第3話 私のアツいスパイ活動、はじまります!
理事長室の空気が、まるで粘つく霧のように肌に絡みつき、息を詰まらせる。部屋の隅々まで張りつめた緊張が、壁の木目さえも歪めて見せた。
「私は塀国対世界錯誤遺物部隊第7支部特別上級士官のアンタレスです。アリスと名乗るテロリストからの声明についてはもうご存じですね?」
アンタレスと名乗った少女は、理事長の椅子に深く腰掛け、脚を組んだ。少女の声は明るく、まるで友達に話しかけるような軽さだった。だが、その言葉は部屋の全員に鋭い棘を刺す。
田中理事長は一瞬言葉を詰まらせ、ゆっくりと息を吐いた。
「ええ、まあ」
歯切れの悪い返答だった。理事長は少女がいつからこの部屋にいたのか、どこまで会話を聞いていたのかを測りかねているようだった。室内にいた全員に息を潜め、不用意な発言を避けるように視線を交わす。
アンタレスは椅子の背もたれに体を預け、ゆっくりと天井を見上げた。
「貴学園及び、アリスの声明にあった人物を護衛させて頂きます。受け入れて頂けますね?」
土岐校長が静かに口を開いた。
「その護衛対象というものを明確にして頂かないとお返事出来かねますが」
土岐校長は冷静な人物だ。しかし、アンタレスに相対してから、何か特別な感情を押し殺しているようにも思えた。その様子を見てアンタレスはくすりと笑った。笑顔は可愛らしいのに、どこか人を嘲るような響きがあった。
「……事態は一刻を争います。仔細は後ほど」
理事長が眉を寄せた。
「承服しかねますな」
アンタレスは肩をすくめ、脚を組み替えた。制服のスカートがわずかにずれ、太ももが覗く。
「あまり角を立てたくはないのですが、拒否され続けるようでしたら強権を発動することになります」
花蔦桃果が立ち上がり、声を荒げた。
「強権? 学園は日本です! 塀国の言いなりになる義理はありません!」
少女は桃果をちらりと見て、くすくすと笑った。
「フフッ、可愛いね。でも、連合国軍地位協定に基づき、塀国は日本国内で一定の特権を持っているんだよねー。……ご了承頂けない場合でも、速やかに任務を遂行させて頂きます」
部屋に沈黙が落ちた。誰もが言葉を失っていた。
その時、ドアが勢いよく開いた。
「その発言、罷りなりません!」
土井美鶴だ。肩から大きな機械をぶら下げている。ラジカセのような四角く大きな本体から太いケーブルが伸び、聴診器のような先端と繋がっている。また、ヘッドホンも接続されていることから盗聴器だと推測される。
「土井さん!?一体何がどうなっているの」
桃果は混乱している様子だったが、アンタレスは入室してきた美鶴を舐めるように見て、大きな機械が盗聴器だと確信したようだった。
「うんうん、それもまたスパイ活!だね!…で、この子は何?」
アンタレスは椅子の上で体を揺らし、楽しげに言った。美鶴はアンタレスに臆することなく、彼女をビシッと指さして続ける。
「確かに連合国軍地位協定において、塀国の優越が認められています。ですが、特区の専権事項として自衛権の行使があるのを忘れてはなりません。特にこのヴァネッツエストに於いて、勿来番氏による防衛力は鉄壁を誇ります。いくら塀国といえど、こちらから要請しない限り派兵はできませんよ!」
「そうなの?…知らなかった。…勿来番氏、なるほどね。…あなた、やるわね。…というか結局あなたは何なの?」
「え?私ですか!?私は……」
美鶴は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに息を吸い込んで勢いよく続ける。
「私は愛傍学園神秘共感研究同好会の会長、戸井美鶴です! 」
部屋の全員が息を飲んだ。アンタレスは目を細め、美鶴をじっと見つめた。
「へえ……神秘共感? 面白いね、普通じゃなそう。それも面白いガジェットだよね。自作?詳しく聞かせてよ」
美鶴は興奮して言葉を連ねる。
「ええ、これは私の自作です。簡単な仕組みではあるんですが、月刊117の『自作盗聴器で政府の陰謀を暴け!』特集を参考に作ったんです!これは一般にはあまり知られていないんですが、大戦後、塀国は監視と諜報とを兼ねてかなりの数の盗聴器を日本国内に仕掛けていて。中には使い捨て前提でバッテリー切れになったものもあるんです。それを回収してこのボックスの中に組み込んでいます」
得意げに語る美鶴。
「ダメダメ!秘密をそんなに大声で喋っちゃ。スパイ活の基本よ?」
アンタレスはくすくす笑いながら、美鶴の言葉を遮った。
「確かに!勉強になります。ところで…あの…」
「んー?」
「あなたは本当にあのアンタレスさんなんですか」
「そうだよ?」
「それってつまり」
「あー、ね。そうだよね。私日本だと印象最悪だもんね。何を隠そう、実父を殺し、塀国に亡命した史上最悪の四王家の末裔、土岐綾乃とは私のことです。ちなみにそこにいる土岐紗織は私の姉でーす」
「綾乃…」
土岐校長が眉間に皺を寄せる。
「その年で校長?いやいや普通に無理があるって、おかしいでしょ。女の武器でも使ったの?お姉ちゃん」
「私立愛傍学園において役職とはその能力、人柄、覚悟という観点から最も相応しい人物が任命されます。決められた任期は無く、新たに相応しい人物が現れれば随時登用される仕組みです。現時点で土岐紗織以上に愛傍学園の校長に相応しい人物はおらず、彼女の資質を疑う者などこの学園には一人もいません」
田中理事長は威厳をもってアンタレスに答えた。また美鶴が口を開く。
「アンタレスさんの理屈だと、アンタレスさん自身がその年齢で士官の役職を拝していることがおかしいということになりませんか。あ、でもアンタレスさんにはDⅢリンク社の後ろ盾があると117にも書いてあったかも」
「ちょっと待って。DⅢリンク社の名前まで知ってるなんて……それ、機密情報なんだけどな。というか117って何!?暗号文書?美鶴ちゃん、あなたまさか」
117は日本でのみ発刊されているオカルト雑誌だ。内容はどれも眉唾物だが、ときどき、本当にときどき、極低確率で真実を言い当てていることがある。アンタレスは図星を突かれたようで、ますます美鶴に興味津々だ。美鶴は頷き、熱を帯びて続ける。
「はい! 117編集スタッフのブログ最新の記事に書いてあったんですけど、塀国の対遺物部隊が実はDⅢリンク社の傀儡で、天輪の技術を独占しようとしてて。そのためには手段を選ばず関係者を次々に…」
「ストップ!それ以上はストップ!もういいです。この会議もここでお開きにしましょう」
それ以上暴露されると不味いと考えたのか、アンタレスは立ち上がり、理事長以外を部屋から追い出すように手を振った。桃果が抗議するが、アンタレスは地位協定を盾に「一学生には聞かせられないこともあるのよ」と押し切り、皆を退室させる。その後、理事長に何か伝えたのだろうか。ほどなくしてアンタレスも部屋から出ていくところを確認した。
「まさか理事長室に単身で乗り込んでくるなんてね」
アンタレスが乱入してきてから借りてきた猫のように静かにしていたクリスが口を開いた。彼女が何もしゃべらなかったのには何か理由があったのだろうか。
「塀国の士官が単身でとは驚きましたよね」
クリスは首を横に振る。
「ボクが言ったのは土井さんのことさ。彼女は本当に面白いね。彼女の一科で、未来が変わったよ」
クリスの目線の先には帰ろうとする土井美鶴の後ろ姿と、それを不敵な笑みで見送るアンタレスがいた。だが、アズにはクリスがもっとずっと遠くを見据えているように思えた。




