“好き”ですと言わない練習会(呼吸曲線)
最初は、ただ席が空いていただけだった。
誰も遅刻を咎めず、
誰も理由を聞かなかった。
「……今日は少ないですね」
そう言った声も、
確認というより、事実の読み上げだった。
カップに注がれたコーヒーは湯気が薄く、
触れればまだ温い、という程度だった。
「じゃあ、いつも通りで」
いつも通り。
その言葉に、誰も違和感を覚えない。
ここは、
“好きです”と言わないための練習会。
言わない理由を持ち寄り、
言わなかった一日を正当化し、
何も変えないまま帰る場所。
「最近どうですか」
そう聞かれて、
Aは少しだけ考えた。
「……特に」
それ以上の言葉は出てこなかった。
出なかった、というより、
出す必要を感じなかった。
沈黙は居心地がよく、
それがこの場所の価値だった。
――ここまでは、順調だった。
「でも」
誰かが、
ほんの出来心みたいに言った。
「言わないって、
どこまで続けるつもりなんですか」
空気が、わずかに変わる。
質問はいつもあった。
でも今日は、
逃げ道のない聞き方だった。
「続けられる限り」
Aは答えた。
「……続けられる、って何ですか」
その瞬間、
胸の奥で小さな音がした。
「壊れない限り、ですか」
笑いが起きない。
誰かがカップを置く音が、
やけに大きく響いた。
「壊れるって」
別の誰かが言う。
「もう、壊れてない?」
そこから、言葉が溢れ始めた。
「毎日考えてる」
「目が合うだけで期待する」
「優しくされるたびに、勘違いする」
一つ言葉が出ると、
次が止まらない。
「言えば楽になるって分かってる」
「でも終わるのも分かってる」
「何も言わないまま失うのが、一番怖い」
声が重なり、
感情がぶつかり、
空気が濁っていく。
Aも、気づいたら話していた。
「練習してるんじゃない」
声が震えているのが分かった。
「延命してるだけだ」
誰かが反論する。
誰かが否定する。
誰かが黙る。
「じゃあ言えよ!」
「言った結果を知らないくせに!」
「知ってるから言えないんだろ!」
声が荒れる。
椅子が軋む。
感情が、
一気に臨界点を越えた。
「好きなんだよ!!」
Aは立ち上がっていた。
「言わないって決めたけど!
決めたけど!!
毎日、未遂なんだよ!!」
喉が痛くなるほど叫んで、
でも、
最後の言葉だけは出なかった。
――好きです。
それだけが、言えなかった。
沈黙。
全員が、
息をするのを忘れたみたいに止まる。
Aは、ゆっくり座った。
「……ごめん」
声は、驚くほど小さかった。
誰も責めなかった。
誰も慰めなかった。
ただ、
時間だけが進んだ。
「今日は……ここまでにしましょうか」
その提案に、
誰も異議を唱えなかった。
帰り支度をしながら、
Aは思う。
さっきまでのあれは、
本当に自分だったのか。
それとも、
長く押し殺してきた何かが、
一瞬だけ暴れただけなのか。
外に出ると、
夜風が冷たかった。
胸の奥は、
不思議なくらい静かだった。
何も解決していない。
何も終わっていない。
それでも、
今は少しだけ、呼吸が楽だった。
「……次も、来よう」
それが前進なのか、
後退なのかは分からない。
ただ、
また言わない一日が始まる。
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