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白の行方  作者: 中村遠
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-02-

 大学四年の冬のことだった。一月の下旬、ようやく内定を得た邦春は進路を報告するため、いったん東北の実家に帰省した。


「じゃあ就職はあっちでするのね? お父さん寂しがるだろうなぁ」


 コーヒーの入ったマグカップを両手で包み、姉は冷えた手を温めた。

 小学生のころに母を亡くした邦春にとって、姉の亜希子(あきこ)は母のような存在であった。家事全般をこなし、高校卒業後は地元の会社に就職した。父は仕事で忙しく、家のことは姉に任せきりだった。


「寂しいって言われたって、俺、帰る気ないから」


 息を吹きかけコーヒーを啜る。邦春は、波打つコーヒーに写る自分の顔を見つめた。そう、とだけ答えて亜希子は視線を落とした。

 見ると姉の手は日々の家事のせいか赤くすっかり荒れていた。

 邦春は掘り炬燵の中の足をこすり合わせた。居間の窓にはびっしりと結露した水滴が付着しており、ところどころ滴となって垂れていた。空は曇り模様で、昼間だというのに家の中は薄暗い。

 都会の喧騒に比べると、田舎は不気味なほど静かである。響く音はたまに通る車の音と鳥のさえずりのみ。民家と民家が離れているから、人の声すらしない。

 近くにコンビニも駅もなく、どこへ行くにも車が必要で、テレビ番組の数も東京の半分以下だった。インターネットも思うように繋がらない。時の流れが非常にゆっくりと感じられ、邦春は退屈で仕方がなかった。

 いちど地元へ帰ってきてしまえば、こちらの暮らしに慣れてしまえば、自分は二度と世界に出ていけぬ気がした。この狭い箱庭のような土地で一生を終えるのは心底嫌だった。


「学校の先生にはならないの? 邦春、部活の顧問やりたいって言ってたじゃない」


「教員になるのは難しいんだよ。採用数だって限られてるし、新卒がすぐになれるような職じゃない。何年か非常勤をやってそれでやっと」


 思えば大学に進学した理由がそれだった。上京した当時はきちんとした目標があったはずなのに、この四年で大きく道を逸れてしまった気がする。


「ならこっちで非常勤やるとか」


 邦春は小さく首を横に振った。亜希子は諦めたように肩を落とした。

 外で屋根から雪の落ちる鈍い音がした。


「ずっと部活やっていたんだから、何かそれを活かした職に就ければと思っていたけど、まさか営業だなんて」


「部活なんて関係ないって、プロになるんじゃあるまいし」


 野球の話は避けたかったのに、自ら口にしてしまった。


「けど、野球は続けるんでしょう?」


 亜希子は眉を下げて、乞うように訊いた。


「いや、やらない」


 すげなく返答した。亜希子はいったん何か言いかけ、言葉を飲み込んだ。そして落ち着いた声音で、


「どうして、大学だって野球がしたくて入ったようなものでしょう。あんなに野球のことばっかりだったのに」


「もう野球はいいや。疲れた」


 と、邦春は視線を逸らした。姉がどんな表情をするのか想像できて、顔を見るのが怖かった。

 大学で野球がしたい教員になって野球部の顧問がしたい、と無理を言って進学させてもらった人間が、今になってどうでも良いとぬかすのは、親不孝以外の何者でもあるまい。

 邦春が大学に入学してから、父と姉はこの広い家に二人で暮らしてきた。土地の広さのせいもあるが、田舎の家は無駄に大きい。今となっては大半の部屋が物置と化しており、親子二人で生活するにはあらゆる意味でこの家は寒々しい。父も姉もひとり、一部屋だけ明かりを灯し、細々と食事をすることもあったにちがいない。

 自分がいなくなってからの、実家で流れた日々を考えると少々胸が痛んだ。


「私は、邦春に野球続けてほしいな」


 亜希子はぽつりと呟いた。気持ちはわかる。だがしかし、この家で流れた年月を邦春が知らぬように、邦春に訪れた四年間を父と姉は知らない。空白の時間を前にして、姉がこの地を発ったときと同じ目で自分を見ていることに腹が立った。

 ついよけいな台詞が口からとびだした。


「その言葉、俺じゃなくて兄貴に言うべきだろ」


 言ってすぐ後悔した。たちまち姉の表情がくもった。


「たまに連絡はしてるんだけどね。電話も出ないし、メールも返ってこないの」


 小声でこぼすと、思いついたように亜希子は言った。


「邦春からも連絡してみてくれない? あんたなら東洋も返事するかも」


「嫌だよ、どうして俺から連絡しなきゃならないんだ。そういうのって普通は年上からするもんだろ」


 五つ年上の東洋が高校入学のため実家を離れてから、邦春は兄とろくに会っていないし、会話もしていない。そんな弟からいきなり近況を尋ねるようなメールがきて、兄が返信するとは思えなかった。話すことは何もない、不祥事によってプロを辞めた人間などと。


「あんたたち兄弟でしょ、そんなこと言わないでさ。一言で良いんだって」


「しつこいな、嫌なもんは嫌なんだよ」


 自然と語気が強くなった。


「なんでそういうこと言うかなぁ、家族なのに」


「やめてくれ、兄貴がプロを辞めたとき、俺がどういう目で見られたか知らないくせに。辞めたときだけじゃない、プロになったときだって、皆喜んでたけど、俺はちっとも嬉しくなかった」


 邦春は唇を噛んだ。自分の中に閉ざしておくつもりだった。姉に想いを吐露したところで、何の意味もないことなど理解している。


「急にどうしたのよ」


 亜希子は苦笑した。弟の告白が信じられないのだろう。

 幼いころから、兄は邦春にとっての比較対象であった。兄が一週間で身に着けた技術をマスターするのに、邦春は三か月を要した。

 小中とエースで四番だった兄は、野球部の強豪校に誘われ寮に暮らし始めた。兄と距離をおけることに少なからず安心した。しかしそれで事は終わらなかった。甲子園優勝、プロ入団と兄は着実に階段を昇っていったのである。

 ちょうど兄と入れ違うように中学の野球部に入部したときも、宮田東洋の弟というだけで周りの人間は期待した。邦春からすればプレッシャーでしかなかった。勝手に己のハードルを上げられ、裏切られたと周囲は落胆していく。高校でも大学でも同じだった。

 試合は観戦するもの。ベンチの隅と家のテレビの前が邦春の定位置だった。

 大学のとき、全国から集められた部の仲間たちの実力を見て開き直った。力がないなら他の道を探せば良い。野球に関わっていく方法はいくらでもある。

 そんなときに兄のスキャンダルが舞い降りたのである。

 プロ六年目の春だった。週刊誌にめずらしく兄の記事が載った。二年前に肘の故障で手術をしてからほとんど二軍暮らしで、記事に取り上げるほどの選手ではないように思えたが、やはり過去の栄光が兄を逃がさなかった。

 記事によると宮田東洋は一般女性への不同意わいせつの疑いで書類送検されたとあった。おまけにその相手は、同じチームの四番バッターの妻だったと記されていた。邦春は雑誌を開いたまま、しばらく書店の棚の前から動けなかった。


「さんざん周りを期待させて振り回して、女に手をだしてクビになって、挙句の果てに音信不通の行方不明。最低だよ。本当はあんなやつ兄貴とも呼びたくない」


 ぬるくなったコーヒーを一気飲みした。


「あいつは今までの俺の人生を滅茶苦茶にした。あいつさえいなければ俺は今だって――」


 そこで邦春は口をつぐんだ。

 自分が何を言おうとしていたのか見失った。

 兄さえいなければ何なのだ。

 野球を続けていた?

 野球を好きなままでいられた?

 たった一人の人間に左右されるほど、己の想いはちっぽけなものだったのだろうか。

 わからない。

 だが、兄がいなければこんなふうにはならなかった。無垢な気持ちで、いつまでも白球を追いグラウンドを駆けていられたはずだ。

 茫然とする邦春を見、亜希子は微笑んだ。


「邦春がそんなふうに思っていたなって知らなかった。ごめん」


 邦春をなだめるような優しい口調だった。


「昔さ、よく東洋と邦春、キャッチボールしてたよね」


 亜希子は庭先を見つめた。邦春は首だけで振り返り、外を見やる。


「最初のころ俺、捕れなかったからな。俺が投げて、兄貴はボールを捕って転がして俺に渡してくれてた」


 どこへ飛んでいくかわからぬ荒れ球を兄は苦もなく捕球していた。あのころの自分はただ投げることに夢中で、いとも簡単にキャッチする兄の凄さに気づかなかった。

 姉は、庭先でキャッチボールをしている兄弟を、今でもありありと思い浮かべることができるにちがいない。

 ふいに「ごめんね」と、もういちど亜希子は呟いた。邦春が振り向きなおすと、依然として姉は遠くを見るように、庭を眺めていた。


「邦春も東洋もつらかったんだよね。ごめんね」


 いつしか日は暮れており、薄暗い中、姉の目が潤んでいたのがかろうじてわかった。

 邦春は頭から足のつま先まで、全身が冷たかった。

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