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白の行方  作者: 中村遠
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-03-

 何事もなく繰り返される毎日が、終わりのない負のサイクルのように思えてならなかった。

 働き始めて三年が経ち、すっかり会社に飼いならされてしまったような気がした。

 ひと気のなくなったオフィスを見渡し、邦春は首を回した。凝り固まった肩が重かった。

 営業二課に所属し、得意先も増え仕事に一定の手ごたえと自信をもてるようにはなったが、上から声がかかる気配はいっこうにない。

 ようやく明日の会議資料をまとめ終えた。デスクの上を片づけて、オフィスを出ると声をかけられた。


「よう宮田、今帰りか」


 廊下の先に目をやると、同期の鈴木が手をあげていた。背は小さく小柄だが、色黒の肌ときりりと吊り上がった眉が、その体格を補って逞しさを感じさせる。


「おうお疲れ。ちょっと仕事が残っててな」


「同じく。お互い大変だな。どうだ、久しぶりに一杯やって帰らないか」


 断る理由もなく、「ああ、いいよ」と邦春は肯いた。

 会社を出、二人は駅へ向かった。駅前のロータリーには、客を待つタクシーのライトが明滅していた。


「宮田、立川だろ? 俺も今日立川だから立川で飲もうぜ」


「いいけど、何かあるのか」


「彼女のとこに行くんだ。向こうも帰りが遅いみたいだから、一杯飲むくらいは大丈夫さ」


「なんだ、俺は彼女が帰るまでのつなぎか」


 と、邦春は微笑した。


「まあまあ、同期のよしみだろ」


 そう言って、鈴木は邦春の肩を叩いた。

 同期のよしみ、とはいうものの、邦春と違い鈴木は入社三年目にして営業一課の課長であった。

 能力や要領の良さで自分が鈴木に劣っているとは思えない。違いをしいてあげるのならば、愛想の良さや人あたりの良さであろう。取引相手や客に頭を下げることを厭わず、いつもヘラヘラと笑みを浮かべている。上手く馬鹿を演じてみせるのだ。

 処世術とはいえ、邦春にはそれができなかった。

 不向きとは言わぬがこの職が向いているとも思えない。転職活動をするのが億劫で、ただ生きるために作業事のようにこなしてきた自分では、同期との差が生じるのも至極当然の結果といえた。


「そういや宮田、野球部だっけ」


 立川へと向かう中央線の電車の中、唐突に鈴木は訊ねた。車内は仕事から帰宅する乗客であふれていた。


「ああ、いちおう大学まで」


「へえ、大学までやってたなんてすごいじゃないか。俺なんて高校のときサッカーやったきりで大学じゃ飲みサーだからなぁ」


 つり革に掴まりながら、鈴木は身を乗り出すようにして言った。


「四年間ずっとベンチだったけどね。試合に出たことはいちどもない」


「それでも大学まで続けてたんだろ、たいしたもんだよ」


 讃えるような言葉をかけられるたび、邦春はどう反応すれば良いのか戸惑った。特にこれといった成績を残せずに終わった競技生活を、最後までやり切ったから、という理由で褒められるのは不本意だ。


「彼女の親が野球好きなんだけど、俺野球なんて今まで興味がなかったから」


 そういうことか、と邦春は呆れつつ納得した。


「だからさ宮田、教えてくれ」


「なんで俺が。テレビとかネットとか、いくらでも知りようがあるじゃないか」


「そんな冷たいこと言うなよ。俺たち同期だろ」


 またそれだ。協力して何かを成し遂げたわけでもないのに、たまたま入社した時期が同じだっただけで仲間扱いされてはたまったものではない。


「そんなこと言われても、働き始めてからはさっぱりだぞ」


 本人には目を向けず。邦春は前を向いたまま言った。


「大丈夫大丈夫」


 携帯電話をいじりながら鈴木は答えた。何が大丈夫なのかと、邦春は溜息をつかざるを得なかった。






 立川駅の改札を出ると、自然とふたりの足は南口へ向いた。

 風の強い夜だった。

 立ち並ぶビルの隙間から梅雨の湿り気を含んだ風は駅へと吹き入り、まっすぐ北口の方へ流れ去った。


「前に二人で行った立ち飲み屋、あそこでいいよな」


 駅を出た直後、鈴木は言った。

 邦春は、何としてもあの店だけは避けたかった。「いや、あそこはちょっと」と言って続く言葉を躊躇った。たぶん、鈴木に行きたくない理由を問われたら自分は返答に窮する。

 何も言わぬ邦春を見、「決まりだな」と鈴木は歩を進めた。

 店に入るとき、兄がいるのではと邦春はいささか緊張した。人の間隙を進みながら空いている席へ向かう途中、客ひとりひとりをつぶさに確認する。

 席につくと、邦春は胸をなでおろした。


「生でいいか?」


 鈴木の問いに頷き、携帯電話をチェックしていると、隣に客がやって来た。軽い気持ちでその客を一瞥したとたん、邦春は全身から血の気が引いた。

 宮田東洋が隣にいる。確かに姉の葬儀で見た本人だ。

 邦春は兄に気づかれぬよう俯いたまま固まった。


「おい、どうした宮田? 顔色悪いぞ」


 心配そうに鈴木はのぞき込む。


「ごめん、俺」


 邦春は急いでその場を立ち去ろうとしたのだが――


「邦春?」


 背後から懐かしい声がした。兄に名を呼ばれたのはいつぶりだろう。


「用事思い出したから先帰るわ。金は明日払う」


 店を出ようと邦春は鞄を手にし、出口へ向かう。

「邦春!」と、腕をつかまれた。兄の手の思わぬ力強さに逃げらないと悟ると、邦春はおそるおそる振り返った。


「俺だよ、俺。久しぶりだなぁ!」


 弟の両腕をつかみ、兄は眉を開いた。邦春は唖然とするしかなかった。

 髪は寝癖そのままに乱れ、おそらく鬚も三日は剃っていない。半袖のシャツに色落ちしたジーンズ、足元はサンダルという近所を出歩くおやじのような恰好である。シャツの首元は黄ばみヨレヨレで、姉の葬儀のときとまるで同じ服装だった。半袖から伸びた腕の細さから時の流れを実感して、おもわず鼻の奥がつんとなった。


「あに、き……」


 そう呟くのが精いっぱいで、兄の快活さを目の当たりにしてすっかり嫌悪感が萎えてしまった。


「まさかこんなところで会うなんて思ってなかった」


 大声で笑いながら、兄は邦春の背を叩いた。兄の態度はなにひとつ変わらない。兄が家を出たのがつい昨日のことのように思えるほどだった。

 兄に促されるまま邦春は席につきなおした。


「え、宮田のお兄さん?」


 店員が持ってきたグラスを受け取りながら、鈴木は目を見開いた。

「兄の東洋です」と、兄が先に名乗り出た。

「はじめまして」と鈴木は小さく会釈した。二人のやり取りを無視して、邦春はビールに口をつけた。


「何やってんだ宮田、ここはお兄さんと一緒に乾杯だろ」


 飲んでいる途中、鈴木に軽く小突かれた。鈴木は店員を呼び、追加のビールを注文した。スーツにこぼれたビールを邦春はおしぼりで拭いた。


「いいよ、俺のことは気にしないで二人でやってくれ」


 と、兄は笑った。らしくない台詞だった。

 邦春が知る兄は、いつも自分が一番だった。

 際立った才能をもつ兄は、弟が苦戦するのを見て、どうして出来ないのかと平然と訊ねる。兄に悪気がないことはわかっていた。邪心のまったくない素直な心で、自然と邦春は兄に見下されてきたのだ。


「今さらいい人ぶるなよ」


 おのずとそんな言葉が洩れた。兄の顔から表情が消えた。


「急にそんな怖い顔すんなよ、飲もうぜ」


 店員がビールを持ってきたのを見届けて、鈴木はグラスを掲げ乾杯を求めた。

「かんぱーい」という鈴木の声と、グラスの合わさる小さな音が鳴った。兄はビールを一気に飲み干し、すぐさま店員を呼ぶと二杯目を頼んだ。


「いい飲みっぷりですねぇ」


 場の空気を繕うように鈴木は言った。正直なところ、邦春は鈴木がいてくれて助かったと思った。


「お兄さん、身長高いですねぇ。何かスポーツやってたんですか」


 鈴木の話し方は完全に営業トークのそれである。


「俺と同じで兄貴は野球をやってたんだ」


 兄が口を開く前に邦春は答えた。言った後で、なぜ自分が兄の気を遣っているのか不思議だった。ただ何となく、兄に答えさせてはいけないような気がした。


「へぇ、身長高いんだからさぞ上手かったでしょ」


 兄は面映ゆげに笑い、


「高校のときに甲子園で優勝して、プロ入りしたくらいには」


 鈴木は一瞬きょとんとし、


「甲子園優勝? プロ? すごい!」


 鈴木の関心は完全に兄へと向けられた。そこから質問の連続で、気づけば邦春は蚊帳の外だった。兄は酔いにあおられて饒舌だった。

 帰るタイミングを失ってしまった邦春は、予定よりも長居する羽目になってしまった。腕時計を確認し、鈴木に訊ねた。


「鈴木、彼女の方はいいのか」


 鈴木も兄もすっかり酒がまわっているようで、二人とも顔が赤くなっている。


「ん、ああそうだな。お兄さんのせいで彼女に怒られるところだった」


 と、鈴木は頭かき、「俺のせいかよ」と兄は笑った。二人はすっかり打ち解けたらしい。


「そういやお兄さん、なんでプロ辞めちゃったんですか」


 ひやりとした。

 先ほどまで饒舌だった兄は、急に酔いがさめたかのように黙り込んだ。


「兄貴は怪我してさ、だからプロを辞めたんだ」


 とっさに邦春が答えると、しまったというふうに鈴木は口を被った。


「そうなんですか、いやぁすみません……じゃあ俺、彼女が待ってるんで帰ります。後は兄弟水入らずごゆっくり」


 苦笑を浮かべて鈴木は鞄を持ち、飲み代も置かず店を出ていった。

 兄と二人取り残され邦春はどうしたものか悩んだ。兄の小さくなった背中と痩せこけた横顔を見て、じゃあ俺も、と帰ってしまえるほど薄情になれない自分が悔しかった。

 鈴木がいなくなってから、兄は黙々と飲み続けた。邦春は黙って時が過ぎるのを待った。






 店を出るころには、十二時をまわっていた。人通りは少なかった。

 酩酊している兄の肩を抱き、邦春は夜の通りを歩いた。


「兄貴、しっかりしてくれ。送って行くよ、家はどこ」


 訊くと兄は真っすぐ前を指さした。邦春は深い溜息を洩らした。

 等間隔で並ぶ街灯のオレンジ色の明かりが、二人の行く先を照らした。

 兄は今どこに住んでいるのだろう。邦春は酒の入ったぼんやりとした頭で考えた。立ち飲み屋の常連であるようだから、この近辺に住んでいるのは間違いない。もう何年も会っていない、ほぼ生き別れになったような兄とまさか故郷から離れたこの地で再会しようとは、まったくもって世間は狭い。

 チームを退団してから兄はどこで何をしていたのか。兄の経歴では、職に就くにも一筋縄ではいかなかったにちがいない。

 兄の体は軽かった。肩に回された腕は骨の固さが感じられて、筋骨隆盛とした競技者のころの面影はなかった。ふいに、邦春はうら寂しくなった。

 片側二車線の交差点を渡り終え、閑静な住宅街に入ると、兄は小さくうめいた。


「悪かったなぁ、おまえに気ィ遣わせて」


「まぁ、べつに」


 兄に気を遣ったわけではない。己を守っただけだ。他人から向けられる同情の目を避けたかった。腫物に触るように接してこられるのは、もううんざりだ。


「あいつがいやに乗せるのが上手いもんだから、ついしゃべっちまった」


「同期の一番の出世頭だからな」


「はは、わかる気がする」


 と、兄は肩を揺らした。


「邦春は出世するのがヘタクソそうだもんなぁ」


「うるさい」


 兄とのやり取りに、懐かしさを覚えた。

 お、と何かを見つけたのか兄は邦春から離れた。すべり台とベンチのある小さな公園にボールが転がっていた。

 千鳥足で歩み兄はそれを拾うと、何度か宙に放った。


「知ってるか邦春、今は公園じゃ野球もキャッチボールもしちゃいけないんだってよ」


 兄は感触を確かめるようにボールを握った。


「まったく、おかしな世の中になったもんだ」


 ひとりごちると、兄は口元を抑え、公園の外灯の下で嘔吐した。外灯に手をつきうなだれる後ろ姿が見ていられなかった。


「なんで、なんの連絡もよこさなかった」


「あ?」と、口元を拭って兄は首だけで振り向いた。


「姉ちゃんも親父も、皆心配してた。もしかして自殺でもしたんじゃないかって」


 兄を探してほしいと、姉から連絡が入ったが無視した。大学一年目、ようやく新しい生活に慣れたころの兄のトラブルだったから、野球部を辞めようかとさえ思った。

 あのころの自分は、まだほんの少しばかりの可能性を捨てきれずに、野球に打ち込んでいた。誰よりも早くグラウンドに来て誰よりも遅く帰った。毎日走った。休日も返上して練習した。野球の書物を読みふけった。誰よりもバットを振った。部内で一番練習したと自負している。

 だがいつもベンチだった。

 鳴くことしか出来ぬ鶏が、大空への飛翔を夢見てひたすらに羽ばたかせる様子は、じつに滑稽だっただろう。悠々と翼を広げて空を飛ぶ鳥の目には、ひどく愚かに映ったにちがいない。

 嘲笑か、それとも同情か。そんなものが欲しくて、自分は空を見上げていたのではない。望む場所へ飛んで行けるだけの力が欲しかった。

 力をもちながら、それを放棄した兄を許せなかった。

 なぜ兄なのだ。

 小学生のときはエースで四番、甲子園の優勝投手、プロ初登板で異例の完封勝利。

 兄が良くて自分では駄目だった理由がわからない。何が違った。もって生まれたものだけだろう。それだけでこんなにも差が出るなどと、認めてたまるか。

 邦春は堪えるように下唇を噛みしめた。


「俺が自殺?」


 ぷっ、と吹きだすと、兄は腹をかかえて笑った。


「笑うなよ」


 低い声音で言うと、ぴたりと兄の笑いは止んだ。


「面白くもなんともない。皆本気だった、真剣だったんだ」


 少なくとも自分は、本気で野球に向き合っていたつもりだった。


「なんだよその格好、ホームレスみたいになりやがって、無様な姿晒して、笑いたいのはこっちの方だ」


 天を仰ぎ見た。今うつむいたら、涙がこぼれてしまいそうだった。


「笑えよ」


 兄の言葉がすぐには理解できなかった。そのまま兄は座り込んだ。外灯に照らされそこだけ浮かび上がる様は、まるで物語に登場するステージ上の人物のようであった。やはりここでも自分は観客かと、邦春は思った。


「それでおまえの気が済むのなら、笑えばいい」


 喚きたくなる気持ちを、邦春は必死で抑えた。唇が震えた。


「違うだろ。兄貴はプロ野球選手で、誰よりもすげぇ球が投げれて、いつもマウンドの上にいるんだ。こんなところで酔っぱらってゲロ吐いてるわけないんだ」


 信じたくなかった。自分の思い描いていた理想が地に墜ちるはずがない。

「そうだな」と、兄は額に手をやりうつむいた。


「姉ちゃんに聞いたよ、四年前実家に金借りにきて親父に追い出されたこと。けど親父は今でも横浜ファンで、毎年兄貴のユニフォーム着て、チームを応援してる。姉ちゃんもずっと横浜を応援してた」


 兄がプロで初登板した日に、帰宅するなり姉は兄からもらったボールを自慢げに見せてきた。酒に酔った父は、まるで横浜が優勝したかのような騒ぎだった。「見て邦春」とボールを鞄から取り出したときの姉の子どものような笑みを、邦春ははっきりと覚えている。


「あんときの親父の顔もすごかったけど、葬式んときの顔の方がもっとひどかったな」


 つい先日の出来事を、遠い過去の思い出のふうに兄は言った。


「姉ちゃん幸せそうな顔してたなァ。まるで寝てるみたいだった」


 兄の声はかすれていた。なんどか咳き込むと外灯のポールに背中をあずけた。

 邦春は空を見上げた。星はなかった。たとえ星が見えなくとも、邦春は日が落ちても煌々と輝く街並みが好きだった。


「邦春、俺さ、自分は何でもできるって思ってたんだ、おかしいだろ」


 唐突に兄はそんなことを言った。


「俺も、兄貴はなんでもできるって思ってたよ」


 本気でそう思っていた。


「だろぉ、けどさ、おかしいんだ。肘が痛くてよぉ。腕は振れねぇし、思ったところにボールがいかねぇ」


 兄が肘を怪我したことは、当時姉から知らされていた。幼いころから投げてきたツケがきたのだろう。手術とリハビリで一年棒に振った兄は、翌年復帰戦で勝利をおさめ、みごとに復活を果たしたとメディアで報じられた。認めたくはなかったが、さすが兄だと思わざるを得なかった。しかし復帰してからほどなく、兄は二軍に落ちた。


「もうずっとおかしかった。調子は悪くない。良いと思った球があっけなくはじき返される。俺は何も変わっちゃいない。今までと同じように投げただけだ。俺は何もしてねぇ」


 兄は膝をつき地面にふさぎ込んだ。


「新人が入ってくるたび、どいつもこいつも、もう俺が終わったような目で見やがる。この俺が、ブルペンエースなんだってよ。……俺がなにしたってんだ」


 兄は嗚咽を洩らして泣き始めた。兄はどこにでもいるごく普通の人間だと初めて知った。

 邦春は場を繕う言葉を探したが、慰めも労いの言葉も相応しくないと思った。もしも兄の矜持がまだ少しでも残っているとしたら、自分の口から出る一言がどんなものであっても、兄は傷つくような気がした。

 そこで兄とは別れた。邦春が送って行くと申し出たが、兄は頑なに断った。

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