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白の行方  作者: 中村遠
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-04-

 翌朝、普段より早めに家を出た。

 早く目が覚めてしまったから、たまには悪くないだろうと、そのまま家を出た。

 電車に乗る前に、駅前の喫煙所で一服していくことにした。

 工事現場のふうに、喫煙所はコーンで簡単に仕切られており、邦春はすでに煙草をふかしている数人の輪に混ざる。

 煙草に火をつけて息を吸い込むと、肺の中に煙が広がった。昨夜の出来事を煙のように吐き出して忘れ去られたら、どんなに楽だろうと思った。

 鳥打帽を目深にかぶった年配の男が足早にやって来た。男は煙草に火をつけると持っていたスポーツ新聞を広げた。

 男の顔を見て「あ」、と思わず声が出た。立ち飲み屋で会った酔っ払いの男だった。男は新聞から目を離し、上目で邦春を見やった。


「この間の――」


 男も邦春を覚えていたらしい。あのときはすっかり酔っていたように見えたが、ずいぶんと都合の良い記憶力だと邦春は胸中で皮肉った。無視するわけにもいかず、小さく頭をさげた。スポーツ新聞を見、


「プロ野球、好きなんですね」


「まあな」


 男は煙草をくわえ直すと、再び新聞に目を戻した。反応が素っ気ない。今になって先日の醜態が恥ずかしくなったのだろうか。


「横浜ファンなんですか」


 男は怪訝そうにちらりと邦春を一瞥した。


「俺は横浜の出身なんだ」


「あぁ、なるほど」


 そういや父も姉も、兄がプロになる前は、地元の球団を応援していた記憶がある。


「あんたはどこだ」


 思わぬ問いだった。とっさに邦春は「巨人です」と言った。もちろん好きな球団はなかった。


「つまらん」


 にべもなく言い捨てると、男は新聞をめくった。


「どうせ肩入れするなら、勝率の高い方がいいでしょう。せっかく応援したのに負けてしまったら虚しくなる」


 男は不満げに鼻を鳴らした。


「強い弱いじゃなく、夢を見させてくれるかどうかだと、俺は思うね」


 と、深々と煙を吐き出した。

 しょせん、きれいごとだと思った。そう言っておいて、いざ贔屓しているチームが負けたら、さんざん文句を言うにきまっている。


「宮田東洋は――あなたに夢を見せてくれましたか」


 煙草をくわえたまま男は目を瞠った。備え付けられた灰皿に煙草を押し付けた。


「ああ、もちろん。宮田には良い夢を見させてもらった」


「最後は悪夢を見せていきましたけどね」


 悪夢というより、夢からさめただけだったのかもしれない。きっとあれが現実だったのだ。


「あんたは、あいつに夢を見せられた一人じゃないのか」


 と訊ねられると、邦春の頭に兄のプレーする姿が走馬灯のようによみがえってきた。

 一番古い記憶は小学生のころだ。邦春はまだ野球を始めておらず、客席から姉と一緒に試合を見ていた。声を出すのが恥ずかしくて、応援する姉の横で行儀よく座っていた。

 中学生の夏、甲子園に出場する兄をテレビの前で固唾をのんで応援した。兄が最後のバッターを打ち取ったとき、会社を休んだ父と姉と三人で万歳をした。日差しの強く蒸し暑い日だった。

 兄がプロに入ったとき、高校の野球部の練習が忙しくなった邦春は、兄の試合を見る機会が減った。それでも、クラスの知人や近所の人から兄の活躍は聞いていた。家に帰れば姉は頻繁に兄のトロフィーと勝利ボールを磨いていたし、父は来訪者全員に兄の自慢話をした。

 兄のフォームは美しかった。ボールは失速することなく、いつもきれいな軌跡を描いてミットに吸い込まれていく。

 もし自分がキャッチャーとして兄と同じ舞台に立ち、あの球を受けることができたらと、しばしば叶いもしない空想にふけったものだった。


「わかりません」


 はっきりと邦春は言った。


「良いか悪いか……人に夢をあたえられる人間が、世の中どれだけいるんだろうな」


「そのわりに、この間は裏切られたって言ってましたよね」


「さぁな、酔っぱらっていたときのことなんざよく覚えてない」


 邦春は微苦笑した。つくづく都合の良い記憶力である。


「さめちまったら、また新しい夢をみるだけだ。俺くらいになると老い先短いから、馬鹿げたことでもボケ老人の戯言で皆済ましてくれらァ」


 男は二本目の煙草をふかした。ふと横顔が父と被った。

 行き交う車が増え、往来が騒がしくなってきた。電車の時刻が迫っている。


「あなたはきっと、長生きしますよ」


 煙草の火を消すと邦春はスーツの襟を正した。

 食い入るように男は新聞に顔を近づけ、「ありがとよ」と呟いた。






 思いがけない電話が入ったのは、仕事を終えて社を出たときだった。画面に知らない番号が表示され、不審に思いながらも電話に出た。


『邦春か、俺俺』


 電話口の向こうから聞きおぼえのある声がした。今どき詐欺師でもその常套句は使うまい。


「俺に何の用」


 我ながら棘のある言い方だと思った。どこから弟の電話番号を入手したのだろう。

 兄と通話したまま駅へと歩いた。


『明日、十時から多摩川の河川敷で試合があるんだ。おまえ出られるだろ』


 邦春は兄が正気なのか疑いたくなったが、淡々とした物言いからするに、たぶん兄は冷静で、真面目に自分を誘っているのだ。しかも、どこか決めつけているふうな言い方が気に入らない。


「悪いけど明日は仕事だから無理だよ」


 ほんとうは休みだったが嘘をついた。


『職場の連中との草野球なんだけどさ、あと一人足りねぇんだ』


 邦春は、兄がまともに働いていたと知り、いささか驚いた。

 ちりん、とベルを鳴らされ、邦春は後ろからやって来た自転車に道を譲った。


「だから仕事だって。というか兄貴本気か」


 よくも今さら平然と野球ができたものだと思った。邦春自身でさえ、どんな顔をして野球をすれば良いかわからないというのに。


『仕事仲間に誘われて、つい』


 邦春は呆れた。

 兄の誘いをどう断ろうかと逡巡した。一方的に通話を切ってしまうのもひとつの手ではあるが。


「やっぱり無理。誰か他をあたってくれ」


 駅の改札を抜け、ホームへの階段を上った。電光掲示板の文字が明滅し、電車の到着を告げていた。ホームにアナウンスが響く。


『そうか……いや、やつら俺の引退試合をしようって言ってくれてよ。そういえば俺、最後の試合のことよく覚えてねぇから』


 なんて勝手な話だろうと、邦春は電話を握りしめた。さんざ周囲を騒がせて迷惑をかけた人間が、おめおめと人の好意によりかかることが許されると思っているのか。

 そのうえ、もし弟に花道を飾ってもらおうなどと企てているとしたら、思い違いも甚だしい。


「覚えていないんじゃなくて忘れたいだけだろ。嫌な記憶を消してなかったことにしたいだけのくせに」


 兄は無言だった。邦春は責め立てるように続けた。


「たかがいちど一緒に飲んだくらいで、俺に同情してもらえるとでも思ったかよ。この際だから言ってやる。俺は兄貴が嫌いだ。そしてもう野球はしないって決めた。二度と電話はかけてくるな」


 言うなり邦春は通話を切って電車に乗り込んだ。その後、電話は鳴らなかった。

 帰宅しベッドに倒れ込むと、そのまま眠りについた。






 縁側に姉の姿を見たとき、これは夢なのだと悟った。

 父がよく使っていた作業場、一年中玄関にさげられた風鈴、満足に舗装されていない砂利の庭、錆びてくたびれた郵便箱、小屋には数年前に死んだはずの鶏と兎、田畑から漂う土の匂い。

 すべてが懐かしい。

 縁側に座る姉は、足をぶらつかせて微笑んでいる。ゆっくりと歩むと、邦春は姉としばしの間見つめあった。姉は何も言わなかった。


「姉ちゃん、今までなかなか帰ってこれなくて、ごめん」


 姉は表情を崩すことなく、気にするなというふうに、首を横に振った。


「兄貴に会ったよ。別人みたいだった。もう俺、兄貴とキャッチボールできそうにないや」


 姉は眉を下げ、困ったように笑みを浮かべた。本心では悲しんでいるにちがいなかった。

 いっそのこと叱ってほしかった。前みたいにうるさく世話をやいてほしかった。

 兄弟仲良くしろと、また故郷に帰ってこっちで暮らせと。金は足りているのか、ちゃんと食べているのか、体調は大丈夫か――

 あのとき煩わしかった一言一言を愛おしんでも、もう遅い。


「あんなかっこ悪い兄貴、初めてだ。見たくなかった」


 マウンドで誰よりも輝いているのが兄だった。


「すっと思ってた、あんなやつ挫折すればいいのにって。だけどいざそうなったら、腹が立つんだ。自分でもわけわかんないよ」


 兄や己に、これから何を望むのだろう。野球を辞めた日から邦春は考え続けてきた。


「野球だって続けたかった。野球が好きだって、いつまでも言える人間でいたかった」


 だんだんと目頭が熱くなって、視界の中の姉がぼやけた。


「俺は自分が上手くいかないことを、兄貴のせいにして……」


 うつむくと涙がこぼれた。

 いつもどこかで、兄と比べて自分を否定し、慰めていた。


「兄貴に野球しようって誘われて断ったのも、怖かっただけだ。もし上手くプレーできなかったらどうしよう、何かヘマするんじゃないかって思うと怖かった」


 そして錆びついた兄のプレーを見たくなかった。

 涙を拭って顔を上げると、姉の姿はなかった。姉を探してあたりを見回すと、邦春から少し離れ、作業場の前に姉は立っている。


「姉ちゃん?」


 いきなり姉は大きく振りかぶり、ボールを投げた。姉の投球フォームはぎこちなく、始球式のアイドルのようだった。

 大仰な投げ方に反してゆるい放物線を描いたボールを、邦春は反射的にキャッチした。やけにボールの感触が手に馴染んだ。

 妙にリアルだった。もしかすると現実ではなかろうかと、淡い期待のようなものを抱き、すぐさま姉は亡くなっているのだと思い直すと、ふたたび涙がこみあげてきた。

 いつの間にか姉はグローブをはめていた。早く投げろと言わんばかりにそれを叩いている。


「よぉし、ちゃんと捕れよォ」


 鼻をすすると邦春は手をあげ、姉に向かってボールを放った。

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