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信仰は氷雪に閉ざされて  作者: 葉川道流
1章 二人
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5 憑依の病理学

 早めの夕食を終えた頃には太陽は既に山の端にかかっていた。この土地に水平線はない。四方は押しかかるような山々に囲まれて、空は狭く、太陽はあっという間に見えなくなった。


 最後の陽光が雪面を照らすと、一瞬だけ灼けたような赤に染まった後、光を失い夕闇の中へ沈む。

 この日没が地球の自転による物理現象と頭で理解していても、その闇の中に何かが生まれたような気配を感じてしまう。風が吹くと、木々が揺れる音がした。


 境界はすぐそばに近づいている。

 部屋を照らすのは、小さなランプとストーブの火だけだった。

 二つの光源は、煤けた壁を橙に照らすが、この闇に対してはあまりにも心もとない。

 いつもであればこの時間も本を読んでいる緋川は読むものがないので、大人しく寝台で横になり、そのまま目を閉じた。すると、すぐに寝息を立て始めた。


 彼女の体には相当な負荷がかかっていたらしい。肉体と精神の不釣り合いは少しずつだが確実に彼女を蝕んでいた。


 八嶋は旅の疲労もあったが、眠ることが出来なかった。緋川の寝息の合間に、自分の拍動がよく聞こえる。思索するべきこともないはずなのに、頭は奇妙なほど冴えている。

 寝入ってしまった緋川の顔を眺める。その無垢な表情は昔と変らなかった。そしてその表情に過去を思い出す。


 緋川彩は緋川家の娘として生を受けた。

その誕生は戦争の最中であったため、幼くして親元を離れ、田舎の寺で育てられた。八嶋はこの時初めて彼女に出会った。

 素直で利発的な彼女は戦争によって陰鬱めいてしまった山奥の寺の太陽だった。

戦争の後、華族制度は廃されたのちも、緋川家そのものは名を失うことなく存続した。彼女は再び屋敷へと戻り、緋川家の令嬢として育てられることになった。

 好奇心旺盛で、明るく、そしてよく笑った。見るものすべてを面白がり、庭に現れる鳥にも、来客の影にも、いちいち目を輝かせていたという。


 十五を迎え、学び舎へと通い始めた。

 だが、十七の春、幸福の最中に彼女は熱病に倒れた。

 その病は、単なる風邪や発熱の類ではなかった。

昼と夜の境はなく、夢と現の間を揺蕩い続けるような症状だった。時折、何かを口にすることをあったが、その言葉は次第に意味の理解できないものになった。その様子をどうすることもできないまま見守ることしかできなかった。


 彼女は信心深く祈りを捧げていたものの、神も仏もただ黙って指をくわえているようだった。

 そして、ある冬の夜、彼女の呼吸は止まった。


 一度、死んだ。

 誰もがそう思った。

 だが、彼女は再び息を吹き返した。


 目を開けたその時、そこにいたのは元の彼女ではなかった。


「私はこの少女の体を借りさせてもらっています。私が返るべき依代が見つかりましたら彼女の体を返しましょう」

 目覚めるなり彼女は言った。


 その得体の分からないものは名を問われた際、分からないと言った。だが、かつての彼女と区別をつける必要があると感じたのか、狐とでも好きなように呼んでもよいと言った。

 だが、緋川彩の姿形をした人物に誰も別の名前を与えることはできなかった。誰もが元の緋川彩であると願っていたからだ。


 かつてよく笑っていた彼女の表情は失われた。風のない水面のように微動だにしない表情になり、それはまるで遠い場所から世界を眺めているようだった。

 肉体を長く苦しめた熱病の病変は全て無くなったが、それと同時に彼女の精神も一緒に消え失せてしまった。

 この憑坐となってしまった状態を医師は一時的な精神状態と言ったが、この一時的は終わることなく、しまいには匙を投げてしまった。

 今度は高名の僧侶や神主が現れたものの、経文も祝詞も一切元の彼女を呼び起こす効果はなかった。果てには僧が暗唱する経文の間違いまで指摘した。 


 それから彼女は学校を辞めた。そして、自らが何者であるかを知るために、書物を読み、記録を漁る、文献の迷宮を彷徨う日々が始まった。


 回復した彼女の姿に、家族は最初、涙を流して喜んだが、日に日にかつての彼女との差異を感じるたびに、不安は募った。


 かつての彼女と異なる声、仕草、表情、それは彼女がもういなくなってしまったという事実を突きつけるのには十分だった。


 そして緋川彩は肉体が生きているにも関わらず、もう一度死者として扱われるようになった。

 それでも一縷の望みを捨てられないのか、緋川が読みたいと言った文献を与え、依代と成り得る御神体を引き合わせたが、彼女の求めるものは見つからなかった。


 今度の旅でヒノミタマが何であるか分かったとしても、それが依代になる保証はない。そもそも、彼女には治療すべき箇所が存在していない。


 憑き物という現象は、神秘的体験ではなく、病理として分析されることになった。迷信、まじない、祈祷や宗教的要因などで起きる精神障害を祈祷性精神症と呼称した。実際、この種の病は江戸時代においても、すでに医学的な視点から捉えようとする試みが見られた。


 この精神症は、加持祈祷などの宗教的儀式を契機に発症する。幻覚や妄想、錯乱、解離症状、さらには身体的症状を伴いながらも、通常は数日から数か月のうちに後遺症を残すことなく回復する点が特徴とされる。


 しかし、彼女の在り様は、これまでの症例と比較してもあまりに理知的であり、症状の持続期間も既に常識的な範囲を超えていた。海外の文献にも目を通したが、これに類する症例はついに見出すことができなかった。


「少し前まで感染症を熱心に勉強していたかと思えば、今度は精神についての勉強ばかりしているみたいだな」

 教授は煙草を片手にして上機嫌に八嶋に語り掛けた。

 八嶋は倉田教授に呼び出されて、教授室を訪れていたときのことだった。

 八月の昼下がりの休日、日差しが差し込んだ教授室には贅沢品であるクーラーはなく、熱気を扇風機で吹き飛ばそうとしていた。


 室内には文献が山のように平積みにされ、まるで迷宮のような有様だった。どこに何があるのかは、倉田本人にしか分からない。


 倉田は解剖学の教授であり、八嶋を幼い頃から知る数少ない人物の一人だった。


「悪いことは言わない。もう、彼女の病をどうにかしようとするのはやめなさい」

 教授は、灰皿に灰を落としながら言った。その声音には、さっきまでの上機嫌さはまるで含まれていなかった。師としての忠言であることは、言葉の端々から明らかだった。


「この大学は税金によって賄われている。国民は君に多くの人間を救う人間になることを期待している。戦争によって多くの命が失われた今、あまりにも医師が足りていない。君にも不幸はあったと思うが、五体満足でこうして医学を学べていることは間違いなく幸運なことだ。彼女の状況は確かに気の毒に思うが、客観的には君の行為は私利私欲を満たす行為に他ならない」


「……否定できません」

 八嶋は項垂れている。


「それでもやめるつもりはない。やめられないのだろう」

 教授は八嶋にも気の毒な顔をする。


「精神は私の専門ではないが、このままでは君も精神を患うことになるだろう。いや、もう患っているのかもしれない」

 一度言葉を切った後、全て教授は思ったことを全て言った。


「症例を探しているのは彼女を治療するためではない。逆に彼女と同じ症例がないことによって、彼女が本当に何かに憑りつかれていて、かつて彼女の精神がどこかに囚われていると思い込みたいだけなのではないか。私はそう思っている」

 彼の言葉は何一つ間違っていなかった。だから八嶋は何も言うことが出来なかった。


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