第3章「壊れた時計の針は止まる事を知らず狂狂廻る」
オーディン達が去った後は特に何も無かった。
まるで幻を見ていたような気分だったが僅かな戦闘の跡は残っていたし依然他の人は出てこない。
僕達以外に人々が存在しているのかと疑いたくなる。
何度か窓から建物の中を覗いたがその場合はちゃんと中に存在していた。
美容院では客と店員が談笑しているしコンビニでは本を立ち読みしている客とせわしなく動いている店員が居る。
ならばちゃんとこの街には人が存在するという事だ。
決して消えた訳ではない。
その事実が少しばかり僕の不安を抑えてくれた。
だが完全に安心したかと言うとそうでもない。
どうして彼らが僕達を狙うのか。
アマテラスが消えた理由。
各国の主神が集うなど滅多にない。
しかもこの国の主神が消えたなど一大事だ。
なのだがそれが何故僕達に危害を加える事に繋がるのかがわからない。
彼らなりの考えがある故なのだろうがそんなものは迷惑でしかない。
わからない事ばかりだった。
しかし事実を知るよりもまずは安全を確保する事が大事だろう。
事実なんてこちらが被害を被らなければどうでも良い事だ。
しかし面倒なのは相手がその事実に僕達が関与していると考えている事だった。
そして戦略兵器じみた攻撃ができるという部分も大きい。
つまり正面から彼らがきたらどうしようもないという事だ。
ゼウスやオーディンの場合、その余裕で逆に見逃してくれたが今度はそうなる保証もない。
彼らの手の上で踊っているような状態だろう。
今すぐ握りつぶされる可能性が0とは言えない。
僕にできるのは抵抗ぐらいだろう。
しかし残念ながら僕に神話そのものとも言える存在に対抗できるような力は無い。
おそらく時間稼ぎすらままならないだろう。
それだけ彼らはとんでもない力を持っているのだ。
たった1人で国を滅ぼせるような存在だ。
それに対抗できるのは同じ強さを持った者のみ。
しかしそんな存在は同じ目的を持っている。
仲間割れをすれば簡単だがきっと僕の思うようにはならないだろう。
ならばこちらの持てる限りの力を使ってどうかするしかない。
しばらく走っていると鳥居が見えてきた。
周囲を見るがこちらを追っている存在は見えない。
僕が振り切ったからかそれともなにか目的があるからか。
それはわからないがこの先を進む他ない。
僕は疲れた身体を酷使して長い階段を上っていく。
気を抜けば倒れそうだった。
心配そうにこちらを見る2人にジェスチャーで問題無いと伝える。
いつまで続くかと思われていた階段だが暫くすると鳥居の根元が見えてきた。
僕達は速度を落とさずに登り続ける。
そうしてようやく僕達は広場に到着した。
雪かきの時に出た雪を端の方に固めているので大きな山ができている。
石畳が敷かれて周りを森が囲んでいるような場所だ。
何度か修繕している。
奥に見えるのが神社であり、こちらも何度か壊れたりしている。
そしてその中央。
そこに祀が立っていた。
「祀……」
彼女の名前を呼ぶ。
静かな空間にその声は予想以上に響いた。
返事は無い。
祀は僕達から20メートル程離れた場所に立っていた。
聖像のように凛として動かない。
何かを見詰めているようだった。
その目はこちらに向けられない。
こちらを見てくれない。
つまり反応は無かった。
こちらの存在に気付いていないかのように少しもアクションが無かった。
聞こえなかったのだろうか。
しかしすぐにそれを否定した。
彼女は耳がとても良い。
名前を呼べばすぐに返事するような人物だ。
敢えて反応していないのだろう。
何か思惑があるからこそこちらに目を向けないのだろう。
その理由は僕にはわからない。
彼女なりに何かそうせざるを得ない目的か何かでもあるのだろう。
だが裏切られたような恐怖が僕の心に影を差す。
自分でも女々しいと思う。
だけどたったそれだけの事があまりにも衝撃的だったのだ。
思わず唇を噛む。
いつも仏頂面で僕が変な事を言えば溜息をするような女の子だった。
しかしいつもこちらの言うことに真剣に耳を傾けてくれた。
いつも僕の傍に居てくれた。
だからこそ僕はいつも彼女達と居る時間が好きだった。
何よりも代え難い時間だった。
が、祀はこちらを見てくれない。
そんな事実が何故だかとても胸に突き刺さった。
僕の膝が震えているのがわかった。
止めようと思ってもその震えは止まらない。
阿形と吽形はただ困った顔をして僕達を交互に見ていた。
僕は初めて彼女と会った時の事を思い出す。
春の頃だ。
ちょうどその日はこの神社で祭りをしていた。
今とは違って沢山の人が居た。
そして彼女の舞を見たのだ。
あの静謐な空間で閑雅に踊る彼女はまるで雲の上のような存在に見えた。
どれだけ手を伸ばしても決して近づくことのできない存在。
触れれば消えてしまいそうな朧げな儚い存在。
ちょうど今の祀はそんな風に映った。
あの時はそれがとても悔しく思ったのだ。
自分のような日陰者が否定されているようで。
そして今もそうだった。
僕は彼女に認められていない気がして。
今まで過ごした日々をだからなんだ、と否定された気がして。
それが何よりも僕の心を追い詰める。
しかし祀はこちらを見ない。
決して見てくれない。
「他の奴らが来たか」
するとどこからか声がした。
僕は俯けた顔をあげる。
祀が顔を向けている方……ちょうど石碑のあたりに誰かが居た。
それは2人存在した。
一方はガラの悪い印象を与える男であり、もう一方は見たことがあった。
長めの黒髪に背の高く細い身体。
色白の端正な顔立ち。
間違いない、月で会ったあの男だ。
蜃気楼のように朧げな存在。
そこに存在しているのに気づかない。
その異常性によって逆に存在感を与えるような者だった。
水面に映った月。
それを彷彿とさせる不気味な男。
あの時彼は終わりが近いと僕に耳打ちした。
今もその言葉の意味はわかっていない。
しかしこれだけはわかる。
この男が全てを知っていると。
この男が僕達の敵である事を。
だとすれば一筋縄ではいかないだろう。
やろうと思えば今すぐにでもこちらを殺せるに違いない。
もう片方に僕は目を向ける。
最初の奴とは違って茶髪に染めた髪をワックスでツンツンに立てている男だ。
耳にはいくつかピアスもあり、目つきがとても悪い。
身体は細身ながら筋肉質であり引き締まっている。
無駄な筋肉をつけていないといった感じだろうか。
僕は2人が誰なのかを考える。
今まで出てきたのはオーディンやゼウスという各国の主神だった。
ならば彼らも神やそれに類する存在だと考えるのが妥当だろう。
顔は両者とも東洋人だ。
どちらも纏っている雰囲気が全然違うがどこか姿が似ている。
まるで年の離れた兄弟といった感じだ。
ここから導き出されるもの。
それは1つしかない。
僕はゆっくりと口を開いた。
「……スサノオとツクヨミか?」
すると2人の男がこちらに目を向けた。
その視線が僕を射抜く。
思わず尻込みしそうになった。
しかしどうにか踏み止まった。
すぐさっきオーディン達と遭遇して慣れたからだろうか。
それとも驚愕の連続で僕の感情が麻痺しかけているからだろうか。
そうしてスサノオが口を開いた。
「来たか黒いの。盛大にやったらしいな月で」
「……」
「……チッ、反応は無し、か。つまらねぇ」
どう答えれば良いのかわからなかった。
スサノオは僕を睨みつけるとすぐに顔を祀の方に戻した。
ツクヨミはやはり興味深げにこちらを見ている。
逆にこちらが息苦しくなって僕が彼から顔を背けた。
すると静寂が境内を包む。
物音1つも聞こえない。
唯一聞こえるのは自身の心音と息遣いのみ。
それ以外は無い。
まるで時が止まってしまったかのようだった。
誰ひとりとして動こうとしない。
「――スサノオ、ツクヨミ」
ポツリと誰かが呟いた。
そんなもの決まっている。
僕は何も言わずその名を口にした人物に顔を向けた。
それは祀しか居ない。
彼女はまるで自分の兄弟を慈しむようにそう呟いたのだ。
2人の姉のように。
アマテラスのように。
「……え?」
その考えに陥った瞬間小さな声が出た。
自分の考えが一体どういう事なのか。
それが理解できなかった。
彼女の正体がアマテラスだと。
そんな事ある訳がない。
しかし僕は先ほどゼウスからアマテラスが消えたと聞いた。
ならば少なくとも祀はそれに深く関与している。
それは間違いない。
間違いないが混乱するばかりだった。
「……姉貴なのか?」
しかしスサノオが決定的な事を言った。
僕はただ口を開けて呆然とするしかない。
必死になって隠し通してきた秘密を後悔されたような気持ちだった。
一生懸命積み上げてきたものを一瞬で崩されたような気分だった。
彼がそう尋ねたから僕の予想は当たってしまう。
もうどうしようもない。
今は坂を転げ落ちるボールだ。
その先は断崖絶壁。
このまま放っておけばボールは崖から飛び出して落下する。
僕はそれを傍らで眺めているのだ。
ボールはゆっくりとだが確実に動いている。
僕はそのボールを止める事ができる。
僕が動く動かないかは自由だ。
動けば僕は何も知らないままになる。
動かなければ彼女が何なのか。
今何が起きているのか知ることができる。
その選択は天秤に乗せられている。
重さは同じで綺麗に釣り合っている。
何かを取れば片方が落下する。
どうすれば良いのかなんてわからない。
誰も答えを教えてくれない。
僕はここまできて逡巡していた。
選ぶ方など決まっている。
そうだ、僕は何も知りたくない。
だから今すぐ走り出して彼女の言葉を止めてしまえば良い。
そうすればまだ戻れる。
今までのような日常にだって戻れるかもしれない。
そうだ、奴らをどうにかすれば良いだけだ。
それはあまりにも絶望的。
それはあまりにも無謀。
丸腰の状態で猛獣を倒す事に等しい。
いや、それ以上の難易度があるかもしれない。
だがもう構っていられなかった。
知りたくない事は知らない方が良い。
それは現実逃避だと誰かが言う。
僕の中の僕がそう囁くのだ。
わかっている。
そんな事は最初からわかりきっている。
だけどもうどうしようもないんだ。
言い訳がましいと自分でも思う。
こんなにも脆弱な自分に幻滅した。
しかし決めた事はやり通す。
それが僕の今すぐやるべき事だ。
そう正当化した僕は小さく息を飲み、動き出そうとした。
だが
「ええ、そう。私の弟達」
凛とした声が境内に響いた。
己の耳を疑うまでもない。
祀ははっきりとそう言った。
いや、アマテラスが言った。
もう手遅れだった。
己の耳を疑うまでもない。
それを嘘だと否定する事もできない。
今更どうしようもないんだ。
僕はどこか褪めた気持ちになり、肩から力を抜いた。
ボールは穴に落ちていったのだ。
傍らに居た僕が結局動かなかっただけ。
選択で悩んでいる間にタイムリミットが訪れた。
それを拾い上げる事は誰にもできない。
結局そういう事だった。
僕が勝手に失敗しただけ。
僕はこの時何かが決定的に変わってしまった事を理解した。
もう元には戻れない。
それを理解してしまったのだ。
大事にしていた宝物はあっけなく壊されてしまったんだ。
今更それを直そうとしても継ぎ接ぎだらけのガラクタにしかならない。
頬が痙攣したように震える。
何か言おうと思ったが何も出なかった。
一言も思い付かない。
「どうしてこうなった?」
スサノオは静かにアマテラスに尋ねる。
その言葉にはどこか刺があった。
自分の元から離れていった事を非難するようなもの。
スサノオに対してアマテラスは顔を俯ける。
「……『彼女』には力が必要だったのです」
アマテラスは口を開く。
真実を話す気になったようだ。
その目には強い意思が宿っていた。
嵐に曝されても決して吹き飛ばない花を彷彿とさせる。
『彼女』……。
それは祀の事だろう。
力が必要だとアマテラスは言った。
どうしてアマテラスが祀の肉体に宿っているのかは僕にはわからない。
おそらく祀が力を求めていた事が関わってくるのだろう。
なにが切っ掛けでその考えに至ったのか。
アマテラスは続ける。
「ちょうど春の頃ですね……」
昔を懐かしむようだった。
スサノオとツクヨミは黙って聞いている。
阿形と吽形は未だ事情が飲み込めないのかアマテラスと2人を交互に見ていた。
ある意味彼女達が一番混乱しているのかもしれない。
僕は黙って耳を澄ませる。
「私は祀に呼ばれたのです。助けて欲しい、力を貸してほしい、と」
「だからって……応じたのか?」
スサノオがアマテラスに食ってかかった。
今にも掴みかかりそうな勢いだった。
しかしツクヨミが寸前の所で彼を止めていた。
スサノオが隣に立つツクヨミを睨みつける。
「兄貴!」
「黙っていろスサノオ」
スサノオが舌打ちをし、渋々と引き下がった。
「そうせざるを得ない理由があったのですよスサノオ」
アマテラスは聞き分けのない子どもを諭すように言う。
「だが……!」
「貴方は目の前で力ない子どもが泣いているのに手を差し出さないのですか?」
アマテラスの雰囲気が一瞬で変わった。
するとスサノオの顔が強ばった。
アマテラスの言葉は非難に近い攻撃性があった。
関係無いこちらまで怯ませる類のもの。
「つまりそういう事ですよ。私が祀に協力しているのは」
それがアマテラスの根幹にある理念だった。
どこまでもシンプルでまっすぐなもの。
神様らしくないとすら言える。
しかしそれがアマテラスが主神たる理由なのかもしれない。
イザナキから生まれた子どもだから、という理由とはまた違ったもの。
「なのに貴方達はどうして私を追うのですか? これは私が選んだのです。何者にも邪魔させません」
アマテラスは止まらない。
邪魔をすれば力づくでも押し通るとでも言うのだろうか。
対するスサノオは唇を噛む。
ギリギリと両手を砕かんばかりに握りしめていた。
タイムリミット寸前の爆弾のような危うさがあった。
しかしツクヨミは冷静だった。
「姉上。貴女は自身が主神である事をお忘れですか? 身勝手な振る舞いが後後取り返しのつかない事に繋がるのです」
「理解していますよ。そして現にその取り返しのつかない事を止める為に動いています」
ツクヨミの非難にアマテラスは毅然と答えた。
「ならばそれは一体――」
「強大な悪性」
ツクヨミが押し黙った。
アマテラスの言っていることが信じられないとでも言うかのようだ。
「世界……とは言えませんが取り敢えずこの日本が滅ぶ程度……それに値するような脅威が存在しているのですよ」
僕にもアマテラスの言っていることがわからなかった。
これっぽっちも理解できない。
世界が滅ぶとか日本が滅ぶとか超大作のつもりか?
笑えない。
本当に笑えなかった。
「何度も何度もこんな毎日を繰り返したのです。祀は」
アマテラスの言っている事は妄想しみた事だった。
しかし嘘を言っているようにはとても思えない。
まるで地獄を見てきたかのような、そんな危うさがあった。
一体どれだけの時間を繰り返してきたのか。
それは途方も無い時間だろう。
「――そして阿形と吽形」
今までツクヨミの方たちに向けられていた顔がようやくこちらに向けられる。
2人は驚いたようで間抜けな返事をした。
「貴女たちは自分の正体を知っているのですか?」
アマテラスの問いに2人は困ったような顔をする。
答えのわからない問題を黒板の前で解けと言われたかのような。
「「私たちは……」」
2人の唇がゆっくりと動く。
「「私たちは……」」
確かめるように。
思い出すように。
ゆっくりと言の葉が紡がれていく。
駄目だ、と思った。
それ以上言うのはやめろ、と叫ぼうとした。
理由はわからない。
ただ衝動的に2人を止めなければ、と思ったのだ。
しかし今度も身体は動かなかった。
まるで金縛りにあったかのようにぴくりとも動かない。
背筋が凍った。
このままでは2人がもう取り返しのつかない状態になる。
そう確信した。
「私達は……」
「人形……」
そうして2人は糸の切れた操り人形のように倒れた。
僕は暫くぽかんと口を開けていた。
理解するのに時間を要した。
一分か一秒か。
時間はわからないがとにかく完全に停止していた。
「……阿形……吽形っ!」
我に返った僕は慌てて2人の身体を抱きかかえる。
片手でも異様に軽く感じた。
もしかしたら、と思ったが2人ともちゃんと息をしていた。
脈もちゃんとある。
気を失っているだけのようだ。
ひとまず安堵するが不安は残っていた。
「これはどういう事だ……?」
そうしてようやく僕はアマテラスに問う。
2人が言った人形の意味。
僕にはその意味がわからなかった。
答えを訊こうにも既に2人は答えることができない状態だ。
しかしそれはアマテラスにも答える事ができる。
彼女が2人にそれを言わせたのだから。
「2人には耐え切れなかったのかもしれません」
アマテラスは自嘲気味に笑った。
自分が残酷な事をしたと理解し、自責の念に駆られているように映った。
「阿形と吽形は……祀そのものと言っても間違ってはいません」
「……祀そのもの?」
僕にとって2人は友達であり妹みたいな存在だった。
祀と同じくらいかけがえのない、大事な存在だ。
仕事もソツなくこなしてゲームも上手く僕よりも勉強ができて……そんな存在だ。
しかし3人はそれぞれ個性がある。
祀は生真面目。
阿形は悪戯好きな小悪魔。
吽形は大人しめ。
少なくとも僕にとって阿形と吽形は双子という認識だった。
とにかく血縁関係には近い。
にも関わらず祀そのものとはどういう事なのか。
「2人は祀の余った霊魂から作り出された存在です」
「……」
僕は何も言えなかった。
アマテラスが言った事は簡単だ。
少しも小難しくない。
遠まわしに言っている訳でもない。
ただ単純に事実を述べた、大変わかりやすい説明だ。
しかし僕にはそれがトンデモ科学じみたもののように聞こえたのだ。
想像はできるがそんな事が実際にできるのか。
単に机上の空論ではないか。
そんな風に思ったのだ。
「祀は元々龍でした……この街の土着神だったのです」
しかし僕が理解していないにも関わらずアマテラスは話を続けた。
もうここから意味がわからない。
僕の常識というものが丸ごと塗変わっていく。
それは僕があまりにも無知だったからだろうか。
誰も教えてくれなかったから、と言い訳したくなった。
だが、それ以上に何故か心のどこかで知っていると語る声が聞こえるのも事実だった。
それは紛れもない僕の声であり、僕自身の知らない僕だった。
こめかみのあたりが鈍い熱と痛みを発する。
僕は右手でそこを抑えた。
「しかし善性と悪性があったのです彼女には」
アマテラスはそんな僕に構わず話を続けた。
スサノオとツクヨミも静かに傍観している。
脆くも動じているのが僕だけだった。
アマテラスの言っている事は僕の耳に流れ込んでくる。
しかし理性がそれを拒否しようとした。
これ以上何も知りたくないと駄々をこねている。
しかしアマテラスの言の葉は理性が作った壁を透過して根幹に響く。
呻き声が出た。
「善性と悪性は拮抗していました。彼女はこの街に安寧を齎し、それと同じくらい災禍を齎したのです」
インドの龍には善性である法行竜と悪性である非法行竜が存在する。
元々龍とは中国の神獣であり、霊亀・麒麟・鳳凰と共に四霊の一体として数えられていた。
それが後に日本へと伝わり、当時存在していた蛇神信仰と融合して龍が神と祀られるようになった。
水を司る事から雨を降らし、作物を実らせる事から豊穣の善神という性質がある。
しかしそれと同時に嵐や雷雲を呼ぶという悪神としての性質もあった。
本来ならば供物や祈りを捧げて悪性を鎮め、善性を引き出すのが普通だ。
しかしこの街の龍というのはかつて祀が僕に説明した通り、殆ど名前が知られていない。
おそらく時の経過と共に忘却されたのだろう。
まさかそれが自分自身の説明だとは思いもしなかった。
「しかし彼女は善性があるからこそ苦悩したのです。どうして自分は多くの人を苦しめてしまうのかと。しかし力が完全に拮抗している以上どうしようもなかった」
善性があるからこそ誰かに幸せを与える事ができる。
悪性があるからこそ誰かが不幸になる。
しかし完全に拮抗していたからこそ彼女は手出しできなかった。
前世があるからこそ苦悩した。
悪性だけならば苦悩などしなかっただろうに。
「そうしてある時貴方が来たのです」
アマテラスが僕の顔を初めて見た。
全てを見通す目。
僕は思わずたじろぐ。
「……でも、僕が来たとき彼女は……」
「それは『今』の貴方でしょう?」
頭をハンマーで思い切り叩かれたような気がした。
こめかみがどくん、と脈打つ。
冷汗がぶわっと出た。
目眩と激痛と熱が一気に加速する。
呼吸と鼓動が爆発的に早くなる。
頭の中で芋虫じみた何かが蠢いて僕の脳味噌を食い破っているかのような激痛だった。
あまりにも痛すぎて悲鳴すら出ない。
世界が真っ赤に染まる。
鮮明な世界がノイズに変わって何もわからなくなる。
そのノイズまじりの緋い地獄はいつまでも続く。
耳鳴りがして何も聞こえない。
鉄の臭いがする。
血の味がする。
硬い石畳の地面にうつ伏せに倒れ込んだ僕は無様に這いずり、転がりまわる事しかできない。
頭の中の何かは止まらない。
プルプルでブルブルでネットリとしたのが僕の脳を侵食していく。
今すぐこの頭をかち割ってやりたかった。
そしてこの気持ち悪い何かをぶち撒けてやりたかった。
僕は頭を掻き毟って呻き続ける。
すると頭の傍に誰かが立っているのがわかった。
「祀……?」
アマテラスではない。
それは見慣れた少女だった。
僕はかけがえのない女の子の名前を掠れた声でもう1度呼ぶ。
祀は無様な醜態を晒す僕を嘲る訳でも憐憫の情を向ける訳でもなかった。
ただ身を屈めて僕の顔に手を翳す。
そうして僕の目の端に浮かんだ涙を指先で拭い取った。
母親に慰められる子どものように抵抗ができない。
この涙が痛みによるものなのか感情に起因するものかはわからなかった。
ただそれが止まる事はない。
祀は僕の耳に唇を寄せる。
そうして何かを囁いた。
「……ごめんなさい」
彼女が言ったのはそれだけだった。
僕は何もできずただ呻く。
そうして僕の脳裏に何か映像が浮かんだ。
走馬灯のようにめぐるめく映像が流れていく。
自分の意思でこの街に来た。
そこで心に傷を負った龍と会った。
そこで僕は彼女に頼まれた事を――
――彼女の神格を抜き取る事で善性と悪性を――
――余った善性と悪性の受け皿となっていた魂を――
――狛犬に宿して阿形と吽形が――
それからの毎日は平和だった。
こうして過ごしてきた事とほぼ同じ。
だけどある時一紗が現れて――
それで?
そこから映像は消える。
いや消えてはいない。
別の映像に変わったのだ。
殆ど同じだが微妙に違う。
今度は最期の映像が福来の所で終わっていた。
これがどういう事なのか。
もしかしたら、と思った。
「うぁ……あ……」
ぞぞぞぞぞぞぞぞと怖気が走る。
僕の中で何かが壊れた。
多分それはとても大事なものだったのだと思う。
ただ取り返しにつかないことになってしまったのだ。
僕まで。
「あああああああああッ!!」
僕は叫び、祀の手を振り払う。
そうして素早く立ち上がると痛みも何もかも忘れて走った。
もうここから逃げ出したかった。
鳥居を潜って階段を駆け下りる。
誰も呼び止める声はしないし追ってこなかった。
もう神が居るとかそんな事はどうでも良かった。
考える余裕が無かったとかそういう訳ではない。
本当に、心からどうでも良かったんだ。
僕はあてもなくひたすら走り続けた。
ゴールはどこにも見えない。
正解なんて知らなかった。