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翌日会社に着くと、わたしは急いで机に向かった。机には昨日と同様報告書が置かれている。昨日のプレゼンと取引先とのやりとりをまとめたものだ。挟まったメモには部長の字で「誤字、多すぎ」とだけあった。再びため息だ。
ちらと涼子先輩を見ると、彼女もわたしを見返した。笑われているようだ。わたしは椅子に座ると、仕方なくその報告書を見た。ところどころ赤ペンで誤字を打たれてある。部長にしては珍しい気の利かせようだ。昨日わたしが帰ってから読んでくれたのだろうか、それとも今朝、と思って部長を探そうとすると、部長の姿がなかった。
「あれ?」
「珍しいでしょ、部長まだ来てないんだよ」
涼子先輩の顔はエスそのものに見えた。ああ、だからこそ、憧れる。
「連絡ないんですか?」
「さあ。あそこのホワイトボードには何も書かれていないから、遅刻なんじゃない?」
「これで呼び捨て禁止令を出せるかもしれませんね」
「そうね」
涼子先輩は笑った。
が、部長が現れる気配がなく、営業部は慌しくなった。あれでいて、さすがに部長だけあり、抱えている仕事の量が違う。雑務は無視するとしても、取引先へのあいさつにプレゼン、新規契約の説明など、どれもキャンセルするには大きすぎるものだ。東村山副部長が仕事を割り振り、それぞれが口々に不平をもらす。だからといって仕方がない。
わたしに充てられた余分な仕事は、部長の所在を確かめることだ。会社からすでに何度も電話をしているようだが、繋がらない。携帯も同じだ。
「先輩、部長の家知ってます?」
「うーん、家なら総務に行けば分かるんじゃない?」
涼子先輩はすでに出かける格好だ。部長の代わりにプレゼンに行くらしい。さすがだ。わたしも仕方なく立ち上がると、総務部へと向かった。
家の場所はすぐに分かった。会社から三つ離れた駅から、歩いて十分ほどの五階建てのアパートだ。「メゾン・ブルジョワ」と、謎のカタカナが書かれている。もとはマンションだったのだろうか、とも思うが、あまりにも質素だ。
質素すぎて、とてもあの部長が住んでいるように思えない。充分にお金を稼いでいるはずだから、それこそマンションを買っていてもおかしくない。それに、このアパートは一人暮らし用だ。独身なのだろうか。あるいは出稼ぎかもしれない。
アパートの入り口に管理人室があった。中を覗くと、初老の女性が椅子に座り、古風なテレビでドラマを見ている。こちらに一瞥をくれると、再びテレビに視線をもどした。わたしはそのまま通過する。左にエレベータがあるが、わたしは端まで行くと階段を上がった。部屋は二○六号室だ。階段から廊下に入ると、すぐに部屋は見つかった。表札がある。
佐々木。
間違いない。わたしは名前を確かめるとノックをした。
返事はない。
わたしはドアの下に落ちている広告に気がついた。ピンク広告だ。未だにこのようなものがあることに驚く。わたしはそれを取った。
「うっわ」
面白いタイトルがいくつも並んでいる。写真も絵も説明もない。ピンク色の広告に、怪しいタイトル、値段、電話番号のみ。もっと力を入れて売り込めば儲けられそうなものだが、遠慮があるのだろう。
一体何に対する遠慮だろうか。
わたしは興味と、今後のためにその広告を胸のポケットにしまった。
それから再びノックをする。反応はやはりない。いないのかな、と思ったが、入り口の隣の曇りガラスが少し開いていて、そこから光が漏れている。おそらく電気だろう。
わたしは背伸びをすると、そこから部屋の中を覗いてみた。
質素な部屋だ。広さはわたしの部屋と同じくらいだろう。手前はキッチンで、仕切り戸があり、畳の部屋が続いている。その畳に、布団が敷かれていて、投げ出された足が見えている。上半身はちょうど壁の陰に隠れていて見えない。
「寝てるのかな?」
と思った矢先、わたしは、布団が妙に赤いことに気がついた。足先は白いのに、それが上に向かうごとに赤い。それも濁って見える。
どくん、と心臓が打つ。
わたしはノブに手を掛けた。ノブは回らない。閉まっているようだ。心臓が激しく打つ。手が震える。わたしは、すぐに階段を下りて、管理人室に向かった。
「すいません!」
すでにわたしの足音を聞きつけていたのだろう、初老の女性はわたしを睨んだ。
「佐々木さんの部屋の、合鍵を、急いでください」
「何?」
「倒れているんです。鍵が閉まってるから、救急車を」
女性は壁から鍵を取ると、机の引き出しをそれで開けて、中から鍵の束を取り出した。
「何号室?」
女性は管理人室から駆け出した。すぐにわたしも追いかけ、部屋の番号を伝える。まっすぐ階段に向かい、二○六の前に来る。
「中」
わたしは窓から中を覗く。女性は鍵を鍵穴に挿すと、それを回した。カチリと音がする。すぐに扉を開けると、中へ駆け込む。が、すぐに立ち止まる。
わたしも、同じ場所で立ち止まった。
仰向けのそれは、目を見開き、一切動かない。
手は胸に当てられ、そこに包丁が刺さっていた。