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目が覚めたときには午前十一時をまわっていた。
邦春は自転車にまたがり、河川敷へと急いだ。
踏切を超え、風をきりながら坂道を下る。舗装途中の道は凹凸がひどくて、尻が痛くなった。国道にさしかかり、息を切らしながら信号が青になるのを待った。
間に合うかどうか、たとえ結果がどうであろうと、何もしないよりはマシだった。
青信号に変わると同時、邦春はペダルを踏みこんだ。
川沿いの堤防の上に出ると、たちまち視界が広がった。空は晴々としており薄く雲がひかれていた。
人の声援と金属バットの打球音が耳に届いた。
自転車に乗ったまま、邦春は河川敷へ下りた。邦春は投げ捨てるように自転車を停め、兄のいるベンチへ行く。試合はすでに九回表の、ツーアウト二対一だった。どちらが兄のチームか知らないが、ここまでくれば自分の出る幕はないだろうと、邦春はいくぶん胸をなでおろした。
「お、邦春じゃねえか」
兄は仲間とキャッチボールをしていた。
「どうだこのユニフォームかっこいいだろ」
邦春はちらりと見、「そうだね」とだけ言うと、これ以上ユニフォームについて何もいうまいと決めた。
「いちおう邦春のぶんも用意したんだ。今持ってくる」
と、仲間に声をかけようとした兄を邦春は止めた。
「いいよ持ってこなくて、俺出ないから」
「なんでだよ、せっかくまだ九回裏が残ってんのに」
「まだって、あと一回だけだろ」
「じゃあおまえ何しにここに来たんだ」
時が止まった。邦春は答えられなかった。姉の夢を見て、突発的にここまで来たものの、急に怖気づいてしまった自分が情けない。
審判が攻守交替を告げた。アウトとなった打者が悔しがりながらバットを地面に叩きつけた。
「気にすんなって山本さん、俺がサクッと終わらせてくるからよ」
慰めるふうに兄は山本という男の肩を叩き、審判に選手交代を伝えた。
兄の背には現役時代と同じ、『13』の番号がつけられていた。13という数字はどこか縁起の悪い数字のような気がして、身内の人間からは反対意見が多かったが、あえて兄は自ら進んでその番号を背負った。当時、「逆に強そうだから」という理解しがたい理屈は兄らしいと苦笑したものだった。
「行くぞ邦春、ぼけっとしてるんじゃねぇ」
仲間から防具を受け取ると、邦春は渋々それを身に着けた。
味方の選手たちがわらわらとグラウンドに広がっていく。マウンドに行く途中、邦春は兄に、
「いくらなんでも急すぎる。サインは?」
「たかだか草野球でサインなんざいらねぇよ。大丈夫だって、たぶんストレートしか投げないから」
しっしと動物を扱うふうに兄は邦春を手で追い払った。
「構えてくれればそこに投げてやるよ」
たぶん、という兄のいい加減さには呆れてしまう。
数回キャッチボールをしたのち、兄は外野の方を向いて大きな声を張り上げた。
「しまっていこぉー」
内野外野ともに意気揚々と応じた。
邦春はマスクを被り屈んだ。マウンドに目をやると、兄は丹念に足場をならしていた。
足場をならす頻度はピッチャーによって異なる。イニングの最初だけだったり打者を打ち取るごとだったり人によってまちまちだが、どちらかというと兄は頻度の高い方だと思う。いい加減な性格に似合わぬ所作が、兄の本当の心の内をあらわしていたのかもしれない。
邦春はしきりにミットを叩く。兄の球を捕ることだけに集中しよう。相手は二番からの好打順である。
ど真ん中。ワインドアップから兄はボールを投じると、邦春のミットに重いボールの感触があった。おそらく兄の球は百キロ程度だった。球速はすっかり落ちてしまったが、それでも十分なキレがある。体は衰えようとも繊細な指先の使い方だけは、兄は忘れていなかった。
相手チームは、まさにお遊び程度の草野球を絵に描いたようなもので、二番打者と呼ぶにはあまりにもお粗末なスイングだった。どうやって兄から一点を取ったのか不思議なくらいだった。
邦春は無言で兄にボールを投げ渡した。
マスク越しに見えるグラウンドは今も昔も変わらない。それだけで邦春は救われたような気がした。
「ストライーク、バッターアウト!」
一人目はあっさりと三振。予想通り、次の三番打者も凡退だった。
あと一人、なんら問題はないはずだった。
「ボール!」
突然、兄は制球を乱した。まさか肘が、と邦春は兄を見つめた。兄は帽子の庇に手をやり、マウンドの土をならしていた。様子は何も変わらないように見える。
杞憂だ。邦春はマスクを被りなおした。切り替えてふたたびミットを構えたが、次に兄の投げた球がワンバウンドし、邦春はボールを捕り損なった。ワイルドピッチで二死二塁。たまらず審判にタイムを申請し、マウンドに駆け寄った。
「なにやってんだよ、あと一人なんだぞ」
変わらず兄はマウンドを整えている。
「ちょっと手元が狂っただけさ。いちいち騒ぐな。これで死ぬわけでもねぇ」
邦春の額を汗が伝った。見れば帽子の庇の影からのぞく兄の頬も、汗で濡れていた。
「俺は兄貴の肘を心配して――」
「これで死ぬわけじゃねぇって言ってんだろ」
いやに落ち着いた口調だった。
「もしかして痛むのか」
「ちっとも。全部冗談だ」
さっさと戻れ、と兄はグローブで邦春の胸をたたいた。
邦春はどうしても腑に落ちなかった。
「なんで一点取られた?」
「たまたま。出会いがしらだよ。生きてりゃそういうこともある」
真偽はともかく、本人の言葉を信じるしかないだろう。
戻ろうとしたとき、「邦春」と呼ばれた。兄は邦春を正視することなく、ずっと三塁側のベンチを眺めていた。
「悪かったな。親父と姉ちゃんによろしく言っといてくれ」
「自分で伝えろよ。もう振り回されるのはごめんだ」
にやりと兄は笑い、舌打ちをした。
邦春はホームに戻ると、グラウンドを見渡した。「宮さん頑張れ、あと一人だぞ!」と、ベンチから声がした。それが引き金になったように、ベンチは盛り上がり、野手らも兄に声援を送っている。邦春は知っていた。マウンド上の兄は、周囲の期待を裏切らない。
審判がプレーの再開を叫んだ。
振りかぶり、大きく足を踏み出すと、兄の腕がしなる。空振り。ミットに飛び込んだ一投に、邦春は瞠目した。掌がしびれた。つい息をのみ、ミットに収まったボールを見つめた。
確実に球速が上がった。ふいに邦春は目の前の兄に現役時代の姿を重ね、その幻影を必死に振り払った。
二球目。またもボールにバットはかすりもしなかった。こころなし、一球目に比べてまた速さが増したように思えた。
「ナイスボール!」
と、邦春がボールを投げ返すと、兄は面映ゆげに手をあげた。ロジンバッグを放ると、打者に正対し静かに息を吐き出した。
兄の頬を伝ってきらりと反射したとき、邦春はハッとした。もがいている兄がマウンドの上にいた。ボールを握った日からずっといた。
邦春は乾いた喉で唾を飲み込み、瞬きすら忘れて、兄の投球を見つめた。兄の手を離れたと思ったときには、ボールはミットの中だった。
最後の直球を、打者はバットを振ることすらできず見送った。
「バッターアウト!」
審判のコールが響くなり、仲間は兄のもとに集まった。
歓喜の輪を見つめながら、邦春は茫然とホームベースに立ちつくした。わずかな時間ではあったが、邦春は兄と同じ舞台の上にいた。やはり兄にはかなわないと、汗を拭った。
生ぬるい風が吹いて、グラウンドの土が舞った。
汗ばんだ左手が、しびれていた。




