【掌編】メロンソーダ
いかにも老年の常連客が居座りそうな古びたカフェの出窓に、ユヅルと見知らぬ女が映っていた。大通りから一本裏に入った場所だが日当たりはいい。古本屋とオカマバーに挟まれたそこは「カフェ・アリス」という。
この渋い佇まいのカフェに、正吾はユヅルに連れられて来たことがある。やはりあの窓際の席に座って、ユヅルはメロンソーダを飲みながら、煙草をふかしていた。
釘付けになった視線はそのままに、正吾は止めていた足を前に出した。ユヅルの向かいに座った女が、リップクリームを乗せただけのユヅルの口の端を、人差し指で拭う。テーブルには半分ほど欠けたショートケーキとメロンソーダが二つぶん置かれていた。
正吾はいつの間にか尖っていた唇を引っ込め、口の中に溜まっていた唾液を飲み込んだ。
久しぶりに見たユヅルの髪は、ミルクティー色からカラス色に変わっていた。幼馴染の変化に疎くなったのは、単純に、彼女が高校を卒業して会う時間が減ったからだ。
正吾は胸の中の黒いガスが蔓延しないうちに、歩を早めた。背後からユヅルの笑い声が聞こえてくる気がして、奥歯を噛みしめた。
「正吾」
呼びかけとともに突然ドアが開き、自室のベッドで寛いでいた正吾は、母の声と勘違いしてのっそりと上体を起こした。
しかし遠慮も無く部屋に入ってきたのは、先ほどまでカフェにいたはずのユヅルだった。外に跳ねた横髪を指先で弄りながら、どっかりと正吾の隣に座る。小柄の彼女には大きすぎる半袖Tシャツと、ショートパンツを纏った体が、ベッドの縁で据わりのいい場所を探す。
「お前ノックくらいしろよな」
正吾が文句を言うと、ユヅルは何故か表情を曇らせて「正吾さあ」と話し出した。
「キス、したことある?」
「は?」
唐突な問いに、正吾は肩を揺らし目を瞠った。
「キスだよ。ああ、高校生のおこちゃまには刺激が強すぎたかな?」
ユヅルのからかうような声色に、正吾はむっとした。
「お前が大学生だろうが、三歳差なんて誤差だからな。しかも俺はお前よりモテる」
「野球ばっかりやってきた坊主頭のお子ちゃまが何言っての」
鼻で笑うユヅルの、当初の質問の意図が分からず、正吾は彼女の背を押しやって「用が無いなら帰れ」と目尻を吊り上げた。追い出されたユヅルの尻が微かに浮く。しかし彼女はカーペットの上に片足を置いたまま、もう片方の足でベッドに乗り上げ、正吾に向き合った。
「だから、訊いてんじゃん。女の子とキスしたことある?って」
大きな目を見開いたユヅルに真正面から見つめられて、正吾はたじろいだ。鋭く射止められて瞬きすら叶わない。正吾は素直に「ある」と頷くしかなかった。
ユヅルがわははと白い歯を見せる。
「それはよかった」
愉快そうな声を上げた。
彼女は、陸に上がる人魚のようにズルズルと両足を引き摺りながらベッドの上に上がった。正吾の太腿の側に手をつき、彼の顔に自分の顔を近づける。
「キスの練習させてよ」
思いもよらぬユヅルの言葉に、正吾は声を失った。
「彼女に下手だって言われたの。私ってタチだから、リードしたいじゃない? 幼馴染のよしみで練習させてよ」
「練習ってお前、ガチで口つけんの?」
「当たり前じゃん。そうじゃないと練習にならないでしょ」
正吾は息を呑んだ。
ユヅルが突拍子も無いことを言い出すのは、今に始まったことでは無い。今までもそれに振り回されてきた。しかし今回はさすがに――――……。
正吾が思考を巡らせ、断る理由を探していると、ユヅルが細く長い溜息をついた。
「ああ、いや、いいの。駄目だったら他の人に頼むから」
「……他の?」
正吾は泳がせていた目をユヅルに向けた。諦観からドアのほうを見ていたユヅルの双眸も、正吾のほうを見る。
「もともと春斗君に頼もうと思ってたし」
予想外に出てきた兄の名に、正吾の心臓はドクンと跳ねた。
ユヅルはまるで何でもないことのように「春斗君、お盆に帰ってくるんでしょ?」と尋ねる。
正吾はそれに答えなかった。代わりに片手でユヅルの手首を掴んだ。
「俺は兄貴の代わりかよ」
「まあ、そう。春斗君のほうが経験ありそうだし。てか痛いんだけどこれ」
ユヅルが掴まれた腕を動かそうとするのを、正吾は強い力で封じた。
「兄貴の代わり、務めてやるよ。泣いても止めてやらねえからな」
言って、正吾は捕らえたユヅルの腕を引き、ゆっくりと仰向けになった自分の体の上に引き倒した。「ワァ」と色気の悲鳴を上げた彼女の頬を、両手で挟み引き寄せる。
触れたユヅルの唇は取れかけのリップクリームのせいでぬるついていた。彼女の鼻にかかったうめき声が、正吾の体を熱くさせる。幼い音を立てて、合わせるだけのキスを繰り返す。ユヅルの唇の間は緊張のせいか開かない。まるで初心な反応に、正吾はひそかに戸惑った。
「待って、待って」
ユヅルが両手で正吾の胸を押し退けようとする。顔は酒を呑んだときみたいに赤い。
正吾はその抵抗を無視して、ユヅルの柔らかな唇を舐めた。
リップクリームか唾液か、分からないほど濡れた彼女の唇が、息継ぎをするために微かに開く。正吾はそれを見逃さずに、熱い舌をぬるりと滑り込ませた。彼の舌を迎えた口内は、甘く潤んでいた。
「や、だ、……っん」
力の抜けたユヅルの体重を、正吾の体が受け止める。
カフェで彼女が飲んでいたメロンソーダの味が、正吾の舌にも移って甘くなる。粘液の混ざる音が、冷房の稼働音に混じり艶っぽく響く。それは野球のグローブとバットのある学生の部屋にはひどく不釣り合いで、正吾をますます興奮させた。
ユヅルの舌の底に溜まった唾液を舌先で掬い上げて舐め取る。
正吾が攻めれば、ユヅルの舌は逃げるように隠れてしまう。ユヅルが動けば動くほど、互いの歯が当たって硬質な音が鳴り、薄い皮膚に傷をつける。
ユヅルが「下手」と言われるのはこういうところなのだろうと正吾は思った。
惜しく思いながらも口を離すと、息も絶え絶えなユヅルに胸板を殴られた。
「ユヅル。お前、まじで下手なんだな」
正吾は袖で自分の唇を拭い、その流れでユヅルの口も拭いてやった。
彼女は汗をかいた額を正吾の胸元に擦り付けたまま「……むかつく」とくぐもった声で呟いた。
「でも、下手なままじゃ嫌だから、また練習させてよ」
ユヅルの温かな吐息が、正吾のTシャツの布地を越えて素肌に届く。
『恋人いるんだろ』とか『これ浮気なんじゃないのか』とか、言いたいことは山ほどあったが、正吾は全てを飲み込んで、ユヅルの小さな体を壊さないように抱き締めた。
「明日も授業だろ? 早く帰って飯食って寝ろ」
「おかんかよ」
「おかんじゃねえ。つうかお前、兄貴にまで同じことすんじゃねえぞ」
ユヅルは正吾の胸に埋めていた顔を上げて、「何で?」というように首を傾げた。
「あいつも彼女いるから」
――――と、嘘をついた。
狡くても、そのほうが都合がいい。
ああ、とユヅルが表情を変えずに喉から声を絞り出した。
そしてやおら正吾の手を避けて起き上がり背中を伸ばすと、「じゃあまた」とあっさり別れを告げた。
正吾が焦ったような顔で上体を起こし、ユヅルを見送る。
「お前、まじだかんな」
「はいはい、まじね。また来るから」
分かっているのかいないのか判然としない態度に、正吾は苛ついた。
ユヅルがドアの外に消えていく。階段を降りるリズミカルな足音が、部屋にまで上ってくる。
その音が消えてしばらくして、正吾は緊張と興奮に震える息を吐いた。
――――キスをした。
その事実が、心にメロンソーダの注いだように弾けて、ピリピリとした余韻を残した。