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白の行方  作者: 中村遠
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-01-

 人の波に流されるように改札を抜けると、宮田邦春(みやたくにはる)は息をついた。夜九時をまわった駅の構内はいまだに人が入り乱れ、酔いつぶれた学生が壁際に座り込んでいた。ネクタイを緩め、やや猫背になりながら、人の間を掻い潜るように進んだ。

今日もやり過ごすことができたと、邦春はもういちど大きく息を吐いた。それは己の人生を諦観した溜息だった。

 就職活動を怠った邦春は、大学卒業間近に内定を得、現在の職に就いた。もちろん選ぶ余地はなかった。

 きっと、物語でいえば名もなき脇役で、才能の欠片もなければツキもない。人生という道路があるとしたら、自分はすべての赤信号にひっかかってしまう人間にちがいないと思った。

 駅の南口を出、正面のビルに設置された大型スクリーンの眩さに、邦春は一瞬目を細めた。スーツのポケットに手を入れながら、デッキの階段を小走りで下る。待ち構えていたキャッチの男女らを無視し、ふと、無意味だと知りながら、彼らの過去と未来に想像をめぐらせた。

 現実はあまりにも退屈で平凡なものと考え――いやそうでもないと、邦春は自嘲気味に笑った。

 二週間前に姉が亡くなった。死因は母と同様のくも膜下出血だった。倒れて病院に運ばれてから一週間、ついぞ姉の意識は戻らなかった。昨年結婚したばかりの三十六歳だった。これから幸せな日々を送るはずだった。

 姉の苦労を考えるとやるせなかった。しかし、想いや労力はどうせ報われないのだと、邦春は思っていた。

 昔はもっと純真だった。邦春は熱量のほとんどを、大学時代に手放した。すべては、兄の宮田東洋(みやたとうよう)のせいだった。





 帰路の途中にある立ち飲み屋へ入る。金に余裕があるときだけ、立ち寄る店だった。味はそれほどではないが、早くて安い。酒はあまり得意ではないが、アルコールの力を借りたいときはある。店内の一番奥が、邦春のお気に入りの席だった。


「生とキャベツと」


 あとは焼き串を適当にふたつほど。飲むのはきまってジョッキ一杯だけ。飲みすぎて次の日の仕事に響くのは嫌だった。

 週の半ばだからか客は少ない。


「ここだ打てよォ」


 酔っ払いの野太い声がとんだ。店内のテレビで野球中継が流れていた。試合は巨人が一点リードの九回裏の横浜の攻撃だった。


「打てぇ、筒香ぅ」


 男の叫びに、隣に並ぶ連れの男は恥ずかし気に身を小さくし、周囲の客はくすくすと笑った。「おまたせいたしました」、とテーブルにビールとキャベツが置かれると、邦春はビールを一口含んだ。昔は不味いと思っていたビールの苦みに、いつしかすっかり慣れていた。


「時間だと? んなもん関係ねぇだろうが」


 声を荒げて、男はグラスの酒を一気に呷った。どうやら放送時間を過ぎ、中断されてしまったらしい。

「最後までやりやがれ、根性なしが」と男は串にかぶりついた。


「横浜、去年は前半まで首位だったからねぇ」


 調子を合わせるように連れの男は笑った。


「俺ぁあのとき、今年こそ優勝できるって思ってた。それがけっきょくあのザマだ」


 すっかり酔いがまわってうなだれる男の肩を、なだめるように連れは叩いた。男はいくぶん朦朧とした口調で野球論を語った。男の声は大きく、嫌でも耳に入ってきた。

 邦春は小学校から野球を始め、大学卒業まで野球部に所属していた。ポジションはいちおうキャッチャーだった。打てるわけでもなし、足が速いわけでもなく、肩が強いわけでもない。とりたてて長所のない邦春は、客席から試合を眺めスコアノートを記入するのが常だった。レギュラーとの差は痛感しており、チーム事情もあって自らマネージャーの仕事を買って出た。そのおかげか、仲間からの信望は厚かったように思う。卒業時の送別会での、皆の温かい言葉がその証左だろう。

 野球部を引退して以来、ボールを握ったことはない。

 早く飲み終えて帰ろうと思った。


「宮田の野郎にも裏切られたしよォ」


 どきりとした。男の口から思わぬ名がとびだした。ビールの苦味が濃くなった。


「俺はアイツに期待したんだ。こいつこそ横浜を優勝に導く男だってな」


 男は眉根を寄せ、


「なのに、女なんかに溺れやがって」


 そう言い加えると眉尻を下げて肩を落とした。

 関係ないとわかっていても、邦春は耳が痛かった。兄は兄、自分は自分である。いつもそう言い聞かせてきたはずだ。

 同時に、邦春はなぜ自分ではないのか、と矛盾した思いを抱いた。べつだん波乱万丈な生き方をしたいわけではない。しかしどうして兄だけがこうも他人の話題とされ、自分の前に現れるのだろう。


「宮田のことはいい加減忘れなよ、健さん。この間、それで知らないやつとひと悶着あったじゃないか」


「あれはあっちが悪い。女に溺れてないだの勝手に信じたお前が悪いだの、まるで本人みてぇに突っかかってきやがって」


 聞き捨てならない台詞だった。


「確かにあのときは向こうも酔っぱらってたみたいだけど」


「それいつのことですか?」


 邦春はおもわず会話に割って入った。二人は振り向き、目を丸くした。


「つい三日前のことだよ」


「身長は」


「一九〇近くはあったかねぇ。けっこう高かったけど、よく覚えてねぇよ」


 まさか、と邦春の脳裏を嫌な予感が走った。先日姉の葬儀のとき、久々に兄の姿を見た。学生や現役のころとは似ても似つかぬ痩せ細った身体。肩幅がいくぶん狭くなったような気がした。

 粗末な普段着で飄々と現れた兄を目にしたとたん、場を忘れて父は激高した。驚くあまり、邦春は言葉を失った。姉の顔を一目見ると、事は済んだというふうに兄はすぐさま消え去った。そのとき、邦春ですら瞬時に兄と判断できなかったのだから、一般のファンが気づけないのも無理はない。


「健さんも酔っぱらった勢いで殴りかかっちゃうんだから、参ったよ」


「あいつが最初に手を出してきたんだぜ」


 と、男はおくびを洩らした。強いアルコールの臭いが鼻をついた。


「で、さっきからなんだアンタいきなり」


 二人に怪訝そうに見つめられ、邦春は我に返った。


「何でもないです。すみません、忘れてください」


 そう言い捨て邦春は背を向けた。そそくさと会計を済ませると、足早にその場をあとにした。奥で二人が何か叫んでいたが、振り返ることすらしなかった。

 兄がこの居酒屋にいた。兄がこの街にいる。

 それだけで嫌気がさした。もうあの店に行くまいと思った。


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