表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ニュクスの海に溺れて  作者: なつ
第一章 ユイ
2/23

2

 その日の会社は朝から憂鬱だった。昨日の今日なのだから仕方がないことだ。

「この報告書、誤字が多すぎる。今日中に書き直しておくこと」

 机の上の報告書は、先日の失敗の始末書だ。見たくもない。嫌がらせだ。わたしはため息をつく。その上、佐々木部長の殴り書きのようなメモが付いている。

「柚衣ちゃん、お疲れのようね」

「ううう、最悪です」

「手伝ってあげようか」

 先輩の御前岳涼子さん。わたしの隣の席で、何かと面倒を見てくれる人だ。

「本当ですか、先輩」

「あれも、柚衣ちゃんだけのミスじゃないからね。それに部長のこと嫌いだし?」

 後半は小声だった。当の佐々木部長はわたしたちから離れた席で電話をしている。しかも声が大きい。

「お昼までに終わらせちゃおう」

「はい」

 涼子先輩はわたしの机から報告書を奪うと、赤ペンを持って添削を始めた。眼鏡から覗く目は真剣で、わたしの憧れだ。わたしはただ黙ってそれを見ている。

 ガチャンと、音を立てて部長が受話器を置くと、座ったまま涼子先輩の名を呼び捨てで呼んだ。

 同じくらい音を立てて書類を机に叩きつけると、涼子先輩は立ち上がる。部屋の温度が一気に下がったような、不穏な空気が流れるようにわたしは感じた。

「呼び捨てにするんじゃない!」

「至急の仕事だ。時間がない」

「わたしも時間がない」

「駅前の取引先が突然のキャンセルだ。涼子の担当だろう」

「呼び捨てにするな」

「とにかく急いで顔を出してこい。理由を聞いてくるんだ」

「それなら部長が行ったほうが効果がある。わたしじゃダメなんだろ」

「俺は、別の取引先へすぐに出向かにゃならん。提案プレゼンで失敗は許されないんだよ、分かったらさっさと行ってこい」

 もう一度机に書類を叩きつけると、涼子先輩はわたしを見た。ウインクをする。謝っているのだろう、別に涼子先輩が悪いわけではない。

「それから、柚衣、お前も俺について来い」

「はい?」

 突然呼ばれて、わたしは素っ頓狂な声をあげた。

「勉強だ」

「でも、わたし、報告書が」

「そんなもんは後でいい」

 後でいいなら、今日中とか言うなよ、という言葉をかみ殺す。

「十分後出発、パソコンとプロジェクターを持って一階入り口で待っとれ」

 仕方なくわたしは、はいと返事をした。

 涼子先輩がわたしの肩を強く叩いた。見上げると、涼子先輩の目は部長を睨んでいる。わたしも睨んでやりたい。涼子先輩くらい分かりやすく意思表示ができたらいいのにとわたしは憧れる。

 わたしは急いで隣室に入ると、プロジェクターとノートパソコンを大きめの鞄に入れた。重さは五キロくらい、肩から支えれば軽いものだ。

 それから急いで一階に降りる。

 部長はすでに待っていた。早すぎる。恰幅のいいお腹は、背広を着ていても目立つ。それだけでマイナス要因だ。薄くなった頭とは裏腹に口ひげは濃い。けれど、確かまだ三十代のはずだ。

「すいません、遅くなりました」

「まだ時間じゃない」

「すいません」

「吸い終わったら出発しよう」

「はい」

「ところで、涼子の態度はもう少し大人しくならんのか。後輩として柚衣はどう思ってる」

「憧れです」

 しまったと思ったときには、そう答えていた。

「確かに仕事はできるが……若いもんからするとああいうのがいいのか」

「部長も、まだ若いと聞いています」

「誰から聞いとるんだ、そんなこと」

「どうして部長は呼び捨てなんですか?」

「深い意味はない」

「浅い意味を教えてください」

 部長は咳き込んだ。

「お前、面白いな」

「何か意味があるんでしょ?」

「そうだな。朱に交われば赤くなるか……ちょっと違うな」

 わたしは首を捻った。

「さあ、行くぞ」


 部長の気合とは裏腹に、つまらないプレゼンだ。それが狙いなのかもしれない。要するに現状の管理システムだと、ロスが多すぎる。それを色々な事例からまず説明する。だが、わずかな改善を施すだけで、そのロスの多くがなくなるというものだ。ロジックは分かるが、初期費用がかかりすぎる。けれど、その会社の重役たちはそれを理解できているか怪しい。システムやハード、ソフトといった言語に惑わされている。おそらく元来のシステムであったも、ロジック上ロスは起こらないはずだ。それなのにロスが発生する。なぜ、ロジック上ありえないロスが発生しているのか、その原因に着目しなければ、どのような管理システムに変更したところで変革はありえない。

「つまり、現状のシステムのうち、人間が最終チェックとして行っているところにも機械化する必要があります。われわれは、コンピュータがチェックした結果を再チェックするだけでいいのです。人件費と投資を比較した上で、充分にペイします」

 くだらない。けれど、ここでわたしが余分な口を挟むと、先日と同じ失敗を犯すことになる。そうなるとまた始末書だ。ばかげてる。こんなコンサルタントを続けていれば、いずれわが社がつぶれてしまうことなど目に見えている。そのロスのないシステムをわが社に当てはめて、果たして効果があるのか、部長には分かっているはずだ。

「しかし、コンピュータのチェックには限界があるんじゃないか」

「いいえ。コンピュータに限界はありません」

 嘘をつくな。

「限界があるだろう」

「御幣がありました。もちろん、限界は存在します。が、現状のチェックを全てコンピュータ化したとしても、限界とは桁が違います。システムが百倍複雑であったとしても、コンピュータ化できます。なぜなら、多くの大企業がすでに取り入れている方法なのです。これは御社が上場しますことを考えると、必要不可欠といえます」

 会議室は静かになった。部長がわたしを見る。誇らしげだ。

 だが、即決は得られなかった。社内会議に持ち越されたようだ。部長はあらゆる資料をそこに残してきた。わたしごと残してくれたら、すべて御破算だっただろうに。


 帰り、部長は駅前の喫茶店に入った。仕方なくわたしも付き合う。まだランチタイムだ。わたしはコーヒーだけ頼んだ。

「遠慮はいらんぞ」

「お弁当がありますから」

「ああそうか、いつも弁当を持参していたな」

「すいません」

「ところで、今日のプレゼンに不満があったようだが」

「わたしがあの会社の役員でしたら、その場で断っていたと思います」

「それは柚衣が毎日のようにこの話を聞いているからだろう」

「だからこそ、改善すべきだと思います」

「それは今じゃない」

「いつなんですか」

「柚衣を採用したのは正解だったと思っている」

「急に」

 突然言われ、わたしは困惑の表情をしたと思う。部長も困った顔をしたからだ。

「例えば、この営業が成功したとしよう。だが、それは二年で破綻する。明らかなことだ」

「そうです」

「だが、それは二年後のわが社の仕事を作っているようなものだ。分かるか?」

 わたしは考えた。

「時代とともに経営は変化する。いや、変化できなければ会社は存続できない。ゆえに、どれだけ管理方法を変えても、いずれはまた新しい管理方法に変えなければならない。それを提案するのが、二年後の我々だ」

「そんなの、ずるいと思います」

「永劫に続くシステムはない。柚衣の理想も、二年後には廃れる。同じことだ」

「そんなの……」

 ウエイターが大盛りのランチを運んできたので、会話はそこで途切れた。


 結局残業して帰ったので、時刻は八時を回っていた。昨日がほぼ徹夜だったこともあり、わたしは風呂にも入らずにベッドに倒れこんだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ