第1話 Whiteout
見渡す限りの荒れた大地。木々は枯れ、地面は久しく水分を摂っていないのか、ひび割れている。そのような荒野に少女が一人、ぽつんと大の字になって倒れていた。
栗皮茶色のロングヘアをえんじ色のリボンで括ったツーサイドアップに、服装は彼女の体型には少々大きい男性用のジャケットを羽織っている。
「……んん?」
目を覚ました彼女はどんよりとした曇り空を見つめながら考えていた。いつの間に天気が悪くなったのだろうか、と。しかしそんな事はすぐにどうでもよくなる。上半身を起こして周囲を見渡してみると天候の事など些細な事だった。見慣れぬ景色。ここはつい先ほどまで自分が居たはずの場所、コンクリートの建物やアスファルトで舗装された地面ではない。ぼうっとしていた意識が急速に覚醒する。
「ここ……どこ?」
夢でも見ているのかと思ったようだが、手に触れるカラカラに乾いた土の感触や頬に当たる土埃を含んだ風のリアリティさに現実を受け止められた。立ち上がり衣服に付いた埃をパンパンと手で叩き落とすと、再び辺りを見回した。今度は遠くを見据える。しかしあるのは赤茶色の岩と枯れた木と、何やら戦闘機のような黒い金属の塊がひとつと、果てのない荒れた大地だけで人っ子一人居ない。
「(何でこんな所に私居るんだろう)」
瞳を閉じた少女はここに至る前、目を覚ますまでの記憶を辿るように思い返した。
第1話 Whiteout
「やっ、止めてください…!」
「あぁあん!?なんだって?聞こえねぇなぁ~?」
夕刻の繁華街、その路地裏。そこには気弱そうな男子学生が5人の柄の悪い男達…不良に囲まれていた。学生はガタガタと恐怖に体を震わせ、ギュッと通学カバンを胸の前で抱いて身を縮こまらせている。
薄暗い路地裏から光射す表通りをちらちらと伺うが、助けなど来そうもない、逃げる隙も退路を阻まれてありはしない。
不良達はニヤニヤと笑みを浮かべながらじりじりと徐々に男子学生の気持ちと彼との距離を詰めていく。
「出すモン出すってんなら俺らはなにもしねぇよ」
「……出す物って。な、なんでしょうか?」
互いに顔を見合わせた不良達はゲラゲラと声を上げて笑いだす。聞くまでもない、決まっているだろう?といった表情で告げた。
「誠意だ。せ・い・い。わかるか?僕ちゃん?」
「ぶつかっといて詫びも無しなんて虫がよすぎるよなぁ?」
「……それはさっき謝ったじゃないですか」
蚊の鳴くような声でポツリと反論した男子学生。その反抗の言葉を聞き逃すことなく、不良達は額に青筋を立てて凄んできた。どうやら沸点は限りなく低いようだ。一人の男がグイッと胸ぐらを掴み引き寄せる。男子学生はガチガチと歯を鳴らせて恐怖に震えていた。
「待ちなさい!!」
絶体絶命のピンチ。そこに凛とした声が響き、緊迫した空気が一瞬にして打ち砕かれる。不良達と男子学生は声のした方へと顔を向けた。彼らの視線の先、表通りで仁王立ちをし、逆光を背負うその人物は小柄で華奢で―――女性、と言うより少女であった。不良達は一瞬警戒をしたが、相手がただの小娘だとわかると余裕の笑みを浮かべた。
不良達の内の一人が邪魔に入った少女の元へと歩み寄りながら声を掛ける。
「おいおい、お嬢ちゃん。何のつもりか知らねェが、俺達は別にやましい事なんて―――」
男は少女の目の前で足をピタリと止めた。そして容姿からつま先まで値踏みするかのように眺める。
栗皮茶色のロングヘアをえんじ色のリボンで括ったツーサイドアップ。身に着けている制服はこの近辺ではよく見かける高校のものである。子供染みた髪型と可愛らしい制服であるせいか、キッと睨みつけていても威圧感は微塵にも感じ取れず、寧ろ愛らしさを覚える。
見せもんじゃない、ケガをしたくなきゃ関わるなと、追い払おうとした男は態度を軟化させて馴れ馴れしく少女の肩へと手を伸ばした。
「なになに?お嬢ちゃん、俺達と遊びたい訳?」
「違います。その人を解放してあげて下さい」
「何だとコラァ?!テメェには関係ねぇだろうが!!」
男子学生の胸ぐらを掴んでいた男がギラリとした視線を少女へと向ける。しかし彼女は怯えず、目を逸らす事もなく、鋭い視線を受け止めた。その生意気な態度に様子を窺っていた三人の男が色めき立つ。
一触即発。今にも飛びかかってきそうな三人を少女の前に立つ男が平手で制する。ここは俺様に任せろと、余裕の笑みを浮かべた。何を思ったのか、彼はまたもや馴れ馴れしく少女の肩を抱こうと手を伸ばす。
「そんなに眉間にしわを寄せていると可愛いお顔が台無しだ―――あいだだ!!!」
口説き落とそうとした男の手首を少女は顔色一つ変えずに瞬時に掴むと後ろ手に回す。あり得ない方向に腕を曲げられて捻り上げられた男は呻き声上げた。
少女の冷静で鮮やかな対応に不良達は驚き目を見開く。彼らは茫然としていたが、相手がただの小娘でないと気付き少女を包囲する形でにじり寄った。男子学生の胸ぐらを掴んでいた男も、邪魔だという風にバッと手を離して男子学生を壁際へと押しのけ前に出る。
「舐めた真似しくさってんじゃねぇぞこのアマっ!!」
固く握りしめた拳が少女の顔のすぐ横を通り過ぎる。その勢いを受け流すように彼女は殴りかかってきた男の腕を両手でがっしりと掴み背負い投げ、受け身を取り損ねた男は全身を打ちつけて呆気なく気絶した。腕を捻り上げられた男は既に背後から首筋に手刀を受けて意識を失い地面に転がっている。
脅されていた男子学生は少女の鮮やかな手並みに驚きつつも感嘆の声を上げた。
「す…すごい…!」
「確かにすごいけどねー。あっちやこっちでトラブルに首を突っ込む癖はどうにかして欲しいのよね」
「わっ!?」
いつの間にか隣に佇み一緒に傍観する女子学生に男子学生は驚き咄嗟に身を離した。しかしよく見てみると、彼女は果敢に不良に立ち向かう少女と同じ制服を着ている。呆れた物言いと表情から警戒はする必要ないと感じ取り、ほっと溜息を漏らして彼女に尋ねた。
「えっと…。彼女は一体何者ですか?」
「超がつくほどの正義漢。…いや、一応女の子だから『漢』はないか」
「はぁ…」
「で、容赦なく男の大事なところを蹴り上げたあの子は奈々塚鳴鳥。いつも巻き込まれて付き合わされる私は遠藤留美よ」
三人目の男は股間を両手で押さえながら崩れ落ちる。四人目は素手では敵わないと察したか、近くに転がっていた廃材の棒切れを拾い振りかぶった。脳天めがけた攻撃はいともたやすくかわされ、鳩尾に肘打ちを喰らう。かはっと胃液を吐き出して四人目の男はうずくまりながら倒れた。
「さ、とばっちりを受けないように避難しましょう。じきに警察が来るから」
「え?あ、はい」
そそくさとぶっ倒れている男を跨ぎつつ留美と男子学生は表通りに向かって駆け出す。と、そこで男子学生はある事に気が付き途中で足を止める。彼の目線の先、そこにはギラっと光る物、折りたたみ式のナイフがあった。最後に残った男が最終手段を取ったようだ。しまったと気付いたが時はすでに遅く、男子学生は制服の襟ぐりを掴まれて捕獲された。ヒヤリと冷たい感触のするものが男子学生の首筋に宛がわれる。
「ひっ…!」
「大人しくしやがれ!さもねぇとコイツがどうにかなっちまうぜ?」
卑怯な立ち回りに鳴鳥はより一層眉間のしわを深くした。しかし睨みつけられた男は勝ち誇ったかのようにニタニタと笑う。こういった事は手慣れているのか、ナイフを握る手は動揺で震えたりなどしていない。形勢逆転に苦い顔をしたのは鳴鳥の傍らに駆け寄った留美だった。
「ちょ、ちょっと、どうするのよ?」
「留美ちゃんは表通りに出て警察の人を誘導して」
「う、うん!わかった!」
小声で示し合わせると留美は指示通りに駆け出した。鳴鳥は横目でそれを見届けると男を真っ直ぐに見据え、そして高らかに宣言した。
「無駄な抵抗は止めなさい!もうじきここに警察が来るわ。脅迫罪に銃刀法違反、胸ぐらを掴んでいたから暴行罪も科されるわね」
「ハッ!それはどうだろうなァ?」
「何を…?―――っ!!」
不利な立場であるはずの男が焦ることなく余裕綽々な態度を取っていた事に、鳴鳥は訝しげに眉をひそめた。そしてその疑問はすぐに理解することになる。三人目と四人目に倒した男達が起き上り彼女の両脇に立っていた。どうやら二人は意識を手放すほどの攻撃を受けていなかったようだ。二人は鳴鳥の動きを封じるように羽交い締めにする。相手が一人だけなら頭突きや足を踏みつけてどうにか逃れられそうだが、二人がかりの上に人質まで取られている為、抵抗はせずに大人しく従うしかなかった。
「そうそう、最初から素直にそうしてりゃいいんだよ」
「…どうするつもり?」
「へへっ、こっちに来な」
舌舐めずりをする男は男子学生を捕らえたまま先導する。行く先は無論、人出の多い表通りではなく裏路地の奥の方である。少しでも時間を稼ごうと鳴鳥はゆっくり歩こうとするが、すぐにせっつかれて悪あがきは無意味に終わった。
歩く事数分後、辿り着いたのは隠れ家的なバーだった。少々乱暴に開けられた扉の向こうは煙草の煙で視界が霞んでいる。中には柄の悪そうな男が十数人ほどたむろっていた。その男達の鋭い視線を受けた男子学生は、血の気の引いた顔色をますます青白くさせてこの世の終わりだと言わんばかりに震えあがる。
「おいおい、どうしたんだよ。お前いつから女の趣味が変わったんだ?」
「そんなんじゃねぇよ。コイツには落とし前をつけて貰わなけりゃならんだけだ」
そう言いながら男はナイフの腹で鳴鳥の頬を軽く叩く。それにも動じず反抗的な目つきを向ける彼女であったが、店の中に居た男達が男子学生に歩み寄り恐喝をし始めようとした瞬間、声を上げた。
「その人には手を出さないで!」
「はァ?テメェどの面下げて言ってんだ」
「…その人は何もしていないでしょ?」
「ああそうだな。確かにそうだ。詫びはアンタに入れて貰おうか」
「やっ…!何するのよ!放しなさいっ!」
「動かない方が良いぜ。ケガはしたくないだろう?」
男はナイフを鳴鳥の制服の胸元に入れると縦一線に引き裂いた。露わになる肌と下着に男達が歓声を上げる。外気を肌に受けて寒気を感じるところだが、男達の下卑た視線に羞恥心を煽られてカァっと身体が熱を帯びる。
「…もう文句はねぇよな?」
「この…!変態っ!強制わいせつ罪も犯すつもり!?」
「口のきき方には気をつけた方が良いんじゃないかなァ?」
「……ッ!」
ナイフが上半身を守る最後の一枚、下着へと宛てられる。これ以上はもう無理だ、と。鳴鳥はぐっと言葉を飲み込んだ。その様子に男はニタリと笑う。もう抵抗はしないだろうと察した彼は仲間に目配せをした。合図を受け取った数人は獲物を目の前にした獣のように爛々と瞳をぎらつかせる。男達は鳴鳥と男子学生を手早く縛り上げ、拘束した。
男子学生は椅子に縛り付けられ、鳴鳥はその身体をソファーへと投げ出された。
「俺いちば~ん!」
「ずりぃぞ、オレが先だ」
「ここは平和的にじゃんけんで決めようぜ」
ゲラゲラと笑いながら男達は誰が最初に味わうかを至極楽しそうに決めている。彼らの様子は一見無邪気なようだが、これから行われるであろう事はえげつない行為である。恥ずかしさで火照っていた体は今や恐怖に支配され、背中にゾクゾクとした寒気を感じた。
「(どうしよう…どうしよう…!このままじゃ…)」
あいこが続くじゃんけん。掛け声のたびにビクっと恐怖に体が震える。いっそこのままあいこがずっと続いてくれれば…。そんな期待はすぐさま露と消えた。一人の勝者が決まり、勝ちを得た者が怯える鳴鳥に近づく。カチャカチャとベルトを外す音。鼻息の荒い男がいやらしい笑みを浮かべている。最後の悪あがきに睨みつけるが、相手が怯む筈もなく、逆に加虐心を煽ってしまったようだ。男は馬乗りになるように鳴鳥の身体に跨ると無遠慮に顔を近づけ、即座にさっと顔を逸らした彼女の首筋を舌で舐め上げた。するとぞわぞわと嫌悪感が体中を駆け巡り肌が粟立つ。
「(これは因果応報…なのかな)」
逃れられない恐怖を前に諦めの境地へと達した鳴鳥は、軽はずみで迂闊な行動をとった後悔と共に過去の出来事を想い起こした。抵抗できずに複数の男達の慰み者にされる。それは『あの子』が受けた被害内容のごく一部であった。その事を考えると今のこの状況はあの時彼女を救えなかった自分に対する罰なのだろうと納得ができた。ならば好きにすればいい、これから行われる行為に恐怖で震えるが、一刻も早くこの屈辱にまみれた時を終らせたいと、身体の力を抜いて瞳をぎゅっと閉じた。視界だけは自由がきくからか、せめてこの絶望の中で不快な物は目に入れたくないと。
「―――…?」
覚悟を決めたがいつまで経っても男は何もしてこない。その代わりに聞こえてきたのは何やら騒がしい声、怒号。鳴鳥はガラスの割れる音に驚き閉じていた目蓋を開く。顔を逸らして音のした方を見るが何が起きているのかよく見えない。彼女が連れてこられた場所は入口より離れた少し奥まった場所だった。
「テメェェェェェ!!!」
「もう一人の人質は何処に居るのですか?」
がなり声を上げ、怒りを露わにする男とは対照的に落ち着き払った声。その声は両方とも聞き憶えがあった。片方は先程ナイフを使って脅してきた卑怯な男。もう片方は懐かしい…けれども感傷には浸れない相手。こんな場所でこの声は聞ける筈もないと半信半疑であったが、鳴鳥が彼の声を聞き間違う事などなかった。
男の腕が捻り上げられ、握力を失った手からナイフが床に落ちた。よろけた所で鳩尾にひざ蹴りを喰らい、男はそのまま崩れ落ちる。既にこの室内の半数以上を倒した青年は抜かりなく床に転がるナイフを拾い上げて折り畳むと懐に仕舞った。十人近く倒しているようだが呼吸ひとつ乱さずに男は部屋の奥、鳴鳥が居る場所へと近づいた。
「……く、久城センパイ?」
「無事で何よりだよ。だけど―――」
久城と呼ばれたプラチナブロンドで蒼い瞳の美青年は、鳴鳥の安全を確認すると安堵したようにホッとため息を漏らして顔を綻ばせた。しかしすぐに険しい表情に豹変する。彼の視線は彼女の胸元と彼女の上に跨る人物に突き刺さっていた。俺はまだ何もしてないという言い訳を最後まで聞く耳持たず、久城は男の頭部を鷲掴みにして持ち上げる。ミシミシと音が鳴り始め、男は呻き声を上げて手を宙にさまよわせ助けを求めてもがく。苦悶に満ちた表情とは対照的に久城は冷ややかな様子だった。汚物を見るかのような冷たい目。彼はゴミを投げ捨てるように男を放り投げた。
「大体の事情は君の友人から聞いたよ。どこもケガはないかい?」
「あ…はい、平気です」
再び優しい笑みを浮かべた久城は、鳴鳥へ自分が羽織っていたジャケットを脱いで露わになっていた胸元を隠すように手渡した。
「あの…、これ…」
「そのままだと表には出られないよね?とりあえず着といた方が良いと思うよ」
「すみません。なにから何までありがとうございます」
着替え姿を見ないように久城は背を向けながら言った。鳴鳥は少しぶかぶかなジャケットを手早く袖に通して前をボタンで留める。彼女が身なりを整えて立ち上がると同時に、警官達が駆けつけて伸びて床に転がっている男達を拘束した。
鳴鳥への警察の事情聴取は長引くことなくあっさりと済んだ。不良達のグループは余罪が山ほどあるようで、その調査に時間や人手がとられる事、高校生である彼女を長時間拘束する訳にもいかない事、未遂とはいえ強姦されかけたが、恨みは買いたくないと言い訴えはしないと決めた為、後日改めてという形に落ち着いた。
署を出ると先に聴取を終えた留美と久城と男子学生が待っていた。
「まったくもう!一時はどうなる事かと思ったよ!」
「ごめんなさい、留美ちゃん。この通り、反省していますから許して下さい!」
鳴鳥は手を合わせてへこへこと頭を下げて謝るが、今日という今日こそは許さないというオーラを出して腕を組んでいる留美。そんな怒り心頭の彼女に耳打ちをする。山盛りスイーツが食べ放題、ケーキバイキング一回奢りでどうにか許して貰えたようだ。ケーキより甘い裁量に、今後も彼女の気苦労が絶えないことが容易に想像できる。
「あのっ…!」
「ん?ああ、貴方も無事だったのね、よかった」
男子学生がおずおずと声を掛けてきた。彼は深く頭を下げると助けて貰った事への感謝の言葉を述べる。しかし鳴鳥はその言葉を素直に受け取れなかった。
「…私は結局何も出来なかった。こうしてみんな無事だったのは久城センパイのお陰です。お礼なら私じゃなくて久城センパイに言って下さい」
「いえ、最終的にはそうですけど、最初に貴女があの場に来てくれなかったら僕は今頃―――。とにかくありがとうございました…!」
改めて礼をすると、男子学生は久城に向き直り同じように頭を下げて感謝の言葉を述べた。同じように見えるのは形だけであって、彼は久城と目を合わせない。それは決して礼を欠いている訳ではなく、あの光景を目の当たりにした彼は怯えていたのだ。正義であれど、行き過ぎた力は恐怖を感じさせるのだと。もう一度皆に見えるように一礼をすると男子学生はそそくさと帰路についた。
「私からも、危ない所を助けていただきありがとうございました」
「いや、気にする事はないよ。君は『あの子』の友人だからね。助ける事が出来て嬉しいくらいだよ」
「…そんな!なんだか巻き込んで手を煩わせてしまったようで申し訳ないです」
見知った仲のようである鳴鳥と久城。それに気付いた留美は、鳴鳥の肩に手を回して後ろに向かせてこっそりと耳打ちした。
「ちょっと、どういう事なのよ?!この王子様みたいなイケメンは誰なのよ!」
「王子?…えっとそう言えば紹介がまだだったね」
問われてはたと気がついた鳴鳥は久城に向き直ると二人の間に立って互いを紹介した。
「久城センパイ。こちらが私と同じ高校に通っている友人の遠藤留美ちゃんです」
「先程は助けていただきありがとうございました…!」
「いや、当然の事をしたまでだよ」
「いえいえ!久城さんに出会わなかったら今頃どうなっていた事か……。本当にありがとうございます!」
聞くところによると、助けを呼びに表通りに向かって駆け出した留美は、路地裏を脱け出した所で偶然にも久城とぶつかった。そこで気が動転していた彼女は藁をもすがる思いで通りすがりの彼に助けを求めたそうだ。久城は再度警察に通報することを指示し、自分は二人を助けに行くと言って鳴鳥達の元へ向かって行ったらしい。
「えっと、こちらは久城蔵人さん。私の…友達のお兄さんで2つ年上の大学生です」
「友達の?それって私も知っている人?でもこんなカッコイイお兄さんが居そうな子って思いつかないんだけど?」
「それは……えっと…その」
「―――日も暮れているしそろそろお家に帰った方が良いんじゃないかな?あまり遅くなると親御さんも心配するだろう」
久城にそう言われて二人は気がつく。いつのまにか日はとっくに沈み、街灯も明かりを灯している。何やら根掘り葉掘り聞きたそうな留美を鳴鳥はどうにか言いくるめると、留美の帰路である駅へと向かった。別れ際に家に着いたら連絡するからねと念を押され、了承するとしぶしぶと電車に乗り込んだ。今晩は夜更かしせずに寝られるだろうか…。そう考えた鳴鳥はため息一つと肩を落とした。
久城に家まで送ると言われて二人は今、並んで歩いている。久城の自宅は鳴鳥の帰宅路の先、近所であるから断る理由もなかった。すれ違う人、主に女性が振り返り見惚れる位の美男子である彼と並んで帰宅する。普通の女子なら喜ばしい事なのだが鳴鳥は居心地が悪そうであった。それは彼と釣り合いが取れていないとか、周りの視線が気になるとかいう単純な理由ではない。なんとなく気まずい雰囲気を払拭しようと話題を振る事にした。
「そ、そういえばセンパイ、こちらに戻って来られていたんですね」
「ああ、もうすぐ由利亜の命日、だからね」
「―――!……そう、でしたね」
しまった。地雷を、触れてはいけない事をよりにもよってこのタイミングで、と鳴鳥はあわあわと内心慌てた。しかし彼女の心配をよそに久城は怒る事もなければ悲しむ事もない。その様子にホッと胸を撫で下ろすと今度は彼の方から話題を振った。
「ところで聞きたい事があるんだけれど」
「は、はい。なんでしょうか?」
「いつも今日みたいな事をしているのかい?」
「えっと……その………」
咎めるような口調ではなく、至って普通の表情で疑問を投げかけた久城に対して鳴鳥はしどろもどろになりながら答えた。いつもはこんなヘマはしない、人様の迷惑になるような事や、公共のルールを破るような事はしていないと。それらは言い訳であったが彼は一切責める事はなかった。
「君の行動を僕が制限する権利はない。ただ気をつけて欲しいんだ」
「…はい」
「君は女の子だしね。このまま同じような事をしていれば今日以上に危険な目に遭うかもしれない」
「…そう、ですね」
久城は穏やかな表情で諭すように言い聞かせる。その優しさは鳴鳥にとってどうにも居た堪れない気持ちにさせるものだった。
「(こんなに優しくして貰ったり、心配して貰う権利なんて私にはないのに…。助けて貰う価値すらないのに…)」
罪悪感に押しつぶされてしまいそうな鳴鳥。しかし彼女はそんな気持ちをおくびにも出さず、久城の忠告と気遣いを受け取る素振りを見せた。話はこれで波風立たずに済むかと思われたが、今まで柔らかな表情を浮かべていた久城の顔が少し険しい物へと変わった。
「そういえば、君を襲った奴らを訴えないと言ったそうだね」
「え?は、はい。彼らも今頃反省しているでしょうし、私も何ともなかったですし」
「…君は優しいね。相も変わらず」
ため息をついた久城は歩みを止めた。つられて立ち止った鳴鳥は振り返る。そこには先程の柔らかい表情が嘘だったかのような、冷ややかで冷酷な瞳の彼が居た。それは鳴鳥がこれまでで知っている彼の表情ではなく、初めて見るものであり、彼女にとっては信じがたいものである。驚きを隠せないで、どう声を掛けるべきか言葉を詰まらせて考えあぐねていると、彼はせせら笑いながら続けて言った。
「彼らが反省?そんな殊勝であるだろうか?…僕はそう思わない。ああいった輩は己の過ちにすら気付けずに同じ事を、罪を何度も重ねる筈だ」
「そうと決まった訳では―――」
「…まぁ訴えた所でたいした罪にはならないだろうしな。この国は加害者に甘く被害者には優しくないからね」
自嘲気味に言い放つその言葉に鳴鳥は気付く、久城は実体験を基に話をしているのだと言う事に。自分如きではどうにもならない、無力感に苦汁を嘗めさせられた時の事を。あの出来事から一年は経った。けれども彼の無念は晴らされていない、時が経てば解決するなどと言われる事もあるが、彼の場合はいまだに根深い後悔と遺恨を心に残していた。
このままでは彼自身の未来が暗い闇に閉ざされてしまう。そう考えた鳴鳥はどうにか日向に、陽のあたる場所へと引き戻そうと言葉を探す。だがそう簡単には出てこない。安っぽい慰めでは「お前に何がわかるんだ?」と言われかねない。ここは前向きに、近い未来。今できる事を話題にする事にした。
「あ…被害者と言えばセンパイは将来検察官になる事を目指しているんですよね?」
「ああ、そうだけれど。根本的な社会の仕組みが変わらなければ何をしても無駄かもしれないな。それに、例え僕が検事になれたとしてもできる事は少ない。結局のところ、悪足掻きに過ぎないだろう」
「そんなことないです!センパイは今日だって私を助けてくれました。センパイならきっと多くの人を、被害者の人達を救う事が出来ると思います…!」
鳴鳥の真剣な、嘘偽りない眼差しに込められた必死で切実な想いが届いたのか、久城は「買い被りすぎだ」と言いつつも絆されてしまったようで、固くなっていた表情を崩し、眉を八の字に下げて破顔した。苦笑いではあるが先程の怖くて近寄りがたい雰囲気は消え去った。そう感じた鳴鳥は嬉しそうに顔を綻ばせる。すこしだけれど昔の関係に戻れたような、そんな気さえ感じたようだ。
そうこうしている内に二人は鳴鳥の自宅前へと辿り着いた。最初は気が重く、帰宅路も長く感じる程であったが、打ち解けてからは互いの近況などの会話をしていたらあっという間に着いてしまった。
借りたジャケットは後日返す事となった。その日とは二日後であり、由利亜の一周忌の次の日である。元々鳴鳥は遺族の法事と重ならないようにお墓参りをしようと決めていた。それを久城に伝えると、ならば次の日に自分が車を出すと提案してくれた。霊園は少々遠方にあるが、電車やバスを使えば問題ない。しかし無下に断るのも気が引けてお言葉に甘える形となる。二人はこうして後日会う約束を交わして別れた。
「(今日はいろんな事があったなぁ…)」
恐喝を止めて、助けに入ったつもりが逆に捕まって、助けて貰って、一年ぶりに再会を果たして、わだかまりを解いて。慌ただしかった一日を、門に備え付けてある鉄柵扉を開きながら思い返した。
制服を一枚ダメにしてしまった事は母親に怒られてしまうだろうが、無鉄砲な行動にはもう慣れている…というより諦めているのだろう。無事ならばよかったと、特にお咎めなし。逆に助けてくれた久城へのお礼を両親は気にするのだろう。口煩くて生意気な弟はきっと小馬鹿にしてくるだろうが、それもいつもの事だ。
ふと空を見上げる。今日は空気が澄んでいるのか、都心からさほど遠くない住宅街でも星がいくつか輝いて見える。
「あっ…!」
流れ星がひとつ、瞬いて落ちた。
「(今の、確かに流れ星…だったよね?珍しいな~……―――)」
見間違えではないかと良く目を凝らして見ていると、突如視界が真っ白になった―――。
久城は鳴鳥を送り届けた後、自宅に向かって歩いていた。角を曲がった先、家はすぐそこであったが、彼はピタリと歩みを止める。自宅より少し手前の道路にワゴン車が停まっており、横には柄の悪そうな男がけだるそうに座り込んでいた。男は久城の姿を確認するとニタァと笑いながら立ち上がる。
「やぁ~と帰ってきたか。久城蔵人クン。待ってたんだよ~」
「自宅まで来るとはな…。つくづく救えない連中だ」
「その金髪と青い目で目立たないと思っているのかねぇ?残念だったな」
男がコンコンと車の窓を叩いて合図をすると、中からぞろぞろと似たり寄ったりな風貌の男達が降りてきた。彼らは分かりやすい殺気を漂わせて久城の周りを包囲するように囲む。彼らの身なりに、言葉、態度から察するに、先程逮捕された、と言うより久城にぶちのめされた連中の仲間だろう。彼らには学習能力がないのか、はたまた男のメンツとやらが大事だからか、お礼参りにやってきたようだ。
「覚悟しやがれ、この野郎!!」
「………やっぱりこの星に価値なんてないな」
「はぁ?!何言ってやがるテメ―――…っ!」
久城ひとりに対して相手は六人。分は悪くなく、実際今の今まで楽勝で勝てると男達は思っていた。しかし何やら呟いた久城に一人の男が近づいた瞬間、全員が恐れおののいた。尋常ではない威圧感。それは彼らの動きを封じ、言葉を失わせた。
「―――そう思うだろう、由利亜」
見渡す限り真っ白な世界。地平線もなく、上を向いても下を見下ろしても白色で全てが満たされている場所。そこに鳴鳥はポツンと佇んでいた。
「ここは…?疲れて眠っちゃっているのかな?ここは夢の中とか―――」
両手で軽く自分の頬を叩いてみる。すると確かな感触を感じた。夢の中ではないと証明された訳だが、ならばここは何処なのか。皆目見当もつかない鳴鳥は、何故こんな所に居るのかこれまでの事を思い出そうとする。しかしそれは突然降って湧いた声によって阻まれた。
「―――ごめんなさい、貴女を巻き込んでしまって」
「だ、誰ですか?」
優しい声色の女性の声。彼女は何やら謝罪の言葉を述べている。だが声の主の姿はどこにもない。けして気味の悪い声ではなく、寧ろ安心するような、穏やかな気持ちになれる声だったが、やはり相手が見えないという状況は不安らしく、鳴鳥はキョロキョロと辺りを窺って声の主を捜した。
「貴女ならきっとあの人を…―――を救える」
「救える?…って一体誰を?と言うより私なんかに何が―――」
「お願い―――もう…時間が―――このまま…だと―――」
所々が聞き取りにくい声。その声は確かに助けを求めている。けれども肝心の誰を助ければいいのかが聞き取れない。詳しく聞こうにも、それは叶わなかった。先程の視界が真っ白に染まった時とは違い、今度はブラックアウト。眼前が真っ黒に染まった。
「(―――そうだ!あの日は色んな事があった後、家に辿り着いてそれで変な場所で謎の声を聞いて…)」
荒野に佇む鳴鳥はここに至るまでの事を思い出した。しかしそれは今現在何の役にも立たず、手掛かりにもならない情報である。「これからどうしよう?」と途方に暮れつつも先の事を考えながら一歩前へと踏み出した瞬間、一人の男がこちらに向かって来るのが視界の隅に捉えられた。
矢継ぎ早に何やら話しかけてくる男。ぼさぼさっとしたダークグレーの長髪を後ろで束ね、顎に無精髭を生やした中年男性の手には拳銃らしきものが握られている。銃口は言わずもがな、鳴鳥へと向けられていた。