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結城にメールを送った。かなり飲んだとはいえ、翌日大学に現れなかったのが心配だったからだ。わたしのせいかもしれない。月曜日のことはお酒のせいでほとんど覚えてないけれど、結城のアパートを出る時、わたしの本当の思いを彼女に伝えなければ、と思った。もしかしたら嫌われるかもしれない。けれど、結城になら分かってもらえるかもしれない、という期待もある。結城の手首の傷を見ていると、そう思える。わたしも、リストカットの経験がある。だから、もしかしたら。
返信が来た。
「今日はちゃんと行きます。もう準備も終わったし。水曜は二限だけだし。昨日は二日酔いで、一日ぐったりでした」
わたしは安心して携帯をしまった。わたしも今日は二限だけだ。人によっては授業をコントロールして、水曜日を自主休日にしている人もいる。むしろ多い。けれど、わたしは大学が好きだ。好きでなければ、留学から戻ってきて、入学などするはずがない。
電車は空いている。一限からあるときは窮屈で苦しいものだが、座っていけるというのは幸せだ。こんな些細なことで幸せを感じられるようになったから、わたしは戻ってくることができた。今日は、二限が終わったら結城と一緒にいよう。と、かってに思っている。拒否されるかもしれない。けれど、そう思っている。そして、わたしのことを話したい。
名古屋駅から地下鉄に乗り換えて、さらに十五分ほど。外に出ると、太陽は雲に隠れていた。ここから大学までの道はずっと上り坂だ。近い将来地下鉄が大学前まで延長するそうだが、その工事がいつ終わるのかわたしは知らない。バスもあるけれど、利用するほどでもない。結城の下宿先は、ここからわき道にそれ、大学の裏側に位置する。
やはり学生の数は少ないようだ。
大学の敷地に入ってもそれは変わらなかった。共通棟と呼ばれる場所まで少しある。サークル棟ではすでに多くの学生が何かを叫んでいる。そこから伸びた複数のアンテナに木の枝が絡まっている。いつからあそこにあるのだろうか。
共通棟の中は、さらに学生が少なかった。教室に入ると、結城と数名の学生しかいない。結城は、珍しくノースリーブのシャツと七分丈の白いブラウスを着ていた。わたしの長袖のシャツとは大違いだ。結城の隣に座り、おはようと声をかける。
「おはよう」
結城の目の下に隈ができている。寝不足だろうか。
「大丈夫?」
「休講だって。もう、そういうことは前もって教えて欲しいよね」
「そうなの?」
「うん。だから、帰っちゃった人もたくさんいるよ」
「ここまで一時間半だよ。もっと早く連絡欲しいよね、そういうことは」
「掲示板には昨日から貼られてたみたい。昨日見た?」
わたしは首を振った。これで今日大学に来た目的の大半が失われた。けれど、時間ができた。ただ、まだちょっと心の準備ができていない。
「結城ちゃんはこれからどうするの?」
「岬を待ってたんだよ」
「本当? うれしい。岬ちゃんも結城ちゃんに話したいことがあったの」
「その前に、わたしは静江」
横から覗きこむように、けれどまっすぐ私の目を見て結城が言う。
「静ちゃん、でいい?」
「いいよ。で、話って?」
「ここでは、ちょっと」
少ないといっても複数の学生がいる。それぞれがグループになってまとまっているようだ。こちらに興味はないのだろうが、それでもここでするような話ではない。
「五月雨屋に行こうか」
「お昼から?」
「お昼はランチ出すんだよ、あそこ。夜とは雰囲気違うから」
「そうなんだ」
「それに、この間のお礼もしなきゃ、だし。ほら、結局お金、わたし払ってないでしょ」
「ああ、忘れてた。岬ちゃんってば、お金に疎いから。気にしなくていいのに」
わたしはおどけて立ち上がる。結城もそれに続く。五月雨屋は大学の裏手、結城の下宿先からほど近くにある飲み屋だ。量は少ないが、本格的な日本酒が飲めるということで、学生でも院生の人たちに人気がある場所だ。わたしも数度行ったことがあるが、口当たりのいい日本酒を飲めるのなら、お札を普段より一枚多く出しても損した気分にならない。
道中は何気ない会話だった。教授の悪口だったり、高校の頃の話だったり。五月雨屋に着くまでに気持ちを整理しないといけない。
昼時に来ると、五月雨屋のイメージは違って見えた。明るい。造りは同じなのに、自然とそう感じる。店の前に大きな樽が置かれているのだが、それが太った船乗りに見えて面白い。
「いらっしゃい」
カラカラと戸を開けて中に入ると、女性の声が響いた。夜は男性だ。
「夫婦らしいよ」
「へぇ」
耳打ちする結城にわたしは頷く。狭い店内は蛍光灯の光で明るかった。窓はない。夜とは違う照明を使っているのかもしれない。他に客はない。奥のカウンターに並んで腰かけた。
「こんにちは、静江ちゃん」
コップによく冷えた水を入れて、その女性が笑顔を作った。三十過ぎだろうか、けれども笑顔は若い。
「こんにちは、ママ」
「お友達?」
「は、はじめまして、です」
なぜかどもった。
「夜は結構来てるんだよ。岬、友達。それから美鈴ママ」
「岬です」
「二人とも弁当でいい?」
「はい」
わたしが首を捻っていると、結城が、弁当がランチのことだと説明してくれた。
「静ちゃん、常連さん?」
「ご飯を作り気力のないとき朝昼の御用達」
「そういうの、うらやましい。実家じゃそうもいかないのだよ」
「帰るとご飯があるほうが、数千倍うらやましいよ」
わたしは少し考えてから頷く。
「それもそうだ」
「はい、どうぞ」
弁当はすぐに出された。ランチメニューということで、準備があらかじめされているのだろう。一段の蒔絵のようなものが施された箱が四つに区切られ、ご飯、千切りの野菜、魚のフライ、冷奴があった。それにお味噌汁がつく。
わたしはお腹を押さえる。正直、まだそれほどお腹がすいていない。二限からのときは朝七時に起きれば間に合うので、朝食から四時間くらいしか経っていない。
「今日休み?」
わたしたちの前に立つと、鈴江さんは結城に聞いた。
「はい。休講です。困ったもんですよね、大学って」
「いいじゃない。それが大学でしょう」
「余分が多すぎるんです。たいした講義じゃないのに」
「ああ、それは言えてるかも」
わたちは口を挟んだ。
「わざわざ合格して通ってるのに、ひどい話だよ」
「ママ、岬すごいんだよ。留学してたんだって」
「あらまあ。どちらに?」
「イギリスです。すごくないですよ。志願しただけです」
「それがすごいんじゃない」
「静江ちゃんとは大違いねぇ」
「ひどい!」
鈴江さんはクスクスと笑った。
「それじゃあ、ママとも大違いよ」
「そうね」
「岬、ママもね、わたしと同じところに傷があるんだよ」
そう言って結城は、わたしに手首を見せた。
「もう昔のことよ」
まだ彼女は笑っていた。
「だったら、わたしともたいして違わないと思います」
わたしの声のトーンが低かったのか、彼女の笑い声は消えた。結城も声を出さずにわたしを見ている。わたしは長袖の裾をまくった。両手首ともに幾筋もの線が走っている。
「でもね、ちょっと静ちゃんと違うのは、わたしは死にたくてリストカットしてたんじゃないってこと」
「よほどの決意がないと、手首切っても死なないわ」
真剣な調子で鈴江さんが言った。
「だって、少しでも未練があると、力が抜けてしまうから、深く切れないものよ。だからリストカットって、何本も傷が残るの」
「はい。わたしは未練たらたらでした」
それからしばらく沈黙が続いた。わたしは箸を動かして、口に食べ物を運び続けた。




