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ニュクスの海に溺れて  作者: なつ
第三章 ミサキ
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1

 結城にメールを送った。かなり飲んだとはいえ、翌日大学に現れなかったのが心配だったからだ。わたしのせいかもしれない。月曜日のことはお酒のせいでほとんど覚えてないけれど、結城のアパートを出る時、わたしの本当の思いを彼女に伝えなければ、と思った。もしかしたら嫌われるかもしれない。けれど、結城になら分かってもらえるかもしれない、という期待もある。結城の手首の傷を見ていると、そう思える。わたしも、リストカットの経験がある。だから、もしかしたら。

 返信が来た。

「今日はちゃんと行きます。もう準備も終わったし。水曜は二限だけだし。昨日は二日酔いで、一日ぐったりでした」

 わたしは安心して携帯をしまった。わたしも今日は二限だけだ。人によっては授業をコントロールして、水曜日を自主休日にしている人もいる。むしろ多い。けれど、わたしは大学が好きだ。好きでなければ、留学から戻ってきて、入学などするはずがない。

 電車は空いている。一限からあるときは窮屈で苦しいものだが、座っていけるというのは幸せだ。こんな些細なことで幸せを感じられるようになったから、わたしは戻ってくることができた。今日は、二限が終わったら結城と一緒にいよう。と、かってに思っている。拒否されるかもしれない。けれど、そう思っている。そして、わたしのことを話したい。

 名古屋駅から地下鉄に乗り換えて、さらに十五分ほど。外に出ると、太陽は雲に隠れていた。ここから大学までの道はずっと上り坂だ。近い将来地下鉄が大学前まで延長するそうだが、その工事がいつ終わるのかわたしは知らない。バスもあるけれど、利用するほどでもない。結城の下宿先は、ここからわき道にそれ、大学の裏側に位置する。

 やはり学生の数は少ないようだ。

 大学の敷地に入ってもそれは変わらなかった。共通棟と呼ばれる場所まで少しある。サークル棟ではすでに多くの学生が何かを叫んでいる。そこから伸びた複数のアンテナに木の枝が絡まっている。いつからあそこにあるのだろうか。

 共通棟の中は、さらに学生が少なかった。教室に入ると、結城と数名の学生しかいない。結城は、珍しくノースリーブのシャツと七分丈の白いブラウスを着ていた。わたしの長袖のシャツとは大違いだ。結城の隣に座り、おはようと声をかける。

「おはよう」

 結城の目の下に隈ができている。寝不足だろうか。

「大丈夫?」

「休講だって。もう、そういうことは前もって教えて欲しいよね」

「そうなの?」

「うん。だから、帰っちゃった人もたくさんいるよ」

「ここまで一時間半だよ。もっと早く連絡欲しいよね、そういうことは」

「掲示板には昨日から貼られてたみたい。昨日見た?」

 わたしは首を振った。これで今日大学に来た目的の大半が失われた。けれど、時間ができた。ただ、まだちょっと心の準備ができていない。

「結城ちゃんはこれからどうするの?」

「岬を待ってたんだよ」

「本当? うれしい。岬ちゃんも結城ちゃんに話したいことがあったの」

「その前に、わたしは静江」

 横から覗きこむように、けれどまっすぐ私の目を見て結城が言う。

「静ちゃん、でいい?」

「いいよ。で、話って?」

「ここでは、ちょっと」

 少ないといっても複数の学生がいる。それぞれがグループになってまとまっているようだ。こちらに興味はないのだろうが、それでもここでするような話ではない。

「五月雨屋に行こうか」

「お昼から?」

「お昼はランチ出すんだよ、あそこ。夜とは雰囲気違うから」

「そうなんだ」

「それに、この間のお礼もしなきゃ、だし。ほら、結局お金、わたし払ってないでしょ」

「ああ、忘れてた。岬ちゃんってば、お金に疎いから。気にしなくていいのに」

 わたしはおどけて立ち上がる。結城もそれに続く。五月雨屋は大学の裏手、結城の下宿先からほど近くにある飲み屋だ。量は少ないが、本格的な日本酒が飲めるということで、学生でも院生の人たちに人気がある場所だ。わたしも数度行ったことがあるが、口当たりのいい日本酒を飲めるのなら、お札を普段より一枚多く出しても損した気分にならない。

 道中は何気ない会話だった。教授の悪口だったり、高校の頃の話だったり。五月雨屋に着くまでに気持ちを整理しないといけない。

 昼時に来ると、五月雨屋のイメージは違って見えた。明るい。造りは同じなのに、自然とそう感じる。店の前に大きな樽が置かれているのだが、それが太った船乗りに見えて面白い。

「いらっしゃい」

 カラカラと戸を開けて中に入ると、女性の声が響いた。夜は男性だ。

「夫婦らしいよ」

「へぇ」

 耳打ちする結城にわたしは頷く。狭い店内は蛍光灯の光で明るかった。窓はない。夜とは違う照明を使っているのかもしれない。他に客はない。奥のカウンターに並んで腰かけた。

「こんにちは、静江ちゃん」

 コップによく冷えた水を入れて、その女性が笑顔を作った。三十過ぎだろうか、けれども笑顔は若い。

「こんにちは、ママ」

「お友達?」

「は、はじめまして、です」

 なぜかどもった。

「夜は結構来てるんだよ。岬、友達。それから美鈴ママ」

「岬です」

「二人とも弁当でいい?」

「はい」

 わたしが首を捻っていると、結城が、弁当がランチのことだと説明してくれた。

「静ちゃん、常連さん?」

「ご飯を作り気力のないとき朝昼の御用達」

「そういうの、うらやましい。実家じゃそうもいかないのだよ」

「帰るとご飯があるほうが、数千倍うらやましいよ」

 わたしは少し考えてから頷く。

「それもそうだ」

「はい、どうぞ」

 弁当はすぐに出された。ランチメニューということで、準備があらかじめされているのだろう。一段の蒔絵のようなものが施された箱が四つに区切られ、ご飯、千切りの野菜、魚のフライ、冷奴があった。それにお味噌汁がつく。

 わたしはお腹を押さえる。正直、まだそれほどお腹がすいていない。二限からのときは朝七時に起きれば間に合うので、朝食から四時間くらいしか経っていない。

「今日休み?」

 わたしたちの前に立つと、鈴江さんは結城に聞いた。

「はい。休講です。困ったもんですよね、大学って」

「いいじゃない。それが大学でしょう」

「余分が多すぎるんです。たいした講義じゃないのに」

「ああ、それは言えてるかも」

 わたちは口を挟んだ。

「わざわざ合格して通ってるのに、ひどい話だよ」

「ママ、岬すごいんだよ。留学してたんだって」

「あらまあ。どちらに?」

「イギリスです。すごくないですよ。志願しただけです」

「それがすごいんじゃない」

「静江ちゃんとは大違いねぇ」

「ひどい!」

 鈴江さんはクスクスと笑った。

「それじゃあ、ママとも大違いよ」

「そうね」

「岬、ママもね、わたしと同じところに傷があるんだよ」

 そう言って結城は、わたしに手首を見せた。

「もう昔のことよ」

 まだ彼女は笑っていた。

「だったら、わたしともたいして違わないと思います」

 わたしの声のトーンが低かったのか、彼女の笑い声は消えた。結城も声を出さずにわたしを見ている。わたしは長袖の裾をまくった。両手首ともに幾筋もの線が走っている。

「でもね、ちょっと静ちゃんと違うのは、わたしは死にたくてリストカットしてたんじゃないってこと」

「よほどの決意がないと、手首切っても死なないわ」

 真剣な調子で鈴江さんが言った。

「だって、少しでも未練があると、力が抜けてしまうから、深く切れないものよ。だからリストカットって、何本も傷が残るの」

「はい。わたしは未練たらたらでした」

 それからしばらく沈黙が続いた。わたしは箸を動かして、口に食べ物を運び続けた。



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