第1話 空に羽根、地に白銀の天使
この空を二人で分け合おう——
いつかどこかで誰かが誰かにそう誓った。声の主は男だっただろうか、女だっただろうか。思い出すことが出来ない。情景も浮かんでこない。何一つとして判然としないのだが、この空を二人で分け合おう——その言葉がことあるごとに俺の脳裏をよぎる。言葉そのものが早く思い出せといわんばかりに、まるで電気信号でも発しているかのようだった。
とはいえ、全く馬鹿げた話だ。環足アズ(わたり あず)はやけに青い今日の空を見仰ぎながら心の中でそう呟いた。空に果てはない。形はない。どうやって2人の人間がそれを独占できるというのだろう。空に手を伸ばすと指の間から覗いた雲が風に流され少しずつ形を変えていった。
「手が届かないのは、空に羽根が生えているからなんだよ」
後ろから不意に声をかけられた。妙に落ち着き払った声、コツコツという小気味良いローファーの足音。振り返るとそこには奏頼クリス(そうらい くりす)が佇んでいた。
学園で唯一白いブレザーを許された最上級生。ダイヤモンドを梳いたような透明感のある銀髪が肩まで流れ、太陽の光を浴びて輝いている。色素の薄い瞳は遠くを見つめるとき、まるで空の色を映しているようだった。誰もが認める絶世の美少女で、近くにいるだけで周囲の空気が少しだけ違ってしまう。
「羽根は…見えませんけど」
「ボクたちが見ているのは空の表側だからね。羽根は裏側にある」
クリスはさらにニ、三歩こちらに近づいてきて両手を交差させて羽根を形取り、パタパタさせてみせた。
「羽根を…もし羽根を掴めれば、空を自分のものに出来ると思いますか」
「出来るよ」
「俺にも出来ますか?」
クリスは俺の問いに対して、儚げに微笑んだ。
「やがて…。いや、かつてその羽根を掴んだ者は人間の可能性の一つを見せてくれた。キミがもし、その高みに、或いはもっとその先にまで至ることができたのなら、空はキミのものになる…かもね」
クリスが空を見上げるとちょうど太陽が雲の影から出てきた。色素の薄い瞳には眩しすぎたのか、彼女は目を細める。
「この空を二人で分け合おう」
俺が件の言葉を呟くと、クリスはハッと目を見開いて俺の顔を見つめた。彼女はそのことに気づかれたくなかったのか、すぐに目を逸らした。
「もし本気なら、キミは突き進むしかない。どんなに困難でも真っ直ぐにね」
彼女はよく含みのある言葉を口にする。だが、決してそれ以上のことは何も言わないし、教えてくれない。だから、こちらから聞き返すことはしない。
真っ直ぐ進むことほど難しいことはない。真っ直ぐ歩けば何かしらの障害物にあたる。それは建物であったり、人であったり、時には自分自身の心だったりする。
俺はクリスの後ろ姿を見送りながら、再び空を見上げた。今日の空は本当に青かった。北極の空も、こんな色をしているのだろうか。
北極——その言葉が頭に浮かんだ瞬間、視界が一瞬歪んだ。頭の奥で、何かがチカチカと点滅するような感覚。もっと古い、もっと深いところから来る信号だ。
俺は首を振ってその感覚を振り払った。クリスはすでに校舎の方へ歩き去っていた。銀色の髪が、風に揺れて光を反射する。
クリスは何をしに来たんだろう。俺を探していたのか、それともただの偶然か。彼女はいつもそうだ。突然現れて、意味深な言葉を残して去っていく。
俺はクリスの付き人だ。編入してすぐの頃、クリス直々に任命された。それまでは付き人を必要としていなかった彼女が、俺を指名したのは周りを驚かせたらしい。「キミは少し目立ちすぎる」とだけ言われたけど、理由はよくわからない。放課後や行事のときは護衛のように側にいることが多く、今日もこうして自然と近くにいた。
私立愛傍学園の校庭は、いつもより少しだけ静かだった。授業が終わった後のこの時間帯は、生徒たちが部活動や帰宅準備で動き回るはずなのに、今日はどこか空気が重い。
理由はわかっている。昨日、世界中のニュースで流れたあの映像だ。
白い外套をまとった謎の人物——通称アリスが、北極点上空に浮かぶ「天輪」に挑戦し、失敗した映像。
俺はスマホを取り出し、保存しておいた動画を再生した。短いクリップだが、何度も見返してしまう。
白い影がスラスターを噴射しながら、回転する無数の輪の間を縫うように上昇していく。まるで戦闘機のような機動。気流を読み、死角から襲いかかる輪を巧みに回避する。
だが、最後に一瞬の隙を突かれ、輪に弾かれて後退。墜落は免れたものの、明らかに失敗だった。
映像の最後、輸送機に収容される白い影の姿が、なぜか胸に疼く。
「……アリス」
俺は無意識に呟いていた。知らないはずの名前なのに、自然に口から出てきた。
「また見てるんですね、環足くん」
声がして、俺は慌ててスマホをポケットにしまった。振り返ると、そこには戸井美鶴先輩が立っていた。一学年上で、オカルト好きで有名な方だ。
「戸井先輩……」
「ふふ、いいんですよ。私もあの映像、気になって仕方ないんです」
戸井先輩はニコニコしながら近づいてきて、俺の隣に並んだ。
「環足くんも、あの映像にハマっちゃったんですか?」
「いえ、ただ……ちょっと気になって」
俺は言葉を濁した。どう説明すればいいのか、自分でもわからない。
戸井先輩は興奮した目で言った。
「ねえ、知ってますか? あの失敗、預言されてたんですよ」
「預言、ですか?」
「はい! オラクルっていうカードゲームのカードで、ピッタリ同じ状況が描かれてるんです。Falling Graceってカード。白い人が天輪に挑んで失敗する絵で、フレーバーテキストも『優雅なる堕落』とか書いてあって……」
戸井先輩の目がキラキラ輝いている。俺は少し圧倒されたが、興味はあった。
「それって、偶然じゃないんですか?」
「そんなわけないですよ! オラクルは過去にも大きな事件を予言してるんですから!」
戸井先輩が話し始めたとき、遠くからチャイムが鳴った。授業開始の5分前予鈴だ。
「あ、いけない! 私、ノート準備しなきゃ! またお話ししましょうね、環足くん!」
戸井先輩は手を振って走り去っていった。俺は一人残され、再び空を見上げた。
預言された失敗。
アリス。
天輪。
そして、俺の中に響くあの言葉。
この空を二人で分け合おう。
俺はゆっくりと校舎の方へ歩き始めた。『真っ直ぐに、どんな障害があっても』。そんな言葉がまた、脳裏を過ぎる。
その日、俺はまだ知らなかった。
自分が、これからどれほど大きな渦に巻き込まれていくのかを。
そして、あの白い影の正体が、どれほど自分に近い存在なのかを。




