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信仰は氷雪に閉ざされて  作者: 葉川道流
1章 二人
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2 ヒノミタマ

 『奇譚拾遺抄』は『日本霊異記』と似た雰囲気で書かれている物語集であるが、仏教説話的な要素は少なく、不思議な体験に焦点を当てて綴られている。


 成立時代は鎌倉前期、天台宗の僧侶である智円によって編纂されたものだった。基本的に諸国を巡った比叡山系の遊行僧が遭遇した心霊体験が和漢混交文綴られており、末法の世に神仏の加護を見出そうとしているのが特徴だった。


 本書は散逸しており、一部しか残っていない。


『ヒノミタマ』はその『奇譚拾遺抄』に含まれる山奥の村に立ち寄った僧侶の物語に登場する不思議な存在だった。


 旅の僧はとある村の家に泊まった。男が宿泊した部屋には一体の人形が置かれていた。その人形の四方は注連縄で囲まれ、ただならぬ雰囲気が漂っていた。


 その夜はとても冷え込んだ。僧侶は部屋の火を落とし、衣をかぶって床に就いた。

 その翌朝、目を覚ました僧は思わず息を呑んだ。昨夜見た人形の両の眼が開かれていた。

 驚いた僧は、これを霊的な現象と捉え、ただちに読経を始めた。一心に経を唱えるうち、人形の瞼はゆるやかに閉じ、再び静かな眠りについたかのように見えた。

 このことについて、宿の主に尋ねると『ヒノミタマ』がいらっしゃったと言った。その『ヒノミタマ』について僧は尋ねたが、それ以上のことは何も分からなかった。


緋川からこの物語を聞かされたとき、八嶋はそれを何かの見間違いだろうと受け取った。

 まだ科学が発展しておらず、不思議な出来事に対する解釈の手段が乏しかった時代のことだ。得体の知れぬ現象に『ヒノミタマ』という名を与え、話を収めたのだろう。そう思って、半信半疑のまま話を聞いていた。


『奇譚拾遺抄』に収められたこの物語は、表向きには仏教説話の一つとして伝えられている。しかし、その記述を精査すれば、ヒノミタマが読経によって祓われたとするには無理があった。


 むしろ、僧侶が異様な現象に驚き、咄嗟に読経を始めると勝手に事態が収まったと読むのが自然だった。そして家の主はヒノミタマを恐れていた様子はなく、僧侶の語る出来事を、驚くことなく聞いていた。

また、『ヒノミタマ』の記述は『奇譚拾遺抄』だけにとどまらない。わずかではあるが、他の書物にも散見される。

 それらの物語に共通していたのは、ヒノミタマが無生物、主に人形に憑いて、そこに「動き」を与えるという点だった。

 現在、ヒノミタマという存在には二つの解釈がある。一つは、それ自体が霊魂の名であるというもの。もう一つは、御霊代、すなわち、御霊を宿す御神体であるという説である。


「あれからヒノミタマについて何か分かりましたか?」

 八嶋は尋ねる。


「ミタマというものはおそらく魂魄、タマシイを指し示す言葉で間違いない。でもヒノはどうやって解釈するかについて答えは見いだせないまま」

 緋川は首を傾げる。ヒノミタマの存在に関する書物での調査は順調ではない様子だった。ミシャグジ信仰とは異なり、ヒノミタマに関して研究は進んでいない。


「炎のヒであると今のところは考えている。人魂のように霊魂はよく火と結び付けられる。でも、それがただの火であるとすると、解釈に困る点がある。それは色々と登場する物語は火との関連は低いこと。仮に火の精霊であれば部屋に火が付いているときにあの人形の目が開く現象が起きなければならない」

彼女は何冊もの古書を渉猟し、さまざまな文献を引きながらヒノミタマの正体を追ってきた。それでもなお、解釈は仮説の域を出なかった。


 そして今、八嶋朔と緋川彩の二人はその答えを探すために、物語の舞台となった村へと向かっていた。

「でも、ヒノミタマの正体が分かったとしても彼女が蘇る保証はない」

 緋川は忠告する。深紅の目がまっすぐにこっちに向けられる。


「…………それは心得ているつもりです」

 八嶋は小さく頷いた。

 何度も自らに言い聞かせて来たことだった。この旅が徒労に終わる可能性の方が高いと思い込もうしても、心は縋るような期待に傾いてしまう。


「そうであればいいのだけど」

 再び、コンパートメントに沈黙が流れる。車輪の音が淡々と空気を満たす。


 緋川は何も言うことなく窓の外を眺める。列車の旅は彼女にとってあまりにも退屈だった。駅の売店で売られている新聞や雑誌に彼女は興味がないのかほとんど手に取らない。


 駅に停まると車内販売の女性が車両に乗り込んできた。時計は八時を指していた。朝食を取ることなく甲府から列車に乗り込んだこともあってちょうどいい空腹を感じる頃合いだった。


「お嬢様、そろそろ食事にしましょうか」

 八嶋は販売員を呼び止めて弁当を二つ購入した。


「食事をとらなければならないというのは不便なものね」

 緋川はぼそりと呟いた後、弁当の紐を解いて、箸を割り小さな一口で食事を進める。辞書的に食事を口に運んで咀嚼して飲み込む行為として解釈しているようにも見える。それは人間の形をした何かが人間の真似事をしているようだった。


「ヒノミタマの伝承が残る地域は必ず寒い地域だった。山奥の冬だからこそ火の暖かさに感謝するような仮説を今のところ考えています」

 最初の一口を飲み込んだ口で緋川は言った。


「火の神様によって動きが生まれるのであれば、蒸気機関にもヒノミタマがいるということになるのですかね」

 八嶋は言う。ヒノミタマの物語はいずれも無生物の動きを伴うことから考えた単純な考えだと自分でも思った。


「そうかもしれない。でも、原理原則が解明されてしまった今、この鋼鉄の塊を奉る者はいない。人間の手足の延長として使われるだけ。理解できないものしか人は敬うことが出来ない。理解できる場所はもう境界ではないのだから」

 緋川は一口分の米を口に入れた。


 彼女の言う通りだった。

 蒸気機関や発動機、電動機は全て理屈の下で組み上げられる。その理屈が通っていなければ動くこともままならない。一方で自然として存在するもの、最も身近な自らの体は理屈が分からなくても動かすことが出来た。


 人々はそこに霊魂を見出していたが、解剖学によって筋肉の収縮はアデノシン三リン酸が分解されてアデノシン二リン酸となるときに発生するエネルギーを用いてミオシンフィラメントがアクチンフィラメントを手繰り寄せて収縮する。


 言語化されて解体された現象には不思議が入り込む余地はない。

 体内の器官に魂が入り込む余地もない。


「先生はこれまで説明できなかったミタマ、魂をいつか人々は解釈することはできると思う?」

 一口分の米を飲み込んだ緋川は言う。


「解釈するというよりも、もうそんなものがないことを確かめつつあるところですよ」

 八嶋は首を横に振った。


 解剖実習はホルマリンの臭気が満ちた部屋で行った。横たわる遺体の腹を開いて心臓、肺、肝臓、胃と一つずつ臓器を確認すると体の全ての部位は教科書通りに配置されていた。名前が付けられているということは過去に同じように解剖された人間の体にも同じものがあった。


その身体の元の所有者に特別なものは何もなく、人が死ぬ時に失われるはずの二十一グラムの質量の答えも存在しなかった。


「私はずっと解釈できないと思っている。境界はずっと無くならない。境界を内側に入れると、そこには再び新しい境界が生まれる」

 緋川は魂について肯定的だった。


「果てがないというのも考えものですね」

 八嶋は既に空になっていた弁当を見つめて沈黙する。


 体の異常に病名を与えて、治療法を探すことの繰り返しで医学は発達して来た。その繰り返しの果てに死を克服する物語を人類は期待してきたが、未だにどうすることもできない病苦はいくつもある。

 赤い瞳の彼女にも科学はいつか病名を与えると言った教授の言葉を思い出す。

もしそうであれば、自分は耐えられるのだろうか。

 八嶋は自問自答しながら窓の外を見ていた。


「私の分も食べる?」

 緋川は弁当を差し出した。米は半分以上、惣菜も半分程度しか手を付けられていない。


「いえ、それはお嬢様の体に必要な栄養です」

 彼女は空腹を感じない。それどころか、眠気や枯渇感のような生命活動に必要な信号を感じ取ることが出来ない。その信号を無視し続ければ生命活動は止まる。脳で感じる全ての情報は生命活動に必要だったという事実に還元されることを改めて突き付けられる。


 八嶋の一つの役割は彼女の生命活動を維持することだった。それは人間の扱いではなく、むしろ蒸気機関のように燃料と水を入れて、故障しないように稼働させることによく似ていた。

 無言で弁当を食べ進める彼女を八嶋は時折横目で見ながら、目的地まで僅かな道程を列車に揺られた。


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