なんでココで言うかな!? っざけんなし! 表出ろ!」

「上等だゴラ! 今日の帰りにいくらでも喧嘩買ってやらぁ!」

 それ以上は何も話さない二人は、40階に着くまで無言の睨み合いが続いた。

 周りの会社員達は不思議と二人の声が聞こえなかったため、すごい剣幕で睨み合っているので話しかけない目を合わさないなどと空気を読んでいた。

 終業後、華と加藤は笑顔のまま会社を後にする。その姿を見た同じ部署たちは脈ありかと噂するが、二人の腹の中では煮え繰り返っていた。

 幼馴染であり恋人であった二人にはルールがある。それは会社内では赤の他人として接することである。社内の温度はできるだけ乱したくないという共通認識があったから今まで誰にも公表していない。ばれないことが二人のある種の信頼関係が成り立っているとも言える。

 華と加藤はお互いの家近くのゲームセンターに立ち寄った。華は加藤に提案する。

「まず何本勝負にするか決めましょ」

 お互いに準備運動をしながら身体の音を鳴らした。

「んなもん毎回何十本にもなるんだから決めなくていいだろ」

 華はあの頃を思い出して、失笑した。

「……そうだったわね」

 二人はエアホッケーに割り勘でお金を入れた。お互いに鞄の上に上着を置いた。

「やっぱ最初はこれだよな!」加藤はワイシャツの第二と袖のボタンを外した。

「吠え面が拝めるものね!」華も同じようにボタンを外しスマッシャー二つを握った。

 ゲームスタートした瞬間から罵倒も始まった。

「鈴木のことが好きなんだろ!」

「なっ!」

 最初に得点したのは加藤だった。同時に心理戦も始まった。

 次の円盤状のバックが華の方に滑り込んできた。

「大介は昔からデリカシーないわね!」

 今度は華が打ち込む。二度反射したバックは加藤のポケットに入った。

「今ので入ったとかうそだろ、相変わらずエグい入れかたするなぁ華」

 会社の外ではお互いに下の名前で呼び合う。

「そっちこそ、力任せで早すぎんのよ。たまに指に当たるし」

「へ、真正面から決めるのが面白いんじゃねーか」

「反射させて入れるのが楽しいのよ」

「相変わらず回りくどいんだよ、軌道読めぇだろが!」

「そっちこそ単純パワーバカなんじゃない!」

 3投目のバックはラリーがしばらく続いた。大きい台なだけに人目にも止まりやすい。

 しかも男女の二人がお互いの愚痴を言いながらする様は観ている方も楽しい。

 ギャラリーがざわつくのも無理はない。

「見ろよあの女、左手ので防御して弾いたのを右手ので鋭く狙ってるぞ」

「いや男のほうも右手だけでめちゃくちゃ早え。この勝負分かんないぞ」

 徐々にギャラリーが増え始めるのに比例して、二人の熱も上がった。

「そろそろ入れさせないよ。右手疲れてきたのよ」

「これぐらいでへばる女かよ。油断なんかしねぇ」

 3投目のバックは華のポケットに入った。

「っしゃ!」

 無邪気にガッツポーズする加藤を見て、華の悔しい気持ちがより一層強まった。

「たまたまよ」

「負け惜しみだな!」

「でも、十分に稼げたわ」

「まだ2対1じゃねーか」

「いいえ、ここからは倍プッシュよ」

 華の方にバックが二個滑り込んできた。

「なにっ!? もうそんな時間かよ!」

 お互いにやり込んだゆえの勝敗の分かれ道が訪れた。

 ボーナスタイム。失点したプレイヤーに追加でもう一個のバックがくる。

「てめぇわざと失点しやがったな!」

「それが戦術ってものよ単細胞くん!」

 二つのバックを同時に反射させて加藤のポケットに滑り込む。一つは跳ね返したが、もう一つは追いつかず失点した。

「相変わらず二つ同時は捌ききれないわね。仕事も恋愛も!」

「んなもん! 正面突破でなんとかならぁあ!」

 加藤の所に更に追加されたバックも含めて一打一打豪速に華のポケットを狙い打つ。

 華も一つは防げても、右手側のポケットの隙をつかれて失点した。

 ボーナスタイムの追加バックは最大で5つ。普通なら3つくらいは盤面に残り、後2つは得点するのだが、お互いの思考を読むのに長けている二人は盤面のバックが5つ全て出揃い、激しい打ち合いとなった。

 最高潮に盛り上がった二人に同調するかのようにギャラリーも歓声が沸き始めた。

「あの女すげーよ! 反射させたタマで打ち返しながら2つ以上ほぼ同時に狙ってやがる!」

「いや男もすげー! 3つ同時に打ち返しながら本命のタマを後追いさせて隙を狙ってる!」

 どちらも一歩も譲らぬままボーナスタイムが終了した。同時にお互いの体力も減った。

「……いい加減、落ちろよ」

「そ、そっちこそ……」

 減らず口の数も減り、やや手の痺れを覚え始めた頃、加藤が失点する。

 双方の油断が失点に繋がり、得点ラッシュが続く。

 ボーナス分のバックが無くなると同時に試合終了を告げるベルが鳴る。

 9対8で加藤の勝利、加藤は姿勢を戻しスマッシャーから手を放した。

「ふぅー俺の勝」

「最後まで油断大敵よ」

 最後に失点した華側にラスト1秒で滑り込んだバックをストレートで加藤のポケットにスマッシュした。ベルで完全に油断した加藤は急いで追ったが、間に合わなかった。

 試合終了で得点は動かなかったものの、誰が見ても引き分けで幕を閉じた。

 最後の歓声は華に向けられ、引き分けなのに加藤が敗北したかのような印象を与えた。

 ギャラリーも満足して散っていく。

「へ、遅かったな華。得点にはカウントされないぜ?」

 加藤は上着と鞄を手にして華を横目にニヤりと笑ってみせる。

「大介こそ最後まで詰めが甘いのよ。機械がカウントされなくても人の目でカウントされるわ」

 華も上着と鞄を手にして加藤を横目にニヤりと笑ってみせる。

「言ってろ、やっとこ引き分けにしたくせに」

「今日の資料だって最後のマーケティングなかったら平凡な資料しか揃えなかったくせに」

「それ持ち出すかよ。ちゃんとその場で褒めたろ」

「ええ、昔に比べて可愛くはなったかしらね」

「いいぜ。まだ喧嘩足りないってならとことんやってやらぁ!」

「望む所ね。手は疲れたから、足で勝負しましょうか」

 華が先導して足を使う音楽リズムゲームへ誘導した。

 得点が細かくて勝ち負けがハッキリするゲームである。

「へ、いいぜ」

 これも学生時代に散々華と遊んだゲームの一つだった。

 その後二人は様々なゲームに興じて1年振りの競い合いに奮闘した。

 ボーリング。ビリヤード。ダーツ。ルーレット。バッティング。クレーンゲーム。クイズゲーム。コインスロット。飲み比べetcetc。

 12時を超えてもなお、二人は遊び続けた。

 一年振りに一年前よりも、そして付き合っていた頃と同じように楽しかった。

「もう何戦何勝何敗したのかわっかんねぇーな」

「少なくとも私が1勝多いわ」

「はぁ? 俺のほうが1勝多いだろ」

 二人は近くのコンビニでお酒とつまみを買い、食べながら歩いていた。

「私ね。鈴木くんが好き」

「ぶはっ!」

 加藤は丁度お酒を口にした時に不意をつかれ、盛大に咽た。

「ふふ、これで私の勝ち」

 華は自然な笑みを加藤に見せた。幼馴染ゆえか、幼稚にピースしてみせる。

 それを見た加藤は目を細めた。アルコールが回り頬がやや赤い。

「卑怯だぞ華」

「ふふ、でも許される。だって私は会社のアイドルですから」

「俺以外には言わない台詞のくせに」

「そりゃそうよ。大介にしか言えないし、こんなの、大介にしか見せられないもの」

 チーカマを口にした華はもぐもぐと口に含みながら少し俯いた。

「……会社は自由に振舞う場所じゃない。素の自分なんか見せれないのよ。みんな外面の皮厚くして、その上に嘘の仮面をつけて、自分の弱みを握らせない駆け引きをいつも探ってるの」

「そんな会社じゃないだろうち」

「そりゃあ、大介はいいわよ。素のまんまで上手く渡れてるもの」

「んなこたぁねぇよ。上司に歯向かって勝手に進めた企画も何度かあった」

「で、無茶した結果全部上手く行くってずるいでしょ」

「無理はしても無謀はしない主義だからな、頭が固い上が多いだけで勝算はあったんだ」

「そして私よりも先に上司になりやがって。こっちはいっぱい悔しい想いたくさんしてるのに」

「計算しすぎなんだよ華は。たまには大胆にチャレンジしてみろよ。相談乗るっつうのに」

「あなたのそういうところがむかつくのよ。うまくいった人から目線が」

「はい出た華の悪い癖。昔っから変わってねぇなそういう捻くれてんの」

「うっさい。性格変えろってのが無理なのよ。私なりのプロセスがあるんだから」

「それで係長止まりか。上司も言ってたぞ、社員受けはいいんだから頑張れって」

「なによその曖昧な言い方、大介のくせに大介らしい」

「そりゃ俺らしくて当然だけど、なんだよそのくせにって」

 楽しかった。お互いに1年前の付き合う前に戻ったかのようで、楽しい会話だと。

「あーあ、なんで別れたんだろ……!」

 場の空気とお酒がほどよく身体を巡り、陽気な気持ちにさせる。

 だから、華は自分の失言に、はっとした。

「……なんでって」

 加藤も華が失言したってことはわかっていた。

「ごめん、今のナシ。ナシナシ」

 華は酔いが冷めるほどの背筋の冷たさを感じて、手を振ってすぐに言い直した。

「忘れて、お願い」

 面と向かって言えず、華は早歩きで家路に着こうとした。

 聞き間違いでも聞き逃していない加藤は、追いつき二の腕を引っ張り立ち止まった。

「あの時は、俺が強引過ぎた。今でも反省してる。だからマジで」

「マジでないよ、もう。私は鈴木くんが好きなの」

 加藤の引っ張りに項垂れながらも、華は己の中の矛盾と葛藤していた。

 鈴木のことが好きである。好きなのに揺らぐのは、何故だろうか。

「知ってる。本当に惚れている事も。だがこの1年間、何度も夢にお前が出て来るんだよ」

「!」

 加藤も、華同様に思い悩み夢に出るほど、華のことが未だに好きである。

「俺、不器用で悪口も嫌味も言うし、すぐカッとなるし相手のペースも考えずに強引に動く癖あるけどさ、1年前の俺とは違うってこと、分かって欲しいんだ」

「それが強引だって言うのよ。分かって欲しいって相手のこと考えてないじゃない」

「……悪かった。そうだよな、無理に分かって欲しいなんて思わない。でも俺の気持ちはまだ華にあるって知って欲しい」

「………………」

「俺はお前が欲しい、華」

 恋愛に関して加藤はどこまでもストレートで直球でど真ん中に投げてくる。幼馴染で腐れ縁のくせに華の欲しい言葉をいつもストライクで投げ抜いてくる。お互いに同じ環境で正反対の性格に育ち、愚痴を溢し合い喧嘩し合い、時には手を出すこともあったのに惹かれ合うのは何故なのだろうと華は常に思ってきた。

 幼稚園の頃からの長い付き合いだからだろうか。

 加藤が男で女の華にはないものを持っているからだろうか。

 今まで加藤に振り回され疲弊して別れた訳は本当にそれだけだったのだろうか。

 でもそれらは恐らく違う。

 華は今やっと、理解し始めた。長く過ごしてきたから分からなかった答えに。

 一年間、離れてみて気付くこと、わかることに。

 長く居たから、共通の趣味が増えたり、増やしたりできたんだ。

 いつの間にか力で負け、男の力強さに惹かれたこと。

 いつも強引なりにも新発見や再認識させられた。

 そして、華が好きな植物に興味を持って一緒に育てた日々を、思い出した。

「……ひとつ、いい?」

 俯く華、加藤は二の腕から手を放して、「ああ」と返事をする。

「今でも、バラは好き?」

 加藤は華が紹介する植物の中で、バラが好きだった。

 情熱的で、熱愛的で、バラのような性格をしていたからだ。

「ああ、好きだ」

 何よりその赤々とした真っ直ぐな色に加藤は惹かれた。

「……なら」

 華は一度躊躇った。でも、もし自分の気持ちが鈴木に向いているのなら、この質問をしてもきっと気持ちは変わらないはずだと考えた。風に煽られる花のように、華は加藤にも心を動かされた。

「なら、このバラ籠の意味を答えなさい」

 そしたら、考えてあげる。と小さく呟いた。

 あのバラの籠を、華はケータイの画像を表示させ加藤に見せた。


02


 数分後、華は自分のマンションに加藤と一緒に帰ってきた。

 でも加藤がバラの籠の意味を答えたわけではなかった。

 あの時、加藤が華のケータイを見て少しの間ぐらいが空き、顔を歪めた。

「……これ、本当なのか?」

 加藤にはバラの籠の意味が分かった。そのバラを見て少し嬉しそうだった口角が次第に下がる様を、華は見ていた。ほぼ家族同様の時間を共に過ごし、家族以上に親密な関係になった加藤だからこそ、華の問題にすぐに解けたのだ。解けたが、高揚感とも罪悪感ともとれる感情が次第に支配し始める。

「答えは、何?」

「いや、それどころじゃねぇだろ……もしこれが本当なら俺は最低野郎だろ」

「大介、私はあなたの口から答えを聞きたいの」

「! 今でも飾ってるのか?」

「ええ、玄関先に。もう3ヶ月前になるかしら」

「なんで言わなかった……」

「言ったらまた強引に話が始まるじゃない。私はもう、疲れたの。あなたのそういうところ」

「ああ、全くもって反論できねぇ。けど相談くらいしろよ……いや、それも重荷に感じたんだな」

「ええ、分かってるわね。だからもう、答えを言わないなら帰るわ」

「待ってくれ華!」

 加藤は手に持った缶酒を飲み干し、握りつぶした。

「侘び、所じゃねぇのはわかってる。でも一目でいいからその籠見せてくれないか?」

 頼む、と加藤は華に頭を下げた。

「……いいわよ」

 マンションのオートロックを解除して、華は自分の部屋に加藤を招きいれた。

 といっても、玄関を開けた先にあるバラの籠を見せたら帰ってもらうつもりだった。

「お茶いる?」そっけない華は質問してみる。

「いや、籠を見たら帰る」と加藤はそっけなく答える。

 玄関を閉め、加藤は暗い表情で俯きから見上げ、玄関先のバラの籠を見る。

 華は靴を脱ぎ、壁にもたれかかりながらバラの籠を見る。

「これを、毎日見ているのか」

「ええ、でもこれは私への戒めなの」

「そう、なのか。俺への怒りでもあるのか?」

「いいえ、ないわ。最初は私達の戒めにするつもりだった。けど、完成したら気が変わったの。哀しみや怒りをどう表現したらいいのかって思ってたけど、作ってる時に不思議と大介の顔は思い出さなかったの。全くと言うわけではないけど、私の捨てきれない想いの痛みが大きかったの。ごめんなさいって気持ちが、たぶん大きかったんだと思う。今はもう薄れてこうして人前で話せるけれど、作り終えた時はひどく落ち込んだわ」

「3ヶ月前、……確か一週間の有給とってたな。同僚と旅行に行くって」

「ええ、そうよ。旅行には本当に行ったわ。けどそれは、3泊4日なの。残りの3日間でこれを作ったの。旅行で気なんか晴れるわけなくて、外面は笑顔だったけど、償いになにをすればいいのかってそればかり考えていたわ」

「……お金は、どうしたんだ?」

「知ってるでしょ? 大介と違って私は計画的に貯めているの」

「そのお金、今とは言えないが俺にも払わせてくれ」

「いいの、これは私への戒めのバラ籠なのだから。大介はいつも通りでいいの。仕事でもプライベートでも、いつも通りいがみ合って接してくれればいいの」

「………………」

 加藤は何も言えなくなった。言えなくなった代わりに、バラの籠に触れた。

「怪我、するわよ。だってそのバラには」

「『棘がある』、だろ? シンプルな言葉だが、今の俺には丁度良い」

 おもむろに両サイドの取っ手部分の棘を、ぎゅっと両手で握り締めた。

「! ちょっと、何してるのよ!」

 華が加藤の行為を止めようと、背を起こして加藤の手を放そうとした。

 けれど加藤の意思と同様に握り締めた手は固く閉ざされ、ポタポタと血がバラの花弁に落ちる。

「っ……やはりな」

「やめなさいっ! だってこのバラ籠は、この花は!」

「造花、だろ?」

「!」

「この棘も、鉄を鋭く尖らせたもの。実際のバラと同じ長さにして」

「………………」

「画像では分からなかった。あまりに精巧な『枯れ花アート』に見えたからな。一度枯らしたバラをドライアイスで凍らせたり、成長を留める薬品を使ったりして花の時を止める手法。だが造花はまた話が違う。なにしろ、花をそっくりに作るのだからな」

「そうよ、造花よ。でもそれが何って言うの? 単純に生のバラを枯らす材料や技術がなかったから造花にしたのよ。いいから手を放して!」

「違う。バラを枯らす行為に抵抗があったからだろ」

「!」

 見抜かれた。華は確信した。加藤にはこのバラの籠の意味を知っていると。

 力を込めようにも、加藤の袖を引っ張る以外の力を込めることは出来なかった。

 バラが好きな加藤は、強く握ったまま話を続ける。

「バラは一際目立つゆえに色鮮やかさの違いが一目で分かる。生きているバラこそ最高の状態といえる。つまり、そのバラを凍らせるにしろ枯らすにしろ、死を与えなくてはいけない。それが華にはできない、だからバラの造花にしたんだろ」

 なんでわかるのよ。ぐうの音もでなかった。

 感情が高ぶった華は手ではなく声に力を込めた。

「ええ、その通りよ。私用でバラを殺すなんてできないもの!」

 植物が好きな華は、自然に枯れることの愛おしさをよく知っている。だから意図的に枯らすことや摘み取ることはしたくなかった。

「優しいな、華。バラに感情があるわけでもないのに。花言葉を作った人のように、見る者がその花の感情を決める。バラを殺す、か。バラは好きだが生き物として見たことはあまりなかったな。そして華は、この花を人と見立てている」

 加藤はようやく籠から手を放した。傷つけた手の平を見て、再び握った。

「『愛してくれてありがとう』。これが前半部分のバラの花言葉の意味だろ?」

 華は無言のまま、小さく頷いた。

「左読みはあの画像からわかった。左のバラは取っ手から垂らしてある。言い換えれば、逆さまに吊り下げられているんだ。つまり、愛するという花言葉の逆さま、受身の『愛して』という言葉に替わる。赤黒いバラは深い感謝の表れだからこれはそのままの意味でいい。よって『愛してくれてありがとう』となる」

「………………」

 華は無言を続けた。それが話を続けてくれという意思表示だと、加藤は悟った。

「握るとますます分かる。針金の太さじゃないな、……鉄鎖だな。女一人の力量で鉄を曲げる作業も相当体力がいるだろう。それでもこの籠を作り上げたかったんだな」

「………………」

「この籠の取っ手に付着した乾いた血の跡、ミニチュアローズで隠しても俺にはわかる。配置が均等じゃないからな。自分にしかわからないと思ったか、ミニチュアローズはフェイク、本当はこのクライミングローズの棘のある血のついたつるを隠すためのものだ。そして花言葉にないつるの意味は、『しがらみ』。取っ手を握る者に痛みを与える。お前は戒めと言ったな、握る相手が自分なのだから痛みも自分のもの、このしがらみを解くのも自分だという暗示が込められているって所か」

「………………」

「後半の花言葉を考えるに、許しを請おうとしている。このバラの籠に言って欲しかったんだろうな」

「………………」

「そして、俺にこのバラの籠を預かって欲しいとも、思ってる」

 華は、涙を溢した。一滴、二滴と溢す内に、言葉も溢した。

「……なんで、わかるのよ」

「………………」

 加藤は何も答えなかった。自分の手の痛みよりも、華の心の痛みのほうが痛いと分かるから。

「……わんないわよ。人の痛みなんて、そう簡単にわかってもらえないの」

「………………」

 華の痛みに寄り添うこともできなかった加藤は、何も言えなかった。

「……そのバラ籠を持って帰って」

「………………」

 加藤は言われるがまま、血の滲むバラの籠を持って出て行った。

 がしゃん。

 玄関の扉が閉まるのを確認して、華は崩れ落ちるように倒れた。

 玄関の音が心臓に酷く響き、まるで糸の切れた人形のような心境だった。

 玄関の鍵をかけて、寝室に戻り、シャワーも浴びずにそのまま寝た。


 なにもかもが悪い夢でありますように、と願いながら。


03


 朝が来て、目が覚めて、現実だと気付いた。

 現実だと思い知らされたのは、あのバラの籠があった玄関だった。

 一年前とは違う加藤の言葉や行動に、確かに心が突き動かされた。

 土日はどこにも出かけず、空白の写真欄を眺めていた。

 写真はないけれど、しっかりと記憶が再生される。

 気持ちの整理が未だにつかないまま時間だけが過ぎていった。

 そして、鈴木と会う火曜日になった。

 明らかに元気のない華に女性社員たちが気を遣いお菓子のお裾分けをした。

 気を遣われていることに遅くも気付き、それを食べて気合を入れなおした。

 あっという間に、昼休み時間となった。

 華は仕事をまとめ終えると、活花ゾーンへ自然と足を運ばせた。

 すでに鈴木が仕事を終えたばかりでまた見事な生け花をその場にもたらした。

「あ、田中さん! お疲れ様です!」

 汗を拭いながら華の存在に気付き、明るく話し掛ける。

「お疲れ様、鈴木くん」

 浮かない顔をしないように華は作り笑いを自然に浮かばせ、鈴木に答えた。

「調子はどう?」

「んー花たちは元気、ですよ」

 鈴木は人差し指で頬を掻くと、すっとぼけた。

 どうやら鈴木にはあのバラの籠の意味がわかったみたいだ。

 華は鈴木が活けた花たちを見た。

 そこには季節外れにも、一際大きな一輪のひまわりが飾られていた。

「花言葉は、『私はあなただけを見つめています』」

 なんとなく口にした華は、鈴木を見て気がついた。

 鈴木は優しく微笑みながら、待っていましたとばかりに、応えた。

「そう、これが自分の気持ちです」

 鈴木の真っ直ぐな言葉に、華はドキっとした。

 が、言った本人である鈴木もだんだん恥ずかしくなり、顔を真っ赤にした。

「……ごめんなさい。やっぱ恥ずかしいです、で、でも気持ちは本物なので」

 照れる鈴木を見ると華は冷静になって、微笑んだ。

「なによそれ。カッコイイ台詞が台無しよ、ふふ」

 華は支度があると、鈴木にロビーで待つように言った。

 部署に戻り、デスクに居る加藤に華は「取引先と打ち合わせた後で直帰します」と伝えた。支度の準備中の横に加藤がやってくる。

「田中さん、急遽名古屋支店から一人同席希望があった。構わないか?」

 顔見知りの取引先と同じ会社の人間なら問題ないと判断した華は

「構いません」

 と短く返事をしてテキパキと支度をする。

「それと直帰は構わないが出来れば今晩、例の話しないか?」

 誰にも聞かれない小声で話し掛けた。

「あの後、じっくり考えてみたが色々話し合いが足りないからな」

 華も営業スマイルで応える。

「……いいですよ。では今晩」

 それだけ言うと、華は早々にその場から立ち去るようにしてロビーへ向かった。

 加藤とはそれだけで『今晩、家に来て』ということが伝わった。


 華と鈴木は人の少ないカフェに立ち寄り、ランチを頼んだ。

「鈴木くん、問題は解けた?」

 ウエイトレスが下がったタイミングで華は重くならないように鈴木に問いかけた。

「はい。でも、自分の憶測であって欲しい、と。あはは、昨日は眠れませんでした」

 鈴木は精一杯明るく振舞おうと笑いながら話すが、やはりどこか落ち着かない感じだった。それを解消するには、今から自分の憶測であって欲しいと願う推理を披露しなくてはいけないから。

「でも本当なら田中さんの秘中にしておくべき問題だったんだなって、今更ですが思いました。問題を解く間は楽しくて楽しくて夢中でしたが、田中さんの気持ちに自分なんかが触れていいのかって疑問にも思えてしまって」

 華は顔を横に振った。

「ううん。本当ならその通りなの。誰にもしゃべらず誰にも悟られず一生自分だけの秘密にすべきことなんだって思うの。でもね鈴木くん。私はあなたになら心に、私の気持ちに触れて欲しいって思ったから出題したの」

「田中さん……」

 鈴木はじーんと感動した。華も自分にその気があることだと察したからだ。

 だから、鈴木は憶測でも推理を披露しようと、決意を改めた。

「では、活けさせていただきます。田中さんのその心にある花を」

 華は静かに傾聴しようと、そっと目を閉じた。

 それが合図だったかのように、周囲の音は二人の世界に遠慮した。

「田中さんのあのバラの籠には二つの大きなメッセージが込められていますね?」

「ええ。でも何でそう思ったの?」

「バラの本数です。本数を隔てて、前半の4本は『死ぬまで愛の気持ちは変わらない』、後半の五本は『あなたに出会えて本当によかった』がバラの本数に応じた花言葉です。4本と5本では意味が異なることから、テーマではなくメッセージだとわかりました。これは前回で分かりましたが、本数を隔てる意味がわかりませんでした。さらに読み解く内に疑問が湧いてきました」

「どんな疑問なの?」

 一呼吸置いて、鈴木は告白した。

「なぜ、前半に満開と後半に蕾のバラが使われたのか、です」

「………………」

 本数以外のことも見抜いていることに華は心の中で微笑んだ。

「これは『組み合わせ』が関係しているからだと思われます。たとえば、赤いバラの中に白いバラは『調和、温かい心、プロポーズの言葉』や黄色いバラの中に赤いバラで『どんなに不誠実でも』など、バラとの組み合わせで意味が生まれるものもあります」

「………………」

「そして、田中さんのこの籠に込められた暗示は『秘密』。満開と蕾の組み合わせは秘密言葉が多いですからほぼ間違いないかと。自分への戒めとも仰っていましたから、田中さん本人にしか分からない暗号を本数で表現したかったのではないでしょうか」

「ええ。正解よ。じゃあその前半部分の意味は?」

 いよいよ本題に、鈴木は生唾を飲み込んだ。

「……『愛してくれてありがとう』、です」

 華は微笑み、小さく頷いた。華が何も話さないことから鈴木の解釈が続く。

「前半に使われた満開4本の逆さまの真っ赤なバラとダークピンクのバラにはそれぞれ意味があります。逆さまは文字通り、言葉を反転させる意味が込めれられ、真っ赤なバラは自発的な『愛する』が受身の『愛してくれて』と変わります。ダークピンクの深い色合は『感謝』の意図の深さを表していますのでそのままの意味ですが、自然なダークピンクよりも濃いのでかなり深い感謝を表していますね。それも『誰かに』対して、です」

「………………」

「これは誰に感謝しているのだろうと思いましたが、後半の意味を読み解くとその感謝の意図が全く違う意味に変貌したので正直驚きました」

 鈴木は後半の意味もしっかりわかっていた。でなければここまで答えられない。

 憶測のはずなのにどこかしっかりした回答を持っている。

 表情には表さないが華の心臓の鼓動が次第に大きくなり始めた。

「そして、後半の花言葉は」

「お待たせしました。ランチです」

 店員が二人分のランチを運び、周囲の音が二人を現実世界に戻した。

 華はそっと目を開けて、ランチを見て「おいしそう」と呟いた。

「続きは食事の後でもいいかしら?」

「え、……そう、ですね。冷めてしまいますし」

 空気を読んだ鈴木は華に返事をした。しばし無言でランチを食べる。

 だが無言のランチにお互いは助けられた。

 絶え間なく会話をするとどちらかが怪我をするかもしれなかったから。

 華が暴言で鈴木を傷つけるか、鈴木が気を回しすぎて華を傷つけるか。

 むしろお互いに空気を読んだことで心の回復を図れたとも言える。

「……田中さんは」

 しかし推理の途中で水が差された鈴木は少しだけ覇気を失った。

 お茶を濁すつもりではないが、鈴木には推理とは別に確認したいことがある。

「田中さんは、か、彼氏さんとか、いらっしゃるんですか?」

 生け花の話はよくするがプライベートの話はあまりしない二人ゆえに、鈴木はずっと気になっていた。この際だからと聞いてみることにした。

 すると、口に運ぼうとした手を止めた華は、「ぷっ」と息を漏らした。

「ご、ごめんなさい。ちょっと気が抜けて、笑うつもりはなかったの。でも、ぷっ、ふふふ」

 華は肩を震わせて鈴木のそういう天然で不器用さに笑った。

「わ、笑わなくてもいいじゃないですか。別に、いいですけど」

 顔を真っ赤にしながら鈴木は華に目線を反らした。

 少し怒った鈴木を見て華は安堵した。

 やっぱり心を見せておきたい。その上で彼がどう答えるか知りたい。

 華の気持ちがさらに固まった。

「彼氏いないわよ。ちょうど一年前に別れたの」

「一年前……」

 鈴木は少し俯いてから、数度頷いた。更に確信を得たような表情だった。

(ヒント、与えすぎたみたいね)

 ちょっぴり華は後悔した。鈴木はわずかなヒントで答えて欲しかったからだ。

 二人ともランチを食べ終えて、店員が食後のコーヒーをテーブルに置いた。

「ありがとう」

 華は店員にお礼を言って、コーヒーを口にした。

 同時に左手で鈴木の話したそうな口を制した。

「続きを話してくれる前に聞きたいことがあるの」

「なんでしょう」

「ミニチュアローズのことよ。前にメッセージ性を損なうって言ってたから」

「ちょうど今、自分からもそれを聞こうかと思ったところです」

 これには少し驚き、華は眼鏡を上げ直した。

 鈴木は左手で頬を掻いた。

「意外でした?」

 これには華も完全にお手上げだった。

「ええ。正直、中央のバラの意味だけでよかったから」

 鈴木は右手を胸に当て優しく微笑んだ。

「確かに前回には飾りだと思ったのですが、考えを改めました。ミニチュアローズの花言葉は色に特徴があり、青は『奇跡』、黄は『愛情の薄らぎ』、紫は『誇り』とあります。これら一つ一つに意味はやや薄いですが、籠の『取っ手』と組み合わせれば意味が強くまります。この籠に触れる持ち手、田中さん自身もしくは触れる誰かへ持ち去ってくれることを望まれた配色だとお見受けします。何故ならこの花言葉は『希望』ですから」

「正解」

 華は静かに呟いた。それを聞いた鈴木はより微笑んだが、すぐに真顔になった。

「それでは自分からも聞いていいですか?」

「いいわよ」

「この造花の材料って、何を使用されましたか?」

 華は驚かなかった。すでに加藤に言われたことだったのと、自分でも悟られることを言ってあったからだ。鈴木は何でもない風にさらりと聞く。

「この籠を作った時に三日かかったと言いました」

「ええ、言ったわ」

「実は自分でもこの籠を作ったんです」

「!」

 まさか同じものを作ったとは思わなかった華は素直に口を空けて驚いた。

「正確には手持ちの代用品とか色々混ぜたので安く済ませています。職人である自分は見本の画像があるので1日もかからずに作れました。けれど、不自然なんです」

 鈴木は右親指から中指までを立てて見せた。

「普通、3日もかかってしまったら花は萎れ散ってもおかしくないからです。だからこれは造花だろうとわかりました。けれど材料が何であるかまでは最後までわかりませんでした」

 生け花を生業とする鈴木ならではの着眼点に華は開いた口から思わず、

「造花であることが分かれば材料は気にしなくていいわよ」

 少し強めに言い放った。

「そ、そうですか」

 口調から察した鈴木は少し尻込みをしてそれ以上は聞かなかった。

 華も加藤との一件があり、苛立ちに近い感情で鈴木に言ったことを少し後悔した。

 ただ華には鈴木に、この材料が鉄であることを悟られたくなかった。

 時間が経てば鈴木なら自力で疑問の解決に辿り着くだろうけれど、これから続く話をこじらせない為にあえて遮ったのだ。

 鈴木は少しだけ意外に思ったものの華の気持ちに踏み入れるチャンスを棒に振りたくなかったので追求せず 息を整えた。

「では本題です、後半の花言葉は」

 意を決して口にする。

「『憎しみを抱きながら生きていきます』……です」

「………………」

 華が待ち望んだ回答を、聞けた。

 しかし華は、無表情のまま何も話さなかった。

 答えの、その奥を聞きたかったから。

 鈴木は、続ける。

「蕾の黒赤色のバラは不吉な配色で『恨み・憎み』などの花言葉があり、蕾は心模様を表します。つまり、心の中に『誰か』に対して憎しみを抱きながらこの『秘密』を口にしないという意訳ができます。しかしそれだけでは最後の籠下にある蕾の小さな白いバラの説明ができません。黒赤のバラと純白のバラとでは意味が真反対ですから」

 鈴木は一呼吸置いてから、口をきゅっと閉じた後、言葉を繰り出した。

「前回、自分がしようとした質問を、させてください」

 前回、鈴木は憶測だと思い口にしなかった3つ目の質問。

 前回の鈴木と今の鈴木を、目の前で対峙している。

 前回の鈴木は好奇心から聞いていただろう。

 しかし今回の鈴木は好奇心からではない。

 田中華という人間の重みを受け止める覚悟を持って、質問をする。


「田中さん、妊娠のご経験がありますね。それも、丁度一年前に」


 華は無表情から、急に眉間に皺を寄せ、めた。

 まるで、バラの棘に触れたかのような反応で。

 心の奥底に閉まった秘密を、鈴木が触れた瞬間だった。

「……どうやって気付いたの?」

 心に痛みを伴いながらも、華は鈴木の口から聞きたかった。

 それに鈴木が頷きながらそして俯きながら応える。

「実は最初に気付いたので三つ目の質問をしようかと思いましたが、花言葉で遊ぶにしてはあまりにデリケートな質問だったので控えました」

 鈴木は少しだけ頭を下げた。彼なりの真摯さだった。

「花言葉は『少女時代、愛するには若すぎる』、着目するのは『少女時代』のほうです。愛に関しては対比の隣にある黒赤色のバラで十分ですから、この場合は言葉を反転させるのではなく、『方向』を指すものだと推察できました」

 鈴木は4日前にうどん屋での話を思い返した。

 あのときにはバラを下に向けることから『方向』だと直感はしていた。

 だから蕾の白いバラはすぐに解けたが、言葉遊びだけでは説明できない不審な点にも気がついた。

 その後、家に持ち帰り読み解くうちに前半の真っ赤なバラの花言葉を『反転』させることにあとから気がついたのだ。

 鈴木は華の表情を見ても話をやめることはしなかった。

「逆さまに吊るすではなく、下へ向けている。つまり、降下や下すと言った意味になると思われます。すると『少女時代』を『下りる』となり、さらにこのバラの籠が造花であることから時を重ねる『時代』を省き、『少女を下りる』となり、意訳すると『少女を下ろした』となります」

 言い切らないといけないことだから。

 言い切った鈴木も、悲しそうな表情を浮かべた。

「『誰』とは赤ちゃんのことだったんですね。生まれるはずの赤ちゃんが田中さんを憎んでいるのかもしれないと思った。あの籠には自分に『戒め』でそして赤ちゃんに『手向け』が込められている。田中さんがしきりにバラ籠と呼ばれていることからも、『揺り籠』を意識されて発された言葉だとも思い返します。寄せ付けないバラのつるの中で安らかに眠っていただけるように」

 確かに華は籠を作成する際には、加藤のことを思い返してではなく、赤ちゃんのことを想って作った。

 鈴木の推理は今の華の心を癒すものではなかった。

 けれど触れられることで華はさらに自分へ戒めを強めたかった。

 心を許す相手に諭されたかった。

「これは自分のこじ付けですが、揺り篭を分解して、花のユリと籠に分類するとユリの花言葉の『純潔』と収める籠のことから、あの籠そのものが純粋な気持ちで作られた物だと窺い知ります。自分と赤ちゃんの『秘密』として」

 華は涙が零れそうになるが堪えた。まだ鈴木の話は終わっていないから。

「ひょっとしたら前三つのバラの意味から別の意味に派生するかと思ったので花言葉を答えた後で質問しようと思い直しました。しかし、読み解くうちに最初の推理がどんどん現実味が出てきました。血の気が引きました。これをどんな純愛でそして強い心で仕上げたのか、男の自分には計り知れません」

 それこそ母親が子供を生む覚悟のように。

 鈴木はそう付け加えた。

『私を愛してくれてありがとう。憎しみを抱きながら生きていきます』

 もし仮に赤ちゃんが生まれてきてくれたなら、そう言って貰いたかった言葉を、バラの籠に込めて華は作成した。

 生まれてくるはずだった命を、自らの決断で絶ってしまったことを華は人生において一番後悔している。

 時間は巻き戻らない。

 当時決断した覚悟も弱まり、今では自責の念がより強まるばかりである。

 そして、あのバラの籠を作成した。

 玄関先に飾ることで一番の後悔を忘れないように、自分で自分を戒め続けた。

 それを知った誰もが、華を重い人間だと思うだろう。

 鈴木も例外ではない。

 だから活花ゾーンにあるひまわりの花言葉『あなたのことをずっと見ています』にした。

 つまり、見守るがそれ以上はしないという意思表示にも思えたから。

 しかし、

「けど同時に、田中さんを支えたいと思うようになりました」

 華の予想に反して、鈴木は大人びた顔立ちになった。

「自分はまだまだ駆け出しで華道家としても探偵としても十分な給料や技量ではありません。だけど自分の夢も田中さんも諦めたりはしたくありません」

 今日の鈴木は、強気だった。

「どうか自分でよければ、お付き合いいただけないでしょうか?」

 華にとってこれ以上にない言葉だった。

 あのバラの籠の意味を答えて、その意味を知ってもなお、鈴木の心に華への気持ちが大きかった。

 それを十分に知りえたから華は、

「考える時間をくれないかしら」

 すぐに返事を出せなかった。

 はい、と言いたかった。これで楽になれるかと思うと、心底自分が嫌になったからだ。

 華はこのバラの籠を知ってもらい、気持ちに触れてもらえただけで十分だった。

 今はそれだけで、十分心が満たされた。

 けれどそれは、逃げ道を作った結果に鈴木を巻き込んだのではないか。

「いやです!」

 さらに鈴木も華に強く反論した。感情が込められた一言で華は驚いた。

 いつも論理的な彼が声を少し強めに言い放ったのは初めてだった。

「今、逃してしまったら田中さんと一生会えないような気がしてならないから」

 これには華も再び驚いた。別にそんなつもりで時間が欲しいと言った訳ではないのだけれど、鈴木にとってはそう感じ取ったらしい。

「それは探偵としての感?」

 華がどこかへ行ってしまうような感覚は、本人である華にはわからなかったから質問をした。

 鈴木は即答できなかったが、少しの間が空き、緊張感のある声で、答える。

「これは華道家としてのタイミングです……多分」

 会社に花を活ける鈴木の姿を、華は思い返した。

 花を活ける時のタイミングを感でなくしてなんなのだろうと華は思った。

「ぷっあははは」

 変なツボがハマったかのように思わず大声で笑ってしまった。

「じ、自分は真剣なんですよ」

 鈴木のおどおどした表情で更に笑いが続いた。

 しばらくして華の笑いも収まり、華も真剣な表情に切り替わった。

「ごめんなさい。真面目な話をしておいて笑う私がどうかしてるの」

 華は頭を下げた。自ら望んだ話を笑うのも可笑しな話だと思い直した。

 しかし、それだけ加藤にさえここまで心を許した相手はいなかった。 

「それだけあなたに私の心の花を活かされたみたい」

 華は心の底から解れた様な自然な笑みを鈴木に向けた。

 思わず見蕩れてしまった鈴木は我を忘れて赤面した。

 そんな鈴木を見て華はもう一度頭を下げた。

「でもごめんなさい。本当にすぐに返事が出来ないの」

「ではいつ頃に……」

 鈴木の質問に顔を上げた華は、別の想いを巡らせた。

「あなたの目で私の『元彼』を見てくれないかしら」

「?」

 突然の話に鈴木は少し混乱の表情を見せた。

「今晩、元彼を家に招いているの。この話も勿論してるわ」

「!」

 また疑問が浮かんだがその言葉はひとまず飲み込み、次の言葉を待った。

「三人で今後について話したいと今思ったの。どうかしら?」

「はい行きます!」

「それじゃ仕事の後に」

 華は鈴木に住所を教えた。19時頃に玄関先まで来て欲しいと。


04


 コーヒーを飲み干すと、鈴木と華はカフェを後にしてお互い仕事に戻った。

 鈴木は華道家の家元に行き、華はクライアント先にプレゼンをしに行く。

 道中に心を整わせた。仕事は仕事と気持ちを徐々に切り替えた。

 余裕を持って取引先の会社に到着してエントランスホールのソファで資料を読み返した。華にとっては何度もお世話になっている取引先なのでそれほど緊張することなく、言いたいことを全て言い終われば上手くいくと確信があった。

「あれ? 田中先輩、じゃないですか? こんにちはお久しぶりです」

 一息で言い切る人物の声に、華は緊張した。

 振り返ると、気さくでチャラそうな笑顔と共に手を振る男性がいた。

「……佐藤、くん?」

 というか佐藤だった。

「なんですかその思い出しそうだけど何気に覚えてなかった的な言い方は。ショックっすよー田中先輩。一つ屋根の下で一晩過ごした……苦い関係じゃないですか、あはは」

 うん、佐藤だった。

 佐藤は話しながら廊下で夜を明かしたことを思い出して、陽気さが失われた。

 都合の悪いことは記憶の片隅に追いやる性格のようだ。

 でもそれがあったから華に警戒心を持たせることは、華にとって良いことだった。

「佐藤くんはどうしてここに? 名古屋じゃなかったっけ?」

「いやーそれが急な話で名古屋支店の外注依頼の確認と提案を見届けて来いって言われたものでして、一応現場の人間なんで田中さんと同席させてもらうことに」

「!」

 そういえば加藤がそんなことを言ってた様な、とあまり気にも留めなかったことを思い返した。まさか佐藤が来るとは思わなかった。けれど期待の新人がベテランと同席することはままあるため、仕事と割り切って営業スマイルで応えた。

「私は仕事をしに来たので何も問題ないわよ。佐藤くんもそのつもりでお願いできる?」

 公私の判断を混同されては困ると念を入れて忠告をした。

「はい。宜しくお願いします田中先輩。勉強させてもらいます!!」

 素直に受け入れた佐藤は、きっちりと45度のお辞儀を見せた。

 あの飲み会では想像もできないが、仕事モードの佐藤はどことなく心強い。

 打ち合わせの時刻となり、会議室でプレゼンが行われた。

 手持ちの資料を取引先に手渡して具体的な説明を華が行う。

 実際の敷地面積やイベント会場などの具体的な説明を佐藤が行う。

 取引先の相手も何度も頷きながら、質問と回答を繰り返す。

 ときに佐藤の茶目っ気のある冗談を踏まえながら、プレゼンは滞りなく進んだ。

 40分後。

「ではこの案を採用させていただきまして、今後とも頑張って行きましょう」

「はい、よろしくお願いします」

 華のプレゼンは無事に終わり、先方と握手を交わした。

 思っていた以上の成果を得られた実感が湧いた。

「ありがとうね佐藤くん」

 取引先の会社を出た後で隣にいる佐藤に声をかけた。

「だぁぁーー。緊張したぁぁ」

 プレゼン中、息を止めていたかのように深呼吸をする佐藤。

「こちらこそありがとうございます田中先輩。スゲー勉強になりました」

 仕事中の佐藤にチャラさはなく取引先の質問にもしっかりと答えていた。

「昨日の夜に突然、本社近くの取引先に行けって上司に言われた時には心臓止まりかけましたよ。資料とかまとめるの新幹線の中でした。あはは」

「それでも説得力のある現場の意見だったわ。流石はホープね」

「いやいや田中先輩の完璧なプレゼンのおかげですよ。ニ、三個ミスして笑いで誤魔化しましたけど、木曜日までに取引先に詳細をメールしなきゃ……痛感させられます」

 ため息混じりに肩を落とす佐藤だったが、華にとってはそれほど大きなミスはなくむしろ反省するその姿を見て伸び代を感じたくらいだった。

 二人は駅の方向へと歩き出した。すると、

「田中先輩はこれから本社に戻るんですか?」

 オンオフの切り替えの早い佐藤の気軽な質問に、

「いえ、直帰です……」

 オンオフの切り替えが遅い華は即座に答えて後悔した。

 どうも佐藤のペースに乗せられやすい。

 顔を明るくした佐藤は「じゃあじゃあ!」と分かりやすく次の台詞を言う。

「今から飲みに行きません? 今から名古屋に帰っても味気ないですし」

 下心見え見えの佐藤の言葉に華は心の中でため息を漏らした。

「でも名古屋の方がおいしいものたくさんあるでしょ?」

「先輩と飲みに行くのはこの日だけなんですから。奢りますから」

「ごめんなさいね。これから人と会う約束してるの。また次の機会でいいかしら?」

 佐藤に華は大人の対応を期待して、断ったつもりだったが、

「いやです! 今から先輩と飲みに行かなきゃ名古屋に帰れません!」

 子供のようにすがる佐藤を見て華はどうしようかと困った。

 佐藤には加藤のような強引さはなく、けど鈴木のような遠慮さもない。

 鈴木と佐藤との待ち合わせる時間にはまだ早い。

 その間、部屋の掃除をしてと色々と思案を巡らせても、お茶するくらいの時間しかない。

「やっぱり無理だわ。佐藤くんも大人なんだから今日だけは聞き分けて?」

 聞き分け出来ない佐藤はぐいぐいと近寄る。

「その今日だけなんですよ? 名古屋に戻ったら何ヶ月も先輩に会えないんですから」

「確かにそうだけど、今日は本当にどうしてもダメなの」

「好きです先輩」

 オフィス街を歩きながら唐突に真面目な顔をした佐藤が告白した。

「先輩とはたった一晩だけでしたが、会えなかった期間ずっと先輩のことだけを考えていました。まだまだ先輩とはよく話してよく知りたいんです!」

 面と向かって言われると気負けしそうになる。けれどこちらも引くわけにはいかない。

 幼馴染の加藤を見習い、キッパリ断ろうとしたその時。

「『愛してくれて、ありがとう』」

 佐藤の口から、意外な言葉がとんできた。

「あのバラの籠の花言葉、ですよね?」

 花のことは何一つ知らないはずの佐藤の口から、あの花言葉が聞けるとは思いもよらなかった。佐藤は鼻を啜りながら照れ臭そうに笑った。

「へへ、合ってましたか?」

「ええ、よくわかったわね」

「当たってましたか。といってもコレしか分かりませんでした。何せ今まで花言葉なんて無縁でしたからね。それでも先輩のことを思うたびにあの籠を思い返して、ずっと調べていたんです。バラだけであんなに花言葉があるなんて知りませんでした」

 こんな短期間で籠の前半部分の意味が分かるとは思わなかった。それこそ花に精通する興味がないと辿り着けない答えのはずだったから。

「あとずるいですよ先輩。逆さまがアクセントだなんて嘘言って誤魔化されましたよ。左から読むってのも普通なら変ですし、読ませたいのなら普通右からですよね? つまり、あえて反対から読ませることを前提にしてあるのは左手側に飾る位置にあったからではなく、逆読みをさせるためじゃないですかね」

「!」

 加藤も鈴木も画像の中にある左手を添えたから左読みをするという解読順路を論理的に導き出したのに対して、佐藤は現物しか見てないからこそ別の角度の解読順路を導き出していたことに、華は驚かされた。

「他にもいくつか気付いた点があるんですが、もう駅に到着しましたね」

 佐藤のあの籠の意見をもう少しだけなら聞きたいと思ってしまった。

 バラの籠を素人目から見るとどんな風に見えるのか、興味が沸いてきた。

「せめて最後にお茶だけでも付き合ってもらう時間ないですか先輩」

 仕事と同様に真剣な表情で迫られるとなお、断れなった。

「いいわ、少しだけならね」

 二人は駅近くのカフェでコーヒーを購入して対面できるテーブルに着いた。

 華は微笑みながら「続きを聞かせて」と促した。

「じゃあ遠慮なく、言わせてもらいます」

 仕事の時よりもフランクな、でも完全にデレた雰囲気はない引き締まった表情で佐藤はバラの籠の解釈を続ける。

「後半の色合も対比させててよく考えたら面白い組み合わせだなって思いました。満開と蕾、赤黒さと真っ白さ、4本の『死ぬまで愛の気持ちは変わらない』と5本『あなたに出会えて本当によかった』。まるでティラミスみたいな三重構造で味わい深いというか、ほろ苦さを感じさせるというか。まさにザ大人!って雰囲気で先輩も悩み多き女性なんだろうなって思いました。あ、今のは軽い意味ですよ? 三重だから三十路とかの連想にはならなくて、なんて言ったらいいんだろう。こう、ぼくよりも苦労を知ってるというか、精神的にもあの仕事結構来ますしねぇ。だから支えてあげたい!っていうか、抱きしめてもらいたいっていうか、うわ今恥ずかしい台詞でしたよね。今のは忘れてください。訂正しますから。んー、でもぶっちゃげ部屋も暗かったからか、あのバラの籠は全体的に暗かったというか、落ち込んでます感みたいなのが滲み出てて、でも見てて安らげるというか、次は失敗しないように頑張るぞ!みたいなノリだと思うんですよ。あ、あの籠先輩の一部って言ってましたよね。すみません。先輩が仕事でミスするなんて思ってないですよホント。そうじゃなくて、なんつーかな。願掛け?じみたこと?ですよね? ほら支えで戒めだって言ってましたし、いってきまーすからただいまーの間にあの籠が部屋にあると思うからそこにいるんだよねー的な。あれ、おっかしいなぁ、新幹線の中で頭の中でまとめてきたんんですが、あーもちろん仕事もしてましたよ。合間にというか、息抜きにというか、ほら先輩のこと常に考えているからであって、あの籠今どうしてるのかなーってまるで小さな姪っ子がいるような感覚で心配しちゃって。あははなんかおかしいですよね。人じゃないのに籠の心配って。でもなんか小さな白い蕾がそんな風に思えてしまったので、つい。なんか脱線しましたね。新幹線が脱線、なんちゃって、あはは」

 一気に話上げる佐藤の会話を聞き漏らさず聞いていた華は驚かざるを得なかった。

 花言葉を2週間ぐらい前に知ったばかりだというのに、核心に近いところまで辿り着いていた。共通の趣味を持つ加藤や華道家で探偵の鈴木と違い、センスと記憶力だけで求めていた単語がいくつも出てくるのはなかなかいない。あの一晩と今の話だけで真意に近づいたのは佐藤が初めてだった。もし佐藤ともっと話をしたなら深い話もたくさん出来ただろうと、華は少し考える。

 あの一晩の件で一蹴するには惜しいと感じてしまった。

「うちにくる?」

「へ?」

 脈がないとわかったはずなのに目の前に突然現れたビックチャンスが転がり込んだような表情を浮かべる佐藤。「ただし」と華は付け加えた。

「元彼と、私が心を許した人が来る部屋に、だけど」

「いきます!」

 彼の返事は即答だった。

 二人はすぐさまカフェから出て電車に乗り、華のマンションへ目指した。

 道中の車中で佐藤は記憶だけのバラの籠を延々と話し続けた。

 まだ佐藤と鈴木が来るよりも前に、佐藤を家に入れた。

「あれ? あの籠、ないんですね?」

 佐藤はすぐさま玄関先に飾ってあったバラの籠を華に質問をした。

「あのバラ籠は加藤部長に渡したの」

 それを言うと先に華は玄関で靴を脱ぎ、自室へ入った。

「……え? あの釣り目部長が? えーっと、詳しく聞かせてもらえませんかねぇ?」

 佐藤も華の部屋に入り、鞄を抱きかかえるようにして苦笑いをした。

「昔、付き合ってたの彼と」

「あ、まさか所々空白だった写真箇所って」

「そうね。彼が映っていた写真ね。社内旅行の写真も含めて捨てたわ」

「あ、あはは。まさかあの釣り目部長と付き合っていたとは……」

 佐藤は言葉を失いかけた。また何故家に呼ばれたのか聞けずにいた。

 聞いてしまうと途中で引き返すことになりそうだったから。

 電車内でもバラの籠のことを褒めちぎっていただけに心境もやや複雑になってきた佐藤だが、持ち前の明るさで突破を図る。

「まさか元カレが部長だったとは、先輩もやりますねぇ。ますます先輩のこと好きになりそうですよ。だってああいうタイプと別れたってことですから、きっとビックチャンスはあるんじゃないですかねぇ?」

「そうかもね」

 微笑を続ける華に佐藤は内心ヒヤリとした。とんでもない女性を相手にしているのではないだろうかという一抹の不安はあれど、佐藤にとって加藤のタイプではない自分だからこそチャンスでもあると直感した。

 ここまで来れば引き返すこともないだろうと、佐藤は思い切って理由を聞く。

「どうして先輩は、誘ってくれたんですか?」

 一度拒否られた相手である佐藤からしてみれば、心変わりしたきっかけのバラの籠はもうないということから、接点がほぼ無くなった様なモノだった。

 バラの籠の花言葉を答えられたから? けれどまだ半分の謎が残っている。

 答えられなかったら付き合う資格はないと思っていた。

 ここに何故呼んだのか、足裏から伝わる廊下の冷たさをじわじわと感じながら華の回答を待った。

 華は、振り返らずにドアノブを回して、リビングへ入った。

「紅茶を飲みながら話しましょう。その回答も、花言葉の意味も」

 ドアがひとりでに閉じる前に佐藤はおずおずと部屋に入り、テーブル席についた。

 今考えればこのテーブル席も不思議だった。

 一人暮らしなのに、何故席が2つあるのだろうかと。

 理由はさっき聞いた彼氏である部長が座ったからだとすぐに察した。

 少なくとも、ここで食事をする仲、あるいは同居をしていた。

「はい、紅茶。冷めないうちにどうぞ」

 佐藤が考え事をしている間に華は佐藤の分の紅茶を用意した。華も自分専用のマグカップに紅茶を入れてテーブルについた。

「ああ、どうも……」

 行動派の佐藤ではあるが、このカップひとつ取ってみても考える対象だった。もしかしたら、部長が飲んでいたであろうカップかもしれないと。でもそれはじっと見ている内に来客用のTカップであることに気付いた。

「あ、心配しなくても薬なんて入れてないから」

 華は一口紅茶を飲んでから警戒している佐藤を察して先に言っておいた。

 これに佐藤は考えていなかったため内心ヒヤリとした。

「い、いえ、別のこと考えていました。けど薬入れてないのは朗報ですね」

「あら、違った? ……あー、カレシのカップって思った? 安心していいわよ、それは来客用だから。私は思い出の品とかは捨てるの、写真同様にね。引きずりたくないってのもあるけど、それ以前にそういうモノに依存したくない性質だから」

「ああ、そうだったんですね」

 華のそういう話を聞いてややホッとしたのか、佐藤は出された紅茶をそっと飲んだ。

「実は私、妊娠してたの」

「!? ……っげほぉごっほっ!!」

 完全に油断した佐藤は含んだ紅茶を飲み込むと、しばらくむせた。

「あはは、佐藤くんのそういうとこ見たかったの」

 面白そうに華は快活に笑った。

「ちょっ、ごっほぉ! 先輩っ、いきなり何言い出すんですか!? ぼくの子ですか?! 冗談ですよね!?」

 酷く混乱した佐藤は身に覚えの無いことを口走る。それほどに余裕を持てなかった。

 笑いの余韻で華の口角は上がりっぱなしだが、目は真っ直ぐに佐藤に向けた。

「佐藤くんの子じゃないけど、本当だよ。もう10ヶ月前になるかしら。私の家系は女系が強かったから多分きっと女の子だったと思うなぁ」

 さらりとそして淡々と紅茶を飲みながらやや遠い目をしていた。

 佐藤は追いつかないなりにもその華を見ると、本気だと察した。

 妄言や想像の域ではない発言、何度も口にしたであろう台詞や口調。

 たった二言だけだが、信じるに値すると佐藤は判断して、思考を再起動させた。

「……マジっすか?」

 信じたのだが聞かずにはいられなかった。華は小さく頷いて、

「マジっすよ」

 佐藤の口調を真似た。

 言われた本人は再び紅茶を口にしてゆっくりと生唾と一緒に飲み込んだ。

「すると、お相手はあの釣り目部長ですか?」

「そう」

「もしかして同居してたんですか?」

「そう」

「さらにもしかして、結婚まで視野にあったんですか?」

「そう」

「な、なんで別れたんですか?」

「私が彼の強引さに心が折れてしまったから」

「面識があまりないので判断が出来ませんが、そのこと部長知ってんですか?」

「ついこの前話したばかりなの」

「10ヶ月も秘密に?」

「そう」

 佐藤はテーブルに手を置き、トントンと指先で叩いた。

「どうして?」

 華は佐藤の口調から少しだけ苛立ちを感じた。

 だから華は真顔で淡々と語る。

「私が彼を受け入れてしまったことが原因なの。これは私のミス、もっと前から打ち明ければ修正できたかもしれない。もっと主張すればお互いにもっと良好な関係になれたかもしれない。推測にしか聞こえないかもしれないけど、幼馴染だもの、そこはわかってくれたと思うわ」

 再び佐藤は面を喰らった。幼馴染?! あの釣り目の残念イケメン部長と!?

 間を置かず佐藤は喋りながら言葉を紡いだ。

「お、おさ……。ひょっとして田中先輩って恋愛下手だったりします?」

「いきなりの結論ね」

「だっておかしいでしょ? 先輩ほど聡明な人が後先考えずにヤるはずないですし、ぼくみたいに欲に取り付かれた訳じゃない。さらに授かり婚って普通します? しかも相手が部長で幼馴染? 色々とありえないことだらけですよ?」

 正常に考えれば不自然な点は佐藤の言う通りだった。

 一見すれば、ただの無計画で狂った女にしか見えないだろう。

「だから理由を聞かせてください。何をそんなに先輩を駆り立てたんですか?」

 さすがの佐藤も口も目も、真剣になった。

 ピーンポーン!

 タイミングよくインターホンが鳴った。ロビーで誰かが来たようだ。

「この話は、三人揃ってからにしましょ」

 華は立ち上がり、ドア近くの内線を取った。佐藤はただただ、華を見続けていた。

 内線を取るとどうやら鈴木と加藤が一緒に来たようだ。

「二人来たのね、入って」

 華は内線からロビーの鍵を解除して招き入れた。

 しばらくするとこの部屋はカオスと化すだろう。

 そんな想像を華はしていた。

「先輩!」

 急に席を立った佐藤は華に詰め寄る。

「やっぱ先に聞かせてくれませんか?」

 佐藤はネクタイを緩め息苦しさを感じていた。もうすぐここには知りもしない2人が来るのだから、少しでも考える時間と心のゆとりが欲しかった。

「ダメよ佐藤くん。二人が来て話すから待って」

 華は身の危険を感じて廊下に出ると、ドアノブを持って引っ張った。

 華の感じた危機感は、佐藤に夜這いされかけたときに近かった。

「お願いします先輩! 悪いようにはしませんから!」

 佐藤はドアノブを掴むと押し続けた。意外と力は均衡していた。

「考えさせる時間をくださいよぉお!」

「佐藤くんは考えるタイプじゃないでしょ?」

「まぁ確かにそうですけど、今でも頭ん中ぐちゃぐちゃですけど、それでも先輩のために何でもするつもりなんですから先に聞いてもいいでしょ?」

「私が三人揃ってから話すからそれまで待ってよ」

「いやです! 怖い釣り目部長ならともかく先輩が気に入った人とのアドバンテージくらい稼ぎたいって思うのは自然でしょ?」

「そんなことないから安心していいわよ。これから話すことは二人にも知らないことだから」

「だったら先に聞いてアド稼ぎたいっす! あ、先輩ファスナー開いてますよ?」

「え? うそ? きゃっ!」

 佐藤の古典的なひっかけにまんまとひっかかった華は思わずドアノブを離してしまった。後方に尻餅をついた。

 佐藤はようやく追い詰めたとばかりにゆっくりと華に近づく。華はそのまま後退する。

「ふふふ、追い詰めましたよ先輩!」

 何故か悪びれた口調で指を鳴らす佐藤。聞き出すという目的をすっかり見失っている。

 華は玄関先に辿り着くと上体を起こすもストッキングのせいで滑って立てなかった。

「隙あり先輩!」

 襲い掛かる佐藤に成す術もなく華は、押し倒された。

 佐藤の両手が華の顔横に置かれ、股下のスカートを踏まれて、逃げられない。

 夜這いされそうになった夜のような状況に陥った。

 ただ今回は佐藤の表情からは悪ふざけのような口調が無くなった。

「先輩……」

「佐藤くん……」

「我慢できないのでキスします」

「!?」

 さすがの華もそれはまずいと思い手で佐藤の顔を押し返すが、顔を近づかせるのを遅らせることが精一杯だった。涙目になりながらも必死に抵抗を見せる。

「邪魔するぜー」

 とそこへ加藤がインターホンを鳴らさずに勝手にドアを勢い良く開けた。

 三人の視線が状況を確認しようと泳いでいる中、誰よりも先に理解を示したのは、加藤の後ろにいる鈴木だった。

 押し倒してキスをしようと迫る見知らぬ男性。

 近づかせまいと抵抗する涙目の華。

 しかも男性が華に馬乗り状態でいることから導き出されるのはひとつだった。

 鈴木は慣れもしない拳を作り、体重を乗せた拳で男性の顔面を思いっきり殴った。

「ぶへらばっ!」

 すごい呻き声と共に佐藤は後方へと倒れこんだ。

「華さんっ! 大丈夫ですか!?」

 困惑の表情の鈴木が華を起こした。

「ええ、ありがとう鈴木くん」

 華は乱れたメガネと髪を耳に掛け直し、胸を撫で下ろした。

「加藤さん、すぐに警察に連絡を!」

 安否の確認を済ませると解けない拳を加藤に見せて促した。

 子供の頃のケンカで人を殴って以来のことで気が動転した鈴木には手が震えて仕方がなかった。だが加藤は鈴木ほど冷静に判断する。

「その心配はいらないな」

「その心配はいらないわ」

 華と加藤は鈴木に口を揃えて、言った。

「いっつつ……あ、でも痛くない」

 倒れたあとすぐに立ち上がった佐藤を見て、鈴木は「ぁ」と小さく漏らした。

「ご、ごめんなさい! 自分の早とちりでした!」

 すぐさま自分がしでかしたことに気付いて、佐藤に頭を下げ謝った。

 たった数秒の出来事だったが殴った相手は会社の人だと察したのだ。

 首に手を当てて正気に戻った佐藤は苦笑いをした。

「いや、むしろあれでよかったっす。襲い掛かったのは事実だから」

 こうして華の部屋に3人の男性が、揃った。


05


「冷蔵庫開けるぞー」

 加藤は部屋に上がるなり、自分の家かのように平然と冷蔵庫を空けて持ってきたモノを入れた。

「加藤さん、遠慮なさすぎですよ。田中さん紅茶好きなんですね」

 鈴木は遠慮がちにテーブル席に買ってきた物を置くと、華に話し掛ける。

「ありがと。でも加藤部長は遠慮を知らないから気にしなくていいわ」

 華はリラックスした表情で鈴木の肩に手を添えてテーブル席へ誘導した。

「ぼくもなにか手伝いますよ先輩!」

 佐藤は反省の意味を込めてカーペットの上で正座をしていた。

「黙って正座していろ」

「黙って正座しなさい」

 息ピッタリに華と加藤は佐藤に言い放つ。

「………………」

 その二人の表情を観察しながら鈴木は苦笑いをして目線を写真棚に向けた。

 不自然に所々に写真スペースの空いた写真棚を見た鈴木を華は見た。

 その華を加藤と佐藤はちらりと見るだけに留めた。

 加藤は自前の缶ビールとつまみをテーブルに置き、席に着いた。

 鈴木と佐藤はそのまま位置から動かず、華は三人を見れる位置のソファに座った。

 いよいよ、始まる。

 スタートを切るのは部屋の主がしないといけない、と華は使命感を抱く。

「ここに集まってもらったのは他でもなく私の呼びかけに応じて」

「畏まらなくていいじゃないか華。顔見知り程度だが自己紹介も軽くでいいだろ」

 加藤は缶ビールのフタを片手で開けながら持ち上げた。

「華のいる部署の部長を務める加藤だ。華とは幼馴染で去年まで付き合っていた。以上だ」

 強引に自己紹介を終わらせ缶ビールを一口含むと持ったまま同じテーブル席の鈴木を指名した。憤りを表に出さず諦めた表情を浮かべる華も加藤の自己紹介の案に乗り、鈴木に手で促した。それを受けた鈴木は軽く頷き、自己紹介を始める。

「田中さんのいる会社で花を活けさせて頂いている華道家の鈴木と申します。田中さんとは3年ほど前から植物の話をする仲でしたが今は真剣にお付き合いを考えています」

 鈴木の言葉に加藤が鼻で笑ったが、鈴木はその挑発には乗らず目力で返した。

「はいはーい! お二人とも真剣なのはわかるんですがぼくもいることを忘れてませんか?」

 勢い良く手を上げて明るく振舞う佐藤が咳払いをした。

「お二人に比べて会社にも田中先輩のこともよくわかってないんですが、フィーリングならぼくのほうがいいと思います。そしたらひとまず乾杯しませんか? あ、もちろんお代は払うので」

 営業スマイルの佐藤の手の飲みの動作を見た鈴木が自前の缶チューハイを手渡した。

「ありがとうございます鈴木さん」

「お代は加藤さんに。自分ももらい物なので」

 チラッと加藤に目線を送る二人に加藤が余裕の笑みで返した。

「おうお前ら、気にしなくていいぞ。もともと飲み明かすつもりだったからな」

「「ありがとうございます!」」

 佐藤と鈴木はペコリと加藤に頭を下げた。

 主導権を握られてしまった華も鈴木から缶ビールをもらうとフタを開けた。

「それでは僭越ながら反省の意を込めた正座のままで申し訳ないですが、乾杯の音頭を取らせていただきます!」

 佐藤が持ち上げると他の3人も缶を持ち上げた。

「えーこの度は田中先輩とお付き合いさせていただきますこの佐藤が」

「え!? 何言ってるんですか佐藤さん!」

 いきなり取られたかのような感覚に陥った鈴木が佐藤に食いかかった。

 手で宥める佐藤が笑いながら「冗談ですよ冗談」と説明する。

「鈴木さん、若いからってぼくがボケ終わらない内にツッコミ入れないでくださいよぉ。あの下りで結婚まで話すつもりだったのに」

「あ、冗談? それは失礼しました」

 社会経験の少ない鈴木は赤っ恥をかいたが、他の3人はそれを見て和んだ。

「はいかんぱーい!」と加藤が割り込んだ。

「「「かんぱーい!」」」と釣られた3人も缶を重ねた。

「さすが部長ですね。誰かが言わなかったら延々と続けてましたから。さすがっす」

「だろうな。俺も新人の頃散々やらされたネタだしな」

「あはははですよねー。鈴木さんもこの小ネタ覚えてて損はないっすよ。ある意味通過儀礼みたいな所あるんで。コツはボケスタートがいいっすよ」

「はい、人生の先輩方々から今日は学ばせていただきます」

「所で鈴木さんって歳いくつ?」

「23です。佐藤さんは?」

「お、近いね。26なんだ」

「加藤さんは?」

「27だ。んで華は俺の1個上」と言い終わると1缶飲み干した加藤。

「女性の年齢を簡単にバラさないでよ。デリカシーないわね昔から」華も一口含む。

「華はもっと肩の力を抜け。お前の始まりは佐藤並に長い」

「きちっと挨拶するのが礼儀ってものでしょ。てか早く飲みたいだけでしょ」

「ったりめぇだ。今日は無礼講だ。華に不満とかぶつけていいぞ」

「なっ!? 私はあなたほど嫌な人間じゃないんだけど。ねぇ鈴木君」

「そうですよ。田中さんは自分の探偵の師匠なんですから」

「師匠? どういうことっすか鈴木さん」と佐藤が食いついた。

「華道家だけの仕事じゃまだ収入が不安定なので探偵事務所でも働いていまして、田中さんに毎週会うたびに植物に関する問題を出題してくれます。おかげで観察力とか発想の転換とかできるようになったんです。だから師匠なんです」

「ぷははははは、お前らそんなことやってたのか」大笑いする加藤。

「三年も前から……ということはその頃にはもうすでに付き合っていらしていたんですね」

 グイッと鈴木も缶チューハイの半分を飲んだ。その間に佐藤が加藤に質問する。

「部長達はどれくらいの期間付き合っていたんですか? 話からだと3年以上は確定っぽいんですけど……もしかして小学校からとか?」

「小はないだろ。そうだなぁ……高一からか? なぁ華」

「私が高三の頃からよ。ちょうど10年前ね。恋愛話が多感な頃だったから」

「うわ、意外とリアルっすねー。ま、ぼくは小4が初めての彼女でしたけど」

「小学校の彼女ってどうせままごとみたいなもんだろ?」

「うわひっどいなぁ加藤部長。これでも真剣に恋愛してたんですよ? 女友達の2個上のお姉ちゃんに一目惚れも一目惚れでズバーッと勢い良く告白しちゃったのがきっかけだったんですけど、結局弟ぐらいにしか思えられなくて別の男に走って別れたんっすよ」

「あーなんとなく分かるかも。佐藤くんって『もし弟が出来たらこんな感じ』かなって思うもの」1本空けて2本目に手を伸ばす華。

「田中先輩までー。てか先輩ハイペースっすね。って加藤部長もう3本目っすか?!」

「佐藤は話が止まらないから空くんだよ」

「いや全然っ話長くないですよ!? 二言三言ぐらいでしたよね!?」

「佐藤さんってすごく驚きますね、見てて面白いれす」

「いやいやいや鈴木っちはまだ1本も空けてないのにもう酔ってるの!?」

「酔ってらへんって! ただここ2年くらい飲んでなかったので今日は楽しいれす」

「あーあー声の量もトーンも変わっちゃって、ぼくたちまだ初対面なんだよ!?」

「田中さんが選んだ人ですから安心しちゃって。あ、もう一本頂きます加藤さん」

「おう好きに飲め。なんなら今冷やしてるワインやウイスキーもあるぞ?」

「わーいありがとうございらす。ではあとで」2本目の缶チューハイを手にかけた。

「加藤部長。鈴木っちにそれ飲ませたらヤバイですって。あとどんだけ買い込んだんですか。田中先輩を酔い潰すつもりだったんですか?」

「俺よりも酒豪だぞ? ウイスキーとワイン1本ずつ空けても潰れないだろうな」

「マジっすか先輩、マジっすか!?」

「マジっすよ佐藤くん」2本目を空けて余裕の笑みを浮かべる華。

「てかぼくだけ置いてけぼりはやめてくださいよ。佐藤優作! 一気します!」

 1本目の缶を空けた佐藤に三人が拍手を送った。

 しばらくして、鈴木も2本目を空けた頃。

「じゃあ自分はワイン頂きらーす。華さん、冷蔵庫開けますねー」

 酩酊の鈴木が席を立つ。フラフラと頭が揺れて上手く歩けそうにない。

「いいわよ鈴木君。私が出すから」

 すっと立ち上がり鈴木の肩に手をかけて再び席に着かせた。

「あ、それじゃぼくも手伝いまっ!」

 急に佐藤が立ち上がろうとした瞬間、正座で足が痺れカーペットの上で転がった。

「いてでで。つった、これつった!」

 足を抱えながら涙目になる佐藤の姿を見て、三人は笑い合った。

 佐藤の足の痺れが取れた頃に、佐藤は写真棚近くにあるノートを見つける。

「これなんですか? 『完成図』?」

 ノートの題名を読むと鈴木がいきなり咽た。華が掃除する時に隠そうと思っていたのだが今となっては酒の肴である。佐藤に見つかったのが運の尽き。

「うわめっちゃキレーに掻かれてますね。さすがデザインって感じっす」

「どれどれ」

 興味を示した加藤が写真棚まで歩き佐藤と一緒に眺める。

「へーなるほどね。鈴木のか」

 数ページ眺めただけで華の字ではないことがわかった加藤は活花ゾーンにある作品と同じ完成図を見たことから鈴木のノートであることを連想した。

「え? これ鈴木っちの? すごっ! 細かい所までよく描けててなおすご!」

 佐藤は深く考えず目を丸くして素直な感想を述べた。

「は、恥ずかしいですのでやっぱ返してくださいっ!」

 鈴木の口調はシラフに戻れど千鳥足では短い距離でもふらついた。それを華は鈴木を座っていたソファーに腰掛けさせ、佐藤と加藤の所に歩いた。

「すごいと思わない? ちゃんと細部まで描かれているのよ」

 華は別のノートも二人に見せた。

「田中さんっ、話が違うじゃないですか」

 ふらつく頭で立てない鈴木が弱気に抗議した。

「あら、捨てるからもらうとは言ったけど誰にも見せないとは言ってないわよ?」

 華は意地悪に鈴木にそう言った後で両手を合わせて右目を閉じて微笑んだまま謝った。

「これを捨ててたのか。もったいないな」

 加藤はノートを読み進めていき興味が沸いてきた。

「俺も下積み時代にはよくノートに書き起こしていたけど今じゃパソコンだもんな。こういうノートに触れて描くとやっぱ上達が早い。間違いも気付けるからな」

 加藤は鈴木のノートを褒めると、華も共感する。

「でしょ? もったないわよね。大介のノートも見たけど後々(のちのち)調べたらうまくいく人の書き方よね」

 華はうんうんと大きく頷いた。すると何かに気がついた鈴木は閃く。

「……もしかして田中さん、うまくいく人って加藤さんのことですか?」

「うっ……」

 華は自らの失言に眉をピクっと動かした。

「へぇー俺をそんな遠回しに褒めていたのか。へぇーそう」

 加藤は意地悪な表情を浮かべながら華に鼻で笑った。

「いやいや、たまたまよたまたま。言ったけど調べたのよ。自己啓発本にもいくつかノート術みたいなのあったわけだし」

 華の焦りのある言い訳は明らかに加藤を意識しての発言だった。

 すると加藤は手を上げた。

「お前は係長、俺部長」

「ぼく新人ホープ」

 さらに佐藤も手を上げて便乗した。

 ノートを持つ二人が同じ動作をするので華は思わず腹を抱えて笑ってしまった。

 こうして酒盛りは続き、談笑に花が咲いた頃。

 笑いの余韻に浸りながら、加藤が切り出した。

「それで華。俺達を呼んだ理由をそろそろ教えてもらおうか」

 加藤の視線から笑い話ではなく本心からだとすぐにわかった。

「ええ。遅くなったけど、話すわ」

 華のこの一言で佐藤と鈴木も耳を傾けた。

 当初の予定よりもだいぶ遅くなってしまったが、加藤の乾杯後の談笑のおかげでこれからする重い話を軽減できる。そういった立ち回りを苦手とする華にとっては幼馴染の加藤に感謝だった。

「その前に語っていいかしら?」

 三人は頷き、沈黙した。一度深呼吸した華は、話し始める。

「大介……加藤部長が自己紹介したように、去年まで10年間付き合っていたわ」

 酒が回っているとはいえ、華は出来る限り分かりやすく話すように努める。

「幼い頃からお互いの両親も仲がよかったし、行く先は結婚かと思ったの。学生の頃は勉強だと答えが一つしかないから揉め事も少なかったけれど、社会人になってからはどれが正解なのか、答えは二つや三つもあってどれが一番良かったのかを言い合ったり、時にはケンカしたりして何度も別れそうになったわね」

 問われた加藤は何も答えず、黙って華の言葉に耳を傾けた。

「付き合いが長い分何でも言い合って、そして口喧嘩もして、時にはお互いに手を出したりして、でも別れなくて……いや別れるのが怖くて、ずっとどっちかが折れたりして妥協を繰り返したわ。……きっとずっと一緒にいたせいで感覚がおかしかったんだと今では思うわ。別れたら支えがなくなって自分じゃなくなってしまうんじゃないかって」

 華はやや赤面した。5本も飲んだお酒のせいではなく、自ら他人に告白することで生理的な恥ずかしさがあったから。しかしそれでも華は話を続ける。

 自ら乗り越えないといけない壁だと思ったからだ。

 華は、素直になる。

「3年前に鈴木くんと出会ってわたしの考え方は徐々に変わっていったの。共通の好きな植物の話だけでなく垣間見える彼のお茶目な所とか推理する時の目の輝き方とか、魅力的だなって思ったの」

 鈴木は照れ臭そうに鼻を掻いたり、目線を少しずらしたりして、華の話を聞く。

「今まで強引に連れ回されたり、挑発に乗ってしまったり、色々と諦めたことの方が多いわ。加藤部長を受け入れてしまえば将来は安定するかもしれない。私よりも人付き合いや人を動かす能力は悔しいけど彼の方が上だった。今まで競い合ってきた仲なだけに認めざるを得ない部分で何よりも私が劣ってしまった結果、彼は部長にまで昇格した」

 思い返すように華は遠い目で加藤を見つめる。

「去年の今頃、婚約前までに一度溜まっていたストレスを全て吐き出したかった。全て吐き出してこの人のモノになろうと思ったの。でも本当はそんなこと望んじゃいなかった。私がしたい仕事で私は逃げたくなかった。実績はどんどん開くばかりでどうしても追いつけない。いっそのこと楽になりたかった。そんな曖昧で不安定な気持ちが高まってしまい、ついに私の心は先に折れてしまったの」

 ワインを二口飲むと口内の渇きを潤した。

「大介も惨めな私を覚えているでしょ? 子供のように泣きながら八つ当たりした」

「……ああ、覚えてる」

 加藤はその一言だけ相槌すると、沈黙を続けた。

「別れたあとに妊娠したことに気付いたの。受け入れて大喧嘩して別れた期間が短くて濃密だった。お互いの両親には頭を冷やす時間が欲しいっと言って誤魔化してあるから親には相談できない。遠くにいる頼れる女友達も結婚や出産してて相談する時間もなかった。そして喧嘩別れをした大介にも相談できなかった。シングルマザーできるほどの貯金もないし自信もない。転職も考えたけど採用期間や今の会社以上にいい条件の所はなかった。産休で会社を長期間空けてしまえば復帰も難しい。論理的にも金銭的にも無理。私は時間に追われながらポーカーフェイスを続けて、疲れてしまった。そして、中絶を希望したの。この子よりも仕事を選んでしまった」

 ワイングラスを握る手に力が込められ、眉間に皺を寄せた。

「術後の経過は問題なかった。先生や看護士からは色々言われたけれど、私は私の思考は間違ってなかったと肯定し続けたの。仕事にも支障はなかった。正しい道を選んだ、はずだった」

 潤んだ瞳から、一筋の涙が零れた。

「でも間違いだった。私は素直になれなかった。たった1ヶ月ぐらい悩んで独りよがりな私は私の赤ちゃんを殺してしまった。中絶後、物凄く後悔した! 日に日にまだ見ぬ私の子への想いが募り、月を経るごとに他人の赤ちゃんを見て罪悪感に苛まれて、母親にならなかった私を私の子供は恨んでいるんじゃないかとさえ思い始めたの」

 一部、感情の余り軽く叫んだが、三人の耳には重く伝わった。

「怒りを別のことで発散させるように、私は罪の意識をあのバラ籠に込めて作成したの。私の戒めとして、そして私の子供に許して欲しいがための独りよがりな償い。三日三晩ろくに寝ずに食べずに無我夢中でバラ籠を完成させた。すると不思議と胸の奥がすーっとしたの。ホント、単純よね。罪の意識を薄らぐために作ったなんて。でもこれで私は私を殺さずに済んだの。でも色んなものが私から無くなったのを感じた。色々と感情を殺したり作り変えたりして、今の私が出来上がったの。色んな顔を見せるように」

 加藤といる時の顔。自尊心が高く競い合う仲のように。

 鈴木といる時の顔。植物の話題や問題を読み解く仲のように。

 佐藤といる時の顔。笑いの沸点が低く冗談を言い合える仲のように。

 ワインの渋みが舌に残り違和感を消すかのように、華は唾を飲み込んだ。

「『このバラ籠の意味を答えなさい』」

 本題はこれからだと言わんばかりに、語り続ける。

「佐藤くんが私を襲わなかったらきっと言わなかったでしょうね」

 含みを持たせた笑みで佐藤に視線を送った。

 鈴木と加藤は佐藤に睨みつける。

 佐藤は視線を感じながらも首を傾げて苦笑いで華に顔を向けた。

「魔が差した。といえば簡単で分かりやすいかもしれないけど、私にしか分からないバラ籠を他人が分かるはずないと高を括ったの。でも心の奥底ではこの秘密を知ってもらいたいって想いもあったの。もし理解できる人がいたならば、こんなめんどくさい女である私受け入れたり認めたりしてくれるのではないだろうかと」

 華の声はまだしっかりと保っていた。

 けれどいつ崩壊してもおかしくないほどに語尾が震えていた。

 人前では気丈に振る舞う華でも、打ち明け話はあまりしない。

 心配をかけまいとポーカーフェイスを続けて、今限界を迎えようとした。

 この三人になら、仮面を外しても悔いはない、と。

「大介はいつも私に気なんか遣わなくて行動するときも強引で、でも意地の張り合いが出来て楽しかった。私が気付かない所も気付いて、大介が気付けない所にも気付けて、衝突し合って愛し合って、別れて1年経っても私のこと想ってて……。嫌で別れたのにまた張り合いたいって思ってしまう。ホント、腐れ縁だよね私たち」

 加藤は何も言わずに真剣な表情のまま華を見つめている。

「鈴木くん。3年間も私のわがままに付き合ってくれてありがとう。植物の話を誰よりも楽しく会話できるのは鈴木くんだけよ。私が問題を出してあなたが答えて、無茶振りもあったけどそれでもきちんと答えを言ってくれる。たまに見るハズれた時の照れた表情も私は好きよ。推理するあなたももっと好き。私の心をあなたになら覗かれてもいいって自ら思った初めての人だから」

 鈴木は自然の笑みのまま首を横に振ったり頷いたりした。

「佐藤くんとは上っ面な話ばかりだったけれど、たまに見せる本音が二人にはない魅力……暴走する時もあるけれど、それも含めて今までに出会ったことの無いタイプの人だわ。言ってる事は軽いのに芯があって察しが良くて気遣いも出来て、最初はタイプじゃないって思ったのにずっと話してても苦じゃなくて、むしろ何バカなことやってんだろって思わせてくれてまだまだ話し足りないくらい話をしてたくなる存在なの」

 佐藤は唇を噛んだまま身体を強張らせ、正座をしたまま背を伸ばした。

「三人とも三者三様で惹かれるところがあって、話すと違う私を引き出してくれる。大介のようになりたい私もいれば、鈴木くんと横で並んで話し合いたい私もいれば、佐藤くんをリードしたくなる私もいる」

 だから私は…………………………。

 流石に言えなかった。

 言えないから一旦口を閉ざした。

 唾をひと飲みするほどの時間が流れて、華は一息吸った。

「今の話をしたかったから、みんなを呼んだの。ごめんなさい。私の気持ちはまだ整理がつけずにいるの。それでもし知った上で幻滅したなら今の話は忘れて欲しい。もし付き合うことになっても三人ともこれからも今の関係を続けたいの」

 華は頭を下げた。

 わがままなお願いだとわかっている。

 遠まわしに時間をくれと言っていることも。

 三人のうち一人と付き合いたいということも。

 その上誰かと付き合うことになったとしても今の関係性を崩したくないことも。

「今更引きかえさねぇよ」

 加藤はワインを飲み干すと注ぎ足す。

「まぁ俺が一人で突っ走りすぎたせいだからな。俺に背負わせろ華」

 グラスを持ち上げてニヒルな笑みを華に向けた。

「今の身分で言うのも可笑しな話なのですが」

 首が熱い鈴木は首元を摩りながら缶をテーブルに置いた。

「背負うことは出来なくても寄り添うことは自分に出来ます……は、華さん」

 酔いの勢いで華の名前を呼ぶと顔を真っ赤にしてはにかんだ。

「やっぱりお二人のアドの方があるじゃないですかー」

 佐藤は子供のように頬を膨らませブーイングした。

「でもぼくは期待の超大型新人っすから。大船に乗ってください華先輩!」

 自信満々に胸を叩き鼻を高々として、ニカっと勢い良く笑った。

 華の話を聞いてもなお、三人とも降りる気はなかった。

「ありがとう。聞き入れてくれて」

 華は改めて微笑み軽く頭を下げた。

「なら今一度お前らに問おう」

 加藤が鈴木と佐藤を指差した。

「華はこの通り回りくどくてすげーめんどくさい女だってわかったろ。内情を知った上で立候補するんだ。この先に誰が華と付き合うことになったとしても華の決めた相手を恨むな。見守ってやろうぜ。男なら惚れた女への約束を守れ」

 残りの二人は祝福してやろうぜ、と加藤はグラスを持って掲げた。

 加藤の言い分は自分が選ばれるという自信の表れでもあった。

 言い換えれば加藤が選ばれなかったとしても『俺は相手を恨まず見守る』と宣言したことになる。

「はい、勿論です。華さんの幸せは自分たちの幸せにしましょう」

 酔いが冷めた鈴木も加藤の意見に賛同した。

「抜け駆けはナシですよ! ってぼくが言うのも変ですけど」

 苦笑いする佐藤も二人に同意した。

 華はかつてない幸福感で満たされた。

 わがままを許してくれたことに心から三人へ感謝した。

 話が終わったと判断した加藤が切り出す。

「よし、なら決断は来週の火曜日までとするか」

「え?」と驚く華。

「賛成ーっす!」

「ちょっと佐藤くん?」

「あ、いいですねそれ」

「鈴木くんまで!?」

 加藤は頷きながら華に指を差した。

「こういうのは期限つけないとズルズル引きずるんだよ。特に華の場合はな」

 決断が遅い華は左手で胸元を押さえた。

「……うっ、痛い所つくじゃない」

 両手を合わせた鈴木が三人を一瞥しながら提案する。

「そしたら華さんに各々が考えた花を贈るってのはどうでしょう?」

「いいね鈴木っち! じゃあ連絡先交換しよう! 加藤部長もお願いします!」

 こうして4人での飲み明かしは、本当に朝まで続いた。

 翌日の各自の仕事は言うまでもなく最悪だったが、華だけは淡々とこなしていた。

 その後、土日に三人と会う事をメールで決めた。

 三人と個別に話して気持ちを固めるために華が言い出した。

 土曜日のお昼、佐藤と映画やショッピングデートをした。

 どんなことにも興味を示す佐藤といて飽きずにあっという間に時間が過ぎていった。

 その日の夜に加藤が部屋を再び訪れ、前回の飲みきれなかったお酒を消化した。

 加藤には予めメールでバラの籠を持ってくるように伝えてあり、二人はバラの籠を見つめながらお酒を静かに飲んだ。

 日曜日の昼に鈴木と植物園デートをして過ごした。

 お互いに知らない草花や花言葉について意見交換を行った。時には哲学のように、時にはくだらない冗談を言い合ったりして、知識を深め合った。


 その夜、華はバラの籠を見つめながら、三人への思い出を思い返した。


06


 火曜日

 いつもより社内が賑わう中、お昼休み時間が刻一刻と迫っていた。

 いつもよりと感じるのは華がそわそわしているせいかもしれない。

 しきりにズレもしないメガネの蝶番やブリッジを押さえてしまう。

 仕事が手につかないほどではないにしろ、それでも仕事効率はやはり落ちてしまう。

 佐藤とは土曜日のデート後に新幹線改札口で見送って以来、毎夜にメールをもらうが友達感覚でのやりとりが多かった。

 鈴木も日曜のデート以降に会うようなメールは一度も来なかった。あまりそういうのに慣れていないだけというのもありうる。

 加藤も特別な素振りを見せない。仕事中はビジネスに専念している。

 三者三様に今日のことを特に話題にすることはなかった。

 男とはそういうものなのだろうか? 

 ちょっぴり寂しさを覚えるも今は仕事に集中しなくては、と華は心に言い聞かせ気合を入れ直した。

 もしかしたら今日は何事もなく過ぎるかもしれない。

 あのときの口約束も酒に酔っていたことにして喉の奥に引っ込めようと思い始めた。

(今日は個別に話せる機会があるのだからその時に話せばいい)

 実は今日三人に会う機会がある。

 佐藤は名古屋に戻るが再び出張で今日行うクライアントとの打ち合わせのためにやってくる。鈴木も毎週火曜日と金曜日には会うし、加藤に関しては同じ部署である。

 でも今日決断しなくちゃいけないという現実。

 しかしよくよく考えてみてもやはり時間は足りない。

 相手とよく話し合いゆっくりと決めるのも一つの手段ではないだろうか。

 そう思うと少しは仕事にも身が入り、周りがざわめくまで仕事をしていた。

 お昼休み時間。

 チャイムが鳴るわけではなく昼ごはんを食べる人の流れができてしまった社内の空気に華も移動せざるを得なかった。席を立つと向かいのデスクの名取も席を立った。

「華先輩もお昼ですか?」

 後輩の女子社員・名取からのお昼ご飯の誘いだった。

「一緒にどうですか?」

 気さくな彼女の申し出だったがその隣にいる取名が名取の肩を叩き首を横に振った。

「やめときなって社メ見た?」

 すぐさま名取はメールを開くと「ヤバ」と言い苦笑いをした。

「あはは。資料集めを加藤部長から言われててゆっくり食べる暇なかったです」

「あらそう?」

 名取のあからさまな嘘の発言は見抜いたが華は笑顔で気付かなかったことにした。

 一応華も社内メール通称社メを見たが特に指示はなかった。あってもクライアント先に迷惑をかけるなよという社会人らしからぬ加藤部長の伝言ぐらいだった。

 3年も通い続けるだけあってか、自然と活花ゾーンに足を向けてしまった。

 花を活ける鈴木がすでに集中して作業に取り掛かっていた。

 ポトスはそのままで、大きなヒマワリから小さな秋桜コスモスに差し替えられている途中だった。ピンク・赤・黄・白とカラフルな秋桜とポトスの組み合わせは自然ではないけれど、鈴木の手にかかると小さな草原を連想させる色味が生まれ、奥行きのある作品へと変貌して見る者を引き込ませる。

 今までの作品とは違う、控えめでありながらしっかり印象深い、まさに足に地に付いた作品と華はそう感じた。落ち着きと大胆さが共存した面白さが興味深かった。

「秋桜の花言葉は、調和や平和、謙虚」

 いつの間にか華の隣にいた加藤がボソと呟いた。華は鈴木の作品に見蕩れてしまったがために加藤がいたことに気付かなかった。そして周りを見渡すと女性社員だけでなく珍しくも男性社員にも足を止めて鈴木の作品を見ていた。

「そして秋桜の特徴的なのは、その純粋さが謳われていることだな。ポトスと組み合わせることでより花言葉を引立たせる。よく見られるピンクの秋桜が多いことから察するに、花言葉は『純潔を永遠に』と言った所か。永遠なのは富か、愛情なのかは読み手次第と言った所だろう。どちらとも取れる配置から私情は挟んでないな。この会社のためを思っての配色だ。良い仕事するじゃないか鈴木」

 社内ではなかなか笑わない加藤が、口角を上げて作品を見ている。

 華は少しドキっとした。加藤の意外な博識さに不意を衝かれてしまった。

 華はバラ以外にも加藤に植物を教えたが、1年前はここまで詳しくなかった。

 作品を完成させた鈴木はギャラリーから初めて拍手を頂いた。

 これには少し驚いた鈴木であったが、謙虚に頭を下げた。

 作業を終えた鈴木は額の汗を拭い、華にさわやかな笑顔を送った。

「こんにちは華さん」

 火曜日の飲み明かしと日曜日のデートのときもぎこちなかった名前をすっと呼んだ。

 まるで何回も練習してきたかのような発音ではあったものの、華は素直に喜んだ。

「こんにちは友華くん」

 華もアドレス交換で知った鈴木の名前を呼んだ。日曜日のデートではお互いの名前を言い合うようにした。華も何度か練習はしたがぎこちなさはなかった。

 呼ばれた本人の鈴木は照れを隠さずはちきれんばかりの笑顔で返した。

「さてと、お昼どこに行こうかしら?」

 先に華がお昼を一緒に過ごそうと提案をしてみたが、二人の表情は硬かった。

(え? ………………ぁ)

 鈴木が持ってきている手押し車には作品には使われていない花がいくつかあった。

 先週に鈴木が佐藤と加藤に提案したものだった。

「華、悪いがここは強引にいかせてもらう」

 加藤はケータイを華に見せた。

 そこには、社メの内容があった。

『40階活花ゾーンにて、三人がプロポーズします』

 短い文章だったが、これが華を除く全社員に送られたものだと送信元でわかった。

 これには流石の華もポーカーフェイスではなくなり焦った。

 まさか今のギャラリーって、これを観に来たの!?

「なっ!? なんでこんなことをするの?」

「言ったろ? 決断は火曜だって。もう逃げられない」

 加藤の言う通り、四方には男性女性社員が三人に視線を送られ、逃げ場がない。

 加藤が手押し車の中から一本の七分咲きの赤黒いバラを取り出した。

「田中華。お前を一生愛すると誓おう。だがな、俺はやり方を変えるつもりはない」

 加藤は片膝をつき、左手を心臓位置に、右手のバラを優しく差し出した。


「でも昔の失敗はしない。俺の背中に追いつけないのなら、華のために待とう」


 釣り目の上目遣いでプロポーズされて胸が締め付けられる思いの華。

 周りの女性社員たちはまるでドラマを見ているかのように黄色い声と身を寄せ合う。

「追い詰めるのはあまりしたくないのですが、加藤さんにも一理あると思います」

 鈴木も手押し車から一本の七分咲きのレモン色のバラを取り出した。


「3年間の想いの花を咲かせるために一緒に歩かせてください!」


 直立からお辞儀をするとともに震える両手でバラを差し出した。

「ちょいちょいちょい! ちょっと待ってくださいよぉー!」

 ギャラリーの中から息を荒くして佐藤が服装も髪型も乱れながら割って入ってきた。

「なに始めてるんすか。こちとら、はあはあ、40階登ってきたんですよっ!?」

 登ってきたわりにはまだ元気ですぐさま察して手押し車からバラを取り出した。


「華先輩! 笑われても構いません! でも、でもぉ! 好きなんです!!」


 右手で強く握り締めて一本の真っ青な満開のバラを差し出した。

 華は両手で開いた口を塞ぎ、身を縮めた。

 これでは、本当に決めなくてはいけない。

 社内でしかも公衆の面前で三人から告白された華は何度も考え直した。

 自ら望んだ関係を、自ら選ばなくてはいけない勇気を、練り上げる。

 

 加藤大介。幼馴染にして理解者、元彼氏だがその想いは1年前よりも深い。

 行動に強引な所もあるが、尊敬でき目標でいてくれる人。

 赤黒いバラの花言葉は『永遠の愛』

 

 鈴木友華。華道家にして探偵、夢も華も諦めない若き解読者。

 華の心に誰よりも寄り添い、植物の深い話ができる恋愛億手な人。

 レモン色のバラの花言葉は『献身と希望』

 

 佐藤優作。一度は突き放したが諦めずバラ籠の前半を答えたお調子者。

 笑いの絶えない雰囲気作りが得意で、話しても苦にならない人。

 真っ青なバラの花言葉は『不可能を可能にする』

 

 三人とも出来すぎるほどに魅力的である。

 そして、選べないという選択肢は、ない。

 しばらくの沈黙が続き、ギャラリーも見守っている。

 華の今まで積み重なってきた想い出を走馬灯のように巡らせた。

 華の話を笑わずに、真摯に聞いて受け止めた三人が目の前にいる。

 華の想像通りにことは運ばなかったにしろ、来てくれた。

 その彼らの誠意を、保留と言う形にはしない。

 不安もある。将来もしかしたら別れるかもしれない。

 それすらも受け入れて前に進むと華は決断した。

 リスタートする覚悟と深い愛を持って、今選ぶ。

 うん、決まった。後悔は、したくない。もう、二度と。

 誰もが固唾を飲んで見守る中、華は三人に近づく。

 そして、華は一本のバラへと手を伸ばした。

「あなた」

 相手を選んだその一言に、周りから歓声が沸いた。

「幸せにするから幸せにして?」

 感涙を流しながら笑う華。

「バラのように」

 彼はその一言だけ告げた。

 二人は吸い寄せられるように誓いの口付けを交わした。

 

Fin.

 美しいバラには棘がある。

 どこかで誰かが言ったその言葉を耳に入れたことはあるでしょうか。

 ヨーロッパ諸国では好きな人にカードを贈る習慣があるそうで、それが次第に花と一緒にカードを贈る求愛のイベントがあるそうです。実際に見たことはないので伝聞でしかないのですが、主に男性から女性へ愛の告白が多いそうです。

 ディナーを一緒にしたあとで花束を贈る受け取る。とてもロマンチックだと感じます。

 贈られる花束はバラ。花言葉を調べる中でもバラがダントツに多いです。

 それだけ多くの人に好まれたバラはインパクトがあり深く根強い花だと言えます。

 様々な愛の形があり、男性が女性に贈るバラも当然個々に異なります。

 愛の重さも定義も、当然個々に異なります。

 もしかしたら田中華のように裏の事情を抱えた人もいるでしょう。

 愛に触れて痛みを分ち合い、深めていく。

 そんな作品を拙いなりに目指しました。

 ちなみにタイトルは三人の男性の三者三様を表す言葉です。


 最後にここまで読んで頂いた方々へ。

 田中華という女性は三人の中で誰をお求めになったと思われますか?

 答えは、胸にお納めください。何せ「あなた」次第ですから。 


 それでは、とってつけて申し訳ないのですが時期も時期ですので一言だけ。

 ハッピーバレンタイン。明本が読者の皆様に、愛をお贈り致しました。悪しからず。

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